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第五章「誰かを責めることさえ出来ない」

 記憶障害。記憶の喪失、新しいことを覚えることが出来ない、などの記憶に関する障害のことを指す言葉。

 彼女は、西原詩帆はソレだった。

 そんなことは既にわかっていたことだったし、忘れるハズのない事実だった。しかしそれでも――一時的に忘れてしまう程、これまで何事もなさ過ぎた。まるで西原が、何のハンデもない普通の少女なのだと錯覚してしまう程に、何事もなく日々を過ごしていた。図書室で共に放課後を過ごし、些細なことで笑い合い、休日に映画へ行く約束をした。何の変哲もない、普通の生活。西原が望んだ「普通」の生活。映画へ行って、カップルみたいだと照れ合って、二人で映画に関して語り合い……そんな時間を過ごしている内に、俺は一時的に忘れてしまっていたのかも知れない。彼女の持つ大きなハンデを――記憶障害を。

 彼女は、西原詩帆は何一つ覚えていなかった。映画のことも、バスでの会話も、カップルみたいだと照れ合ったことも、嬉しそうに笑って見せたことも。


 朝起きてからファーストフード店で昼食を取るまでの記憶が、彼女の頭からスッポリと抜けていた。


 結局、お互いに釈然としない気分のままその日は解散となった。西原はしばらく混乱していたが、すぐに「自分の記憶が抜けたのだ」と判断し、しきりに謝っていた。

 ――――折角の休みなのに、私のせいで……ごめんね。

 そう言った西原の表情は寂しげで、そのままうつむいて何も言わなくなってしまった。

 何て言葉をかければ良いのか思いつかず、俺はただ黙っていることしか出来なかった。

 西原のせいじゃない。西原は悪くない――じゃあ、何が悪いんだ。

 何も出来なかった。気の利いた言葉をかけてやることさえ、俺には出来なかった。



 その翌日、俺の予想に反して、西原は平然と俺の前へ現れた。気まずくなるだろうと、もしかすると今日は会えないかも知れないと、そんな風に考えを巡らせていた俺は、いつもと変わらない様子で気さくに話しかけてくる彼女へ、動揺を隠せなかった。

「今から図書室?」

 渡り廊下を歩く俺の隣で、歩幅を合わせて歩きながら西原は問うた。

「ん、ああ……。いつも通り、な」

「うん。いつも通り、ね」

 俺の言葉を繰り返し、西原は屈託なく笑った。

「なあ、昨日のこと――」

「ねえ柚原君」

 俺の言葉を遮るように、西原はそう言った。まるで、俺が昨日の話をしようとしたのを拒むかのように。

「柚原君のこと、下の名前で呼んで良い?」

「……ん? いや、別に構わないけど……何でだ?」

 俺の問いに、西原は頬を赤らめてうつむいてしまった。

「ほら、その……仲良くなったのに、苗字で呼ぶのってなんかよそよそしいな……って」

「そりゃ女子同士の話だろ。普通男女間だと幼馴染や家族でもない限り、下の名前で呼ぶのは恋人くらいだぜ?」

 それに、親しくなっても苗字で呼び合うってのはそんなにおかしいことじゃないしな。

「あ、そっか。そうだよ……ね」

 はは、と。西原は軽く笑って見せた。

「まあ良いや。別に名前で呼ばれることに抵抗はねーよ」

 葉月が俺のこと名前呼びだし、家族以外の異性から名前で呼ばれることに抵抗はほとんどない。

「……そう? じゃあ、遠慮なく――」

 言い終わらない内に、西原は回り込むようにして俺の前へ立ち塞がると、両手を腰の後ろへ回した。

 開け放たれたままになっている渡り廊下の窓から吹いた風が、西原の艶やかな黒髪を揺らした。


「翔君、また遊びに行こ」


 そう言って笑った彼女の仕草に、俺は心臓が跳ね上がったかのような錯覚を覚えた。胸に手を当てなくても鼓動が速くなっているのがわかる程に。

 無意識の内に赤面してしまっていることに気付き、咄嗟に彼女から視線を背けてしまう。しかしその頃には既に、彼女は俺に背を向けて図書室へ向かっていた。

「お、おう……」

 俺が西原の言葉に返事をしたのは、既に西原が歩き始めて、俺が立ち止まっている場所から一メートル程離れた後だった。


 どうして彼女が急にそんなことを言うのか、どうして名前で呼びたがったのか、その時俺は、考えもしなかった。



 そして次の日、西原は学校を休んだ。





「西原さんが学校を休むのは確かに珍しいですけど、どうして翔君が……っく……心配するんですか?」

 ガチャガチャと素早くコントローラーを動かしながら、俺の隣で葉月が問うた。

「そりゃお前……このッ……友達だからだろーがよ」

 同じくコントローラーを操作しつつ、俺は画面を食い入るように見つめながらそう答えた。

「へえ……っと……私の知らない間に、仲良くなったんですね」

「まあな……うおわッ! それ反則! それ反則!」

「ソレハンソク? 何の呪文ですかそれは。私にはわかりませんね」

「きったねー! 俺はまだ初心者だぞ!? コンボなんか使いやがって!」

「フ……ぬるいことを言いますね。コンボは格ゲーの醍醐味ですよ」

 葉月がそう答えるのとほぼ同時に、テレビの画面内で俺の操作していたキャラが吹っ飛ばされた。そのダメージで体力ゲージがゼロになり、葉月の操作していたキャラが勝ち名乗りを上げる。「芸がないな」じゃねえようるせえなこのデコ助野郎。

 俺は葉月と家のリビングでゲームをしていた。

 西原が学校を休んでいたため、放課後に図書室に行かなかった俺は、随分と久し振りに奏達と一緒に下校した。そのまま俺ん家で遊ぶことになり、今我が家には征と葉月が来ている。

 葉月に格ゲーで完敗し、意気消沈する俺の後ろでは征が画面を眺めている。

「はは、フルボッコだな翔」

「うるせえ空気エアキャラ。今日まで一切出番なかった癖に」

「……ッ!」

「葉月はちゃんと出てたのに、何だかんだで出番なかったよな……征」

「生徒会の仕事で忙しかったんだよチクショー!」

 なんか泣きそうな顔になったのでこの辺でいじめるのはやめといた。

「駄目だよお兄ちゃん、征ちゃんいじめちゃ……」

 そう言って、キッチンからジュースと人数分の紙コップを持ってきた奏は、それらを机の上に置いた。

「フォンタ?」

 俺はジュースに視線を向け、奏に問う。

「うぅん。フェンタ」

 もういいやファでもフォでもフェでも。

 奏は四つの紙コップへ順番にフェンタを注いでいく。色からして、味はオレンジだろうか。案の定オレンジだったらしく、オレンジですか? と問うた葉月へ、奏はそうだよ、と答えていた。

 でも飲んだらマンゴーの味がした。

「それにしても……心配だな、西原の奴」

 とりあえず味については気にしないことにした。

「お兄ちゃんさっきからそればっかり……。一日学校休むくらい、普通じゃない?」

 そう、一日学校休むことぐらい普通だ。だが西原は、二日前に頭痛を訴えた挙句記憶の一部をなくしている。事情を知っている俺としては、どうしても何かあったんじゃないかと心配してしまう。

「まあ、そうなんだけどな……」

「そんなに……西原さんが大切?」

 ボソリと。奏が何かを言ったが、その声が小さかった上に征と葉月が先程の格ゲーをやり始めたせいでテレビからゲームのBGMが流れ始め、奏が何て言ったのか正確に聞き取ることが出来なかった。

「ん、悪い、聞こえなかった」

 聞き返すが、奏は小さく首を振った。

「うぅん。何でもない」

 そう言った奏の表情は、どこか寂しげに見えた。





 それから三日間、西原は学校を休み続けた。

 誰に聞いても、担任に聞いても休んだ理由はわからない。しかし無断欠席というわけではないらしく、ただ「休む」と漠然とした報告があるだけらしい。休み時間に西原と話している女子達も、西原のメールアドレスや電話番号は知らなかったし、俺も何だかんだで聞き損ねていたため、連絡を取ることが出来なかった。

 そして西原が休み始めて四日目。結局西原は今週中一日しか学校に来なかったことになる。

 その日の帰りは、一人だった。征と葉月は生徒会の仕事。奏は部活の練習で、今晩の夕食当番である俺は一人で下校していた。

 夕焼けに染まる帰り道をゆっくりと歩きながら、西原のことを考える。結局、西原は月曜日以来、今日まで一度も学校へ来ていない。一日二日ならまだしも、四日目ともなると何かあったとしか思えない。インフルエンザの流行るような季節じゃないし、西原が特別身体が弱いなんて話は聞いたことがない。それ以前に、病気なら学校へキチンと連絡が入るハズだ。

 記憶関連で、何かあったのかと推測せずにはいられない。

 西原の記憶は不安定だ。いつどこで、どのタイミングで、どの記憶が消えるのかわからない。俺が西原と会うようになってから、西原の記憶が消えた話は最初に出会った時と日曜の件しか知らない。しかし、恐らく西原は俺に言ってないだけで、俺に出会った後も何度も記憶を失っているハズだ。言わないのは、余計な心配をさせないためか……?

 そんなことを考えながら、公園の前を通り過ぎた時だった。

 何気なく公園へ視線を向けた俺の目に、ブランコに座っている西原の姿が映った。

「――――西原!」

 すぐに彼女の傍へ駆け寄ると、西原はゆっくりと顔をこちらへ向けた。その顔は、少しだけやつれているように見えた。

「翔君……?」

「お前何やってんだよこんなとこで! 学校はどうしたんだよ!?」

 まくし立てるような俺の言葉に、西原は答えなかった。

「何か……あったのか?」

 恐る恐る問うと、西原は静かに頷いた。

「消えちゃう……」

「消える?」

 そう問うてすぐ、記憶のことだと理解した。

「怖いよ……。最近、ほとんど何も覚えられないし……事故より後の記憶が、どんどん抜けていっちゃう……」

 潤んだ瞳で俺を見る西原の顔には、不安の色が映し出されていた。

「昨日何を食べたのかも、何のテレビを見たのかも、お母さんとどんな話をしたのかも、何も……何も思い出せない……」

「西原……」

 不意に、西原は立ち上がった。そして目の前にいる俺の肩に――まるで後ろから何かに弾かれたかのように抱き付いた。

「――!」

「全部……全部忘れちゃうよ……っ! このままじゃ……全部……!」

 ジェンガはいつか、崩される。そう言った時の西原の顔を、俺は今でも覚えている。

「嫌だよ……忘れたくないよ……もうどんな記憶にも、消えてほしくないよ……っ」

 グッと。肩を掴む手に力が込められた。

 西原は――泣いていた。俺の肩に抱き付いたまま、ボロボロと涙をこぼしていた。彼女の目からこぼれた涙が、俺の肩を温かく濡らした。

 ちくしょう……何で……。

「忘れちゃうよ……このままじゃ、翔君のこと好きだって気持ちも、忘れちゃうよ……っ!」

 何で、こんな……。

「何でだよ……何で、コイツばっかりこんな目に……! 何で西原ばっかこんな目に合うんだよ……! 西原が何したっつーんだよ!?」

 俺の声は、誰もいない公園の中に響き渡るだけだった。

 悪いのは何だ? 西原か? 事故の原因となった車か? それとも、助けられた子供か? 無論、どれも違う。

 誰も悪くない。誰かを責めることさえ出来ない運命が、一番残酷だと知った。


 そっと。慰めるように俺は、西原の肩に腕を回した。

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