さすらい魔王
かつて、この世界には最果ての魔王と呼ばれる一人の魔王が君臨していた。彼女は残虐残忍を極めていた父親を殺し魔王の座を奪うと、父親が支配していた以上に広い土地を、自らの魔力で創りだした膨大な数の魔族で侵略し、征服した。世界の三割近くが彼女の支配下に置かれた頃、ある王国で一人の勇者が立ち上がり、国王の協力の下魔王討伐隊が結成された。彼らは魔王に支配されていたいくつもの国を巡り、各地を管理していた魔王の配下たちを着々と討伐していった。そして遂に、彼らは魔王城へ辿り着く。既に数えきれない魔族を討ち倒していた彼らは、その勢いに乗って魔王城を制圧し、平和が戻ったかのように見えた。
しかしその僅か一週間後、その魔王城とは別の場所にもう一つの魔王城が現れ、獄炎の魔王と名乗る新たな魔王が誕生していたのである。自身の象徴である炎とは裏腹に冷静な性格だった彼は、王国へ帰る途中の安心しきった魔王討伐隊を襲撃。勇者を殺し、彼はこの世界の新たな支配者として君臨したのである。だが人間にとっての不幸はそれだけではなかった。最果ての魔王が死んだ知らせと、獄炎の魔王の登場に感化された力のある魔族が、次々と魔王を名乗り各地を支配し始めたのだ。遂に世界は五人の魔王に支配されることとなり、人々は最果ての魔王が支配していた頃が良かったとまで思いつつあった。
そして誰もが最後の希望を願った。魔王を討ち滅ぼす、新たな勇者が現れることを。
獄炎の魔王が現れた一ヶ月後。辺境の村を訪れた旅人の女は、ほかの店には目もくれず、一目散に酒屋へと向かった。
「開いてる?」
「開いてても開いてなくても同じようなもんさ」
「そうか、開いてんだね」
店主以外に人の気配がない店内に入り、カウンター席に腰を下ろす。女が注文しようとすると、それより先に店主が口を開いた。
「生憎だけど食いもんなら無いよ。あるのは水か酒か分かんねぇボトルばっかだ」
「食いもんならここにあるよ、調理だけして欲しい。一人前で十分だから、残りの食材は好きにして構わない」
「ほう?」
女は大きな巾着鞄からいくつかの食材を取り出すと、カウンターの並べ始めた。マツガエル、アブラキノコ、カラツラ草、ブタムシ、カミソリコムギ等々――どれも好んで食べられるようなものではなかったが、料理の材料としては申し分ないものだった。
「ぱっと見、四人前……ってところか。本当に好きにして良いのかい」
「ここ最近、まともに調理したものが食べれてなくってね。料理に仕上げてくれるなら安いもんさ」
「そうかい。お客に出す久しぶりの料理だ、腕を振るうよ」
「そりゃありがたい」
店主が食材を持って厨房へ下がる。本来はカウンターで酒を出す店員と厨房で料理を作る料理人が居たと思われる店の作りだったが、今は店主一人しか居ないようだった。
女は料理を待っている間、巾着鞄から地図を取り出してそれを眺めていた。地図にはこれまで辿ってきた道筋であろう赤い線が書かれていて、宿泊地と思われる点が四十程、線の上に印されている。
「はいよ。貰ったカミソリコムギで賄えるだろうから、うちに残ってたパスタでスパゲッティにしてみた」
「おお……これは良い。ペペロンチーノかな? 頂こう」
店主に差し出された皿を受け取り、カウンターに置く。フォークで麺を巻き口に運ぶなり、彼女は満足そうに笑みを浮かべた。
「うん、良い。ああ、この感じ久しぶりだ。他人の作った料理って感じだ。ふふっ」
「そういえばあんた、どこから来たんだ? こんな危ない時に女の一人旅なんて、俺は正気の沙汰じゃねえと思うんだがよ」
「どこから来た、か。まあこの近くではないな。ずっと遠い所さ。それでいて、ここより危険な所だ」
「ここより危険な所? ははっ、どこも同じようなもんだろう。アイツら、新しい魔王が現れてから、人間はどこに行ったって怯えて過ごすしかねぇんだ……」
店主の顔に影が差した。女は気づいていないような素振りで、構わずスパゲッティを口に運び続けた。
すっかり皿が綺麗になるほど料理を平らげると、女はいくらかの硬貨をカウンターに置いて立ち上がろうとした。すると店主は硬貨を取り上げると、押し付けるように女に返した。
「お代はあの食材だけで十分だ。それに、金があったって使い道がねぇ。持ってたって奴らに奪われるのが関の山だ」
「奴ら?」
「ああ、旅のあんたは知らないか。二週間くらい前から、この辺りを根城にしてる魔族の集団さ。奴ら、ここがまだ魔王の管理地じゃ無いのを良いことに毎晩のように好き勝手して、この近辺の村で金巻き上げたり女襲ったり……最初は村の若い男どもが追い払おうとしてたんだが、魔族相手じゃ歯が立たなくてな。何人かうちの村でも死人が出て、今じゃもう抵抗する気力すらねぇ」
「……この店がこんなに寂れてるのも、そういう訳か」
「悪かったな、わざわざ旅の道中で来てくれたのによ。まあ、そういう訳だ。あんたも奴らが来ない内に出て行った方が良い。あんたみたいな若い女はすぐに狙われるぞ。……まあ、ここから出て行った所で安全な場所なんてもう無いのかもしれないけどな」
店主の顔には、嘆きとも諦めとも表し難い表情が浮かんでいた。
女は困ったような顔で頬を人差し指で掻き、溜息を吐いた。そして巾着鞄から黒く濁ったような手の平大の水晶球を取り出すと、それを店主に押し付けた。
「金が駄目でもお代は受け取ってもらわないと気が済まないんでね。取っておきな、悪いようにはならない」
そう言うなり、女は店の外へ出た。店主が水晶球を返そうと彼女を追って外へ出ると、既に女の姿は消えていた。
それから一週間後、彼女は再びこの酒場に訪れた。店主の驚いた様子を無視する様に、三日前と同じ様に食材をカウンターに並べると、有無を言わさず店主に料理を作らせた。
「で、あれからその魔族連中は来たかい?」
パスタを口に運びながら女が問いかけると、店主はまたしても驚いた様子を見せてその質問に答えた。
「それが、来ないんだよ。今までは毎晩、少なくとも二日に一回は必ず来てたんだが、そう、あんたがうちに来たあの日から、一度も奴らはこの村に来てない」
「それは良かった。ふふ、私の力もまだまだ衰えちゃいないようだ。この間私が置いていった水晶球、あれに魔族が寄り付かないような細工をしておいたんだ。効果があったようでなにより」
「あの水晶球に? あんた、一体何者なんだ」
「旅人、強いて言うなら魔法使いかな。珍しくもないさ、少し魔法をかじった人間なら魔除けの魔法くらい誰にでも使える」
「そうなのか? 生憎そういう話には疎いもんでな……しかし助かった、ありがてぇ」
「料理のお代だから、礼を言われる筋合いはないさ。ところで、頼みがあるんだが一つ聞いてくれるかい」
「なんだ? 良いぜ、なんでも言ってくれ。出来ることならなんでもする」
「いや、それほどのことじゃない。一晩泊まらせてほしいんだ、水晶球を使って、下手な魔族が二度と近づかなくなるように最後の仕上げがしたくてね」
「泊まるって、俺の家にか? 良いけどあんた……若い女がそんなこと言うもんじゃねえぞ」
「心配無用。私は今日水晶球を見守ってなければいけないから、一睡もしないつもりさ」
「そういうもんなのか」
店主を納得させた彼女は、こうして今夜、彼の家に泊まることとなった。
店主の家は、酒場の真上にあった。酒場の入り口の脇にある階段を上がるとボロボロの扉があり、中へ入ると扉と同じくところどころ壊れかけた部屋があった。
「着替えたりするならこっちの部屋を使ってくれ。言っておくが風呂はないぞ。入りたかったら宿屋に行きな、地下の浴場を貸してくれる」
「いや、大丈夫。それより水晶球はどこにある? あれが一番大事だ」
「水晶球ならこの部屋だ。寝ないなら、この部屋を使うか?」
「そうさせてもらおう。一晩だけ使わせてもらう」
女はそう言うと、部屋に入ったきり出てこなくなった。店主も、魔族の集団が来なかったことで彼女を信用していたため、邪魔をしてはいけないと思い下手に声はかけなかった。
その夜、日付が変わった頃のことだ。
「……? なんだ、今の音」
物音に気づき、体を起こす店主。ベッドから出た彼は、部屋にこもって儀式か何かをしている女が音を立てたものだと思い、悪いと思いながらもつい部屋の中を覗いた。彼の目に映ったのは、窓際で外を眺める彼女と、足元に散らばる粉々の水晶球だった。そして彼の視線に気づいたのか、突然女はこちらを振り向き、無表情な顔を見せた。
「ひっ」
店主が思わず小さな悲鳴を上げると、女は彼の方へ歩み寄り、扉を開けた。そして昼間と同じの顔に戻り、彼に外出を告げた。
「少し外に出てくる。すぐに戻るから、荷物は置いておいてほしい」
「出てくるって……あ、あの水晶球はどうして」
「ああ、あれか。もう片付けてくれて構わないよ、もう用は無くなった」
女はそれだけ伝えると、扉から外へ出て行った。
店主はなにやら妙な胸騒ぎを覚え、着の身着のまま家を飛び出して彼女を追った。前のように姿が消えているかもしれないと思っていたが、今回は姿を消してはいなかった。但し、姿が見えたのは酒場から遠く離れた村の入口付近だったのだが。
どうにか店主が追いつくと、女は迷惑そうに眉をひそめて彼を見た。
「付いてきたのか。でも帰った方がいい、いや、帰ってくれ」
「でもあんた、あの水晶球を粉々にしただろ。それじゃあまた奴らが来るんじゃないか」
「ああ、来るだろう。来させるんだ、二度と来れなくするためにな」
掴み所のない彼女の返答に、店主は若干不信感を抱いた。そして店主が改めて問いただそうとしたその時だった。
「来たか」
女が呟いた。村の入り口に、頭をすっぽりと袋状の仮面で覆った三メートルはあるであろう巨人や、下半身が虎のようになった獣人、吸血鬼のような風貌の男などが次々と現れ始めたのだ。
「おお? なんだ、今夜は出迎えまで居るぞ。さては俺たちに来てほしかったのか? ハハハハハ!」
リーダー格と思われる獣人の高笑いを聞いたのか、数少ない村の家々から住人たちが顔を覗かせ、怯えた様子で家の中に隠れていった。それを横目で見ると、女は高笑いを続ける獣人の前に一歩出ると、怯む様子もなく口を開いた。
「ああ、来てくれて嬉しいよ。このクズどもが」
「……あぁ?」
一瞬にして獣人の表情が変わった。格下と見下している人間に罵られた怒りが、ありありと顔に浮かんでいた。
「なんだと? もう一回言ってみろ。痛い目に遭いたいみてぇだな……!」
「貴様らはクズだと言ったんだ。一目見て分かった、価値がないって。私は悲しいよ……。魔水晶を使った簡単な誘導に引っかかってしまう頭の悪さも、この私が目の前に立っているというのに、魔力を隠した簡単な変装すら見破れない愚かしさも……」
女はわざとらしく両手で顔を覆うと、泣くふりをするように顔を伏せた。一方、罵倒に罵倒を重ねられた獣人はと言えば、既に怒りに任せて拳を握りしめていた。
「この女……ァ! 死んで後悔しろ!」
獣人の叫びと同時に、彼女と店主を取り囲むように魔族の集団が広がる。それでも女は怖がる様子もなく、むしろ店主の心配をし始めた。
「囲まれたか。だから帰れと言ったのに……」
「な、なんで挑発するんだ……! なんてことをしてくれるんだあんたは! なんなんだよ一体……」
理解の出来ない彼女の行動と今自分が置かれた状況への恐怖から、店主はパニックになりかけていた。だが女は自分にすがりつくような彼を乱暴に突き放し、周囲を取り囲んでいる魔族たちを意にも介さずただリーダー格の獣人を見据えて悠然と佇んでいる。その姿は、まるで今から魔族に嬲り殺されるとは到底思えぬ姿だった。
「殺すなよ……連れ帰って生き地獄を味わわせてから殺してやる! ……やれッ!」
獣人の指示で、一斉に周囲の魔族たちが彼女めがけて歩み寄ってきた。自分の死を覚悟し、目を塞いでうずくまる店主。しかしその次の瞬間、彼は自分の体に振りかかった生あたたかい液体の感触で目を開けた。そしてそこで、女の信じられない姿を見た。
「なっ、なんだと……? そんな、お前、いや……あんた、死んだはずじゃあ……!」
「誰が言い出したんだか、私が死んだなんて。この最果ての魔王が、勇者風情に負けたなどと本気で思われているとはね」
店主を庇うように「翼」を広げ、こめかみから「角」を生やした女の姿は、一ヶ月前に勇者に討たれたはずの最果ての魔王そのものだった。
獣人は目の前の光景を信じられずに居た。自分の対峙している相手は、死んだと信じ込んでいたかつての魔王。加えて、彼女の力を証明するように血の海に変貌した足元と、そこに横たわる自分の仲間。さっきまでの怒りは既に焦りに変わっていた。
「この一週間、私はこの周辺の全ての村に、私の魔力をたっぷり注ぎ込んだ魔水晶を置いていった。下級の魔族は自分より巨大な魔力を感じ取ると、無意識に遠ざかるように本能に刻まれている。私の予想が正しければ、貴様らは先週から村を襲っていないだろう?」
「っ……!」
「そして数時間前、私がこの村の魔水晶を砕いてこの村に貴様らを誘導した。まんまとかかってくれて嬉しいよ、こんな罠にかかるような馬鹿だったのは悲しいことだが」
「お、俺たちを……俺をどうするつもりだ……っ!」
「私の変装を見破れるなら見逃してやろうとも思ったけど、魔力を隠しただけで人間と信じ込んだその浅はかさにがっかりしたよ。今ここで始末する」
最果ての魔王がそう言い切ると同時に、いつの間にか彼女が手に持っていた分厚い本が赤黒い光を放ち始めた。
「フォベヤ・ジュガエ・ジュガジュガエ。せめて最期は一思いに送ってやる」
獣人が悲鳴を上げる暇もなく、彼の足元から天に向けて昇っていく黒い雷が彼の体を貫き、一瞬にして炭に変えた。
状況を理解できず腰を抜かしていた店主は、ただ自分の傍らの魔王を見上げることしか出来なかった。魔王は本をどこかへワープさせると、旅人の姿に戻り店主に手を差し伸べた。
「帰れと言った意味が分かっただろう?」
「あんた、本当にあの魔王なのか……」
「ああ。言っておくが今まで嘘は吐いていないぞ。私が今旅人なのは本当だし、魔法使いというのも嘘じゃない」
「なんで……なんで魔王が魔族を殺して人間を助けるんだ?」
「話せば長くなる。だからあえて話さない。少なくとも、今も昔も私は善良な人間を無意味に虐げることはしていない、とだけ言っておこうか」
魔王は腰を抜かしたままの店主を無理矢理立たせると、一瞬で手荷物の巾着鞄を持って帰ってきた。それは、まだ理解が追いついていない店主にとって、彼女が人間ではないことを証明する最後の一押しになった。
「じゃあ、私はそろそろ行くとしよう。世話になった、また気が向いたらスパゲッティでも食べに来よう」
そう言うと、彼女は足元の血だまりを気にする様子もなく村を出て行った。
この日以降、この村を魔族が襲うことはなかったという。
勇者が最果ての魔王の城を訪れた時、最果ての魔王は城に居なかった。
彼女はいくつもの国と地域を支配する傍ら、人間の姿に化けて支配下の国の城下町へ買い物に出掛けることを趣味としていたのである。それは、魔族の頂点というある種の退屈を背負った彼女にとって、唯一の娯楽とも言えた。その日も、彼女はいつものように城下町へ出かけた。そして城に帰ってきた時には既に、そこに城と呼べる代物は残っていなかった。城の残骸と、それに埋もれた自分の下僕たちを見て、彼女は激怒した。そして必ず卑劣な勇者に復讐を遂げると誓ったのだが、彼女が手を下す前に勇者は獄炎の魔王に殺されてしまった。
復讐の相手を失った最果ての魔王は、考えあぐねた末に、この世界で自分を差し置いて魔王を名乗る輩を皆殺しにして、再び自分が魔王として君臨することでその怒りを晴らそうという結論に至ったのである。
しかし彼女はまだ知らない。そう遠くない未来で、自分が魔王としてではなく、この世界を非道な魔王の手から救った勇者として人々に崇められるということを。