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第四章 移ろい 2

 雨の中、裕貴は憂鬱な気分で自転車を漕いでいた。今日は侑希と会う約束をしている日ではない。そのため、裕貴はこの日の労働がただの面倒でしかないと考えてしまっていた。


 侑希と会うまではこれが普通だった。しかし、今の裕貴はそれが嫌で仕方がなくなっている。侑希と会う日と比べてしまうと仕方がないことだった。


 また、裕貴がバイトに行くことを心の中で拒んでいる理由はもう一つあった。それは言うまでもなく、沙織の存在があるからである。沙織は最近になって、急激に裕貴との関係を進展させようとしている。裕貴はそれを嫌がって拒絶の意思を示しているつもりであったが、沙織にその訴えは届いていないようだった。


 いつもの場所に自転車を止めると、裕貴は裏口から店の中に入る。中はすでに熱気で包まれていた。


 「やっときたのか。今日は団体の予約が三つも入ってる。急いで準備して」


 裕貴はバイトの副リーダーから指摘を受ける。裕貴は一言謝った後に急いで控え室に向かった。店はいつも以上に混乱している。


 控え室に入った裕貴は、そこで時間を潰している上山を見つけた。上山はすでに準備を済ませているものの、パイプ椅子の上に座りこんで動こうとしていない。


 「よう」


 上山は裕貴に声をかける。裕貴は自分のロッカーに鞄を入れて準備を始めた。


 「手伝わなくて良いの?結構忙しそうにしてた」


 裕貴は控え室の外の状況を伝える。しかし、上山がそれを知らないはずがない。裕貴は遠回しにサボっている上山のことを非難していた。


 「あんなに混雑してるところに行きたくない」


 上山は簡単に職務を放棄している理由を伝える。裕貴はそれを聞いて呆れることはせず、案の上の回答であると感心した。勿論のことながら、上山のことを褒めているわけではない。


 裕貴は一通りの準備を終えると、もう一度上山の方を向く。しかしそれでも、上山はその重たい腰を上げる様子はない。裕貴はそれを確認した後、自分だけで仕事に向かおうとした。


 ただ、裕貴がそう思って控え室の扉を開けたとき、上山が突然裕貴に声をかけた。


 「ちょっと待て。そういえば話しておきたいことがあった」


 上山は立ち上がって、裕貴が開けた扉をゆっくりと閉める。裕貴は不思議に思いながら、そんな上山の様子を見ていた。


 「話したいことって?」


 裕貴はまたあの不良の集団のことかもしれないと警戒する。最近になってあの集団と顔を合わせるようなことは起きていない。できるものなら、そのまま関係を持たないまま終わってくれることを願っていた。


 しかし、上山が話し始めたのは全く違うことについてだった。


 「……実はこの前、大村が帰ってから沙織さんと話をしたんだけど、かなり困っているみたいだった」


 「は……?」


 裕貴は話が唐突に沙織の話題になったことを不思議に思う。それ以上に、裕貴の警戒する感情が強まることになった。裕貴とは違い、上山は沙織のことを高評価している。勝手に首を突っ込んできて、上山がどちらの肩を持つのかなど言うまでもないことだったのである。


 「沙織さんは別に悪い人じゃない。大村もそう考えているよな?」


 「それは……そうだとは思ってるけど」


 裕貴はとりあえず上山に合わせて回答する。しかし、上山が何を話そうとしているのかは理解できなかった。もしかしたら、沙織が上山にお願いをしてこんなことをさせているのかもしれない。裕貴はそんなことも考えてしまっていた。


 「最近、沙織さんに冷たくしているらしいじゃないか。それはどういうことなんだ?」


 裕貴の予想していた通り、上山が話し始めたことはそんなことだった。裕貴は面倒に感じる心情が爆発的に広がっていく。しかし、裕貴はそれを強引に押し込んで話を打ち切ろうとした。


 「関係ないことだろ?……強いて言うなら、沙織さんの方が色々とおかしいんだよ。それは上山も知ってるはずだ」


 上山は、沙織が裕貴に言い寄っていた場面を目にしている。そのため、裕貴が上山の指摘するような態度を取っている理由を知らないはずがなかった。ただ、上山はそれでもその事情を裕貴に尋ねてきている。それが意味していることは単純なことだった。


 「……まあ、別に何をどうしろと言いたいわけじゃない。沙織さんがかなり強引にしようとしてることはなんとなく分かってる。だけど、どうにかしてくれませんかと泣きながらせがまれたんじゃ、見て見ぬふりもできないだろ?」


 上山は少し笑って裕貴に確認する。裕貴はそれに肯定することはなかったが、心の中で否定することもできなかった。そして、そんなことがあったのかと驚いた。


 上山の言っていることが正しいのであれば、沙織が上山に協力を求めたということになる。それは裕貴にとって新しい局面で、どのように考えれば良いのか分からないことだった。


 沙織は単純に裕貴のことを困らせようとしている。そんな考えは通用しなくなったのだ。


 「大村が会ってる相手がどんな人か知らないけど、きっとその人よりも沙織さんは大村のことを好きみたいだった」


 「………」


 裕貴はそんなことを言われて言葉が出てこなくなる。上山は侑希のことを知らない。しかし、裕貴はそんな上山の言葉に言い返せなかったのである。裕貴が侑希の感情を知らないことは事実で、侑希が裕貴の求める感情を有している確証もないのだ。


 「どうしても沙織さんはダメなのか?」


 「……ダメだ。それくらい分かるだろ?」


 裕貴は馬鹿げた話を終わらせるために、話の途中ではあったものの控え室から出ていこうとする。


 「もし沙織さんと話す機会があったら、俺がしっかり約束を果たしたことを伝えておいてくれよ」


 最後に上山のふざけた声が飛んでくる。裕貴はそれに反応することなく他の従業員のもとに向かった。


 裕貴が侑希のことに関して立ち止まっている間に、沙織は次の手を打っていた。それは裕貴のことをすぐに困らせるようなことではなかったが、それでも裕貴のことを焦らせるには十分だった。


 裕貴の気持ちが沙織の方に傾くことはない。それでも、裕貴は嫌な感覚を捨てきれないでいた。追いかけている相手とは距離が縮まらず、後続が距離を詰めてきている。それは意味もなく裕貴に嫌な感覚を植え付けていた。


 仕事は、いつもと同じようなことを延々とさせられるという内容だった。しかし、客の数がいつもよりも多いことから、必然的に仕事も激務となる。


 裕貴と沙織の受け持っている仕事は違う。そのため、裕貴が沙織の姿を見つけたとしても事務的な話をすることもない。裕貴にとってそれは嬉しいことではあったが、問題が本当に面倒な方向に進んでいるのかを判断することはできなかった。


 裕貴は沙織のことを傷つけようとしているわけではない。それは裕貴自身、はっきりと自分に言い聞かせていることである。沙織の行動が悪意に満ちているものでない限り、裕貴が本気で反抗する必要がないのである。


 しかし、沙織の最近の行動は裕貴に少しの恐怖を与えるようにまでなっている。裕貴にはそれに対処することが認められているはずであった。裕貴は沙織のことをなんとも思っていない。それは変えることができない事実なのである。


 裕貴はそんな考えを自分の武器として、その日の仕事の時間を過ごした。万が一、そんな中で沙織が話しかけてきたとしても、理性的に対処することができる。裕貴はそう考えて疑っていなかった。


 しかし、その日のバイトの時間、沙織が裕貴に話しかけてくることはなかった。


 裕貴は結局、自分が無意味なことを真剣に考えてしまっていたと思い後悔した。しかし、何もなかったということは決して悪いことではない。


 上山も裕貴が帰る支度をしている間に何かを話してくることはなかった。上山も沙織の申し出を受けることが面倒だったのかもしれない。裕貴は一人でそんなことを考えて、勝手に解決を図ろうとしていた。沙織が裕貴の言葉を受けて引き下がったのかもしれない。そんな根拠のない理想まで出てくる始末である。


 しかし、事実は決してそんな単純なものではなかった。裕貴がそれに気がついたのは、控え室を出たときに沙織が裕貴のことを待っている様子を確認したときだった。


 沙織はすでに帰り支度を済ませているようで、裕貴のことを捉えて笑顔を見せる。裕貴はそんな状況を見て引き下がることを考える。しかし、控え室の中には上山がいたため、そんなことはできそうになかった。


 「お疲れ様です」


 裕貴はとりあえず挨拶をして、沙織の前を通り過ぎることを考える。しかし、沙織は裕貴が自分の前に来たときに、何の躊躇いを見せることもなく話しかけてきた。


 「大村君、ちょっと良いですか?」


 裕貴はそれを聞いて足を止める。沙織はにっこりと笑って裕貴の顔を覗く。裕貴はそんな沙織になんとかして話しかけた。


 「どうかしたんですか?」


 「うん……少し良い?」


 「またあの話ですか?」


 裕貴は尋ねてみる。すると、即答するように沙織は頷いた。裕貴がそんな反応を見てため息をつきたくなったとき、沙織はさらに言葉を加えてきた。


 「少し外で話を聞いてくれませんか?……ここだと誰かが聞いてるかもしれない」


 沙織は誰かに話を聞かれることを警戒する。いつもはそんなことを気にしていない沙織であったため、裕貴はその変化を不思議に思った。しかし、上山が話を聞いていたということもあったため、沙織がそのことを警戒することも理由としては妥当なものであった。


 「……手短にお願いしますよ」


 裕貴は一言要求を伝えてから沙織のお願いを了承する。すると、沙織は裕貴についてくるように指示して、店の裏口に向かった。そして、そのまま店から出てしまう。


 沙織が向かったのは、店から少し離れたところにある小さな公園だった。人影は全くなく、深夜であるため視界は極端に悪い。そんな中で沙織は話を始めた。


 「大村君は私の話が面倒だと思ってるんですよね?」


 「……面倒っていうか」


 「良いんです。上山君から聞きました」


 裕貴が気を遣おうとすると、沙織はその必要がないことを伝える。裕貴は上山がかなりのことを沙織に話してしまっていることを念頭に、沙織との会話に臨むことにした。


 「それで今日はどんな話なんですか?……俺は確か、沙織さんの望みを叶えられないと話したと思いますけど」


 裕貴は沙織からの言葉を聞く前に、自分が把握している二人で話し合ったことについて口にしてみる。そのことに関しては、沙織も異論はないようだった。


 「大村君には好きな人がいるんですよね。……深夜にいつも会ってるっていう」


 「そうです。それは言った通りだと思います」


 裕貴は、沙織に自分が好きな人のことについて話してしまっている。とはいえ、それが侑希であるということは話していない。そもそも沙織と侑希は面識が全くないはずで、裕貴はそのことに関して触れるつもりはなかった。沙織も裕貴が好意を寄せている人もことについて質問をしてくるようなことはしない。


 「それでも私は大村君のことが好きです。……その人と大村君が付き合っていないって言っていたのを私は今でも信じています。ですから、今日は少しお願いを聞いて欲しいんです」


 沙織は恐る恐るといった様子で裕貴に語りかける。裕貴はそんな沙織の様子を不思議に思いながらも、聞くだけなら問題ないと考えて一度だけ頷いた。


 「私は大村君のことが好き。大村君はそんな私のことをあまり良い感情で捉えていないみたいだけど、私はまだ諦めたくない。……迷惑になることは承知してる。だけど、一つだけお願いを聞いてほしいの」


 「言ってください。内容によると思います」


 裕貴は沙織のことを警戒しているとはいえ、話をしなければ解決できないことを知っている。気を緩めることなく、裕貴は沙織の言葉を待った。


 「本当は告白を受け取ってもらって、大村君と付き合いたい。だけどきっと、大村君にその女の子がいる限りそれは無理なんだって分かってる。だから、せめてデートをして欲しい。……こんなこともダメ?」


 沙織は裕貴に要求を伝える。裕貴はそれを聞いて、唖然とするしかなかった。裕貴の人生でデートに誘われたことは、侑希との時間をデートと認識しなければ初めてだった。侑希との時間は、あくまでも二人の利益が重なった結果である。裕貴が侑希との時間をデートと言い張ることはできない。


 沙織は裕貴が考えていた以上に、自分の感情を把握して行動しているようだった。それは、侑希のことを全く理解できないで慌てて行動している裕貴とは比べものにならないくらいにである。裕貴は今更になって、沙織の感情を無下にすることが身勝手なことのように感じた。


 決して侑希に対する感情が揺れているわけではない。沙織に対する評価が変化していることを意味していた。


 「……それは」


 裕貴は必死に回答しようとするも、言葉が出てこないで詰まらせてしまう。沙織の心配そうな表情が新鮮なもののように見えてしまう。


 「今すぐ私と付き合うことはできないですよね?」


 「それは……そうですね。無理だと思います」


 裕貴は侑希の顔を思い浮かべてはっきりと答える。沙織に曖昧なことは言えそうになかった。


 「それなら、せめて私のことを知ってもらうためにデートくらいしてくれませんか?それまでに大村君がその人と付き合うようなことになれば、この話はなかったことにします」


 沙織は単純な考え方で裕貴のことを困らせてくる。しかし、それはいつものように裕貴がただ単に不快と感じるようなことではなかった。


 「………」


 裕貴は、どのように答えることが自分にとっても沙織にとっても良いことになるのかを考える。しかし、なかなかその答えは出てきそうになかった。沙織はその間も、まるで忠犬のように裕貴の言葉を待っている。沙織をこのまま待たせることは、裕貴に罪悪感を募らせていくだけだった。


 「……分かりました。デートという言い方をされると少し変な感じがしてしまいますけど、それくらいならできないこともないと思います」


 結局、裕貴は沙織のお願いを了承してしまう。こんな姿をつい数分前の裕貴や上山が見ると、口を大きく開けて笑うかもしれない。しかし、裕貴はこうなってしまったものは仕方がないと考えて諦めることにした。


 沙織は裕貴の返事を聞いて嬉しそうに頬を上げた。裕貴はそんな沙織の表情に不思議な感覚を持ってしまう。決してその表情に惹かれているわけではない。侑希の一つ一つの表情の方が、裕貴にとって大きな変化をもたらすことができる。それでも、沙織の新しい一面を知った裕貴は、簡単に沙織のことを評価できなくなっていた。


 「ありがとう。日時とか場所とか、また今度に提案しますね。今日は話を聞いてくれてありがとう」


 沙織は何度も裕貴に礼を言って頭を下げる。裕貴は、そんな沙織の前にいることが居心地悪くなって変な顔をしてしまう。沙織がそれに気付くことはなかった。


 「それじゃ今日はこれで……お休みなさい」


 「あ、うん、また今度ね」


 最後はたどたどしい返事で締めて、二人は解散することになった。裕貴は去っていく沙織の後ろ姿を見て、本当にこれで良かったのかを考える。しかし、裕貴が今の段階ではっきり言えることは何もなかった。


 侑希との問題を抱えていた中、裕貴は思いがけないことから沙織との関係を進展させてしまった。それは裕貴が望んでいたことでは決してなく、回避できたことでもない。まるで必然だったかのような出来事に、裕貴が途方に暮れてしまうことは仕方なかった。


 侑希のことで頭がいっぱいになっていたはずの裕貴だったが、今では心の中に大きな空間ができてしまっている。そこに何が埋まっていくのかは、誰も知る由のないことだった。

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