第八章「月明かりとローズマリーだけが見守る夜の中」
「確かに手術は可能です。成功する可能性も高いでしょう。ですが……本当に良いんですか?」
念を押すように問うてくる医師に、俺と西原の母は静かに頷いた。迷う必要はない。これは間違いなく、西原にとって最適な選択だ。そのために、俺は中願寺から金を借りたのだ。これで断ったら何のために借りたのかわからなくなってしまう。
「わかりました……。連絡をしておきましょう」
何か言いたげな表情を医師は見せたが、医師は静かに受話器に手をかけた。
彼女はまた、ローズマリーに水をやっていた。ローズマリーに記憶力を高める効果があり、それが彼女に対して発揮されているかどうかわからないし、状況だけ見れば確実にローズマリーの効果は発揮されていなかった。それでも彼女はまた、水をやっていた。まるでそれだけが希望だとでも言わんばかりに。
「水、やり過ぎじゃないか?」
ベッドに腰掛けたまま、窓から差し込む月光が水滴に反射するのを眺めつつ、俺はそう言った。その言葉に、彼女――西原はそうかも、とだけ答えた。
「何だか、落ち着かなくて……。それより翔君、今日は帰らなくて良いの? もう、こんな時間だけど……」
時刻は既に午後十一時を過ぎており、もう奏も眠っているような時間だった。
「ああ。今日は帰らないって、伝えてあるから」
「……そっか。傍に、いてくれるんだね」
「お母さんじゃなくて良いのか?」
小さく、西原は頷いた。
「お母さんとは、向こうでも一緒だから。今日はずっと、翔君といたい」
照れ臭そうにうつむいた西原につられて、俺も頬を赤らめてうつむいた。
「ねえ翔君……」
唐突に、西原はそう話を切り出した。
「今日までの私の中で、記憶障害になってから翔君に会うまでの数年間と、翔君に出会ってからのわずか数ヶ月、どっちが濃かったと思う?」
ローズマリーに水をやるのをやめ、じょうろを棚の上に丁寧に置くと、西原は俺の顔を覗き込むようにしてそう言った。
「……どっちだろーな」
俺がそう答えると、西原は怒ったように頬を少しだけ膨らませた。
「もう、ちゃんと答えてよ」
「ごめん。で、どっちなんだ?」
「もう教えてあげなーい」
まるで子供のようなことを言い始めた西原を見つめつつ、俺は苦笑した。こんなところもあるんだな、西原って。
「色々、あったよね」
「ん、ああ。あったよな」
まるで記憶を反芻するかのように、俺は西原と出会ってからの出来事について口にした。しかし西原はほとんど覚えていないらしく、何度も驚き、そして寂しそうな表情を見せた。
最初に出会った時のこと、図書室で本についての話で盛り上がったこと、映画を見に行ったこと、何日も休んだ後に公園で出会った時のこと、入院するようになってからのこと。数える程しかないハズの思い出は、俺の中ではまるで無数にあるかのように膨れ上がっていた。西原の声、西原の仕草、西原の笑顔。沢山の西原が、俺の頭の中を占領する。
「全然、覚えてないや……」
うつむいたまま、西原は無理に笑顔を浮かべた。
「映画も何も、なかったことみたい。もしかしたらさ、私と翔君って今日出会ったばかりなのかも知れないね」
自嘲めいた笑みをこぼし、西原はうつむいたまま顔を上げなかった。
「だったらそれでも、良い。お前が俺を忘れて、その時出会ったばかりみたいになっても、俺は変わらない」
「無理だよ。やめてよ。それ、翔君が辛いだけだよ?」
顔を上げずに、西原はそう言った。その声が涙声になっていると気付いて、俺は立ち上がると、西原の背中に両手を回した。
「言ったろ? 何度でも何度でも、俺のことを好きにさせてやるって。それにお前は、手術で治るんだ。何も心配することはねえよ」
「でも、怖いよ」
そっと。西原は俺の胸に顔をうずめる。と同時に、俺のシャツの胸元が少しだけぬれた。それが彼女の涙だと気付くのに、一秒もいらなかった。
「失敗したらどうしようって、治らなかったらどうしようって……思うよ。でも、一番怖いのは……」
西原の両手が、きゅっと俺両肩を掴んだ。
「翔君を……忘れちゃうこと……。忘れたくないよ……消したくないよ、私の中の……翔君のこと……。他の何が消えたって、翔君のことだけは……っ」
嗚咽混じりに彼女が思いを吐露したのは、これで何度目だったか。忘れたくない。消したくない。そんな思いがこぼれて、俺のシャツをグシャグシャにぬらした。
「成功するよ。笑顔で帰ってこれるよ。俺はずっと、待ってるから」
帰ってくるまで、待ってるから。
「待っててね……嘘吐かないでね……私が帰ってくるまで……ずっと……ずっと……」
「待ってる。何年でも。何百年でも。何万年でも」
「無理だよそれ……死んじゃうよ……」
泣きながらクスリと、西原は笑った。涙混じりに少しだけ笑った西原の長い髪を、俺は優しくなでた。
「それでも待ってる。骨になってでも、待ってる」
「何それ、馬鹿みたい……」
顔を上げ、俺の顔を真っ直ぐに見つめて、西原は目に涙をためたまま笑った。
「馬鹿みたいだろ? そんな約束をするくらい、好きになってるんだぜ、俺」
「私が忘れても、覚えててくれる?」
当たり前だろ、そんなこと。
「私が忘れちゃっても、私が翔君のこと好きだったってこと、覚えててくれる?」
覚えてるよ。ずっと。
「忘れないよ。ずっと」
何年でも。何百年でも。何万年でも。例え骨になった後だとしても、覚えてる。ずっと、忘れない。そんなの無理だって、自分でもわかってる。自分で笑っちまうくらいには、そんなのあり得ないって、わかってる。でも、それだけあり得ないことが言えるくらい、俺は西原のことが――――
「ありがとう」
そう言って西原は俺から離れると、身を投げだすようにしてベッドへ横になった。
「寝るのか?」
俺の問いに、西原は首を横に振った。
「言ったよね。私に刻んでくれるって。私の中に、翔君を刻んでくれるって」
「ああ、言ったよ」
「じゃあ――」
西原は仰向けになると、両手を広げ、まるで俺を胸の中に迎え入れるような体勢になると、俺を見てニコリと笑った。
「刻んで、翔君のこと。私に……」
西原がそう言ってから、ほんの少しだけ静寂があった。俺の迷いとも、ただの間ともとれる、そんな静寂。
「ああ、刻むよ」
静かにそう答えて、俺は微笑んだ。
二人切りの夜は、長いようで短くて。
ずっと一緒にいられるような、永遠を手にしたようなつもりになって。
呼んで、触れて、二人が一人になりそうなくらいに求めて。
月明かりと、ローズマリーだけが見守る夜の中。
忘れないと誓って。
待ってると誓って。
まるで二人が一人になったような感覚に、溺れつづけた。
こんな時がずっと続くと、誰も約束してくれない。
こんな時が永遠になると、誰も保証してくれない。
それでも確かにこの時があったと、君は忘れない。
例え私が忘れても、君は絶対に忘れない。
月明かりとローズマリーだけが見守る夜の中、静かに――
夜が明けた。
次の日の朝、西原はいなかった。