神様、仏様
男と女が会話をしている。
何てことは無い、他愛も無い話だ。
神様は本当にいるのか。
神様はどんな姿をしているのか。
神様は何をしてくれるのか。
神様は何を考えているのか。
そんな事を言い合っている。
しかし、男にしても女にしても特に宗教心があるわけではない。
仏様に手を合わせるでも無ければ、イエス・キリストを想い十字架を握りしめるわけでも無い。
もちろん山々や象を神と崇めているわけでも無い。
どちらかと言えば現代的にアニメのキャラクターや声優などを偶像視してしまっている感が否めない。
ともあれ、男も女も深い意味合いを込めて神様について語っているわけではない。
不幸に満ち溢れ、幸福なんてものはどこにも無いじゃないか。
もし幸福なんてものがあるなら、神様はどうして自分のところにやってきてくれないんだ。
そんな事を話しているのだ。
神様は本当にいるのか。
それについてはきっといるのだろう。
常にはいないかもしれないが、都合の良い時だけ現実化する。
神様、仏様、何でもしますから助けてください。
一字一句同じとは言わないが、似たような言葉を発したり考えたりした事がある人の方が多いだろう。
普段は神様なんて信じていない。
そんな宗教の話はやめてくれ、勧誘もお断りだ。
そんな言葉を道端に吐き出しつつ、いざとなったら助けを乞う。
また、年始の挨拶だけをしに神社へ行く人も多いだろう。
たった一回足を運んだだけで大層な想いを願い。
一握りの5円を差し出す。
御縁があるように、などとよく口にしている人がいる。
そして次に足を運ぶのは丸一年経った同じ日。
その間、神社の掃除どころか参拝にすら来ない事が多い。
それではあまりに神様が可哀想では無いか。
もし、現実にこんな友達がいたとしたら溜息一つで受け流されること請け合いである。
しかし、こんな酷い扱いをしながらも神様はいると人は誰しも考えている。
この物語の登場人物である男と女も無慈悲に慈悲を望んでいる。
神様はどんな姿をしているのか。
男は言う。
きっと仏様の様な存在なんだと。
それでは仏教では無いか。
しかし、男は無神論者だと豪語する。
よくある光景だ。
神は信じないし宗教にもハマっていないといいつつ、神様はどんな姿かと問われれば仏像を想像する人が多いだろう。
だが女はそんな古臭いものは信用するに値しないと顔を紅潮させながら反論する。
その細い指を空高く上げ、あそこにいると。
あそことはどこか。
空である。
星の事かもしれない。
雲の事かもしれない。
太陽の事かもしれない。
事実、太陽を神と崇める宗教も存在する。
だが、女にとってみればその実、空高く指を上げながら頭の中では大好きなアニメキャラを浮かべているだけなのだ。
それを男は乙女なところもあるじゃないか、と。ほくそ笑むのだった。
神様は何をしてくれるのか。
基本何もしてくれない。
何もしてくれないから人は時々助けてくれ、神様、仏様。
そう願うのだ。
しかし、そう願えば願う時ほど、神様の存在は薄く感じるだろう。
もし神様がいてくれるなら、どうして今こんなにつらい思いをしなくちゃいけないんだと。
神様がいてくれるなら、今この場で助けてくれと。
そう願わずにはいられないのだろう。
だからせめてこう考えればいい。
神様は、立ち止まって動けなくなった人の足そのものになってくれているんだって。
だって大多数の人間は年に一回、5円しか奉納しないのだから。
それで十分、5円の価値はあるだろう。
神様は何を考えているのか。
それはを考えるには、神様は本当にいる前提で話さなければならない。
ならば実在したとしよう。
姿形はその人それぞれで想像が違うと思うので問わない。
その状態で考えた時、神様は何を考えるのか。
きっとそれを考えた人間が今まさに神様となっているのだ。
神様なら何をどう考えるのか。
それを想像した段階で神様になりきっているはず。
ならばその時点で人間は神様と同等の存在になり得ていると言えるのでは無いだろうか。
しかし、あまりこの事を深掘りすると宗教らしさが出てしまうので軽く考えるべきだ。
何ならアニメのキャラクターを偶像崇拝してしまい、そのアニメキャラクターが考えたであろう事を答えとしてしまうのが楽なのかもしれない。
つまるところ、よく分からない。
こればっかりは仕方のないことだ。
男と女はこんな為になるのかならないのか、良くわからない事をかれこれ数十分語り合っている。
そして終いには現代らしくアニメや声優を偶像視する事が一番穏やかになるのではないかと決着をつける。
しかし悲しいかな、これはこれで争いが起こる。
そしてまた、新たな語り合いが始まるのだ。
今度のテーマはそう。
今季の一番面白いアニメと好きな声優についてだ。
男と女の足取りはまるで、神様が抜け落ちたかの様に軽くなっていた。