イルクーツク占領
話が進むに連れてクオリティが低くなって行く・・・時間がかかった割にイルクーツク占領までバッサリとカットしてしまい、申し訳ありません。
開戦から約半年経った皇紀2706年9月初頭、日本軍はイルクーツクへと到達した。日本はここで進撃を停止し、イルクーツクの拠点化を推し進める方針へと転換するのであった。
対してシベリア鉄道の要衝、イルクーツクを奪われるどころかに独断で戦争を開始し、悪戯に戦力を失う原因を作った極東総督アレクセーエフに対して皇帝は怒り狂っていた。
これまで失った戦力は以前には考えられないレベルであったからだ、日本軍を包囲殲滅しようとしても、日本軍は軍が集結する前に快速を生かして後方へと進み、それに慌てた軍を各個撃破するといういわば電撃戦を行うことで反対に自軍の損害が増えていくという悪循環に陥り、キルレシオは目を覆わんばかりとなっていた。
この失われた戦力を補充しようにも、鉄道が爆撃によって破壊されており戦力を移送することが難しくなっており、イルクーツク奪還の動きは緩慢にならざるを得なかった。
そうした中ロマルーシ帝国皇帝アレクサンドル・イワン四世は少しでも良い講和、そして面子を守る為に勝利を得る為、新型のド級戦艦3隻、前ド級戦艦7隻を中心に日本の空母を参考とした飛竜母艦2隻、巡洋艦12隻を中心とした艦隊を派遣し、日本艦隊に損害を与えることで有利な講和を引き出そうと考えたのである。当に日露戦争におけるバルチック艦隊再びと言った感じであった。
この命令を受け、10月15日に第二極東艦隊(以後便宜上バルチック艦隊と呼称)は抜錨。一路、日本を目指しておよそ半年の航海を開始した。
バルチック艦隊出撃の報告を受け、日本海軍も迎撃の為の準備を始めた。空母2隻を中核とする艦隊を南方へと進出させ、敵の進路を特定し次第動くことができるようにさせると同時に、日本海軍第六艦隊を使いインド洋(便宜上呼称)方面に濃密な警戒網を作り上げたのである。
この布陣は嘗て大日本帝国がアメリカ太平洋艦隊を打ち破る為に作り上げた漸減作戦を練り直した作戦であった。
これと平行してイルクーツクの空港の整備が行われた。イルクーツクから首都モスクワまではおよそ
4200キロメートル。この距離ならば十分に爆撃圏に収められる。この空港は日本から飛び立った爆撃機に給油する給油機の拠点とする為の空港である為、実際にここから爆撃機が飛び立つ可能性は低い。
しかしそれでも将来的に大型機が離着陸する為、3000メートル級の滑走路を引いた大型飛行場となっていった。この後、陸軍施設科による突貫工事により、僅か半年程度で最低限の運用能力を持たせる事に成功することとなる。
年が明けて皇紀2707年4月29日、インド洋において索敵を行っていた日本海軍原子力潜水艦、神鯨が嘗ての世界におけるアンダマン諸島付近において大型艦多数を含む艦隊がマラッカ海峡を目指して航行しているのを探知。(余談であるがこの世界のマラッカ海峡はかなり広く、平均幅200キロメートル程度の幅が存在する。)
「敵艦見ゆ、ド級戦艦3、前ド級戦艦7、巡洋艦12、空母2、その他支援艦9。敵は12ノットでマラッカ海峡を目指す。」
「敵艦隊、マラッカ海峡通過後、南シナ海を北上す。」
続々と入る報告、バルチック艦隊は進路を見る限り、南洋諸島を攻撃すると考えられた。
恐らく日本近海での海戦は空軍の支援が充実しているため不利と考え、空軍の傘の無い南シナ海上で戦う為と考えられた。
この時日本海軍は監視していた潜水艦部隊へ攻撃を禁じる内容の命令を行った。これは日本が講和交渉の材料とする為に派手な戦果を欲していた為である。それ故にバルチック艦隊をあえて潜水艦に攻撃させず、艦隊による撃滅を選択したのだ。
また、中途半端に取り逃がした場合の通商破壊を恐れたと言う理由もあった。その為一海域に誘いこみ全力を以て撃滅、後顧の憂いを取り除くという考えである。
かくして決戦の舞台は定まった。南洋諸島に投錨していた第1、5艦隊に出師準備の命令が出され、敵艦隊を魚礁へと変える為に出撃。世界中が注目する中、未曾有の大海戦が始まろとしていた。




