04
少し疲れた、と伝えひとりにしてもらった。
考えるのは新しい家名についてだ。
いつのまにわたしの家名が変わったのだろう。この屋敷に来て一日足らず。時間が短すぎだと思う。何より、一言ぐらい相談があってしかるべきだ。ただ、それを長子に言ったところで、彼も困るしどうすることもできない。決定権はシャンパーニ伯爵と国王が所持しているのだから。
正直なところフォルティア・シャンパーニという新たな名は、重くのし掛かるしらがみでしかない。平民になる予定のわたしにとって公爵家の家名も重いけれど、新たな『普通』の家はひどく重い存在でしかない。
「自分で伝えないと駄目なのかな……」
気が重い。
助け出してくれた感謝はしているけれど、会いたくない気持ちのほうが勝った。あの小説のように絆され、この家族の一員になってしまいそうだから。
三兄弟と会って感じたのは愛されていることでの幸福感だ。わたしからは皆無のそれを突きつけられれば頷いてしまいそうで、嫌だった。
そんな伯爵夫妻と会わないで済んでいるのは、わたしが避けているからではない。なんでも彼らはわたしを助け出した後、半月ほど家を空けると出かけて行ったらしい。
元々用事があってなのか、わたしという存在がいるから発生した用事なのかはわからないけれど。そのためわたしの面倒を押しつけられた長子は笑って説明してくれた。
まあ、その長子から戻ってきた時に両親から話がある、とも言っていたけどやっぱり関わりたくない。
部屋を抜け出し、逃げてしまおうか。
窓の外に顔を向ければ、日が高く街を明るく照らしている。自分の年齢から働くのは難しい。でも孤児院ならなんとかなるかもしれない。孤児院が無理でもわたしは女だ。修道院に駆け込めば手を差し伸べてくれるはず。平民という野望が早くも修道女に変更されつつあるけれど、貴族でなければ構わない。
「――決めた、逃げよう」
しかし、ひとりの時はすらすら言葉が出るのにどうしてか人前だと言葉が喉に貼り付いたようになって喋れない。なんとかしないと。
何より、体を動かすとまだあちこちが痛む。記憶の通りなら出歩くことは許可できない、と医者から言われていたはずだった。
(今すぐ行動を起こすのは無謀すぎるよね。だったら、先生からの許可が出たら……)
決めてしまえば後は体を休めるだけだ。
伯爵夫妻が戻ってくるギリギリの日まで屋敷で体を労ることにした。
その間にも三男は部屋に侵入をしてきた。煩わしく感じたため部屋に鍵を取り付けてもらった。
それから十日間が経ち、医者からもう大丈夫だと出歩くことの許可がでた。十日がとても長く感じたけれど、伯爵夫妻が今日戻ってくると長子から聞かされた。
全てこの日のためだと思えば気持ちも晴れるというものだ。
朝日が昇ると同時にベッドから滑り下り、クローゼットへ向かう。
十日間でこの部屋の中を色々と勝手に探らせてもらった。一応、わたしの部屋と言われたから勝手、とは言わないかもしれないけれど、この家が自分のものとは思えないのだから勝手であっているはず。
クローゼットの扉を開け、多くの色とりどりのドレスが並べられる更に奥。
貴族のお嬢様というのは足元まで隠れたドレスを着るものなのかもしれない。だけど、公爵令嬢時代、わたしが着ていた服は膝丈ぐらいの軽装なものだった。
クローゼットの中にも申し訳ない程度に用意されていた。見つけた時、思わずジャンプした時、横っ腹が痛くなってその場で蹲るという失敗をしたわけだけど。
奥のほうから引っ張りだしたワンピースはクリーム色の優しい感じのする服だった。わたしに似合うか不安ではあったけれど、我が儘は言っていられない。
ネグリジェを脱ぎ、ワンピースを着る。
膝上の予定だったけれど着てみればふくらはぎ辺りまで丈がある。サイズが大きいようだけど、これからの生活を考えれば問題ない。大は小を兼ねる、と言うではないか。
さらに隣のクローゼットを開け、靴を取り出す。手前に並べられた物はどれも宝石が散りばめられていたり、柔らかな羽があしらわれていたりと派手でヒールが高い。
けが人がこんなもの履けるか、という突っ込みは横に置いておいて平民用の服があったのだから、それに見あう靴だって用意されているはず。腹ばいになりながらクローゼットに上半身を突っ込む。お腹、というよりも骨が痛むけれど今はそんなこと言っていられない。がさごそとあさり、目当てのものを見つけた。白の柔らかな素材――合皮だろうか――ーでできたぺったんこの靴だ。
引っ張りだして靴を履く。泥棒をしている気分になって些か落ち込んだがいつか返しに来ようと決意する。
次はカバンだ。これはもう目星がついている。斜めがけができる長さの紐がつき、開け閉めの部分は大きめの花があしらわれた桃色のカバンだった。これなら両手が自由だから行動しやすい。
鏡の前に立ち自分の姿を確認する。
顔色はましになっているけれど、頬の部分には大きなガーゼが張られている。殴られた痕があって見るだけで痛々しいので、このままにしておく。放っておけば後一週間もすれば消えてなくなるはず。
そんなことよりも鋏を探す。
髪が長くて邪魔なのだ。
腰まである紫色のストレートの髪は虐待されていたわりに艶やかで美しい。こんな髪形では目立って仕方がない。
とはいえ、十日間の間、探し続けた鋏が今さら見つかるはずもない。
オレンジ色のシュシュを手にとり、一つでくくる。前世のわたしは案外庶民的だったのだろう。自分で簡単に結べた。綺麗、とはお世辞にも言えないけれど、まとまっていれば問題ない。
これでひとまず準備は整った。
目指すは孤児院だ。どこにあるかは知らないけれど人の良さそうな大人を見つけて案内を頼むという、まあ行き当たりばったりな計画だった。
部屋の扉を静かに開ける。わたしは伯爵家に連れて来られて以来、一度も部屋を出ていないのでどこが玄関なのか分からない。とはいえ、窓の外を見ていれば人の出入りする音が左側から聞こえてきたことは覚えている。
音しか頼りがないのは心許ないけれどないよりはマシだ。
階段を目指し、次は壁伝いに左に左にと進んでいく。
時折、メイドさんだろうか。慌ただしく動き回る姿を見かけては隠れ、扉が突然開く時は、蝶番の部分にできる隙間に体をねじ込む。子どもだからできる方法なのかもとか思いながら、扉が締められたら一発で気付かれるという重大なミスを犯していたけど。このときは難なくやり過ごすことができた。本当に良かった。無事なはずの心臓が痛い。
こんなちょっとした冒険を果たし、わたしは屋敷からの脱出を果たしたのだ!
屋敷は街の郊外に建てられているようで、周りにはあまり建物がない。まあ、庭が無駄に広いから隣の屋敷との距離があるだけなのかもしれないけど。
しばらく石畳みの道を歩いて行くと、更に開けた道にぶつかる。さっきまで歩いていた道の三倍はある大きな通りの列に並ぶ建物はどれも高く、さらに目を疑うほどの人と物が溢れていて、わたしは呆然と立ち尽くした。