05
目の前に広がる弧を描く石畳みの道は、緩やかな上り坂になっていた。少しずつ高くなっていく建物は、後ろの家の屋根が階段のようになって見える。わたしからの視線だと街全体が大きく縦と横に広がり、自分を飲み込むように思えた。
同じような、それでいて全く同じではない建物。
主に茶色系統の壁の建物が多くあるけれど、どの家も少しずつ色が違う。古いからなのか、それとも個人の趣味なのか分からないけれど、柔らかなクリーム色や赤茶けた色、土のような茶色い色など様々だ。
それでも建物の形は似ていて、三角の形をした屋根から伸びる家屋は大体が窓が縦に二つ並び、時に三個並んでいる。たぶん、二階建てと三階建てなんだ。他にも共通点として、壁を飾る蔦や入り口に飾られた植木鉢の木々の緑は良く似合っていて可愛らしく飾られている。多くの家が窓の柵に小さなプランターを置き、色とりどりの花が咲いていた。
(でも、シャンパーニ家は……もっと豪華だったな)
屋根は三角ではなく、平坦だった気がする。一瞬しか見ていないから曖昧だけれど。あれは貴族の屋敷、ということなのかもしれない。じゃあ、これが平民の主流の建物。
いつかわたしもこの中で生活することができたらと考えると胸が弾んだ。
そんな目を奪われた街並みではあったけれど、奥の奥にある建物は異様な存在感を放ち、わたしは反発心が働き視線を向けるのを躊躇った。でも、どれだけ視線を逸らしても街を見下ろすようにその建物はあって、見ずにはいられない。
尖塔が幾つも見えるそれは階段状の街並みから突出し、遠いはずなのに、塔の先には風にはためく旗が見える。建物も街に広がる家々とは違う。壁は白く、窓が幾つもあるようだった。大きな黒くぽっかりと空いて不気味な穴は門だろうか。あそこから人が出入りしていると思うと天国か地獄か、そのどちらかの入り口に見えた。
じゃあ、奥に見える緑豊かな山と更に奥には霞がかった山、というよりも山脈は天国と地獄ということか。
わたしにはまだ早い。
目下、孤児院に行きたいので周囲を見渡しながら、ふらふらと大通りに繋がる道に一歩、足を踏み出した。
「うーん……どこかに暇そうにしている人は……」
「おい! そこに立ってたら邪魔だろ! どけ!」
怒鳴られ肩がびくつく。声の主を探すと後ろから馬車に乗ったひげ面の男が見下ろしていた。
「今は朝市で大人は忙しいんだ。家に帰っておけ!」
言い返す暇を与えず、馬のお尻をムチで叩く。耳に痛い音を聞くと眉をひそめるけれど、男はわたしに興味を無くしこっちを見ていなかった。車輪が回る音と勢いに飲まれ後ずさる。
「くくっ、やっぱりオマエってビビりだなー。んで、こんなとこ来てどうするんだ?」
「…………」
びくっ、ともう一度肩が飛び上がる。何度目かわからないけれど、心臓に悪い。無傷な場所を痛めつけないでもらいたい。何より、この声の主と関わりたくない。
(――このまま無視しちゃおう)
さっきは邪魔が入ったけれど、仕切り直す。気持ちを改め一歩踏み出そうと――
「ぐぇっ!? なっ、何、するの……!」
斜めがけのバッグの紐を後ろから思いっきり掴むとか何を考えているんだ。肩から紐が外れ首を、喉を締めてる!
「人が話しかけてるのになんで無視するんだ?」
「あっ、あんた……! わたし、殺すの!?」
振り返り距離を詰める。じゃないと首が絞まって苦しい。さすがに死ぬことはないと思うけど。
「殺す? なんでオレが妹を殺さないといけないんだよ」
「……妹、違う」
「フォルティアって強情だよな。もっと素直になった方が女の子はいいと思うぞ」
「名前、呼ばないで」
三男に何を言われてもどうでもいいけど、名前で呼ばれるのは避けたい。慣れない。今までわたしはなんて呼ばれていたんだろう、とかどうでもいいことを考えてしまうぐらい聞き慣れないのだ。
「んじゃ、オレはなんて呼べばいいんだよ。アレも駄目、コレも駄目ってさ」
「帰って」
自分の家に、と言外に告げても三男は聞く耳を持たない。
こいつ、最初からわたしの話を聞く気がないな。
「なあ、どこに行くつもりなんだ? 腹減ったんだけど、どっかでまず腹ごしらえしないか? オマエも朝食抜きなんだろ」
ほーら、ない。
わたしの言葉は無視か。人のこと言えないじゃないか。
というか、帰ればいいのに。屋敷に戻ればご飯ぐらいいくらでも用意してもらえる。一体、こいつは何がしたいんだろう。
「……用事、何」
「家出だろ? オレも付き合ってやるよ。何回かしたことあるけど、わくわくするよな!」
「は?」
あまりに驚いて、三男の顔をまじまじと見てしまう。本人は楽しそうに笑っているけれど、伯爵家の息子としてどうなのだろう。どの家の子もするものなの? と考えたけれど、彼について情報を集めたところで意味はない。わたしは彼の根本的な間違いを正すことにした。
「これ家出じゃない」
「ああ、そっか。オマエなんか平民になるとか言ってたもんな。でもさ、養子になったんだろ? 父さんも母さんに許可なしで平民になるってことは家出じゃねーの?」
「…………なんで、知ってる」
「ん? だって、ひとりで言ってたじゃん。平民になるってさ。なんか面白そうだなーってずっと観察してたんだよ。どうやってなるんだろうって」
言っていた……まあ、それ以外に知られるはずがないわけだけど。
この男はそれを聞いて、誰にも言わず、むしろ家出と同等の感覚でいるというわけだ。
そしてこいつがわたしの元にちょこちょこ来ていたのは、何も兄と妹の関係を決めたいだけではなかったというわけか。
「……誰に言った?」
「言ってるわけないだろ? 知られてたらオマエの部屋の前に兵士とか置かれてた」
伯爵家おかかえの兵士とか冗談じゃない。三男が面白さを優先するやつで本当に良かった。
だけど誰にも話してないことはわたしにとって良いことなんだろうけど。この男の将来が少し不安になってきた。普通、真っ先に親に言うべきだろ。養子になったばかりの子どもが平民になるとか言っていればな。まして実行しているのだから。
あっ、その親は今不在だった。
じゃあ、長子に相談だ。
まあ、三男の頭には残念なことに常識というものは存在しないというわけか。
「おーい、なんか考えごとしてるけどさ、セオ兄にバレる前に帰ったほうがいいぞ。めっちゃくちゃ拳骨、痛いんだからな」
「帰るつもり、ない。さようなら」
握られた紐を奪うように引っ張り、頭を下げる。さっきみたいに掴まらないように紐を引っ張り、背中にぴったりくっつくようにした。これで大丈夫だ。
「あのさ、オマエがどこに行くつもりか知らないけど、平民になるとか無理だと思うぞ? そもそも家はどうするつもりだよ。公爵家は近づけないって言ってたし、あそこで暮らす平民って変だろ」
そのぐらいわかってる!
叫びたい気持ちを抑え、ただただ努めて冷静に告げた。
「……関係ない」
お前には! という言葉を飲み込み、三男から逃げるため走りだした。