第一章「まるで、初対面」
西原詩帆は、孤立した少女だった。孤独なわけではなく、孤立しているだけだった。いじめられているわけでもないし、友達がいないわけでもない。彼女が誰かと話をしているところなんて数えるのも億劫な程に見てきたし、休み時間に彼女がクラスの女子と一緒に廊下を歩いているところだって何度も見た。孤独じゃない。しかしそれでも、俺には孤立して見えた。
西原と友人の間にはどこか距離があるように見える。そしてその距離は、西原自身が友人達を少しだけ遠ざけることで作っていた距離なのだと俺は思う。傍から見れば、西原は友人の多い少女だったし誰とでも仲が良かったと言える。
誰とでも仲が良いから、誰とも仲が良くない。
言い得て妙だった。誰とでも仲が良いから、誰とも親密な関係にはならない。広く浅い西原の交友関係を的確に表した言葉だと俺は思う。
西原が、誰かと一緒に帰っている姿を俺は見たことがない。放課後の彼女は、いつも独りだった。
だから、孤立して見えた。
「お兄ちゃん、聞いてる?」
「聞いてる。今日の登板は反町○史だったな」
「どこのチームの話かわからないし、反○さんは俳優だよ!?」
「夕焼けランナーズハイの反町隆○は正真正銘のピッチャーだ。得意な球種はデッドボール」
「バッターに球ぶつけてるだけじゃん! っていうか何そのエンドルフィン分泌中なチーム名!?」
「エンドルフィン分泌なう……っと」
「携帯からツイッターで変なことツイートしないで! それにお兄ちゃん今エンドルフィン出てないじゃない!」
「グラップラーたる者、耳たぶを曲げるだけでしゃきーんッとエンドルフィン出せないと駄目だ」
「お兄ちゃん範馬の血筋だったの!?」
ツッコミ上手な妹だった。
「今日の夕飯の当番は私だから、何が食べたい? って聞いてるのー!」
そう言ってジト目で俺を見つめているセーラー服姿の少女は、妹の柚原奏だ。茶髪の長い髪をツインテールにしている背の低い少女だ。ツインテールとは言っても一般的な高い位置で結っているものではなく、少し下の方で結んでいる。前にツインテールだかおさげだかわかんねえよ! とつっこんだのだが、どう見てもツインテールでしょ、と澄ました顔で返された。
それにしても当番と登板、惜しい。
「そうだな……別に何でも良いんじゃないか? 奏の作った料理なら俺は何でも喜ぶさ」
「そっか……。じゃあ、帰るまでにジックリ考えとくねー」
屈託なく笑うと、奏は早速夕飯について考え始めたのか思案顔になる。そんな奏を見、俺は静かに微笑した。
俺、柚原翔の家は両親が不在だ。うちの両親は共働きで、おまけにどちらも海外出張。おかげで高二の俺と高一の奏の二人暮らし状態だ。お金に関しては両親が仕送りをくれるので、生活には困らない。家事は当番制で、食事当番やゴミ出し当番等の仕事を交代でこなしている。
奏は俺なんかには勿体ない程に出来の良い妹で、どこに出しても恥ずかしくない自慢の妹とも言える。
出来の良い妹と、生活に困らない程度に仕送りされる金。そして友人。不自由のない、幸せと言っても過言ではないような生活を、俺は送っていた。
奏との帰り道、何故突然西原に関して考え始めたのかというと、その日、西原詩帆と初めて言葉を交わしたことが原因だった。言葉を交わした――とは言っても非常に些細なことで、廊下ですれ違った西原と肩が軽くぶつかり「あ、ごめんね」と謝られ、それに対して気にしないでくれと答えた……ただそれだけの話だった。
西原の顔を間近で見たのは、その時が初めてだった。何故クラスで目立たないのかと不思議に思う程に整った顔立ちをした彼女は、正に美人と形容するに相応しかった。俺自身の好みを差っ引いても彼女の美しさは本物だと言えた。しかし、西原に彼氏がいたという話は聞かない。もしかすると、俺が色恋沙汰に疎いだけなのかも知れないが……。
「西原に彼氏? 聞いたことないぞ。告ったって奴は何人も知ってるけどな」
焼きそばパンを片手に、双見龍二は屋上のフェンスにすがった。この、ブレザーの似合うイケメン眼鏡は一応俺の親友で、中学からの付き合いだ。俺と龍二の二人は、よくこうして屋上で話をする。屋上には他の生徒も何人か来ており、グループごとに固まっている。ちなみに龍二が食べている焼きそばパンは昼食でも何でもなく、コイツが持参している「おやつ」だ。どうも弁当じゃ足りないらしく、昼食後はいつもパンを食べている。
昼食はいつもなら奏と、幼馴染の姫宮葉月、それから龍二の俺を含む四人で食べるのだが、今日は奏と葉月が生徒会長である兄、姫宮征一の手伝いをしているため、いつも通り暇なのは俺と龍二の二人だけだった。そのため、いつもなら教室でワイワイやっているハズのところを、こうして龍二と二人切りで屋上にいざるを得ない状況になっている。
「翔、もしかしてお前西原に惚れたか?」
残りの焼きそばパンをかじりつつそう問うた龍二に、俺はまさか、と答えた。
「惚れたとか、そういうんじゃねえよ。ちょっと気になっただけだ。あんなに綺麗なのに、彼氏いないんだなーって」
「ま、告る奴全員振る上、自分から告りもしないんじゃ彼氏も出来ねーわな」
告白した相手を全員、振っている。なんともまあ、身持ちが堅いことだ。
何か理由でもあるのだろうか。少しだけ考えてみるが、どうにも思いつかない。まあ、よく知らない相手の事情を想像するのは難しいし、少し気になっただけだ。深く首を突っ込むつもりもない。
しかしそれでも、彼女の身持ちが堅い理由と、友人から距離を置いている理由は同じような気がしていた。
「葉ちゃんとカラオケ行くから、図書室に本返しておいてー」
奏のそんな一言のせいで、俺は分厚い本を片手に図書室に向かうことになっていた。俺の通う学園、蘿蔔学園の図書室の蔵書量はそれなりに多く、本好きにはたまらない図書室らしい。個人的にはどうでも良いけど。
もう蘿蔔学園に入学して一年経っている。故に、図書室の場所など迷うことなく辿り着くことが出来る。二階の渡り廊下から西校舎へ向かい、右へ曲がって奥まで進めばもう図書室だ。奏や葉月に付き合わされて何度か行っているため、図書室で本を借りたことのない俺でも迷わず辿り着ける。
「あの、すみません」
渡り廊下の前で、後ろから少女の声がした。
「ん?」
振り返り、声の主へ視線を向ける。と、そこにいたのは西原詩帆だった。腰まで届く長く艶やかな黒髪に、女子としては高い身長、セーラー服のスカートから伸びたすらりとした足は、間違いなく西原詩帆だった。
「……西原?」
「え、あ……はいっ」
何故か、名前を呼ばれたことに驚いたような仕草を見せる西原。
「どうかしたのか?」
「あの、図書室の場所……教えてもらえませんか?」
「図書室って……」
そもそも何故敬語なのか、という部分から疑問なのだが、それはまあ良いだろう。葉月みたいに敬語がデフォルトの奴だっている。それより不思議なのは、一年とちょっと通っているこの蘿蔔学園の図書室の位置がわからないということだった。図書室を利用したことがないのだろうか? しかし、彼女は大事そうに図書室で借りたのであろう本を持っている。
「丁度俺も行くとこだったんだ。一緒に来る?」
「あ、はい! お願いします!」
馬鹿丁寧に頭を下げると、西原はニコリと微笑んだ。
西原を図書室へ案内し、俺と西原は本を図書室へ返した。ついでに何か借りたかったらしく、西原は目的の本を探している。帰っても奏が帰るまですることも特にないし、今日の夕食は店屋物で済ませるつもりだったので、そのまま西原が本を探すのに付き合っていた。
「あの、名前、教えてもらえませんか?」
本棚をじーっと眺めつつ、西原は不意に問うた。
「え? 名前……?」
西原にとって俺は、名前すら覚えられないようなどうでも良い存在だったらしい。一年同じクラスだったのに顔も名前も覚えられていないというのは、結構な精神的ショックだった。一人沈む俺に西原は視線を向け、キョトンとした顔をしている。
「……柚原翔。西原と同じ、二年二組だよ」
「えっ……」
やはり覚えていなかったらしく、西原は驚いた風な表情を見せた。が、すぐにその表情はどこか悲しげな表情へと変わる。
「そっか。同級生だったのね」
すぐに、西原の悲しげな表情は消えた。
「私は、西原詩帆。よろしくね」
同級生だと判明した途端のタメ口だった。
いや、別に良いけど。
「ん、ああ。よろしく」
俺と西原のやり取りは、同じクラスで一年共に学んだ者同士のものだとは到底思えなかった。
まるで、初対面。
西原と自己紹介をし合った翌日の放課後、俺は再び図書室へ向かっていた。今度は奏のせいではなく、昨日俺が図書室で本を借りたからだった。
あの後西原に本を勧められ、断るに断れなかった俺は、興味もないのに本を一冊借りるはめになった。帰宅後、とりあえず読んでみるくらいはしようと本を開くと思いの外面白く、睡眠時間を大幅に削ってまで本を読み切る形になってしまっていた。しかもシリーズ物だったせいで、今朝からずっと続きが読みたくてたまらなかった俺は、急いで図書館へ向かっていた。
渡り廊下へ着くと、そこには本を持ってボーっと突っ立っている少女がいた。腰まで届くその黒髪から想像出来る人物は、西原しかいなかった。
「おーい西原ー」
お前も本一日で読んじゃったのか? そう言おうとした俺の口は、西原の言葉が原因でつぐまれることになる。
振り返った西原は、俺に奇異の視線を向けていた。
「あの……どちらさまですか?」
ピタリと。俺は動きを止めた。