第二章「まるでジェンガ」
記憶障害。記憶の喪失、新しいことを覚えることが出来ない、などの記憶に関する障害のことを指す言葉。
彼女は、西原詩帆はソレだった。
記憶がするりと頭から抜け落ちる。ランダムに、無意識の内に。蓄積され続けるハズの彼女の記憶は、どこかがするりと勝手に抜け落ちていく。
例えば、小さい時のこと。例えば、中学生の時に習った数式。例えば、昨日のこと。
彼女の記憶が抜け落ちるようになったのは、彼女が中学生の時らしい。道路へ飛び出した近所の小学生を助け出そうとして、彼女が代わりにはねられた。その際に彼女は頭部を強打。すぐに彼女は病院に搬送され、一命を取り留めたが――彼女の脳には障害が残った。
それが、彼女の……西原の持つ記憶障害だった。
西原は自分の記憶障害のことを、まるでジェンガだと表現した。ジェンガのように組み立てられた記憶が、崩されないように一部分ずつ引き抜かれていく。
「ジェンガはいつか崩される」と。そう言った西原の表情は、どうしようもなく不安げだった。
西原が一通り話し終えた後、俺と西原の二人だけしかいない図書室に、しばしの静寂が訪れた。
いつもなら図書委員が甲斐甲斐しく仕事をしているハズの時間なのだが、今日の当番はサボタージュ中らしく、この図書室の中には俺と西原の二人だけしかいない。
「質問、良いか?」
沈黙を破って俺が問うと、西原は小さく頷いた。
「さっきの話が本当なら、何でお前は学校にいられるんだ?」
脳へ何らかの傷が入っているのはわかりきっていることだ。医者が、普通の学校へ通うことを良しとするとは思えない。
別に西原を疑っているわけではなかった。ただ純粋に疑問だっただけ。
「ノートを取っておけば、騙し騙しやっていける。友達の顔だって、全部忘れちゃうわけじゃないし……」
「医者は、反対しなかったのか?」
「脳を検査されたわけじゃないの。ただ頭を怪我しただけだって、診察されたから……。私自身、このことに気付いたのは事故の随分後だった」
「気付いた後、検査はしなかったのか?」
「親にも、誰にも言ってない」
「え……?」
「自分の記憶が抜け落ちるなんて、親に言えない……。知られたら、私……」
入院させられる。
普通のままでいたかった。今まで通り学校へ通って、友達と笑って、当たり前に過ごしたかった。と、彼女は泣きそうな顔で言った。
これで彼女の交友関係にも説明がつく。
誰とでも仲が良いから、誰とも仲が良くない。
広く浅い彼女の交友関係は、秘密を隠すため。忘れたくなくなる程に深く付き合うことを、彼女は拒んだ。相手も自分も、傷付くから。
だから距離を置いた。だから遠ざけた。
「お願い柚原君……このことは、誰にも言わないで!」
必死の、懇願だった。
今までに見たことのない必死な表情を見せ、彼女は俺に頭を下げた。
「西原……」
「お願い……何でも……するから……!」
何でもする。そんな自分を投げ出したような条件を、女の子が男に対して使うことにどれだけの勇気が必要だったかなんて、男の俺にでも容易に察することが出来た。
「顔、上げろよ」
静かに、西原は顔を上げた。その目は、涙に滲んでいた。
「わかったよ……。黙ってる。それと、『何でもする』だなんて、女の子が簡単に言うな。俺じゃなきゃ、何されてたかわかんないぞ」
「……うん」
滲んでいた涙に気付いたらしく、西原は両手で涙を拭った。
「でも、何でそんな大事なことを俺に話したんだ? しらばっくれれば済んだんじゃないのか?」
しらばっくれる方法はいくらでもあったハズだった。忘れていないふりをして、話している内に情報を引き出すことだって出来たハズだし、適当にあしらって逃げることだって出来たハズだった。
あ、と。彼女は間の抜けた声を上げた。気付いてなかったらしい。
「ごめんなさい。一度話した相手のことを、こんな短期間で忘れちゃうのって……初めてだったから」
仕方ないこととは言え、ちょっと凹む。俺以外の場合は短期間じゃ忘れなかったってことか……まあ良いけど。
「気が動転しちゃって……」
正直に話してしまった、ということらしい。嘘の吐けない子なのかも知れない。
「……まあとりあえず、このことは秘密にするから安心しろよ」
「うん……」
そう言って彼女は、安堵した表情で頷いた。
西原詩帆の記憶障害に関して知っているのは、どうやら現段階では俺一人らしい。昨日の話だと親にはまだ話していないらしいし、記憶障害について話さなければならない程深く付き合っている友人もいないようだ。俺と同じく二年間西原と同じクラスだった葉月にも色々聞いてみたが、西原の交友関係は俺が見たそのまま――つまり、浅く広い交友関係だった。西原の場合は、浅過ぎるような気もするが、記憶障害のことを考えれば適切な判断だと思える。
本末転倒には、なっていない。学校へ通い続けるために交友関係をなくしてしまったのでは、記憶障害を周囲に隠してまで通っている意味の大半が失われてしまう。だから西原は、交友関係の全てを浅くしてまで誰かと友達でいようとした。俺の勝手な憶測だが、あながち間違ってはいない気がした。
「しかし何故、西原さんのことを?」
怪訝そうな表情で問う葉月の隣では、奏が茶化すように惚れたのー? などとのたまっている。
「いや、大した理由はないんだけどな。一昨日西原と初めて話したから、ちょっと気になってただけだ」
「身体目当てですか?」
「身体は目当てじゃねーよ!」
「ではカバラが目当てですか」
「何で思想の話になるんだよ!?」
「ではやはり、身体ですか」
「そこに執着する理由が俺にはわからない!」
「通報しました」
「恐ろしい程素早い手際で通報された!?」
「東方しました」
「弾幕系同人シューティングゲーム!?」
「梱包しました」
「何を梱包したんだ何を!?」
「貴方に関する記憶を」
「大事な幼馴染との記憶を梱包してんじゃねえ!」
朝からやたらと元気な俺だった。
蘿蔔学園への登校は、いつも妹の奏と幼馴染の姫宮葉月、そして葉月の兄である征一と一緒だった。とは言っても、征は生徒会の仕事で俺達より先に学園に行くことがあり、稀にこうして三人で通っている。
姫宮葉月は、どこかふわふわっとした空気の少女だった。とは言え、抜けているわけではなく、征の手伝いで生徒会の仕事を手際良くこなすし、成績だって悪くない。平均的な身体付きで、ベージュの長い髪が美しい。赤いリボンを付けているが、これがまたややこしい付け方をしているため、何故こんなめんどくさそうな付け方をしているのか俺にはちょっとというかかなり理解出来ない。いやまあかわいいんだけども。
「でねでね、その時先生がね……」
ふと、俺の隣を通り過ぎた少女に目を奪われた。
肩の辺りで黒い髪を切り揃えた、俺より一回りどころか二回り程も小さい女の子だった。来ている制服は紛れもなく蘿蔔学園の女子制服で、小中学生ではなさそうだった。
「ねえ、聞いてる?」
「ん、ああ。聞いてるぞ。今日の登板は反町――」
「それはもうこの間やったよね」
二番煎じだった。
昨日借りた本を返すために図書室へ行く。という行為を三日連続で行うと、まだ三回目だというのに何だかもう日課になってしまったような錯覚を覚えてしまう。西原に進められたからとは言え、何でこんな長いシリーズ物を読み始めてしまったのかは未だに解明されていない謎の一つなのだが、一日一冊のペースで読んでしまう程面白い本だということだけは確かだった。
図書室のドアをゆっくりと開き、中へと入る。中では何人かの生徒が読書もしくは勉強に没頭していた。彼らの集中をなるべく乱さぬよう、静かにドアを閉めた。
「あ」
と、短く声が上がった。
「あ」
声の主を見て、俺も同じように声を上げた。
西原詩帆が、先程まで読んでいた本から目を離して、俺の方を見ていた。
西原の座っている席まで歩み寄ると、西原はニコリと微笑んだ。
「柚原君……」
どうやら今度は覚えていてくれたらしい。俺の名前を呼ぶと、すぐに彼女は俺の持っている本へ視線を移す。
「面白かった?」
「ああ、面白かった」
すぐに本の話だと気が付き、俺はそう答えた。
それからしばらく西原と本について語り合った。本について話す彼女は本当に楽しそうで、昨日見せた不安そうな表情がまるで嘘のようだった。
「本の内容は忘れても、読み直せばまた覚えられるから」
そう言った彼女は嬉しげに見えたが、どこか寂しそうにも見えた。
以来、俺と西原は毎日のように図書室で会うようになった。
それが、彼女が今まで遠ざけていた「深い付き合い」だということに、俺も彼女もその時は気付かなかった。否、気付かないふりをしていただけなのかも知れない。