第六章「それぐらい、俺は」
西原は、病院に行くのを最後の最後まで拒んだ。何度説得を試みても首を縦には振らず、病院へ行くことを拒み続けた。
病院で検査すれば、入院させられることがわかっているから。記憶障害というハンデを持ちながらも、ギリギリのところで繋ぎ止めていた「普通」の生活を手放さなければならなくなるから。
それでも、俺は西原の要求に頷くことが出来なかった。西原の症状は、明らかに悪化している。ほとんど覚えていられない、ほとんど覚えられない。五分以内に言った言葉ですら、一部分とは言え忘れてしまう程に、彼女の症状は悪化していた。このまま放っておけば、全て忘れてしまってもおかしくはない。ジェンガはいつか崩される、彼女の言葉が――現実になろうとしているのは明白だった。
一時間近い説得の上、ようやく俺は西原を首肯させることに成功した。嫌がる彼女を説得するのには随分と骨が折れたが、結局彼女は「このまま放っておいて全部忘れてしまうよりはマシ」ということで渋々病院へ行くことを承諾した。
奏には帰りが遅くなることと、夕飯を用意出来なかったことを伝え、俺は西原の母と共に病院で検査結果が出るのを待った。
「柚原君……?」
検査室前のソファに座って西原の検査が終わるのを待っていると、不意に西原の母さんが俺に声をかけた。
「……はい?」
「詩帆が、最近は貴方の話ばかりするのよ」
「え……?」
間の抜けた声を上げた俺の顔を見、西原母はクスリと笑った。
「今日は柚原君と本の話をしたとか、柚原君と映画に行く話をしたとか、そんな話ばかり。今まで詩帆、高校に入ってから友達の話なんて一度もしなかったから驚いて……」
親に話せる程深く付き合っている友人がいない。だから、話せない。中学時代はともかく、少なくとも高校に入ってから西原は、一度も親と友人に関する話をしなかったのだろう。
広く、浅過ぎる彼女の交友関係。
「だから、ありがとう」
ペコリと。西原母は頭を下げた。
「そんな、お礼なんて……」
「私が気付いてあげられなかったことに気付いて、詩帆の支えになってくれて、ありがとう」
笑顔を浮かべてはいるものの、どこか切なさの混じったその表情に、俺は何て答えれば良いのかわからなかった。
「詳しい結果は後日になりますが、とりあえず現段階でわかったことを説明します」
検査が終わり、詩帆の検査をしてくれた医師は静かに俺達へそう告げた。
西原は病室へ、西原の母は診察室へ呼ばれた。西原母の裁量で、俺も診察室へ同行出来ることになった。
「詩帆さんの記憶喪失の原因は、やはり彼女自身が語った通り過去の事故にあるようです」
医師は静かにそう言うと、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。それには脳の断面図が描かれており、もう何年も使っているのか所々黄ばんでいるように見えた。医師はそれを机の上に置くと、図の中の真ん中辺りを指差した。
「この辺りに、海馬という器官があります。ここは……簡単に言うと、脳の記憶などに関わる部分です。この部分を、詩帆さんは事故によって損傷しています」
「それで、詩帆は記憶を……?」
西原母の問いに、医師は静かに頷いた。
「本来ならこの部分を損傷すれば、損傷以降のことは一切覚えられなくなります。ですが詩帆さんの場合、部分的に忘れはするものの、一切覚えられないというわけではない……そうですね?」
その問いには、西原母より先についつい俺が頷いてしまった。
「詳しい結果が出るまではわかりませんが、恐らく極めて特殊な損傷の仕方をしているのでしょう……。それよりも、何故事故に遭った段階で検査しなかったのですか?」
表情を変えなかったが、医師のその言葉には怒気が込められていた。
海馬の損傷なんて、検査でもしなけりゃわからない。頭を怪我しただけだと診断されたっておかしくないし、念のために検査しようとすれば間違いなく西原は拒んだだろう。
しばしの沈黙が訪れたが、医師はまあいいです、と静かに呟き、言葉を続けた。
「詩帆さんにはしばらくうちで入院してもらいましょう」
「あの、詩帆は……治るんですか?」
西原母の言葉に、医師はしばらく答えにくそうに黙り込んだがやがて、方法はあります、と答えた。
「うちの病院では勿論、国内の病院では不可能ですが、海外で最先端の技術を使えば治る可能性はあります」
「じゃあ、治るんですね!?」
身を乗り出してそう言った俺に、医師は小さく頷いた。
「ええ、ですが――」
言いにくそうに医師は口ごもったが、やがて静かに五百万、と呟いた。
「最低でも、五百万円はかかります」
「五百万……!?」
五百万円。という途方もない金額に、俺も西原母も驚愕の表情を浮かべた。
五百万。まるで現実味のないその数字は、西原を治すことがどれだけ難しいことかを物語っていた。
「そして仮に手術が成功して治ったとしても、彼女は――」
医師が言ったその先の言葉に、俺と西原母は唖然とすることしか出来なかった。
西原を病院へ連れて行った翌日、俺はすぐにお見舞いに行った。結局検査の後は一度も会わないまま帰宅したため、西原のことが心配だったのだ。
西原の病室は、個室だった。あまり広くはなく、部屋の中は驚く程に白かった。白い壁に白い床、白い天井に白いカーテン。色の濃さに違いはあるものの、テレビ以外は全て白と言っても過言ではなかった。
西原はベッドの中にはおらず、小さなじょうろを持って窓の傍に立っていた。窓の前にある棚には、小さめの花瓶が置いてあった。恐らく西原は、そこに咲いている花に水をやっていたのだろう。
「西原」
俺が声をかけると、西原はゆっくりと振り向いた。
「翔君……」
西原はゆっくりとじょうろを花瓶の隣に置くと、俺に手招きをした。頷き、俺が西原の元へ歩み寄ると、西原はベッドへ静かに腰かけた。
「水、やってたのか?」
花瓶に視線を向けて俺が訊くと、西原はコクリと頷いた。
「ローズマリー」
「ローズマリー?」
「花の名前」
ああ、と俺が相槌を打つと、西原は柔和に微笑んだ。
「ねえ、知ってる?」
愛おしそうに、まるで母が我が子をなでるかのように、西原はそっと指でローズマリーの青紫の花弁をなでた。
「ローズマリーって、記憶力を高めるんだって」
だからずっと育ててるんだ、と、西原は呟くようにそう言った。
「お母さんに持って来てもらってね、入院中もここで私が育てるんだ……」
「そっか……。記憶力、高まると良いな」
うん、と。西原は小さく頷いた。しかしその表情はどうしようもないくらいに不安げで、今にも泣き出してしまいそうな表情だった。
「大丈夫……かな、私」
ボソリと。呟くような声で西原はそう言った。
大丈夫だよ。そう答えたくても、口に出せなかった。安易な言葉は、逆に西原を傷つけるような気がした。けど、だったら俺は何て答えれば良い? 彼女の不安を少しでも拭うには、どうしてやれば良い? 心の内で自問を繰り返したところで、答えなんか見つかるハズもなかった。ただうつむいて、答えることが出来ずに黙っていることしか、俺には出来なかった。
「治るかな、私」
俺の目を真っ直ぐに見据え、西原はそう言った。
「……治るよ」
可能性はゼロじゃない。西原が治る可能性は、十分にある。
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘だよ、治るわけない」
自嘲めいた笑みを、西原は浮かべた。
「治るわけ……ないよ。全部忘れちゃう。昨日のことだって、もうほとんど覚えてないんだから」
ベッドのシーツを、一滴の暖かなしずくが濡らした。
「翔君のことだって、いつまで覚えてられるのかわかんないよ……忘れちゃうよ……? 簡単に、まるで当たり前みたいに、スッポリと抜け落ちて……もう戻らなくなっちゃう……」
西原の涙を見たのは、これでもう三度目だった。
何で泣かなくちゃ、いけなんだ。
何で西原ばっかりが悲しまなきゃならないんだ。
何でだ。
どうしてこうなるんだ。
何も悪くない彼女ばかりが、どうして泣かなきゃならないんだ。
――――友達と出かけて映画見て、こうしてブラブラ歩いてるって、すごく普通じゃない? それがすっごく嬉しいんだ……。
あの日見せた笑顔。あんな風に笑える彼女が、こうして涙を見せるのはもう嫌だった。
少しだけでも良い。十ある内の九が涙だったとしても、残りの一だけは笑っていて欲しい。十の内十が涙だなんて、そんな寂しい目には遭わせたくない。
「忘れさせねえ」
「え……?」
目に涙を浮かべたまま、キョトンとした表情を見せる西原の両肩を、俺は強く両手で掴んだ。
「俺が忘れさせねえ! 毎日ここに来て、毎日ここで話して、絶対忘れられないくらいにお前の頭ん中に俺を刻んでやる! 忘れたいって思っても忘れられねえくらいにだ!」
「翔……君……」
悲しげだった彼女の表情が、少しだけ綻んだのがわかった。
「お前昨日言ったよな? 翔君のこと好きだって気持ちも忘れちゃうって……。だったら絶対忘れさせねえ! 例え忘れても、何度も何度も俺のこと好きにさせてやる! それぐらい……それぐらい俺は……」
それぐらい、俺は。
お前のことが。
「お前のことが、好きだから!」
何も言わず、西原は俺の胸に顔を埋めた。止め処なく流れ続ける西原の涙が、俺のシャツをぐしゃぐしゃに濡らしていく。
例えお前が忘れても、俺はお前のことずっと好きだから。お前が忘れても、俺は絶対忘れないし、何度でも思い出させてやる。
五百万。絶対に何とかしてみせると、俺は誓った。