電信柱にくちづけを
この作品は100文字ちょいのあいらぶゆーれいぶんを一万字弱に書き換えたものです。
「大っ嫌い!」
バチコーンと派手な音と共に、アケミのビンタが僕の頬に炸裂したのは夏の終わり頃。ほっぺたに赤々と残る不名誉な紅葉が、秋の訪れを告げた。そして終わってしまった夏はアケミをこの部屋から何処かへ連れていく。
「荷物は来週取りに来るから」
この言葉を最後に僕らは別れた。二人で十三ヶ月過ごした部屋は、彼女の荷物が残っているにもかかわらず、随分広く見えた。僕の心だけ夏に置いてきぼりのまま、季節は巡る。
窓から差し込む夕焼け小焼け、カラスの鳴き声だけが虚しく木霊す。
アケミが出て行ってたったの一時間、早くも喧嘩ばかりだった彼女との、数少ない楽しかった思い出ばかりを思い出す。ギシリと胸の錆びた歯車が疼いた。もう壊れそうだった。
カァーカァーカァー、カラスは鳴く。
カァーカァーカァー。泣いてなんかいないやい。
自業自得とはよく言ったもので、まさしくこれは僕の自業自得による結末なのであるのだから救いようがないのだ。
【電信柱にくちづけを】
翌朝、月曜日のゴミ出しは僕の番であった。尤もアケミが出て行った今となっては、明日も明後日もその先もずっと僕の当番は揺るぎないのではあるが。
窓から観る空は僕の心持ちに比例して重たい雲に覆われている。天気予報は曇りのち晴れ。石橋を叩いて叩いて最後は泳いで渡るくらいに慎重な性格の僕は、折りたたみの傘を鞄に入れた。
マンションのエントランスをくぐり、敷地内のゴミ捨て場へ寄る。湿気が多いのか酷く臭う散乱した生ゴミたち。砕け散った卵の殻なんかは、自分自身の未来や夢を彷彿させる。
生ゴミの芳しい香りに引き寄せられたカラスたちが僕の夢や希望だったものを啄ばんでいる。僕は手に持つアケミと過ごした最後のアレコレを棄てた。分別はきちんとしているので、嘸かし良く燃えることであろう。
駅まで二十分の道程。昨日の出来事に思考を巡らせる。
ビンタされたのは僕だが、浮気したのはアケミの方だ。好きな人ができたそうだ。そいつはアケミと同じ会社で、アケミの上司で、この僕の上司でもある。打ち明けられた僕はアケミに酷いことを言って殴られた。本当に酷いことを言った。
しかしだ。僕とアケミはこんな事柄がある前からとっくに終わっていた。失うのが怖かったが、その実少しずつ少しずつ失っていた。
昨日あんなことがあったにも関わらず、僕は平気な顔をして駅の改札をくぐり抜け、地下鉄に乗り込む。歳を重ねるごとに平気な顔を作るのが巧くなっていく。
会社に着きタイムカードを切ると、上司が「お早う」と人懐っこい笑顔で挨拶をしてくる。僕より若くて、仕事もできて、何よりも部下思いの優しい上司。
僕はこいつが大嫌いだ。だが彼は僕がアケミと同棲していた事も、付き合っていたことさえも知らない。彼に非はないのが、この案件の最も厄介で重要なところであろう。人道的に酷いのはアケミだ。男を作って僕を捨てたのだから。
僕とアケミは社内で誰にもバレることなく付き合っていた。誰にも知られることなく一緒に住んでいた。アケミの住所は実家のまま、僕の部屋に転がり込んできた。
隠れんぼみたいな横恋慕から始まった誰にも秘密の関係は、後ろめたさと罪悪感からくる刺激が、僕らを強く結んだ。どいつもこいつも同じ社内でお盛んなことである。
殴られた理由を端的に言えば「僕とアケミが同棲していた事を社内全員にバラしてやる」と、僕が脅したからである。
僕は彼女の弱みを握っている。部下思いの上司のことだから、僕とアケミの関係を知れば、手を引いてくれるかもしれない。アケミはこんな悪女ですって伝えたかった。
そう思っていたのに、彼の人懐っこい笑顔を見たら、結局終業時刻が過ぎても言えなかった。アケミをどうしても悪者にできなかった。……否、どうしてもアケミから見た自分を悪者にできなかった。
退勤のタイムカードを切り溜息を一つ。社内はアケミと上司が付き合っていることが徐々に明るみになり、祝福ムードが蔓延して、僕は今にも吐きそうだ。
こんな風に僕だって祝福されたかった。もっとオープンにしていれば良かった。僕とアケミの十三ヶ月は誰にも知られることなく終わりを迎え、無かったことにされたのだ。アケミは終始、僕とも上司とも目を合わせなかった。
空っ風の帰り道、天気予報とは裏腹に、ぽつりぽつりと雨粒が僕の肩にぶつかり弾けて飛散していく。
あー、傘持ってきて良かったなぁ。僕は得意気な顔で傘をさした。いつかアケミが選んでくれた水玉の折りたたみ傘が花を咲かせる。駅前は幾つものカラフルな花が咲いた。
やがて雨は本降りになって嗚咽を漏らして泣く僕を巧妙に人目から隠してくれる。
駅のホームで瞳と心をしばし乾かして深呼吸。地下鉄に乗り込む。
そりゃ男を作ったほうが悪いに決まっている。だけれど自分の何がいけなかったのか、何が劣っていたのか、どうすれば良かったのか。
地下鉄の車内は湿気と加齢臭に満ちて、なんだか息苦しい。闇に敷かれたレールを走るメトロに揺られ、僕は窓ガラスに映る冴えない男に復讐を誓った。暗闇を抜ける翼が欲しいと願った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
何が劣っていたのか。結局のところ顔や見てくれなのか。いや答えは多分ノーだ。歳をとればとるほど身体的特徴の差は努力と金で埋めることが出来る。
顔が悪いのなら整形すればいい。腫れぼったい一重まぶたなんか十万円も出せば綺麗なくっきり二重になる。体型だって背を伸ばす事はできないが、筋肉をつけることも痩せることも努力次第でなんとでもなる。
ではやはり性格なのか。答えがイエスであったところで、結局のところ人間の本質は変えることはできない。
その他にも忍耐だとか、経済力だとか、様々な憶測が飛び交う僕の終わらない禅問答を、ナヲコは相槌を適度に打ち鳴らしながら訊いてくれる。
ナヲコとは今し方、知り合ったばかりである。
同僚と共に訪れたバーのサイドに陣取った、派手目の二人組の片割れがナヲコで、いきなし「かんぱーい」と頼んでもいないテキーラを差し出してきた。
二人の女はど派手で鋭く尖った鋭利な爪と、バサバサと瞬く長いつけまつげが特徴の、どちらも大して代わり映えのしない二人組であった。違いは日に焼けている方がナヲコで色白なのがもう一人。
連れである同僚は、ナヲコとは違う色白の女と一緒に消え、簡単な人生をテイクアウト。結果僕は色黒なナヲコと二人きりになった。
派手目で、遊んでいそうで、簡単そうな女。それが第一印象である。
「僕さ、自分の悪いところ全部直すんだ」
僕はテーブルに突っ伏した。
「そっかそっか、キミは偉いね。辛かったね」
テーブルにだらしなく突っ伏す僕の頭をナヲコは優しく撫でた。その酒とタバコで焼けたハスキーな声がカラスの鳴き声を連想させる。何故だかとても心地良くて眠たくなる。
酒に酔った僕の記憶はそこまでしかない。
「朝だよ。起きて」
初めて見る天井。見慣れない部屋で目覚める。初めて聴く少女の声。少女は僕の上に跨がっている……なんて言えばイヤらしく訊こえるかもしれないが、少女の躰はとても小さく、文字通りに少女であり幼女でもあった。
「ママー。おじさん起きたよー」
少女の声にキッチンにいたエプロン姿の女が顔を見せる。いやいや、僕二十代だし、そこはおにいさんだろ!
「頭痛くないかな?」
浅く歪んだクランチボイスに、それが昨日知り合ったナヲコだと気付く。夜はあんなに派手だったのに、今の顔は随分違うものだ。それは所謂母親の顔ってやつだった。彼女の声は相も変わらず心地よい。
「泊めてくれたんだ」
「起きる前に、化粧だけしておこうと思ったのに失敗失敗」
ナヲコは浅く笑う。連られてナヲコの子供と思わしき少女も笑う。恐らく多く見積もっても十歳にも満たないと思われる少女。
「ココちゃんはお皿並べてきて。キミはシャワーでも浴びてきなよ。まだ仕事まで時間あるでしょ?」
確かにこのままじゃ仕事に行けやしない。お言葉に甘えシャワーを借りることにする。生活感溢れるバスルーム。ナヲコの娘のココちゃんの物であろうアヒルやら、アニメのキャラやらの玩具が散乱している。
「バスタオル置いておくからね」
バスルームを出てバスタオルを使えば凄く良い匂いがした。ナヲコの部屋は居心地が良かった。着替えて新品の歯ブラシを貰い、歯を磨きナヲコに礼を言う。そして玄関で革靴を履く。
「また来てね」
出て行こうとする僕の背中に、ナヲコのカラスみたいな切ない声が後ろ髪を引く。寂しそうな声が出て行こうとする足を止めさすのだ。
部屋に置いてきぼりになるのは案外寂しいものだと、僕はよく知っている。
「いつでも来ていいよ。わたしとキミはもうお友達。来る前は電話頂戴ね」
そう言ってメモに電話番号とラインのIDを書いて僕に手渡す。簡単な女だ。僕はそれを受け取り鞄に丸めて部屋を出る。きっとナヲコとはこれっきりだ。この時僕はそう思った。
会社へ着いた僕が目にしたのはアケミと上司の些細なやり取りだった。ただの何気ないやり取り。上司と部下のただただ当たり前のやり取り。なのに嫉妬に狂いそうになる僕は直感する。近い将来自分はこの会社を辞めることであろう。
会社を辞めていよいよアケミとは他人となって、お互い別々の誰か、恐らくアケミはこの爽やか上司くんと結婚して、僕とのことは忘れるか精々思い出の一ページくらいになって、僕も今のこの胸の痛みが和らいで、いつしか時と共に無くなっていくことであろう。
それがたまらなく嫌だった。
酒がないと眠れなくなった。アケミも僕と同じように、僕を思い出して眠れない夜があるのであろうか。僕のことを思い出して切ない気持ちになるのであろうか。そしていつから僕はこんな醜いことを考える人間になったのであろうか。
仕事の定時で逃げ出す僕は、不意に鞄でくしゃくしゃになっているナヲコの電話番号を思い出す。無意識に僕は自分のスマホを取り出していた。
ぷるるるるっと鳴る発信は三回。昨夜出会ったカラスはハスキーな声でそれに応じる。
「ナヲコ? ごめん。今夜も逢えるかな」
この時から僕は、ナヲコと決して少なくない頻度で逢うようになった。
翌日は土曜日で会社は休み。ナヲコのベッドで目を覚ます、もちろん一緒に眠っただけで、何もしていない。ココちゃんが隣の部屋にいるから。
寝坊したな。高くなった昼の太陽が窓から差し込む。隣で目を覚ますナヲコの体温が、その柔らかい熱と巧いことそこで重なり合う。
目が合えば笑い合えた。胸を締め付ける張り裂けそうな不安は、その姿を消す。ナヲコの照れる横顔を見続けながら、こんな時間も悪くないと思えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
来週取りに行くねって言っていた荷物をアケミが取りに来たのは、別れて一ヶ月も経ってからであった。時間にルーズなのは相変わらずだな。なんて可愛く思えてしまうのは、まだまだ僕が彼女のことを好きだからなのであろう。いつになったら、この呪いは解けるのであろうか。心の何処かで未だアケミは僕の元へ帰ってくると信じていた。
「久しぶり」
なんて言いながらアケミは自販機で買った缶コーヒーを一つ僕に手渡す。違う。久しぶりなんかじゃない。土日祝日以外毎日顔を合わせている。僕はいつもアケミの傍にいるんだ。
そんな言い方をするアケミの中で、僕はいない存在になっているのであろう。そうしないとやってられない気持ちも理解できるつもりだ。
まだ温かい缶コーヒーの蓋を開け、口を付ける。徐々に徐々にその熱は失われていく。
窓の外でカラスは鳴く。
カァーカァーカァー。
「ねえ、わたしたち、何がどうして歯車が狂ったのかな?」
アケミが浮気する以前、とっくに終わっていた二人を思い出す。浮気されたのは自業自得なのだ。お互いが自分を優先させたのだ。変わらぬ愛みたいな幻想と、大空を舞うような自由の両方を求め、その矛盾が僕たちの歯車に負荷を与えひび割れたのだ。
カァーカァーカァー。
内緒で借金をした。アケミの財布から金を抜いたこともある。アケミの作った夕食も食べずに夜は飲み歩いていた。そして僕も浮気していた。いつも泣かせていた。いよいよ愛想を尽かされただけだ。
僕とアケミの違いは浮気か本気かの違いだ。
いったい何を被害者ヅラしているんだ、僕は。ナヲコに訊いて貰うときはいつだってアケミを悪者にしていた。
僕は、僕は、僕は生きる価値すらない屑だ。
「ありがとう。わたしたちのこと皆に黙っていてくれて」
缶コーヒーを飲み終えたアケミは、荷物を手早く纏めて僕の部屋を出て行く。僕のコーヒーはまだ残っているのに、また僕を置いていく。また僕の先に行く。
いてもたってもいられなくなった僕はどうしてもナヲコに逢いたくなった。止め処ない喪失感は僕を走らせる。
ぬくもりが欲しかった。誰かに許されたかった。
転んで冷たいアスファルトで膝を擦りむいて血が滲んでも走った。この時『電話してから来てね』というナヲコの言葉を忘れていた。それがタブーなのだとも知らずに。
ナヲコの住むマンションは郊外に位置する。すぐ傍に松の木が疎らに生える小さな公園があり、そこに見覚えのある顔を見掛ける。
「あれ? ココちゃん?」
ブランコを一人で漕ぐ幼い少女が一人。既に随分遅い時間だ。
「あ、おじさん」
「あ、おにいさんだから。きっとママより若いから。それより何でこんなに遅くに外にいるんだい?」
僕の質問にココちゃんは少しだけ考え、キョロキョロと辺りを見渡し、小声で話す。
「これ内緒なのだけどね、今お客さんが来ているんだ。それでね、お客さんはママに乱暴するからココが助けようとするの。そうするとママが外で遊んでなさいって言うんだ」
それだけの拙い説明でも、全て理解するには十分だった。
「そっか。それじゃあ、ママがお迎えに来るまでおにいさんが一緒にいてあげよう。お腹は空いてない?」
「うん。大丈夫だよ。おじさん」
報酬は先払い。僕はココちゃんを抱きしめた。結果オーライとは言えないが、幾らか落ち着く自分がいる。そしてココちゃんは母親のナヲコみたいに、ヨシヨシと僕の頭を撫でてくれる。
ナヲコ一体きみはこんな小さな子を置いて何をしているんだ。なんて説教などできる立場でないのは、重々承知している。
結局派手な化粧をしたナヲコがココちゃんを迎えに来たのは、夜の十時を回ってからのことである。
いつもみたいに部屋に上がり込みナヲコに缶ビールを出して貰う。今さっきまでここに別の男がいたと思うと、少々居心地が悪いが、僕は彼氏でも何でもない。ただの友人である。
「ココから訊いたんでしょ? あちゃー、キミには知られたくなかったな」
彼女は個人で客を取っている。普段はホテルを使うが稀に気に入った客を自宅に招くそうだ。
「また慰められに来たの?」
別にそこに性的な意味はなく、文字通り彼女は落ち込んだ僕を慰めてくれる。愚痴を訊いてくれる。アケミの悪口を訊いてくれる。
「いやいい。ココちゃんが十分慰めてくれた」
「おー、さすがわたしの娘。男を慰めるツボを心得てらっしゃる」
隣の部屋からココちゃんの寝息が微かに聴こえる。先程観た寝顔は天使さながらであった。
ナヲコは僕がいることもお構い無しに、綺麗に着飾った服やアクセサリーを脱ぎ散らかす。これにも性的な意味はなくただただスウェットに着替えようとしているだけだ。
アケミの背中の右の背骨の真ん中から、右の肩甲骨を隔て、腰の辺りまで翼のトライバルタトゥーが入っていた。その黒い翼は片方だけでどうにも飛び辛そうである。
「片方だけなの?」
ナヲコはスウェットに首を通しながら僕の問いに応える。
「比翼の鳥って知ってる? 中国の伝説でね夫婦の鳥が片方ずつの羽根で二羽揃ってやっと飛べるってお話。もう片方の羽根はココのパパの背中にあるんだ」
ほんと片っぽの翼じゃ、飛べないよねー。ナヲコは寂しそうに笑う。目のやり場に困り、散らばった綺麗な服やアクセサリーを横目で見る。
「キラキラした物が昔から好きで直ぐに貯めこんじゃうんだよね」
「男たちなんかもそうかい?」
「うん。気に入ると直ぐに連れ込んじゃう。キミもそう」
カラスみたいでしょ? 最後にそう付け加えるナヲコ。僕は沢山のガラクタの一つだった。きっと彼女は大事な物がどれなのか分からなくなっている。
「最近さ、ココがね、前の旦那に似てきたんだ」
当たり前の話ではあるのだけれど、当然ココちゃんには父親がいる。ナヲコがココちゃんの父親のことを話すのは初めてのことだ。もう一つの翼を持つココちゃんの父親。
「何で別れたの?」
「うーん。大体キミと同じかな」
「ごめん。僕がした話さ。彼女を悪者にしてたけど、冷静に考えたら僕の方が悪いかもしれない」
「言わなくていいよ。わたしもだしさ」
「似た者同士ってわけか」
「選ばれなかった者同士だね。だから惹かれた」
恥ずかしかった。まるで自分が悲劇の主人公にでもなったつもりでいた。思えばナヲコの話を訊こうと思ったことなどない。自分の話ばかりしていた。自分の胸が痛み過ぎて、ナヲコの気持ちに興味が持てなかった。ナヲコの痛みなど知ろうともしなかった。
「ごめん。ここに来るの今日で最後にするわ」
この言葉を言ったとき僕は彼女のことを初めて大切な存在に思っていた。ずっとアケミの幻をナヲコの向こう側に見ていたのだ。ごめんな。ナヲコ。踏み込んで掻き回して。だからこれっきりにしようと思った。
「うん、そうするといいよ。わたし軽そうに見えるだろうけど、こう見えてすっごくすっごく重たい女だから」
カラスは笑いながらアイライナーの溶けた黒い涙を流した。慣れているのであろう。別れを告げられることに。彼女は僕の頭を両手でがっしりと掴みそっと顔を近付ける。
「だからね、これは決別の儀式」
片っぽしかない翼だけれど、意地と愛嬌で軽やかに宙を舞う彼女が好きだ。美人じゃなくとも若くはなくとも、その少し枯れた声が好きだ。
カラスはうっとりと慈しむような目で僕の顔をみて、自身の額を僕の額にくっつけた。その真っ黒な黒目に吸い込まれていく僕。翼ではなく彼女の睫毛が羽ばたく。
為すがまま無抵抗な僕は、それをただただ待つばかりで情けない。カラスは泣いていた。この涙を拭えるのならきっとそれは素敵なことだけれど、彼女はそれを望まない。
ナヲコの分厚い唇は優しく優しく、何度も何度も触れた。僕の唇を舐めこじ開け何度も何度も。微かにナヲコの吸うハイライトの匂い。
彼女は僕の背中に手を回し、歪んだ背骨に小指を滑らせた。もう泣かないで。わたしも泣かないから。そう聴こえるような焼け付くほど熱いキスだった。
夜が明けてしまう恐怖に怯え、二人強く抱き合った。二羽のカラスが失った方の翼を補いながら羽ばたいた。
闇に落ちた僕を掬い上げた翼は黒くて片方しかない。
もしかしたらこれは振られた哀れな男が節操なく別の翼にに飛び乗っただけなのかもしれない。しかしその黒い翼は汚くなんかなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
月曜日のゴミ出し。ゴミ捨て場にて僕が捨てられなかった想いをカラスが啄む。
カァーカァーカカァー。
僕は書きかけの書きかけの辞表をビリビリに破って、秋の空に投げ捨てた。
キスシーンが見たい方はセカキスで検索(はーと)