part 1
第一章
一
とある大学の寮、一〇一号室で僕、守原光は生活している。けたたましく鳴り響く目覚まし時計を乱暴に止め、眠い瞼をこすって体を起こす。
午前六時半。寮生である僕には早すぎる起床だが、すぐにベッドから脱出し、ベランダの方へ足を向ける。一月ということもあってスライド式のドアを開けると、寒風が容赦なく吹きすさぶ。
「……起きなきゃ」
私立清臨大学。地方都市に存在する私立大学で、最寄り駅を降りてバスに乗り換えて十五分ほどで到着する。常勝学園という母体から派生されてでき上がったそれは、学部が七学部とその中で十三学科に分かれている。「人間力」「応用力」「統合力」を鍛え、社会に貢献できる人間に育てることスローガンとしていて、学習内容もそれに見合ったものを提供している。
大学周辺は田んぼや、畑なんかもいくつか見受けられるほど田舎だったりする。駅近郊は商店街や、飲食店が立ち並んでいるのだが、駅から離れて行けば行くほど緑が増えて行き、新旧が混ざり合った町が広がっている。
「もう一月だもんな」
部屋に戻りたい感情を押し殺し、ベランダに置いてあるプランターに目を向ける。見てみると焦げ茶色の土以外に小さな緑色が増えていた。
「おお、芽が出てきた!」
ベランダで一人テンションが上がる中、濃い緑色で象に模したじょうろを使って、水やりを始める。
「早くおっきくなって、パパを喜ばせてくれ」
娘を可愛がる父親のような台詞の後、隣の部屋のベランダから隣人が顔を出した。タンクトップにパンツ一丁、髪は寝ぐせであちこちはねていて、口には歯ブラシを突っ込んだままいう、だらしなさ満載の恰好で出てきたのは、一〇二号室の住人、美濃貴久だ。
「相変わらず朝早いな、貴久。それとその恰好、どうにかならないのか? 見てるだけで寒いんだけど」
「俺は野球部だったから起床時間が早いの。寒さに関しては眠気覚ましも入ってるから。それより部活に入ってないのに水やりだけのために早起きする方がどうかと思うぞ。それとお前以外には誰にも見られてないから心配ない」
彼は野球部のエースで生粋の強打者。高校では甲子園にも出場した経験があり、大学でも四番を任されるほどの強者だ。野球の成績だけでなく、勉学の方もなかなかのもので、学内の順位でいえば同学年二百人中、常に十本の指に入っている。それでいてイケメンで、まさに非の打ちどころがないといったエリートだ。
「これが僕の今のところの生きがいなんだ。お前の野球と一緒だよ」
「分からないな。植物育てたことはあるけど、俺すぐに枯らすから」
「毎日水をやらないからだ。お前は練習終わった後も家で筋トレしてんだろ。あれと同じ」
「いや、水は毎日してたけど」
「それだけじゃダメだ。たまには水をしないでやるんだ。寒い日は特に。気温が低い時に水なんかやったら、中から腐っちゃうからな」
「へえ、ただすればいいって訳じゃないか。深いな」
隣同志ということもあってか、仲は良い方だと思っている。お互いの部屋に行くのはもちろんのこと、同じ部活に所属しているわけでもないのに、外へ遊びに行く際はほとんど同行している。僕にとって数少ない友人だ。
「貴久、一カ月後に試合控えてんだろ? 僕とのんきに駄弁ってて良いわけ?」
「お前こそ何言ってる。大学三年の一月にのんきに部活なんてやってられるか。先週からようやく就活生だぞ」
友人の言葉に驚いたが、その態度は彼の気に召さなかったようだ。
「でも野球部って、三回生は三月まで部活しないといけないんじゃなかったっけ?」
「そんなルール生真面目に守る奴がいたら就活諦めてるか、なんにも考えてない馬鹿のどっちかだよ」
極端だとは思ったけど、前者はなんとなく分かる気がした。一二月から就活は初めていたが、五時間以上も様々な会社の説明を長時間立って受けるのは正直つらかったし、あれを一年間すると思うと憂鬱になる。
「しんどいけど、やらなきゃしょうがないから」
「とはいえ、そう簡単に割り切れるもんでもないだろ。俺も合同企業説明会に行ったけど、あれは地獄だった」
当然のことだが、就活をするのは僕らだけじゃない。全国から集まった何万もの大学生たちが自分の進路のために必死な訳で。
「ただでさえ立ち続けで腰が痛くなるっていうのに、あの人数から出る熱気はきついわ。スーツなんて着てらんねぇって」
「多いからあの熱気なんだよ。真冬だっていうのに汗出るくらいだしね」
「ほんと、さっさと終わらせたいな、就活なんて」
「早く決めたって、自分に合ってなきゃ意味ないぞ。よく考えないと」
「はいはい、分かってますよ」
「はいは一回でよろしい」
他愛無い会話を続けていたら、部屋のインターフォンが鳴り、同時に貴久の方では彼がポケットに入れていた携帯のバイブレーションが作動する。
「お互いに朝っぱらから忙しいな」
「貴久は何となく分かるけど、僕のはなんだろ?」
「分かるって、何が?」
「彼女だろ」
「さあて、どうだろうな」
メール確認をする貴久は、内容を読み進めるうちに顔が蒼白になっていく。それに気付いたので彼に尋ねる。
「どうした?」
「……就職部から。今から面接のデモするのに、何で来ないんだってメールが来た」
「え、予約してたのか?」
「……してたみたいだ。忘れてた」
一瞬の停止から、貴久は叫びながら部屋に戻って行った。僕もそんな彼に何も告げることなく、小さな声で「頑張ってこい」と慰めに近い激励を送った。
僕はというと部屋に戻り、インターフォンを鳴らしている人物の対応に向かう。出入り口のノブに手をかけ開けると、ドア前に立っていたのはポニーテールで髪を縛った黒髪の女子だった。どこか活発さが感じられる少女は控えめに言っても綺麗な女性の部類に入る。ベージュのダッフルコートを身に纏い、黒のジーパンを着ていて、両手には小物と長手の財布しか入らなそうな茶色の小さな鞄を持っている。
朝に美人が迎えに来てくれるなど、どこの世界でも嬉しいと思っておかしくないシュチュエーションだが僕の態度は今の冬の気温くらい冷めていた。
「なんだ、夕美か」
「なんだ、とはご挨拶ね。せっかく可愛い幼馴染が起こしに来てあげたのに」
「僕はいつも勝手に目が覚めるから必要ないよ。それに起こしてやるんだったら、隣にいる彼氏を起こしてやれ」
「貴久、いつも朝練してたから私より起きるのが早いって、あんたの方が知ってるでしょ」
悔しそうに言うのは、笹高夕美。彼女は僕の幼馴染で小学生よりも前からの付き合いだ。彼女は自身が所属している陸上部でエースを務めている。短距離でかなりいい成績を残していて、去年は地区大会準優勝を勝ち取っている。陸上部で激しい運動をしているだけあって、無駄のない良いスタイルを持ち、性格は多少きついところがあるが、女子らしい可愛らしさもしっかりあって、そんなギャップに釘付けにほとんどの異性が釘付けなっているそうだ。
そんな彼女は現在、貴久の彼女となっている。ただ双方ともに美男美女だけあって、付き合っているのにも拘らず、貴久にも夕美にも告白してくる男女は後を絶たない。
「だからって、僕にしなくてもいいだろ? お前には良い彼氏がいるんだから、そっちの面倒をしてやるべきだ」
「まあ、そうだけど」
歯切れ悪く言葉を詰まらせる夕美に、意地悪っぽく言葉を投げかける。
「それとも、単に僕に会いに来たとか?」
その言葉に夕美は見て分かるほど身じろいだ。
「そ、そんなわけ!」
「ありがたいなぁ。幼馴染の夕美に朝起こされるなんて」
「聞けって人の話!」
さすがに言い過ぎたと思って夕美は慌てて口を両手で塞ぐが、しっかり聞こえていたみたいで、口元にあった右手は拳を作って振り下げる寸前まできていた。
「そんなに本気にすんなって。それに、夕美も陸上部の朝練で朝早いだろ? 僕のことなんか気にせずに早く行けよ」
至極まっとうなことを告げると、彼女はどこか腑に落ちない顔をする。
「僕のことなんか、ね。またそんな風に言って他人のことばっかり。そんなだから、いつもあんたは取り逃がすのよ」
「なんだよ急に。それに何を取り逃すって?」
「別に。それと私もしっかり就活してんだからね。朝練しかしてないみたいに言うな」
「実際行ってんだから良いじゃん」
「今日は違うって言ってるでしょ」
「僕を起こしにか?」
「貴久のついでに、ね」
夕美は今日も朝からいつも通りだった。何かと僕に絡んでくるところは貴久と付き合ってからも変わらない。
「とにかく、自分以外の他人に気を使いすぎだって言ってんの。あんたもそろそろ他人よりも自分のことに人生使いなさいよ」
「何言ってるのかさっぱりだけど、言われずともそうするよ」
「ホントかしら?」
訝る夕美の目はしっかりと僕の目をとらえ、蛇に睨まれた蛙のようになってしまった。そんな硬直状態が続く中、隣の部屋から騒々しい音がした。
「ほら、今から遅刻寸前の野球部エース様が来るから、そいつの出迎えでもしろ。また学校でな」
「え、貴久、まだいるの?」
「ああ、それに今日面接のデモンストレーションらしいから、ついてやった方が良いと思うぞ」
「面接の?」
「就職部と約束してたんだって。でもすっかり忘れて今慌ててる」
「え、それ不味くない?」
「だからついてやれって言ってんだよ。僕はまだご飯食べてないから、じゃ」
夕美の応対を待たず、ドアを閉めた。それと同時に隣の部屋のドアが開く音がして、二人分の足音はその場から消えていった。どうやら行ったようだ。
「さて、朝ごはんの準備でもしますか」
僕はトースターにパンをセットして、瞬間湯沸かし機に水を注いだ。
二
朝の登校風景は寮生にとってすれば無縁と言っても過言じゃない。なにせ学校の敷地内に居を構えてるんだから、交通費がないのは当然のこと、そもそも登校という言葉も使い方としてはおかしいのかもしれない。歩いて一分で教室に着くのだから、散歩と同じ運動量で大学に行けることと、どれだけ寝ても余裕をもって授業に出られる。ここは寮に入って良かったと思える。
一時限目は九時二〇分からで、僕の一限目は卒業論文の資料集めのためにあてがわれている。卒論の資料はそのほとんどが図書室から集められるから急ぐことはない。でも何もしなければそのまま自堕落に時間を過ごしそうだったので、僕は気になっていた推理小説の新刊を探してそれを読み耽っている状態だ。
「何してんの?」
話しかけてきたのは夕美だった。辺りを見ると近くに貴久はいないようだ。
「見て分からないか」
「そういう返しは好きじゃない」
むすっとした顔をのぞかせる夕美は、僕との会話を長引かせようと「何見てるの?」とか「面白いの?」とか訊いて読書の邪魔をしてくる。
「あまり話しかけないでくれ。この時間だけは誰にも邪魔されたくない」
そんな拒絶もなんのその。夕美はお構いなしに喰いついてくる。
「貴久、面接の練習会に間に合ったよ。遅刻そのものは就職部の人に怒られてたけど、面接自体はかなり良い線行ってるって」
僕のセリフを無視して続けた夕美の言葉には、読書を中断するほど納得しえないワードが混じっていた。
「就職活動も練習した面接と自作の自己PR通りにすれば、内定はすぐにもらえるだろうって」
「本当か! どうすれば就職部からそんな声がかけられるんだよ! 僕なんか叱咤しかされないぞ」
「光。ここがどこか忘れた訳じゃないでしょ」
持っていた本を床に落としてしまうほど声を荒らげた。しかしその後は見なくても分かる周りの殺気に深く頭を下げる。
「あいつ、ほんとにすごいな」
「まあ、貴久はのらりくらりでやっていける奴だから。あんたみたいに神経質じゃないし」
実を言うと、僕も貴久と同じような形式で面接の練習を受けている。
しかし当日、緊張と不安その二つが綯交ぜになった状態で臨んだ僕は練習だというのになかなか次の言葉が出ず、昨日行われた練習会は散々な結果に終わった。しかも就職部の人たちにいろいろ言われて精神面では立ち直れるか怪しいレベルまで叩かれている。
だというのに自分が必死になって受けた面接を、隣人であり友人でもあるイケメンは遅刻しておきながら良い評価をもらっていると聞けば、言いたいことの一つや二つあっても良いだろう。
「どうせ僕はビビりの根暗ですよ」
情けない言い分を並べながら、落とした本を拾い上げ本を読み直す。
「ほら、またそうやって自分の世界に逃げる。そのままじゃいつまで経ってもそのままの根暗君よ」
時たま夕美は僕の苦しんでいる姿を楽しんでいたり、叱ったりするのだが今日はそのどちらの表情もしてみせた。何が楽しくてそんなことしているのか皆目見当もつかないけど。
「あんたはもっと自分のために生きてみれば良いのよ。何も考えずただ自分の欲望のままに。そうすれば少しは自分のしたい事も見えてくるし、そのためにしなきゃならないことも分かってくるはず」
「就職部の人が言いそうだな、その台詞」
「あまりにあんたが情けなくて可哀想でどうしようもないから、幼馴染として助言してあげてるだけよ。そんなに大層なことでもないでしょ?」
「傷口に塩をなすりつけて思いっきり打撃加えながら助言するって器用だな」
さも知った風な口を利くのも、夕美が僕の幼馴染だから。こういう時の知り合いって自分以上に自分を知った気でいるから性質が悪い。
「自分のためにうんぬんはなんとなく分かったよ。多分今の僕には決定的のそこが欠けているんだと思うし」
ただ、僕の弱点を知っているのは確かに隣にいる彼女だけなのかもしれない。
「まだ決めてないの? なりたいもの」
「まあね」
将来の夢。中学や高校の時は笑って話し合えたその言葉も、大学四回生となった今は苦笑いにすらなりえない現実の問題として立ちはだかっている。今の状況は先の見えない闇の中を当てもなく歩かされているようなもの。やりたい何かが分かれば、その先に進める気がするんだけど、そう簡単にはいかない。なりたいものが決まったと思えば、自分の理想と違う結末を迎え、結局自分がしたかったことを見失って墜落する。
「できることなら」
「現実逃避すんな」
「まだ何も言ってないだろ」
「どうせ、小学生くらいからやり直したいとか言い出すんでしょ? 最近なんか口癖にまでなってるから分かるわよ」
夕美の軽いチョップが僕の頭頂部に当たる。こんな夢も希望もない僕に何があるのか。最近はそんなことばかり考えている。
「あんたにはあんたにしかできないことがあるはず。それをさっさと見つけなさい」
「そんな特別性はないよ、僕には」
変な期待はしない。僕には大きな力はない。そこだけは正しく理解できる。その中で自分にできることなんて限られすぎて、何もないんじゃないかと思ってしまう。
「もしあったとしても、今の僕にはそれを生かしきることもできない」
本を閉じ、僕は座っていた椅子から立ち上がる。別の本を探すために。
「あ」
「どうしたの?」と言う夕美の声に反応できなかった。そうなってしまうほど、僕の視界に入った人物が圧倒的な存在感を放っていたからだ。
「なるほど、早川さんか」
呆れ声を混じらせて答えた夕美に僕は頷きだけで返す。
早川奈月。僕と同じ三回生にして学内で知らない者がいないくらい有名人。端正な顔立ち、日本人離れした抜群のボディスタイル。さらに文武両道と天が二物も三物も与えたような絶世の美女。そんな彼女の人気は学内だけに留まらず、外側にも影響力を与えている。理由は野外活動の多い部活に入っているから。しかも大学同士だけでなく、社会で働く大人の目にも止まるほどだ。
「お、早川じゃん。こんな場所で会えるなんて今日はやっぱり幸先がいいな」
「いつからいたんだ、貴久」
夕美の隣にさも最初からいたと思わせるほど、貴久の突然の介入は自然だった。最初は驚かされたこともあったが、今は平然と対処できるほどになっている。
「早川奈月。こんな辺鄙な大学じゃなくて、もっと輝ける場所があるっていうのに。もったいないなぁ。な、光は早川とは会話したことあるのか?」
「僕の質問は無視か。……数回だよ」
「もったいない。こんな機会そう巡って来ないんだから、チャンスはしっかり握っとかないと」
「そのチャンスとやらのせいで、他の男子から敵意の目で見られるのは御免だ」
早川の人気は絶大で男子が話しかけに行くだけで、彼女の信者が鋭い眼光で睨んでくる。
「そんな目、気にしなきゃ良いのに」
「お前、自分がどれだけ恵まれた存在か理解した方が良いぞ」
「どういうこと?」
かっこいい男と綺麗な女が仲良く会話してたら、庶民としては邪魔しちゃいけないという感情が働く。それと同じく自分とは釣り合わないと思わされる。それは早川を崇拝している連中も例外ではない。現に貴久は一度だって早川との会話中に睨まれたことはないらしい。
「お前はイケメンの部類に入るってこと」
「正面きって友人に言われると照るな」
「そんなことが平気で言えるのがイケメンだって言ってんだ」
自他ともに認められた者はそれだけの力がある者。そういう人物に憧れを抱くのは庶民の常なんだろう。そういう意味でも僕は根っからの庶民だと言える。
「まあ、俺にはすでに可愛い彼女がいる訳だが、それでも顔見知りぐらいにはなりたいと思ってるんだぜ。綺麗な人と会話する機会があれば是非とも」
「貴久、突然だけどあとでカフェテリアまでつきあってね」
可愛さいっぱいの笑顔を彼氏に向けた夕美だが、その笑みが偽りだということは一瞬で理解した。
「え、いや、俺これから授業」
「貴久、一限は何もないって前に言ってたでしょ。だからつ・き・あっ・て。てか付き合え」
夕美はかなりご立腹だった。目の前で別の女性に目移りしているのだからそりゃ怒って当然だけど。
「じゃあ、私たちは先に行くけど、光はどうする?」
「僕は残るよ。卒論用の資料探しもしたいし」
そ、と簡素に答えて夕美は去っていった。彼氏の首根っこを掴んだまま。とりあえず失言した友人に憐みを込めて手だけ振っておいた。
「チャンスは逃すな、か」
貴久に言われた言葉を繰り返す。
「そのチャンスが、今僕の目の前にあるって言ったら、どう思うんだろ」
溜め息と共に吐き出した言葉は小声だったこともあって、誰にも聞かれることなく宙に消えて行った。
三
図書館での読書を終え、余った時間で卒論を少しでも進めておこうと、手には卒論に必要な資料を持って自分のゼミ室に足を運ぶ。僕は大学で外国語学部に属しており、英語を専攻している。その外国語学部の教授が占有している七号館は大学の敷地でいうとちょうど真ん中に位置しており、階は七階まである。ゼミ室があるのは三階の左から二番目。ドアの前まで近づくと、張り紙があることに気付く。そこには『御用のある方は中でお待ち下さい』と書かれている。
「不用心だなぁ」
教授の管理不足をたしなめつつ、ドアを開けて入室する。入って目に入るのは部屋の至る所に配置された本棚だ。棚には隙間なく本が並べられており、専門書はもちろんのこと海外で有名なドラマや映画の原作本、日本と海外に関する歴史書など、数え切れないほどの蔵書が僕を迎えてくれる。その奥の机に置かれているパソコンや資料の山は教授の私物であり、教授専用の空間だ。その空間にはゼミ生であっても入ってほしくないんだとかで、しきりを立てるほど教授は自分のスペースを大事にしている。
その手前の生徒や来賓用のスペースに置かれている長机に、所狭しと並べられているのは僕以外のセミ生の私物だった。
「何?」
つっけんどんな物言いに対して「何も」と答える。僕も使うその机のスペースを我が物顔で使われてはこちらとしても文句の一つでも言いたくなるところだが、そんな意見はこの女子には届かない。
「順調そうだね、早川」
「呼び捨てにしないで。私、あなたと名前を呼び合うほど仲良くなった覚えはないんだけど」
つっけんどんな態度を取ったのは、先ほど図書館にいた早川奈月だった。
「こうやって会うのは、一一月の顔合わせ以来だな」
「私、興味のないことはすぐ忘れるから」
「学部が違うから珍しいなって教授も言ってただろ?」
「さっき私が言ったこと、もう忘れたのかしら?」
大学一綺麗な、と言っても過言でない美人、早川奈月は僕と同じゼミに所属している。しかしさっき言った通り、もともと僕たちは別の学部にいた。僕が文学部で早川が外国語学部。本来なら会うこともなかった二人なのだが、僕ら二人は卒論で調べる対象が全く一緒だった。原則として、卒論は調べる対象を他人と被らせてはいけないのだが、学部が違っていたので、お互いがどんな内容で論文を書くかなんて知りもしなかった。その内容を知っているのは同じゼミの人間かゼミの教授くらいだ。そこで同じ内容を卒業論文にするなら、二人一緒にしてみてはどうだろう、という話が双方の教授で話し合いになり、結果として卒論を書くときだけは僕が彼女の学部に行くことになった。
ただ、そこで仲良く作業に入れたかというと、まったくそんなことはなくて。
「そういうこと言われる人間の気持ちになってほしいんだけど」
「あなたを気遣う理由がないから」
「随分上からだな」
「少なくともあなたより上」
ちなみに全く同じ内容の卒論を書く訳にはいかないので、僕は別の角度から調べようとしている。寸分違わず一緒だと卒論提出の際にやり直しを要求されかねないし、最初の段階で早川の方から「別のもので卒論書いて」と言われてしまっている。それではここに来る意味もなくなりそうなんだが。
「確かに、お嬢様は僕より上の立場でいらっしゃる」
「何その言い方。喧嘩売ってるの?」
「口調がお嬢様な感じだったからそれに倣っただけ。それに僕より上ならどっちにしてもお嬢様じゃない?」
「言い訳までして私を怒らせて楽しい?」
「これはすみません」
心のこもっていない返事は、相手にも伝わるものらしく、早川の機嫌は悪くなっていく一方だった。だが僕と早川の接点は卒論だけ。だから僕も無関心でいられる。友だちなら傷付くんだろうけど、この美人とこんな形で会うのはここだけだと思ってるし、向こうも僕のことなど眼中にない。この口論もいつも行われることだが、決まって早川の方から興味を失いすぐに終わってしまう。
「ほんと、つまんない人」
つまんない。そう言われても仕方ない。自分でもそう思ってるんだから。
「最近はその言葉も自分にしっくりきてるって思い始めてるよ」
「あなたの感想は良い。興味もないし」
大学の華とも評される早川だが、裏の彼女を知っている分、僕は彼女が素晴らしい女性だとは思えない。最初に会った時から僕のことを目の敵にしている節があって、毎回口論を繰り返してさようなら。どこかで彼女を傷付けたのかと結構悩んだのだが、本当に心当たりがなかった。
「前にも言ったけど、僕何か君にした? したなら謝るけど」
「自覚していないのに謝るって、馬鹿みたいだと思わない?」
「馬鹿でも何でも分からないんだから仕方ないだろ。そこまで君に嫌われるようなことした?」
「そうね。しいて言うなら同じ卒論を書くことになったことかしら」
僕と早川を繋げた卒論の内容。それはある一人の日本人俳優だった。
彼は二〇世紀初頭に颯爽とハリウッド映画界に登場し、瞬く間にアメリカで人気を博し、最終的には世界にその名を轟かせた唯一無二の日本人である。晩年にはアカデミー助演男優賞にノミネートされ、再び脚光を浴びたという、日本だけでなく世界を代表する映画俳優だった。
彼を知ったのは大学の講義中。当時(今もそうだが)日本人がハリウッド映画界で高い評価を得るのはとても困難で、そのほとんどがなんの名も売れず、墜落して行くのだそうだ。しかし、彼は高いカリスマ性と演技力で栄光の階段を上って行った。ハリウッドでは彼の名を知らない者はいないほどに。
だが、今の日本人はこれだけ名のあった彼を知る者はほとんどいない。
確かに映画をあまりに見ない人間には縁遠い人かもしれないが、イベントとかで生誕何十周年という企画があれば、すぐに出てきそうな人物なのに、表紙に飾っている本人の顔にまったく見覚えはない。それどころかアカデミー助演男優賞にノミネートされているのに、日本では紙媒体にもされていないことが多い。事実僕も彼の文献を探すのにかなり苦労させられている。
そんな彼に僕は興味を持った。栄華を極めた人間が何故母国で忘れ去られてしまったのか。
「君と合わせようと思った訳じゃないって何度も言ってるだろ」
「どうだか」
「とにかく。卒論に関して君にとやかく言われる筋合いはないよ。ついでに言えば君の邪魔もするつもりないから、今まで通り好きにしてくれれば良い」
「いちいち癇に障る言い方ね。その言い方止めてほしいんだけど!」
本音を告げた僕に、早川は立ち上がって怒りの感情をぶつける。
「質問に答えただけで、君の癇に障るようなことはしていない」
「そこが腹立たしいって言ってるのよ。澄まし顔で黙っていれば見逃してもらえると思ったら大間違い!」
いつのもこととはいえ、言われる側のいらいらも募る。こっちは体力の精神力も使うから願い下げなのだが。
「じゃあ、君には何か高尚な理由があるのか? 僕は前に言ったけど、早川からは何も聞いていない」
「当たり前よ。私が調べるのは」
そこで彼女は言葉を止めた。
「……良いでしょ、別に。あなたに関係ない」
座っていた椅子に座り直し、早川は資料に目線を送り直す。
僕もそこまで訊きたい話題でもなかったので、資料を机の上に置き、使われていない共有パソコンを立ち上げワードを開く。
「僕のこと嫌いなら無視すれば良いじゃないか。それもしたくないなら、僕は二度とここには来ない」
「それはありがたいわ。もうあなたの辛気臭い顔を見なくて済むもの」
「僕も、君の理不尽な怒りを買うこともないし」
「あなたねっ!」
そこへ別の人間がゼミ室に入って来た。
「おいおい、また喧嘩か二人とも」
僕らの仲裁を試みたのはこのゼミの教授、鵜杉京平その人だった。年齢は三十代前半で、アメリカ文化を専攻している。
「二人しかいないゼミなのに、仲悪いなんて冗談にもほどがあるぞ」
「事実なんだから仕方ないんじゃないんですか? 相手には私と仲良くしようとする気が見えませんし」
買いたくもない喧嘩を押し売りしに来ているのは完全に早川なのだが、今の状況を的確に、そして諦めているところをみると関係を修復する気などさらさらないのだろう。これでは消去法で僕の責任にされかねないが、そんなことさえ今の僕にはどうでも良かった。
「守原。お前の方から優しくしてくれって言ったよな」
「善処しますとも言いましたよね?」
僕は善処した。ただ向こうがこっちの善意を敵意で返してるってだけで。
「善処の結果がこれじゃあな」
僕と早川を見合う鵜杉教授。言い訳に聞こえたのかもしれない。というか言い訳にもなってない。僕らの関係を見た人間が果たしてどうやったら仲が良いなんて幻想を見ることができるだろうか。
「私、やっぱり図書館で調べてきます」
早川は広げていた資料を全部まとめて手提げ鞄にしまい、身支度をする。
「ここにいると雰囲気を悪くなりますし」
「おい、早川」
「言っておきますけど、私は彼の言い分に腹を立てているだけで私自身彼に何かした訳じゃありませんので」
聞き捨てならない捨て台詞を残して早川はゼミ室を後にした。残ったのは僕と教授だけ。
「守原。話があるんだが」
「いつものことになりますが?」
「いつもので良いよ」
常連の喫茶店でしか聞かなそうな返しが返って来たところで、僕は教授が来るまでのことを包み隠さず報告するのであった。
四
午前中の講義が終わり今は昼休み。各々が昼食を取っている最中、僕は一人学部等のオープンテラスで弁当を食べていた。ついでに言えば自家製だ。
「あちゃあ、マジで一人か」
近づいてきたのは貴久だった。こいつにも仲良く昼食を取る友だちはいるはずなのに、たまに僕のもとにやって来る。
「何だよ貴久。今日は別の友だちと食べるんじゃなかったのか?」
「ここ最近、またお前が一人で食べてるって聞いたから、今日ももしかしてと思って来てみたんだよ」
「誰に訊いた、って聞かなくても分かった」
「そ、俺の彼女」
夕美の気遣いは今に始まったわけじゃない。おそらく最近僕が一人でご飯を食べている光景を何度も目にしているのだろう。さすがは幼馴染といったところだ。初めはその辺のおせっかいを毛嫌いしていたが、今はもう慣れた。
「にしても光。お前大学生最後の年だっていうのにホント友だちいないよな」
「良いんだよ別に。それに一人もいないわけじゃないし」
さしたる問題なんてない。ようは僕が友だち作りに何の労力もかけなかったってだけの話だから。その結果が今の状況を作った。容認しているし、今さら改善して一から作ろうとも思わない。
「言われる友人の立場としてはありがたいが、俺とだって夕美と恋人になってなきゃ知らなかったわけだろ?」
「夕美と付き合ってなかったら、僕とお前は一生知らない者同士だったよ」
「良かったわぁ。こんな面白い奴と仲良くなれなかったら人生損するところだったわぁ」
「それ、褒めんてんの?」
「想像にお任せ」
笑って答える貴久だが、実際彼が何故僕に近づくのか分からなかった。良い機会だったので僕は話を振ってみる。
「貴久、なんで僕なんかと一緒にいるんだ?」
「自分のことをなんかって。これは重症だな。良い医者を紹介しようか?」
真面目に答えろ、と尋ねると「言わなかったっけ?」と聞き返された。
「知らないよ。聞いたことないし」
「そうだな、それに答えるのは一朝一夕じゃ無理だな」
「貴久は感覚でいろいろやっちゃうから、その時もそうだったのかと思ったけど」
「感覚うんぬんってやつは少し引っかかるんだが」
コンビニおにぎりをほおばりながら、貴久は告げる。
「俺だって友だち作りは結構慎重にするぜ。そんな簡単にほいほいできるもんでもないし。例えば、誰とでも友だちになれる奴っているじゃん。初対面でもすぐに打ち解けるって感じの。でもさ、人間の腹の底なんて分かんないもんだ。俺が知ってるだけで、つるんでるだけって奴も結構いるし。でも相手の方は本気で親友だって言う。そういうの聞くとちょっと可哀想に見えるんだよ」
端的に貴久が言いたいのは、自分には友だちがいると思い込んでいるだけで、その実、友人と呼べる存在なんて初めからいなかったという悪夢。誰も今いる友人が嘘をついてその場にいるとは思いたくない。自分と友人に繋がる何かを信じながら生きているんだから。
だが、それが偽物だとしたら。
「言葉ではどうとでも言えるってことか?」
「そ。光はそんな頭の中お花畑みたいな奴ではないと思うけど、気をつけろよ」
「そこまで楽観的じゃないから」
高望みはしない。それは友だち作りに関しても同じだ。自分の歩幅について来てくれない人間に、わざわざ同じ歩調に自分から合わせるような手間はとりたくない。そのせいで離れて行くのなら結構だ。
「光の場合は自分の空気に合わない人間は自分から切って行きそうだけどな。だから最低限の人間ともコミュニケーションできないだろ?」
貴久の指摘に僕はぐうの音も出なかった。
「とにかくだ。友だちの数なんて少数で良いじゃんってこと。何人いたって本音が伝えられない関係なんて意味ないぜ」
隣で二つ目のおにぎりに手を出そうとしている友人の言葉は胸に鋭い槍のように刺さる。頼りたい相手が実はそんなに自分に興味がないと知ったら少しだろうがなんだろうが傷付く。知らなければ良かったと後悔するに違いない。
「でもさ。貴久は良いよ。近づいて、その後に僕を見捨てても」
「光。お前人の話聞いてたか? 俺だって冗談は言うし、馬鹿もするがそんなことしねえって。第一、そんなことされたら普通怒るだろ? なんで許すんだよ」
「だって嘘を吐くって、内容はどうあれそうしないといけなかったってことだろ。真実が話せないほど差し迫った理由なら、しょうがない」
「それがどんな汚れた理由でもか? かなりどうでも良い理由で離れてもか?」
「その時は僕が痛い目見るだけだ」
貴久はしっかり聞き取っていたらしく、からかうようなでもどこか嬉しそうな顔をする。
「お前と一緒で良かったと思えるのはそこのところだ」
「そこ?」
「自分のことを棚上げして、冗談や嘘なしで他人のことを最優先にするところ」
「そのセリフ、お前の彼女からも聞かされたよ」
「それでもお人よしな性格変えないんだから、世話ないわな」
呆れにも似た溜め息を吐く貴久を問い詰めようとした矢先、ズボンのポケットに入れていた携帯が鳴り響く。
「あ、バイト先からだ」
「どれの?」
「ホテルの」
貴久の疑問を簡潔に答えて電話に出る。
「お疲れ様です、守原です」
電話に出たのは僕が働いているホテルのマネージャーからだった。その人の話によると、今日シフトに入るはずだった正規スタッフの人がインフルエンザになったらしく、急遽人手が必要になったのだそうだ。僕は二つ返事で承諾し、軽く会釈して電話を切る。その頃にはすでに貴久は食事を終わらせていた。
「ホテルっていうと、あの美人さん?」
「そう。それとその言い方止めろ」
貴久がバイト先の上司のことを知っているのは、彼が僕のバイト先に全て顔を出しているからだ。しかも客としてではなく野次馬として。本人は僕の様子を見たいんだとか。
「良いよなぁ、光は。友だちいない分、そういう女性とお近づきになれるんだから」
「貴久はもうちょっと言葉に気をつけた方がいい。それとそんなこと言ってたらまた夕美にどやされるぞ?」
「最近気付いたことなんだが、嫉妬した彼女の顔ってなかなか可愛いんだよ」
「良い趣味してるよ、お前」
そんなやり取りの中、また僕の携帯が軽快な音を奏で始める。今度は好きなミュージシャンの音楽なのでメールだ。
「どうせそれもバイトだろ? お前どこまで忙しいの?」
「いろんな経験を積んだ方が自分のためにもなる。それに資金集めは早い方が良い」
「お前の場合、異常なだけだって」
何が異常なのだろう。たかだかバイト掛け持ち一〇件の何が。
「で、今度はどこのバイトだ?」
「塾。今日は新任の先生が来るからその指導だって。なんだって一月に取るかな。今日はホテルに行かないといけないのに」
「どっちを選ぶ?」
「ホテル。タッチの差だったけど塾は諦め」
ようとしたところで、またしても携帯が鳴り響く。しかも今度は着信。
「おい、それって」
「……そのまさか」
心底疲れた溜め息を吐く。何せ断りのメールを入れようとした瞬間に向こうから電話をしてきたのだから。ただ無視するわけにもいかないので、三回目のコールで電話に出る。
『光ちゃん。ストップ! 今しようとしたことを少し考え直して!』
こっちの挨拶をすっ飛ばして気軽にあだ名で呼んだのはバイト先の塾長だ。今年で四〇になるそうなのだが、気さくなうえ堅苦しいやり方が大の苦手ということから、塾生からの指示は高い。ちなみに有名大学を現役で卒業後は教師職に入り、一〇年で退職後今の塾を立ち上げたのだとか。
「塾長。日に日にエスパーじみて怖いんですが」
『お願い! 今日は誰もヘルプ入ってくれる人がいなくて』
「いえ、今日は別のバイトが入っていて」
『正職員もいないし、私しかいなくて』
「あの、だから」
『頼む!』
最後はダイレクトに言ってきた。こっちとしては丁重にお断りしたいのだが。
「……先約があるので、そちらは後にしますがそれでも良いですか」
『九時までには来てほしい!』
「ではその時間までにはなんとかします」
『ほんっとうにありがとう!』
塾長は自分の頼みごとを言い終わるや否や電話をすぐに切ってしまった。残されたのは大変な約束を二つとも断れなかった優柔不断男一人と、それを傍らで楽しそうに眺める友人。
「……何が楽しい?」
「いや、やっぱりお前といると面白いなって」
全面的に否定したかったが、最高のタイミングで鳴った予鈴のせいでそれさえもできなかった。
五
結局、大学が終わってすぐにホテルで雑務をこなした後、間髪入れずに塾へと向かった。だがそこには新任の講師の姿はなかった。どうやら僕との電話の後、新任講師の方から今日は難しいとの連絡があったらしい。よって、僕が塾でしたのはその講師が全うするはずだった授業を代わりに受け持つことだった。
そして全ての作業が終わったのは一〇時過ぎ。晩御飯もまともに食べられなかったので、遅めの夕食を近くの公園で済ますことになった。
「ああ、疲れた……」
さすがに二連続でのバイトは堪えた。今までに掛け持ちしたバイトを数珠つなぎにしていれたら一二時間以上働いたこともあったが、それと同じかそれ以上の疲れがあった。
原因は大学にある。もっと言えば今いるゼミの環境。
何もしていないのに嫌われ、覚えのない怒りを買われ、挙句に拒絶され同じゼミでも喧嘩ばかり。本音を言えばあまりあそこに行きたくないとさえ思っている。
「ご飯食べよ」
帰る道中で買ったコンビニ惣菜パンに手をつける。
「あ」
口を開き、まさに今パンを食べようとした時、見知った人物と顔があった。
「……早川」
「っ! 守原君」
視線の先には確かに早川奈月がいた。しかし学校で見かける可憐さはなくなっていて、髪はポニーテールで服装はスポーツウェアにスポーツバックと明らかに運動を終えて、今帰っているところという雰囲気が丸出しだった。
「何してるの、ここで?」
珍しく早川から質問が飛んできた。ただ、今会話から喧嘩に発展するのは精神的にも体力的にも御免被りたかったので簡略的に済ませることにした。
「夕飯食べてる」
「家は?」
次の質問が提示される。これが仲の良い関係ならなんのこともない光景だが、大学では敵意をむき出しにしている同世代から続けざまに質問を繰り返されると違和感を覚える。
ただ答えを早めに出した方が良いに決まっているので、すぐさま簡潔に答える。
「寮生だから」
「だったら寮で食べれば良いのに」
「バイト帰りで、帰って寮で食べるのが面倒だったんだ。それとも僕の顔が気に食わない? ならすぐに立ち去るよ」
「……」
バイトでの忙しさも手伝って、これ以上の罵倒を受ける気分ではなかった僕は、こちらから拒絶してみたが、なかなか僕の前から立ち去らない早川に少しだけ違和感を覚えた。いつもなら軽蔑の眼差しを向けて、そのまま去って行ってもおかしくないのに今日は様子が変だった。
「危機意識が低いんじゃない? 男子だからって夜は危ないのよ?」
「それを言うなら、早川も危ないじゃないか? こんな夜中に一人で歩いてて大丈夫なの?」
「私はいつもこの時間に帰ってるから。どこが人通り多くて、人の目が多いのか分かってる」
「今はあんまり人通り多くないぞ」
「今日は、早く帰って済ませたい用事があったから」
会話の中でも僕の中で違和感は膨らみ続けている。それが何か掴めなかったけど、いつもと何かが違う感覚はひしひしと伝わってくる。
「なら早く帰った方が良い。ここで話してたら時間なくなる」
「そのつもりだけど、今からじゃ急いで帰っても間に合わない」
そんなにここから家が遠いのだろうか。ふと疑問に思ったが「ふうん」とだけ言っておいた。
「聞かないの?」
「何を?」
「何してたのとか、何の用事で帰るのとか」
「それは」
会話を止めて僕は考え込んだ。実はここまで普通に会話を成立させていることに困惑していた。そしてそこでようやく気が付いた。ここで会って今に至るまで彼女は僕に何一つ罵倒を言っていない。拒絶の意思を示していなかったことに。
「言ってくれないって思ったの?」
またしても向こうから話を振って来た。しかも今悩んでいることを指摘して。
「僕のことをもう少し好意的に見てくれればそんな発想は思いつかないけど、君は僕のことが嫌いみたいだから」
ひねくれた調子で言ってみる。自分で言ってて情けなくなるが、事実なのだから仕方ない。
「そうよね。そう、なるよね」
呟きよりも小さな声。そしてそこから覗かせる悲しそうな表情。学内でひときわ目を引き、男女問わず存在感を与え続ける彼女が、今は儚く一瞬で消えてしまいそうな小さな少女のように見えた。
それはあの時見た彼女に酷く似ていた。光に包まれ、苦悩と葛藤に苛まれた一人の少女に。
「そこも聞かないのね」
尋ねられた意味が分からなかったので、答えるのに間ができてしまった。その間を気にしたのか、早川はもう一度話し始める。
「私が、あなたのことを嫌う理由よ」
「そこって、そういう意味か?」
「それ以外聞かないでしょ」
早川の言う通り、僕は彼女に何も聞かない。もちろん聞くだけ教えてくれないというのもあるが、もう一つ聞かない理由がある。
「つらそうな顔してたから」
「つらい?」
「早川が僕を見る時にさ、どこかつらそうな顔をしてたから」
これは主観だ。対面していただけで、俯いていただけで他人のことが分かれば苦労はしない。でも、今までの早川の表情から分かったのは「察してほしい」という思い。
「つらそうにしてる相手に、無理に理由を聞こうとするのはどうかと思って」
「私がそうじゃないって言ったら?」
「その時はその時だ。それはそれで僕の勘違いってだけで済むんだから。でももしそれが勘違いでないなら聞かない方が良かったって思える。突き詰めるならただの自己満足だ」
ただでさえ嫌な思いをしている相手にこれ以上嫌われてセミに行きにくくなるのは御免こうむりたかった。すでに好感度は底辺に達しているとは思うけど。
「なによ、かっこつけて」
「小声で言ってるのなら丸聞こえだぞ」
「う、うるさい。隣座るわよ」
こっちの許可も聞かずに早川はベンチに座る。許可は出すつもりだったが。
「早川、その恰好」
「ノーコメント。それとあまり近づかないで」
「了解」
「……汗臭いし」
小声で言っているなら、と言ってやりたくなったが、これはあまりにデリカシーがないと判断したので、黙っておくことにした。
「ご飯は?」
「あんまり減ってない。それにこんな時間に食べたら太っちゃう」
その言葉の後、早川のお腹から奇妙な音がした。
「あ、あの。はやか」
「何か?」
平静のまま早川は訊き返す。だが腹の音は鳴りやまない。
「減ってないって」
「減ってない!」
そして三回目の腹の音。
「そうよ! お腹減ってるわよ! 運動して来たんだもん! 悪い?」
夜の公園は人も喧騒もない分、早川の大声がよく響く。近くにマンションが幾つも立ち並んでいるが、特に注意もなかったので内心ほっとした。それとここに来るまでに彼女が何をしていたのか少しだけ分かってしまった。
「悪くないよ。運動した後なら尚更減るよな、お腹」
「そ、そうよ。いつもならおにぎり持ってくるはずだったんだけど、今日は忙しかったから作るの忘れて」
事情は理解したが、なにもここまで強がる理由はなかったと思う。けどそこのところをつつくとまた不機嫌になるので止めておいた。
「つまり、早川は空腹なんだ」
「さっきから言ってるじゃない」
再確認を取ったのは隣の空腹少女を怒らせるためではない。僕はコンビニ袋に入っている非常食を取り出す。
「はい。これ」
「え、何これ?」
「カロリーをメイドするもの」
差し出されたバランス栄養食品の黄色い箱を見て、早川はそっぽを向いた。
「なによ。これで私に恩を売るつもり? それともやる代わりに何か交換条件でも持ちかける気?」
どこまでも捻くれた性格をしているお嬢様。これでよく大学一の美少女を名乗れているものだと感心していると、早川の向ける眼差しが強くなっていることに気づく。
「何か?」
「今失礼なこと考えてない?」
「確認する術、ないよね?」
「あなた言ったじゃない。勘違いで良いならそれで良いって」
「今の早川の口調は勘違いって曖昧な言い方じゃなかったよ。完全に決め付けだった」
「っ! とにかく私はあなたからの施しは受けません!」
どこまでも頑なに僕の善意を否定する早川。これでは埒があかない。そこで僕は強硬手段に出た。
「分かった。じゃあこれは捨てておいて」
呆気にとられていた早川に構うことなく、僕は黄色の箱を彼女に投げ渡す。
「ちょ、ちょっと。それってどういう」
「僕はもうご飯食べ終わったし、家に持って帰ってもしょうがないから捨てておいて。それくらい良いだろ?」
「良くないに決まってるじゃない。食べ物は大事にしないと。捨てるなんてもったいない」
「なら早川に任せるよ。君が僕みたいに食べ物を粗末にするような酷い人間じゃないなら、ほかの方法を見つけることができる。そうだろ?」
早川は僕を睨む。こんな見え見えのかまのかけ方は彼女を試すようなものだ。もっと嫌われるのかもしれないが、お腹をすかせた少女を放っておくことを天秤にかければどっちを取るかなんて考えるまでもなかった。
「あなた、本当に意地悪な人ね……」
「なんとでも。じゃあまた大学で」
振り返ることなく公園を立ち去った。
ふと見上げると、今日の夜空はどこか綺麗に見えた。