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第三章 エニグマ 2

 沙織に告白されてから一週間ほどが経ったある日、裕貴は侑希と待ち合わせするいつもの場所に一人で立っていた。この日は雨が降っていて、裕貴は雨合羽に傘を差した姿で侑希のことを待っている。その間も、裕貴は自分が計画していることについて念入りに考えていた。


 この日もいつもと変わりなく、街は喧噪な雰囲気に包まれている。裕貴の前を歩いている人は、雨に濡れないようにゆっくりと歩いている人や、傘を使うことなく走っている人などたくさんいる。侑希が来るまでの間、そんな人間観察をして時間を潰していた。


 こんな時間でさえ、裕貴は非常に待ち遠しく感じて侑希が来ることを心待ちにする。侑希がやってきたのは、約束の時間よりも数分遅れた頃だった。


 「ごめんなさい!待たせちゃった!」


 走ってきた侑希は、裕貴の前に姿を現すとやや大きな声で謝罪する。裕貴はそんな侑希のことを見てすぐに言葉を返した。


 「気にしないでください。そんなに待ったわけじゃありませんし」


 裕貴にとって侑希と会うことは必要不可欠なことであり、そのためには多少の問題も気にしないでいることができる。侑希が少し遅れてきたことは、問題として捉えられるものではなかった。


 「それよりも侑希は大丈夫?」


 裕貴は侑希の姿を一通り確認した後にそう声をかける。走ってきたためか、侑希の足下は濡れている。この季節はそこまで寒いわけではないものの、それでも気化熱によって体温を奪われれば風邪を引くことも考えられた。


 「大丈夫。こんなのすぐに乾くだろうし、走ってきて暑いからこれくらいがちょうど良い」


 侑希は自分のズボンの濡れ具合を確認してから、裕貴に心配しないように笑顔を見せた。しかし、裕貴はそんな侑希のことを見てさらに心配した。


 もし侑希が我慢してそんなことを言っていることが分かれば、裕貴は何か方法を探して対処することを考えたかもしれない。それは、たとえ侑希が望んでいなかったとしてもである。


 しかし、裕貴には侑希が我慢しているのかという判断は全くつきそうになかった。それは裕貴が人の感情を想像することができないからかもしれなく、侑希が自分の感情を裕貴に隠そうとしているからかもしれない。どちらにしても、侑希の本当の気持ちを理解できない裕貴は、侑希の言葉を信じるしかなかった。


 「今日は……」


 裕貴は今日に限って、この後どうしようかと侑希に言いかけてしまう。それに気がついた裕貴は急いで口を閉じる。裕貴は、侑希に色々なことを決めさせてしまっていることを気にしている。今まで侑希が決めていたため、裕貴は無意識に侑希に尋ねてしまう癖がついてしまっていた。


 ただ、侑希はそんな裕貴の考えとは裏腹に、特に気にした様子を見せることなくこの日の予定を話した。端から見ると、頼りにされていることを嬉しく思っているように見える。ただそれは、裕貴が勝手に解釈しているだけかもしれなかった。


 「今日はこの前行った南の喫茶店に行こうと思ってるんだけど……どうかな」


 「いいね、あの店は雰囲気も良かったし」


 裕貴は良くないことであると分かっていながら、それでも侑希の言葉に頷いてしまう。侑希はそれを聞いて喜んだ表情を見せてくる。裕貴は、まだまだこんなことをやめられそうにないと感じた。


 「裕貴は今日、どうやって過ごしていたの?」


 歩いている最中、侑希が裕貴に質問してくる。侑希がこうして歩きながら会話を振ってくることは良くあることで、裕貴はすぐに返答の姿勢に入った。


 「今日はいつも通り学校に行って、それからバイトに行ってました」


 裕貴は自分の今日の生活について、思い出すようなことをせずに口にする。裕貴の生活は非常に希薄で、話すようなことはほとんどない。裕貴の説明は少ないようで、それでも裕貴の生活を上手く表すことができていた。


 しかし、侑希はそんな返答を聞いて、少し頬を膨らませて不満顔を見せた。裕貴はそれを見て不思議に思う。


 「そういうことを聞いてるんじゃないの。……もっと色んなことがあったんじゃないの?例えば授業で面白いことがあったとか、バイトで面白い人の接客をしたとか」


 「俺の生活にはそんな面白い要素はほとんどないです。知っていますよね?」


 裕貴は自分の生活に苦笑いをしてしまう。侑希が知りたいと思ったところで、どんなにひねり出そうとしても裕貴は面白い話を持っていない。再度、自分がどうしようもない生活を送っていることを実感することになった。


 「えー、面白くないなあ。……うーん」


 裕貴が話題を潰してしまったことで、侑希は唇を尖らせて黙ってしまう。裕貴は申し訳ないと感じながら、これから何を話すかを考えることにした。


 二人が目的としていた店に到着すると、見覚えのある店員に端の方の席に連れていかれる。裕貴と侑希が顔を合わせるように座ると、侑希は息を大きく吐いた。裕貴は着ていた雨合羽を脱いで、それを自分の椅子の背もたれにかけておく。


 「何か面白い話、思い出したりした?」


 開口一番、侑希は裕貴にそう尋ねてくる。裕貴が軽く首を横に振ると、侑希はがっくりと肩を落とした。


 「俺にそんな話は期待しないでください。友人が少ないことも、バイト先がただの飲食店だってことは話していますよね?」


 「それは聞いてるけど。……いろいろ知りたいじゃん、裕貴のこと」


 侑希はメニュー表を凝視している。裕貴はそんな侑希にどのような言葉を返すべきか分からなくなった。しかし、侑希はメニュー表から顔を上げようとはしなかったため、裕貴もそんな侑希のことを眺めていた。


 「私はこれにしようかな。裕貴はどれにする?」


 「同じものに」


 裕貴はすぐに返答する。侑希はそれを聞くと、店員を呼んで注文を行う。裕貴は見つめているだけだった。


 「今日の裕貴、何か静かだよね?何かあったの?」


 裕貴がどんなタイミングで話し始めようか考えていたとき、侑希の方が先に口を開いた。侑希の表情には曇った様子はないものの、何か気になることがあるようだった。


 「何もないです。バイトが忙しかったことくらいしか」


 裕貴はただ単に侑希の言葉を否定するだけではいけないと感じて、とっさにバイトの話を持ち込もうとする。すると案の定、侑希はその話に食いついてきた。


 「どんなことがあったの?最近はクレームを言うために店に行く人もいるみたいだから」


 「そんな人がいるんですか?」


 裕貴は侑希が話した内容に驚いてしまう。裕貴が今働いているところで、そんな話は聞いたことがなかった。


 「あるみたいだよ。特に高齢者の人が多いとかなんとか。なんでも、暇になった時間を費やすためにそんなことをして楽しむんだって」


 「何というか、たちが悪いですね」


 裕貴は自分が実害を被ってしまうかもしれない内容に、真剣に耳を傾ける。しかし、侑希からの情報はそれだけで終わった。


 「そんな人とかは来てないみたいだね」


 「そうですね。よく見かける迷惑な人というのは、大抵泥酔していることが多いです。悪い人ではないんですけど」


 迷惑をかけようとしてかけている人は少ない。裕貴はそのことを侑希に伝えた。


 確かに、問題を起こそうとして起こした客の面倒ごとを裕貴が解決したときもあった。それでも、裕貴は人と人とのそれなりの関係を守ろうとしている。簡単に人のことを疑うようなことはするべきではないと考えていた。


 侑希も裕貴のそんな気持ちを理解したのか、この話をこれ以上掘り下げてくることはなかった。そうして二人の間で会話が止まる。


 しかし、裕貴は駅からこの店に歩いてくる間に何を話すかを決めていた。そのため、侑希が静かに窓の外の風景を眺めているときに裕貴は動き出した。


 「侑希の場合はどうなんですか?……初めて俺たちが顔を合わせたとき、良いことがあってっていう話をしてましたよね。あの後良いことは?」


 裕貴は雰囲気を崩さないようにして、侑希の様子を窺いながら質問する。侑希は自分のことを話すことに抵抗感を持っていると、裕貴は勝手にそのように考えている。そのため、自分の質問が侑希の気持ちを害しないかだけを心配した。


 しかし、裕貴のそんな心配もよそに、侑希は表情を明るくして話し始めた。この話題を待っていたかのようにである。


 「それについてなんだけどね。……やっぱりあの日よりも良い日はまだきてない。それどころか、色々なことで悩むことが多くなったかな。別にたいしたことじゃないんだけどね」


 「それは……こういう風に時間を使っている理由に関係していますか?」


 裕貴は知りたい衝動が強くなってそんなことを尋ねる。侑希が悩んでいる内容というのが、裕貴には家族のことについてであるとしか考えられなかったのだ。


 侑希は以前に、自分が深夜徘徊している理由を家庭の事情であると言っていた。裕貴は侑希が抱えている問題についてそれだけしか知らなかったため、その方向性で考えざるを得ない。助けられることがあれば、裕貴は何としてでも動いて解決に導かないといけなかった。


 しかし、そんなことを考えて侑希にさらなる情報を求めてしまった裕貴に、侑希は難しい顔をしてそれを返事とした。それを見た裕貴は、自分が感情に思考をまかせすぎたことを後悔した。


 「……すみません。勝手に話を進めてしまって」


 裕貴は声を小さくして侑希に謝る。侑希はすぐに首を横に振った。


 「裕貴が心配してくれることは全然気にしていないよ。迷惑とも思ってない。嬉しい気持ちになれるから私の方が感謝しないといけない。……でも、私が抱えている問題は結構複雑だから、裕貴にまでそのことを気にかけてもらうことはして欲しくないの。……私のわがままなのは分かってるけど、それを分かってくれる?」


 侑希は話しにくそうにしながら、それでも自分がどのようなことを考えているのかを裕貴に伝える。裕貴はそれを聞いて、理解しないわけにはいかなかった。


 「勿論です。変なことを聞いてすみませんでした。……だけどもし、侑希が一人で抱え切れそうになくなったときは、俺がいることを忘れないでください。できることは少ないかもしれませんけど、それでもできることはしたいです」


 裕貴は侑希の目を見つめて真剣に語る。侑希は目を丸くして裕貴の様子を見ていたが、聞き終わってすぐに小さく頷いてみせた。裕貴はそんな侑希の仕草に安心する。ただ、侑希は違う面で裕貴に対して言いたいことがあるようだった。


 「そんなこと言ってくれるとは思わなかった。……やっぱり優しいんだね」


 「…………」


 侑希は裕貴のことを高く評価しているようで、思っていることを裕貴本人に伝える。ただ、裕貴はそれを聞いて反応に困った。侑希にそのような感情で捉えられることは嬉しいことである。しかし、それをしっかりと受け取ることのできない自分がいたのである。


 時間が経っていくにつれ、裕貴は侑希に対する好意を自分で強く自覚するようになってきている。そんな裕貴にとって、侑希からの評価は何よりも重要な位置を占めるようになっている。とはいえ、それは裕貴の考えだけを含めた一部分の感情に過ぎない。裕貴はそのようにも考えていた。


 侑希が裕貴に親切な態度を取っているからといって、裕貴に対して好意があると言い切ることはできない。侑希は、裕貴をただの時間を潰す上での仲間だとしか思っていないかもしれないのだ。それが事実としてどうなっているのかを確認するまで、裕貴に大きな行動はできそうになかった。


 裕貴は失敗を恐れる傾向にある。侑希を一瞬で失ってしまうようなことをできるはずがなかった。


 裕貴が侑希の言葉に触れて反応に困っていると、侑希はそのままの勢いで話を進め始めた。内容はいつもの通り、裕貴に関する話題である。


 「裕貴がすごい優しい人なのは知ってるんだけど、そのことを考えると友達はすぐにたくさんできるようになると思うんだけどな。……どうして友達が少ないことをそのままにしているの?」


 侑希の質問は、今までで一番裕貴という人間の核心に迫るものだった。どうして侑希がそれを知りたいと感じたのか、裕貴はその理由が気になる。しかし、そのことには触れずに自分の話をすることにした。裕貴の場合、侑希に隠しておきたいことは極めて少ないのである。


 「優しいかどうかは、人と関わったときにだけ分かることです。だから、友人の少ない俺は優しいとは言えないかもしれません。けれど、侑希が俺のことをそういう風に考えてくれているのであれば、それは事実なのかも。……確かに俺は侑希を友人だと思っていますから」


 「……友人ね」


 裕貴が話し終えると、侑希は一言小さく言葉を漏らす。しかし、裕貴がそのように考えていることに対して、特に異議を唱えるようなことはしなかった。裕貴はそんな侑希の反応に、侑希が自分を友人であると考えてくれていることに安堵し、同時に友人であることを残念に思った。裕貴が求めているのはそんなものではないのだ。


 「ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいい?答えたくなかったら、私みたいな反応しても良いから」


 「良いですよ。何ですか?」


 裕貴は、侑希が自分のことに関して興味を持ってくれていることを純粋に嬉しく感じる。そして、どのような質問が飛びだしてくるのか気になりながら、侑希の言葉を待った。ただ、侑希の口から飛び出した質問は、裕貴の想像を超えるものだった。


 「裕貴って、彼女とかいたりする?今日の裕貴を見ていたらそんな気がして」


 「えっ?」


 裕貴は唐突な質問に驚いて言葉を詰まらせてしまう。侑希は案外真剣そうな表情をして、裕貴から視線を離そうとしない。ただ、分からないことが大きく一つあった裕貴は、そんな視線に恥ずかしさを感じることもなかった。


 裕貴が疑問に思ったことは、侑希がどうしてそんなことを思ったのかということだった。裕貴は今までにそんな話をしたことがない。そもそも、友人が少ない裕貴にとってあり得ない話である。どこで侑希がそんな予想に至ったのか、裕貴はそれを知りにいくことにした。


 「……どうしてそんなことを?」


 裕貴は慎重に尋ねてみる。侑希の質問への返答は、考えるまもなく否である。そのため、裕貴は質問に返答することなく侑希に質問してしまっていた。


 「気になっただけなんだけどね。でも、裕貴の気にしてることとか考えてることからそんな気がしたの。どう?」


 「どうって。俺にそんな人はいないです」


 裕貴は必要なことだけを伝える。侑希の前でこのことをよく説明したい気持ちは強くある。しかし、説明が上手くできない裕貴がそれをすることは、余計に誤解を生じさせる可能性を含んでいる。そのため、不必要なことは言わないように心がけた。


 しかし、今日の侑希はやけに積極的で質問を止めようとはしなかった。


 「じゃあ、気になってる人くらいはいるよね?クラスとか、バイト先とかに」


 侑希は少し裕貴の方に身を乗り出す。物理的に距離が近くなったことで、裕貴はその時になってやっと感情を昂ぶらせることになった。しかし、それを表にするようなことはしない。


 「急にどうしたんですか?いつもと雰囲気が違いますよ?」


 「当たり前だよ。だって、いつもは聞かないことを聞いてるんだから」


 侑希にも自分がいつも通りの会話をしていない自覚があるようで、やや恥じらった顔でそう言ってみせる。裕貴はそんな小さな侑希の仕草にも心が躍った。


 「それなら、どうしてそんなことを今日話そうと?」


 「こういう話は普通だと思うよ?気になっている人がいるかどうかを教えてくれるだけで良いの。私も言うから……ね?」


 侑希は何かを企んでいる。裕貴はそんな結論に至ることになった。しかし、侑希が裕貴の想像できない何かを考えていても、裕貴の感情が変化することはない。対価が裕貴にとって気になるものであったため、羞恥心を捨てて話すことにした。


 「勿論いますよ。……まあ、そういう年齢ですから」


 裕貴は一般的な話だということを示して、恥ずかしさを紛らわせようとする。しかし、侑希がわくわくした表情で裕貴のことを見ていたため、裕貴は耳まで赤くすることになった。


 「やっぱりそうだよね。……裕貴のこれまでの話を聞いてると、バイト先にその人がいるような気がするな。私の勘なんだけどね」


 侑希は楽しそうに自分の予想していることを裕貴に告げる。裕貴はこの場の勢いに任せて全て話してしまうことを考えたが、なんとかこらえることにした。


 「それで、侑希はどうなんですか?」


 裕貴は自分の番が回ってくると、すぐに侑希に話を振った。ただ、侑希は自分で条件を提示した身でありながら、裕貴に催促されると小さく肩を震わせる。このときばかりは裕貴に引き下がる気はなかった。


 「いや、それは。……裕貴のことだから聞いてこないって思ってたんだけどな」


 侑希は自分の考えが外れてしまったためか残念そうにする。裕貴は自分が侑希の目にそのように映っていることを知って、複雑な気持ちになった。


 「気になります。侑希のことあまり知らないですから」


 裕貴は勝手に口が動くことに任せて、心の中にあるもやもやとしたものを吐きだしてしまう。裕貴は侑希のことを積極的に知ろうとはしていなかった。しかし、侑希から言い出したことに便乗することで、何かを聞き出すことができるのではないかと考えていた。


 侑希は裕貴の言葉を聞いて、視線を泳がせて困っている素振りを見せた。そんな仕草を見せることで裕貴が折れるのではと侑希が考えているのかもしれないと感じ、裕貴は余計に考えを固める。侑希が口を開いたのは、裕貴のそんな決心の後すぐのことだった。


 「……いるようないないような?」


 「俺に聞かないでくださいよ」


 裕貴は曖昧な返答をする侑希に言葉を返す。しかし、たったその一言を聞いただけで、裕貴はこれ以上のことを知ろうとすることは諦めた。


 「……意地悪」


 「すみません、もしかしたら話してくれるかもしれないと思って。少しデリカシーがなかったですね」


 裕貴は侑希の非難する目を見て謝る。もともとこれくらいのことを覚悟していた裕貴は、どこか見とれてしまう侑希の表情で満足することにした。しかし、裕貴が謝った後も侑希は何かを考え込んでいうように暗い顔つきをしていた。


 「やっぱり、裕貴は不公平だと思う?」


 突然裕貴に話しかけた言葉は、そんな難しい一言だった。裕貴は、一瞬ではその言葉の意味を理解できずに首を傾げてしまう。すると、侑希は補足するように説明を始めた。


 「私は裕貴のことをたくさん知ってる。裕貴が学校とかバイト先でどんなことをしているのか、私がたくさん聞いているから」


 「そうですね。きっと誰よりも侑希が一番俺のことを知っていると思います」


 裕貴は大げさに言っているわけでもなくそのままの意味として伝える。裕貴の数少ない友人であっても、侑希以上のことを知っているとは考えられない。家族であってもそれは当てはまることだった。


 「でも裕貴はきっと私のことをそんなに知らないと思う。……だって私が裕貴に教えていないから」


 「俺が聞いていないこともあります」


 侑希が徐々に悲痛な顔つきになっていることから、裕貴は侑希が考えて悩まないように言葉を差し込む。しかし、侑希はそれを聞いて首を大きく横に振った。


 「違う。裕貴が遠回しに聞こうとしてたこと、私は気付いてた。だけど……」


 「良いんです。人に知られたくないことは誰にだってあります。俺にだって侑希に知られると困るようなことはたくさんあります。……言わなくて良いんです。俺はそう思います」


 裕貴は侑希との雰囲気を悪くしないために、思ってもいないことを口にする。侑希のことを強く知りたがっているのは裕貴である。それでも、裕貴は仕方なく侑希のことを気にしていない素振りをする。しかし、それを聞いても侑希の表情が晴れることはなかった。


 「……本当に?」


 侑希は裕貴に確認してくる。すぐではなかったものの、裕貴はゆっくりと頷いた。


 息がつまるような時間が流れる。そして、侑希はようやく大きく息を吐いた。裕貴は自分の対応が正しいものであったのか分からなくなっていた。


 「いつか言えると良いんだけど」


 侑希は裕貴に聞こえるように呟く。その侑希の声をはっきりと聞いていたが、裕貴がそれに反応することはなかった。裕貴はまるで、初めて侑希と会ったときのような感覚に陥っていたのだ。


 「それで……何の話をしてこんなことになったんだっけ?」


 会話を正常なものに戻すために裕貴は明るく振る舞う。裕貴が急に元気な声を出したことで、侑希も重たくなっていた空気をどこかに押しやり始めた。


 「なんだっけ……忘れちゃった」


 侑希は少し間を空けてから首を傾げる。裕貴は、それがこれ以上この話題に触れないで欲しいという侑希からのメッセージのように感じ取ってしまう。裕貴がこれ以上侑希のことを知ることは難しいようだった。


 それからは再び他愛のない会話をして、二人は時間を費やした。その内容はころころと変わり、一貫して二人に関わるようなことは話さなかった。裕貴はそんな消化しているだけのような時間を、初めて無駄なもののように感じてしまった。


 裕貴が今までに、侑希との時間を無駄だと思ったことはない。侑希と会うことが裕貴の生活の中で重要性を占めるようになった今、裕貴がそんなことを考える余裕さえなかったのである。しかし、この日に裕貴は初めてそんなことを考えた。


 それは、裕貴がただ侑希と時間を過ごすことだけでは満足できないようになってきたことの表れだった。侑希と会って、侑希の新しい何かを知りたい。裕貴の思考は次第にそのような傾向に変わっていき、今ではそれ以外のことが邪魔なことのような気がしてならなかったのである。


 勿論、そんな今までになかったような感情を持って侑希と接することのリスクを、裕貴はしっかりと把握している。つまり、強引に侑希の秘密に迫って侑希に遠ざかられるという危険性を裕貴は認知している。今日、裕貴が最後の最後に自分の意思を貫けなかったこともそれが原因となっていた。


 しかし、裕貴はやはり現状では納得することはできそうになかった。侑希のことを知りたい気持ちは、裕貴自身が怖いと感じるまで増大している。そのため、裕貴は侑希と何でもない話をしている間、とあることをずっと頭の中で考えていた。


 二人はいつもの時間になると動き始める。この日は自分で自分の精算を済ませることで合意した。店を出ると、雨はやんでいた。


 いつもの解散場所までの道のりは、裕貴が予想していたほど悪い空気にはならなかった。次に会う日を提案してきたのは侑希の方で、そんな些細なことでさえ侑希の気持ちを反映しているような気がして裕貴は嬉しく感じた。


 「まっすぐ帰って、学校に遅れないようにね。それと朝ご飯は食べないとダメだよ?」


 「分かってます。侑希も気をつけて帰ってください」


 裕貴は決まり文句となってしまった言葉を今日も侑希に告げる。侑希の言葉も裕貴がいつも聞いているものである。しかし、侑希が心配してくれることは悪い気分にならない。そんな侑希の優しさに触れて裕貴は決断した。


 「それじゃあね」


 侑希の一言で二人は離れる。離れていくのはいつも裕貴の方で、侑希に背を向けて駅の方に歩いていく。裕貴は辛抱強くこの時間を乗り切ろうとした。ただ数秒後、裕貴はその場で立ち止まった。そして侑希がいる方向に振り返った。


 裕貴が想像していた通り、侑希は裕貴に背を向けて歩いていた。その方向は裕貴の予想と一致している。裕貴はほんの少し侑希の後ろ姿を眺めた後、侑希の後を追い始めた。

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