第四章「忘れないように。消えないように」
蘿蔔町に映画館なんてものはないので、映画を見に行くとなれば自然と町の外へ行くことになる。バスに乗ること数十分、市内へ出れば簡単に映画館へ辿り着くことが出来る。西原との待ち合わせ場所はバス停。映画の上映は午前中だから、休日だというのに平日と似たような時間に起きるはめになった。奏がいなければ間違いなく俺は寝坊していたことだろう。鳴り響く携帯のアラームを無視して眠り続ける俺を起こしてくれたのは、よく出来た我が妹奏だった。
「眠てぇ……」
欠伸をしつつ、誰に言うでもなく呟く。待ち合わせ時間より五分程早くバス停へ着いてしまったため、西原はまだ来ていない。
西原詩帆は孤立した少女だった。数週間前、確かに俺はそう考えていた。記憶障害を理由に友人と距離を作り、たった独りで懸命に記憶障害のことを隠していた。でも今は、俺がいる。彼女にとって俺は、複数いる知り合いの内の一人かも知れない。ゲームで言えば村人Aくらいの扱いなのかも知れない。それでも、俺は西原の力になりたい。例え空回りに終わるとしても、独りで頑張り続けた彼女の、最初の協力者くらいにはなってやりたい。記憶障害があったって、無理に距離を作る必要はないんだと、もっと青春を謳歌して良いんだと、教えてやりたい。現に、西原はあれ以来俺のことを一度も忘れていない。本の内容だって、数日前に交わした会話の内容だってちゃんと覚えてる。もしかすると、西原が思っている程深刻じゃないのかも知れない。
そんなことを考えていると、不意に背後に気配を感じた。
「どんな気分だ? SHO……」
「……………………」
「動けねえのに背後から近づかれる気分ってえのはたとえると……水の中に一分しか潜っていられない男が……限界一分目にやっと水面で呼吸しようとした瞬間! グイイッ……とさらに足をつかまえられて水中にひきずり込まれる気分に似てるってえのは……どうかな?」
グッと。背後から肩を掴まれる。
「しかし……てめーの場合全然カワイソーとは――」
「フリが長ぇよ! いつつっこめば良いんだよ俺は!」
「んー……時が動き始めるまで?」
「コアなネタはやめろよ! っつか地味につっこみ辛ぇな今のネタ!」
っつかSHOって何だSHOって。
「じゃあ別のシーンにする? 質問だ……右の拳で殴るか? 左の拳で殴るか? あててみな」
「そのシーンだと俺次のページでボコボコにされるよねえ!?」
「YES! YES! YES!」
「うるせえよ!」
今日も元気な西原詩帆だった。
「そういえば西原、ちょっと聞きたいことがあるんだが」
バスの中、隣で嬉しげにチケットを眺める西原にそう声をかけると、西原はすぐに俺の方へ視線を向けた。
「え、何? スリーサイズ?」
「そんな話はしてねえよ!」
「上から……」
「いや、恥ずかしげもなく答えようとすんなよ!」
「でもどうせ私のスリーサイズなんて、設定ファイルに細かく書いてあるんでしょ?」
「何の話だそれは!」
余談だけど、奏と葉月のスリーサイズを知ってる(葉月のは征一調べ)のは内緒。
「で、本題だけど、何でお前は自分の記憶が抜け落ちてるって気が付いたんだ? 忘れちまうんなら、気付けないんじゃないのか?」
「うぅん。記憶が所々抜けてるから、『あ、また忘れちゃったんだなぁ』ってわかるんだ……。記憶がなくなることは常に覚えてるわけじゃなくて、空白の記憶から記憶障害を連想してるから、私が記憶障害持ってるって自覚出来るの」
記憶障害だと常に自覚しているわけではなく、忘れている記憶があるとわかるから記憶障害だと判断出来る、ということらしい。
「最近は調子が良いから、あんまり大きなことは忘れないよ」
そう言って西原は静かに微笑んだ。でもその微笑みに、どこか儚さを感じた。
その後は夕焼けランナーズハイの話題で盛り上がりつつ(何故か俺も西原もファンだった)、バスで数十分、市内に到着してから歩くこと十分程で、俺と西原は映画館に到着した。映画館は沢山の客で賑わっており、カップルに子連れ、おじいちゃんおばあちゃんや野郎だけで来ている悲しい人達(西原と来た俺は勝ち組なんじゃないかな)がポップコーン売り場やチケット売り場に集まっていた。
「へぇ、結構人多いな。やっぱ日曜だからか」
「そうね……。あ」
口元に手をあて、何かを思い出したかのように声を上げる西原。
「ん? どうかしたか?」
「なんか……カップルみたい」
頬を赤らめ、恥ずかしそうにうつむいた西原に釣られて、ついつい俺も西原から顔を背ける。多分、真赤になってた。
「馬鹿なこと言ってないで……行くぞ」
「う、うん……」
変な空気になってしまった。
どうやら映画館に集まっていた客の大半が、「インシテミヨウトハオモワナイ」の客だったらしく、劇場内は人で賑わっていた。西原があらかじめチケットを用意してくれていなければ、見ることが出来なかっただろうと伺える客の数だった。俺が思っていた以上に、あの本は世間で沢山の人達に知られているらしい。
映画の出来栄えはかなりのもので、俺も西原も最後まで熱中して見ていた。原作の内容を踏襲しつつも、映画ならではの表現方法を駆使しているため、原作とは一味違った面白みがあり、原作ファンも原作味読の人にも十分楽しめる内容になっていた。熱中し過ぎてほとんど手付かずになっていたコーラに入っている氷が溶け、上映終了後に味の薄いコーラを飲むはめになったのは、俺も西原も同じだった。
見終わった後、西原は終始興奮した様子で、何度も何度も噛み締めるように映画の名シーンについて語っていた。
忘れないように。消えないように。
昼食まで少しだけ時間が余ったので、俺と西原は適当に市内をブラブラしてから昼食を取ることにした。昼食後の予定は何も決まっていないが、食べながらでも決めれば良いだろう。
西原は随分楽しそうにしているし、俺も楽しかった。思えば、こんなに楽しそうにしている西原の顔を、俺は今まで見たことがない。知り合って間もないだけにも思えるが、少なくとも学校では、西原のこんな表情を見たことはなかった。
「なんかお前、メチャクチャ楽しそうだな」
「そう? やっぱりそう見える?」
屈託のない笑顔で、西原はそう問うてきた。
「ああ。そんなに楽しそうにしてるとこ見たことねーよ」
「そうかもね……。嬉しいんだ、私」
不意に、感慨深そうな表情を西原は見せた。
「何がだよ?」
「だって普通じゃない? こういうのって」
西原のその言葉に、俺は胸を貫かれたような気分になった。
そうか、コイツは……
「友達と出かけて映画見て、こうしてブラブラ歩いてるって、すごく普通じゃない? それがすっごく嬉しいんだ……」
孤立していた少女。誰とでも仲が良くて、誰とも仲が良くない。
誰かと出かけたことなんて、数年ぶりだったのかも知れない。
――――だって普通じゃない? こういうのって。
いるのに、いないのと同じ友達。彼女が作っていた距離は、あまりにも悲しい距離だった。だからこんな、人から見れば普通のことでも、彼女には特別嬉しかったんだ。
俺と西原の距離は、急速に縮まっている。それが良いことなんだと、俺は信じて疑わなかった。
市内をブラブラと歩いている内に、昼食を取るには丁度良い時間帯になった。少し話し合った結果、お互いの財布のことも考えて手軽なファーストフード店で昼食を取ることになった。Mがつくあのお店なら、千円以内でたらふく食べられるだろう。
「よし、腹も減ったし、そろそろ行こうぜ」
「うん」
そう頷き、先を歩く俺の後を西原が追おうとした時だった。
「……うっ」
不意に、呻き声が聞こえた。
「――西原!?」
振り返ると、頭を抱えてうずくまる西原の姿があった。
「おい、大丈夫か!?」
周囲からの好奇の目線を感じつつも、すぐに西原の傍へ駆け寄った。
「う、うん……平気」
「平気って……ホントに平気なのか!?」
ゆっくりと立ち上がり、西原は大丈夫、とだけ静かに答えた。
「ホントに大丈夫か……?」
「うん、大丈夫だから……心配しないで」
そう言ってニコリと微笑んだ西原の表情は、どこかいつもより力がないように見えた。
あの後、西原が先程のように頭痛を訴えることはなかった。ファーストフード店に着き、適当に注文を済ませて、俺と西原は二人用の席に座った。
「それにしても……面白かったな、映画」
「……映画?」
そう言った西原の表情に、俺は不安を覚えずにはいられなかった。
「……何言ってんだよ? さっき見ただろ? 映画。メチャクチャ面白かったってお前も――」
西原のキョトンとした表情を見て、俺は言葉を途中で止めた。
「映画なんて……見たっけ?」
西原のその問いに、俺はすぐに答えることが出来なかった。