06
逃げようとしたまでは最善の手だったと言える――はず。
なのに、どうしてこうなった。
「オマエ、絶対に馬鹿だろ。けが人がなに、全力で走り回ってんだよ。っていうか、体力なさすぎじゃねぇの? さっきまでいた場所、こっから見えるんだけど」
悔しいけど三男の言う通りだ。
わたしは今、項垂れるように石畳みの上に座りこみ、どこかの家の花壇に寄りかかって休んでいる。そして、先ほど怒鳴られた大通りに続く道はたしかに見える。恥ずかしい。
見上げる三男は息一つ乱れていない。まあ、この距離で息が上がっていたら問題だ。うっ、自分で言っておいて傷をえぐってしまった。
「はあ、とにかく一度、帰ろうぜ。んで、医者に診てもらおう。痛むんだろ?」
そう、さっきからあちこちが痛い。傷口が開いたのかもしれないけど、帰るなんて絶対に嫌だ。放っておけばきっと治る。
わたしは首を横にふり、無駄な押収が始まらないうちに立ち上がろうとする。
そうしたら――相手の善意だってわかっている。わかっていても体が勝手に反応してしまう。三男がよろけるわたしの体を支えようと、片方の腕を掴もうとした。その時だ。
「いやっ!!」
腕を振り払い、その衝撃でわたしは尻餅をつく。
やってしまった、と思ったけれど過去は消えない。わたしは後ろ手で壁を伝いゆっくり立ち上がる。お尻は痛いし、手だって痛い。でももっと痛いのは心臓だった。
「……ごめん、なさい」
三男の顔が見るのが怖くて俯いたまま謝ってしまった。最悪だ。ズキズキと痛む心はもう一度謝れと言う。顔をあげてちゃんと。でも、見たくなかった。これも心が逃げているだけだけど、いつも屋敷は薄暗かった。その中でなじられ暴力を振るわれた。だから、その表情はわからない。でも、今は違う。わたしを嫌う顔がわかる。だって、空はこんなにも天気が良いのだから。
誰かに触れることが本当に怖い。自分と大して変わらない大きさの手と分かっていても繋ぐことができない。だけど、この気持ちをわかってくれとはいえなかった。
このまま黙って消えてしまおう。
元々、逃げ出すつもりで二度と会う予定はなかったのだから。
罪悪感は残るけれど、自分の心だって大切にしたい。
三男の足先をじっと見つめる。きっと怒ってどこかに行くはずだ。行ってほしい。怒鳴られたり、なじられたりするのは辛い。もう、一生分味わったよ。
うじうじと考えていると三男の足が動いた。
わたしの方に向かって、近づいている。
「え……あ、あの……」
驚いて顔を上げると、拍子抜けするほど普通の顔があった。むしろちょっと呆れてる。
「自意識過剰なのは知ってるから今さらだってぇの。でもさ、はぐれたり、倒れたりされると困るわけ。それだけは分かってるよな?」
「……うん」
「つーわけで、仕方ねぇからカバンの紐で我慢してやる。引っ張るぞ」
「それはもっと無理!」
あんたさっきわたしの首を絞めたのを忘れたのか! そもそも気付いてすらいなかったな、こいつは。じっ、と睨むと諦めたのかカバン本体を掴む。
「これでどうだ。ったく、本当に我が儘なヤツ」
うっ、あの小説に書かれた我が儘令嬢のようになりたくなくて、平民になろうとしているのにまさかこんな風に言われるなんて。本人は何気ない一言だと分かっていてもすごく傷つく。これから気をつけよう。
でも、少しだけ気持ちが楽になった。
三男の笑顔は変わらないままで、本人には言わないけど、少しだけお兄ちゃんがいたらこんな感じなのかなって思えた。
この人相手に難しいことを考えるだけ無駄なのかなって。
「今さらだけど、オマエどこに行きたいんだ? 平民になるって言っても誰かに宣言すればなれるものなのかー?」
「……知らない」
「はあ? なんだよそれ。無計画か!? 信じらんねぇ……無鉄砲すぎんだろ!」
「うるさい。孤児院、行く」
「ああ、なるほどな。んじゃ、孤児院目指すか。どこにあるんだ?」
三男はあっさりと納得してくれたらしく、わたしに目的の場所を訊ねてくる。まあ、そうだろうな。でもな、わたしが知っていると思うか? 馬鹿め。ただ、ここで知らないとか言ったら馬鹿にされるんだろうな、と思いながらも言わないわけにはいかない。
「ここ、どこ」
「はあ!? …………なあ、一応聞くけどさ。オマエ知らないで歩いてた、とかないよな? ……ここがどこか知ってるんだよな?」
大きく目を開いて三男は聞いてくる。っていうか、近い。顔を近づけてくるな。わたしの反応から、何も知らないと察してくれたようだ。一歩後ずさり、大きくため息を吐いた。ありがとう。
「オマエ知ってて歩いてたんじゃないのかよ……」
「あなたも知らない?」
「知るわけねぇだろ。普段は領地にいて、王都にきたのなんて初めてだし」
「……王都、ここが?」
「そこからかよ……。あんな立派な城、王城じゃなければどこになるんだよ」
三男の視線が向けられ先はさっき見た幾つもの尖塔が並ぶ場所。城下を見下ろすように建てられた城だと言われれば納得だ。あれはこの国の権力の象徴なのだから。
じゃあ――
「あれが、神壁の守護」
城の背後に連なる山脈を人々はそう言う。
細長く、幾つもの山々が折り重なりできた場所は王以外の侵入を許さない。足場も悪く、年中吹き続ける雪で視界も悪い。しかし、不思議なことに城を破壊するような雪崩は一度も起きたことがない。常に他国側に雪崩が起き、山は噴火する。起こる時は侵略者が山を越え、我が国を蹂躙しようとした時だけとすら言われている。神々の眠る地。その守護を――神壁と呼ぶ。
天国と地獄。まあ、当たらずとも遠からずって感じかな。
「でもさ、神の力って本当にあるのか? ――オマエも実は使えたりすんの?」
「知らない」
最後の言葉はわたしにだけ聞こえるように囁く。
神の力。
それは王家にだけ伝わる力と噂されている。神壁を操るのもこの力らしいけれど、わたしにそんなものはない。
力を有するのは神の瞳を持つ者だけ。それが王家の者の証であり、神の恩恵をこの国に授ける力。
咄嗟に自分の瞼にふれる。
自分のアンバー色の瞳を思い出す。
これは普通だから大丈夫だと自分に言い聞かせ。
王家の血は神々の恩恵の保管庫と呼ばれている。だから、皆が大切に扱うのだ。この国はそうして恵みを享受し、人々は暮らしていけるのだから。
王家の血が途絶えたことはないが一度、その危機に陥ったことがあるらしい。その時も多くの貴族や国民が団結し、守ったらしい。遠い昔すぎて諸説あるけれど、再び同じことが起こらないよう法を改定したと言われている。
「なーんだ、格好良いなーってちょっと憧れていたんだけどな」
三男の言うことは無視だ、無視。
わたしは呼吸が整ったところで歩くことにする。カバンの紐をすかさず掴んでくるのはさすがだ。
「おい、そっちに行っても迷うだけだ。こっちに行こうぜ」
「なぜ」
「勘」
端的にそれだけ返ってきた。
まったく理由になっていない。とはいえ、行きたい先はあるけれど、行き方がわからない。どこに向かっても結局は同じなわけだから、さっき馬鹿にされたことを思い出し三男の後を付いて行くことにした。
これでとんでもない所に辿り着いたら笑ってやろう。
――上手く笑えるかはわからないけれど。




