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第七章「随分と濁って見えた」

 五百万円という金額は、学生である俺にとっては途方もない数字で、言われてもいまいちピンとこないような……そんな金額だった。五百万あれば何が出来る? そんなことを考えてみても、陳腐な発想しか生まれない。それ程五百万という金額は、俺にとって現実味のない数字だった。西原のために五百万円を何とかする。言うは易いが行うのは難い。バイトし続けて、その分の給料を全額貯金し続けたとしても、どのくらいかかるのか検討もつかない。

 溜息だけが、俺の口から漏れていった。

「溜息吐くと、幸せが逃げますよ?」

 机に突っ伏した状態で溜息を吐いた俺の背中に、葉月がそう声をかけた。

 昼休み中の教室は騒がしく、グループごとにかたまってワイワイ話したり、菓子を食べたりと、誰もが楽しそうに思い思いの時間を過ごしていた。そんな空間の中ポツンと、空席になった西原の席が置いてあるのが、妙に切なく感じた。

「捕まえてもない幸せがどう逃げるってんだよ」

 冗談っぽくそう言って俺が身体を起こすと、葉月は柔和に微笑んでそうですね、と頷いた。

「何か悩み事ですか?」

「いや、何でもない」

 拒絶するようにそっぽを向いた俺の顔を、葉月はわざわざ回り込んでまで覗き込んだ。

「私達、何年一緒だと思ってるんですか? 翔君が悩んでいるかどうかなんて、顔を見ただけでわかります」

 真剣な表情でそう言った葉月に、俺は苦笑することしか出来なかった。

「……敵わないな」

「私達は家族同然なんですから、水臭いことはなしですよ」

 そう言って、葉月はクスリと笑った。

 葉月になら全て話してしまっても構わないのだが、教室で話してしまうのは気恥ずかしいものがあるので、詳細は今度家で伝えることにして掻い摘んで現在の状況だけを説明した。西原の記憶障害のこと、それを俺がどうにかしたいと思っていること、出来るだけ早く五百万円用意したいこと。

 しばらく葉月は、何も言わずに黙って聞いていてくれた。何で俺が西原のためにそこまでしたがるのか、西原に何故記憶障害があるのか、気になるところは幾つもあるハズなのに、まるで言わずともわかる、とでも言わんばかりの表情で、葉月は頷くだけだった。

「とりあえず、今はバイト先を探すつもりでいるよ」

「バイト……ですか。奏のことはどうするんです?」

「それは……」

 西原のために俺がバイトをするってことは、奏のことを放っておく形になってしまう。今までのように一緒に夕食なんて無理だし、下手すれば俺が帰宅するのは奏が眠ってしまってからになる可能性だってある。征や葉月がいたとは言え、親がほとんど帰って来なくなってからずっと二人で支えあってきた奏を、ないがしろにするような真似はなるべくしたくなかった。

「私に任せて下さい。と言いたいところなのですが……奏がそれで良いと感じるとは思いません」

「何でだよ?」

「あの子、お兄ちゃんっ子ですから」

 葉月は大人びた笑みをこぼしたが、すぐに真剣な顔つきに戻って五百万、と呟いた。

「誰かに借りる、というのも難しい話ですし……」

「ん? 金がないのか?」

 不意に会話に割って入って来たのは龍二だった。

 ――――俺の知り合いにさ、宝くじ中毒の奴がいるんだよ。

 ふと、数日前に龍二が言っていた言葉が脳裏を過ぎった。

「……お前、知り合いに宝くじ中毒の奴がいるって言ってなかったか?」

「え、ああ。いるけど、それがどうした?」

「そいつ、一億当てたって言わなかったか?」

「ああ、言ったけど……」

 俺の考えに気付いたのか、葉月がハッと表情を変えた。

「龍二、お前に親友として頼みがある」

「なんだよ急に……照れるだろ……」

 鼻の頭をポリポリと指でかきながら、恥ずかしそうに俺から目を背ける龍二。

「そういう風に頼まれたら断れねえだろ――――」


「その宝くじ中毒の奴に頼んで、五百万円借りれないか?」


 ニヤけていた龍二の表情が、一瞬にして固まった。そして数秒、考え込むような仕草を見せた後、龍二は真剣な表情で俺を見据えた。

「冗談言ってる顔、じゃねえな」

 龍二の言葉に、俺は静かに頷いた。

「借りられる保証はねえし、公的な機関に頼んだ方が確実だと俺は思うが?」

「未成年は借りれねえだろ?」

「そんなに急ぐのか?」

「ああ」

 頷いた俺に対して、龍二は難しい表情でしばらく考え込んだが、やがて呆れたような表情で小さく嘆息した。

「ったよ。ただ、直接会って頼め。アイツはメールとか電話で何か頼まれるのを嫌うし、なんつーかその……変な奴なんだよ。さっきも言ったが、アイツから金が借りられるって保証はない。むしろ借りられない可能性の方が高いくらいだ。何があったのかは知らねえが、お前がそんなに真剣に頼むなら、アイツとお前が会うセッティングくらいはしてやるよ」

 そう言って微笑んだ目の前の親友に、俺は感謝の言葉を何度も告げることしか出来なかった。

「けど、借りられる可能性はメチャクチャ低いからな? ダメ元くらいで考えとけよ?」

「変な奴って言ってましたけど、具体的にはどんな人なんですか?」

 葉月の問いに、龍二は答えにくそうな表情を見せた。

「アイツか。アイツはな……」


 人間が、嫌いなんだよ、と。龍二はそう言った。





 龍二の言っていた宝くじ中毒の知り合い、中願寺成清ちゅうがんじなりきよが指定してきた場所は、俺の通う蘿蔔学園の裏庭にある林の中だった。その奥には奏や葉月、征達と幼い頃に遊んだ場所があるのだが、それについては今は置いておこう。

 何故その場所が選ばれたのか龍二に訊くと、中願寺は人気の多い所を嫌っているし、なるべく俺が簡単に行ける場所にしようと思ったからだと言った。移動に使う金があったらそれこそ貯金すべきだろ、と言ってくれた龍二の心遣いには、感謝の言葉しか思い浮かばない。

 中願寺は町内に住んでいる人間なので、蘿蔔学園に足を運ぶことは容易いらしいし、そこなら良いと了承したらしい。

 日曜の昼下がり(これも中願寺の指定)、俺が蘿蔔学園裏庭の林へ向かうと、そこには既に中願寺らしき男が待っていた。格好は、町を歩けば普通にどこにでもいるようなラフな格好だったが、まとっている雰囲気が他の者とは一線を画しているように感じた。誰も寄せ付けないような、そんな雰囲気。髪はやや長めで、天然らしいパーマがかかっている。年齢は、パッと見ではわからない。十代にも見えるし、二十代にも見える。

「お前が柚原か」

 中願寺の言葉に、俺ははい、と頷いた。

「五百万、借りたいそうだな」

「……はい」

「何のためだ?」

 静かに問うてきた中願寺に、俺は西原に関する全てを包み隠さずに話した。信用するしないに関わらず、何か物事を頼むのに隠し事をするのは失礼だと感じたし、中願寺の発する威圧感は、俺に答えることを拒否させなかった。

 俺が話している間、中願寺は表情一つ変えないまま、聞いているのかどうかすらもわからない表情のまま黙っていた。俺が話し終えた後、重苦しい沈黙が訪れた。

「断言出来るか?」

 静かに、中願寺は口を開いた。

「五百万借りるのは彼女のためだと、断言出来るか? 自分のために使わないと、彼女を裏切らないと、お前には断言出来るか?」

 まくしたてるように問いかけながら、中願寺は俺へ詰め寄った。中願寺の見開かれた瞳が、俺の眼前まで近づいた。その威圧感に圧倒されながらも、俺は口を開く。

「断言、出来ます。俺が五百万を借りるのは、彼女のためだと。彼女の手術のためだけに使うと、断言出来ます」

 俺の言葉を聞いてから、中願寺は数刻沈黙した。が、フンと鼻を鳴らすと、中願寺は俺へ背を向けた。

「俺は人間が嫌いだ。金のために、自分のためになら何でもする人間が大嫌いだ。反吐が出る程な。そんなクソ人間共の中でも――」

 不意にもう一度こちらへ顔を向け、中願寺は俺の胸ぐらを思い切り掴んだ。

「お前みたいな偽善者は一番嫌いだ」

「偽善……者……?」

「そうだ。所詮お前もそうだろう? 誰かのために何かをして、それで感謝されて悦に浸りたいだけの偽善者だろう? それとも彼女ためと大義名分をかかげて金を借りて、私利私欲のために使いたいだけの、偽善者ですらないクズか? どちらも俺は大嫌いだ」

 グッと握り締めた拳を、俺は振り上げなかった。中願寺の言葉に憤慨する気持ちを必死に抑え付け、ただひたすらに中願寺の瞳を見据える。その瞳は、随分と濁って見えた。

 宝くじ中毒だと、龍二は言っていた。裕福な家に生まれ、金には困らない彼が何度もくじを引くのは、くじを引く行為そのものが好きだからだとも、今までに何度も大きな当たりを出しているとも、龍二は言っていた。そんな中願寺の元へ集まった人間がどんな人間なのかは、想像するまでもなくわかった。

 嘘。詐欺。偽善。人間の汚さを、中願寺は嫌と言う程見たのだろう。騙されて、傷ついて、また信じようとして、それでも騙されて……そんなことを繰り返す内に、彼の瞳は今のように濁ってしまったのかも知れない。推察でしかないが、中願寺の瞳がそれを物語っているように、俺には見えた。

「やはりお前も同じだろう」

 吐き捨てるようにそう言うと、中願寺は俺の胸ぐらを離して再び背を向けた。

「……お願いします。俺に、五百万……貸して下さい」

 地べたに座り込み、俺は去ろうとする中願寺の背中へ土下座をした。中願寺はピタリと歩みをやめると、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

「表面だけの土下座など……もう数え切れない程に見たぞ!」

 その言葉が俺の耳に入る頃には、既に俺の顔面に中願寺の蹴りが直撃していた。蹴り上げられて仰け反った俺の髪を、中願寺は身をかがめて右手で上から鷲掴みにする。

「母の病気を治すために金を貸して下さい、小さい頃から夢だった事業を成功させるために金を貸して下さい、父のガンの手術をするための金を貸して下さい……そう頼んで、土下座してきた奴らに俺は金を貸した! ああ、貸したさ! それで救われるなら、それで誰かのためになるならッ! だが結果はどうだ!? アイツらは金を返すどころか、貸したその日から一度も俺の前に姿を現さない! 名乗った名前も、渡された名刺も、全て偽りだ! 所詮お前も同じだろう!? 同じなんだろう!? そうでないハズがない、お前ら人間は……いや、俺達人間はそういう生き物だッ! 金のために、自分のためにだけ、欲望のままに生きる生き物だ! そうだろう!?」

「……違う……そんなことは――」

 言葉を紡ぎ切らない内に、俺の顔面に中願寺の左拳が食い込んだ。

「これでも頼めるか!? これだけのことをされても、彼女じぶんのために金を貸してくれと頼めるか!? どうせダメ元で、それも自分のためだけに金を借りに来たお前が、これだけのことをされても耐えられるか!? どうせお前も、すぐに逃げだすんだろう!? 被害者面して警察に届け出て、俺を警察に突き出すんだろう!?」

 悲しそうな、顔をしていた。

 殴られているのは俺なのに、まるで自分が殴られているかのような表情で、中願寺はもう一度俺の顔面を殴りつけた。今にも泣き出しそうな表情を浮かべたまま、何度も何度も俺の顔面を殴りつけた。

 それでも俺は、頼むのをやめるつもりはなかった。殴られる度に、痛覚が刺激される度に、西原の笑顔が脳裏を過ぎった。

 俺より西原の方が辛いに決まってる。こんな一瞬の痛みより、もっと苦しいことを、西原は何年も一人で抱え続けたんだ。俺がこうして殴られているだけでどうにか出来るなら、俺は何発だって殴られてやる。そう、思えた。

「お願い……します……」

 殴られ続けて腫れた顔で、俺は呟くような声でもう一度中願寺へ懇願した。口を動かすだけで痛い程ボコボコにされた顔で、俺は中願寺を見つめた。

「まだ言うかッッ!」

 もう一発、中願寺の左拳が、俺の顔面に食い込んだ。と同時に、中願寺は俺の髪を離した。

 殴られ過ぎたせいか、意識が朦朧としてきていた。もうまともに世界を視認出来ない程に。


 薄れていく意識の中で、中願寺がその場を立ち去っていく足音だけが聞こえた。





 あれから四日程、学校を休んだ。中願寺にボコボコにされて意識を失った俺は、龍二に事情を聞いて慌てて駆けつけた奏によって助けられたらしく、目を覚ました時には家のベッドに横になっていた。顔は傷だらけで、そこら中腫れまくっていたが、鼻の骨が折れたりだとか、そういう傷は一切なかったらしい。口は中も外もグチャグチャで、血の味ばかりが口の中に広がっていた。

 まともに喋れるようになってからは奏の尋問にあい、結局俺は西原に関することを奏や葉月、征に包み隠さず話すことになってしまった。

 西原の話をした後、奏は俺と西原のことを応援すると言ってくれたし、俺がバイトでほとんど家にいなくても大丈夫だと言って微笑んでくれた。けど、その瞳はどうしようもなく悲しげだった。

「うわ、酷ぇな……」

 四日ぶりに登校した日の朝、龍二は俺の顔を見ると開口一番そう言った。

「……まあな」

「まるで妖怪だな、お前」

 そんな龍二の軽口に、俺は笑うどころかつっこむ気にもなれなかった。

 結局、俺は中願寺から金を借りることが出来なかったし、バイト先もまだ見つかっていない。何も出来ないまま、何日もロスしてしまったのと同じだ。

 深い溜息が、俺の口から漏れた。

「まあそう浮かない顔すんなって。良い話があるぞ?」

「……給料の良いバイト先か?」

 俺の問いに、龍二は首を左右に振った。

「中願寺が、お前に五百万貸してくれるらしい」

「な――ッ!?」

 龍二の言葉に、俺は耳を疑った。

「俺にもよくわかんねえんだけどさ、アイツ昨日の晩急に『柚原の口座を教えろ、金を振り込む』って電話で」

 龍二の話す内容に、俺は喜ぶどころか頭の中が真っ白になった。信じられない、といった様子で口を開けたまま唖然とする俺に、龍二は良かったな、と微笑んだ。

「殴られたかい、あったじゃねーの」

「あ、ああ……」

 あまりのことに、俺は龍二の言葉を生返事で返すことしか出来なくなっていた。





「どういう風の吹き回しだよ? お前が人に金貸すなんて」

 電話口で、龍二はクスリと笑った。

「……もう一度、だけだ」

 もう一度だけ、信じてみることにした。と、電話の向こうで中願寺成清は静かにそう答えた。

「アイツが今までの奴らと同じなら、もう二度と信じない。それだけだ」

 それだけ言い残して、中願寺との通話は終わった。

「翔は唯一の当たりだと思うぜ……? お前が今までに引いてきた『人間』っつーくじの中ではな」

 誰に言うでもなくそんなことを呟いて、龍二は小さく笑みを浮かべた。

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