エピローグ
ベッタリとした汗で、俺の額に前髪が貼りついた。軍手をはめた手で前髪をかきあげ、額の汗を右手でぬぐった。
「おい、次こっち頼むー」
「あ、はい!」
すぐに答え、俺は指示された通り、重たい木材を運ぶために手をかける。
中願寺に借りた金を返すため、俺はただひたすらにバイトに明け暮れていた。平日は放課後、休日は一日中。毎日毎日バイトバイトバイト。そうでもして貯めなければ、五百万円なんてとても返せそうじゃない。出世払いで良い、という考え方もあるかも知れないが、なるべく早く返した方が良いだろう。なるべく早く、中願寺に人を信じられるようになってほしい。そんな思いも込めて、だ。
今日は休日だが、予め仕事先に言っておいて、昼までにはバイトが終われるように頼んでおいた。今日は大事な約束がある。今日は週に一度の――彼女に会いに行く日だ。
汗だくで家に帰ると、すぐに奏が出迎えてくれた。もうすぐ帰る、とメールをした時からずっとタオルを持って待っていてくれたらしく、玄関に入るとすぐに「おかえり」という言葉と共にタオルを渡された。我ながらよく出来た妹だと思う。
「お昼どうする? 食べてから行く?」
「ん……ああ、食べてから行くよ。何か適当に作っといてくれ。とりあえずシャワー浴びてくる」
「うん、わかった」
奏はそう答えてニコリと微笑むと、台所へパタパタと駆けて行った。
シャワーを終えて居間へ向かうと、何故かそこには葉月と征がいた。呼んだ覚えはないのに、二人共我がもの顔で食卓に座っている。まあ、いつものことだし、アイツらは家族みたいなもんだしな。
「よぅ翔。頑張ってるみたいだな」
「まあな。家でゴロゴロしてるどっかの誰かさんとは違ぇよ」
「大学生の夏休みは長いんだよ。もう暇で暇でな……」
奏の入れてくれた麦茶を飲みつつ、征はそんなことをのたまった。
「葉月は勉強の方、はかどってるか?」
「ええ、まあ……」
葉月はやや答えにくそうにそう答える。
「俺のことは気にすんなよ。俺が選んだ道だ。後悔はないさ」
葉月は、自分だけ進学しようとしていることを気にしているらしい。俺が進学せずに就職するのは、俺が自分で選んだ道だ。彼女のために五百万円を借りて、それを早く返すために就職する。
葉月が気に病む必要は、全くない。
「葉月は葉月で、やりたいことやれよ」
「そう、ですか。でも翔君は――」
言いかけ、葉月は閉口した。その続きに何を言おうとしたのか俺が尋ねるより先に、奏が人数分作った炒飯を食卓に運んできた。
「それじゃ、食べよっか」
「……だな」
バイトで忙しかったせいか、久しぶりに学校以外の場所で四人そろって食事をしたような気がする。懐かしい空間と空気の中、俺は奏の作った暖かい炒飯を噛みしめるようにして咀嚼した。
「やっぱり、うまいよ」
俺の言葉に、奏は照れ臭そうに笑った。
病室で彼女は、ローズマリーに水をやっていた。何の歌かはわからないが、リズム良く口ずさみつつ、長い髪を揺らしながら頭を小さく左右に振っている。そんな彼女の姿をしばらく見ていたくて、俺は声をかけるのをためらった。
いや、本当は違う。俺がためらったのは、もっと別の理由。
「また、水やってるのか?」
「うん」
歌うのをやめはしたものの、俺に背を向けたまま、彼女は短く答えた。
「今日も来てくれたの?」
「まあ、な」
じょうろを棚へ置き、そう問うてきた彼女へ俺はやや照れ臭そうにそう答える。
「そっか。ありがと、柚原君」
彼女はもう、俺のことを「翔君」とは呼ばない。
彼女――――西原詩帆の手術は成功した。損傷していた彼女の海馬は修復され、彼女の記憶障害はなくなった。彼女の脳は、元に戻ったのだ。
そう、元に。
――――そして仮に手術が成功して治ったとしても、彼女は……彼女は、記憶を全て失うことになるでしょう。
それが医師の、言葉だった。損傷した海馬を修復するということは、海馬へ刺激を与えるということ。損傷した状態で、不安定なまま繋ぎ止めていた記憶が手術の時にどうなるのか……想像に難くなかった。
消したくない。忘れたくない。と、彼女が一生懸命に繋ぎ止めていた記憶は、跡形も無く彼女の中から消えた。ほんの一欠けらすら残さずに。
西原が手術に成功してからの一年間、彼女は一度たりとも俺のことを「翔君」とは呼ばなかった。
――――私が忘れても、覚えててくれる?
――――私が忘れちゃっても、私が翔君のこと好きだったってこと、覚えててくれる?
覚えてるよ。ずっと。
忘れないよ。ずっと。
何年でも。何百年でも。何万年でも。例え骨になった後だとしても、覚えてる。ずっと、忘れない。そんなの無理だって、自分でもわかってる。自分で笑っちまうくらいには、そんなのあり得ないって、わかってる。でも、それだけあり得ないことが言えるくらい、俺は西原のことが――――好きだから。
約束は違えない。
辛くても、ふんばるから。
例えもう二度と、俺のことを名前で呼ばなくても。
忘れない。なかったことになんか、しない。消したりしない。
俺は西原が好きで、西原も俺のことが――好きだったから。
もう西原がこれ以上病院にいる理由はあまりない。念のためということで未だに入院生活を続けてはいるが、彼女の脳や身体にはもう異常がない。退院の日は、近かった。
彼女が退院すれば、もうこんな風にして会うこともない。もう二度と、前みたいな関係には戻れないだろう。西原が俺を好きだったという記憶は、もう彼女の中には存在しない。今の俺と西原は、入院患者とお見舞いに来る友達だ。
西原の母に、西原へ俺と西原の前の関係は伝えないように頼んだ。記憶を失った彼女にそんな話をすれば、彼女はまた苦しむことになる。忘れたことを悔やんで、思い出そうとして、思い出せなくて……。そうなれば俺の存在は、彼女を苦しめるだけになる。それだけは、嫌だった。
もう西原は、十分苦しんだから。
「それじゃ今日はもう、帰るよ」
少しだけ話をして、俺は西原へ背を向けた。これ以上長くいても邪魔になるだろうし、俺自身、居心地があまり良いとは言えない。記憶を失う前の西原のことを思い出せば出す程、やるせなくなる。
「うん、いつもありがとね」
「ああ。お大事に」
背を向けたままそう答え、ドアノブに手をかける。医師から聞いた話では、西原が退院するのにもう一週間もいらないそうだ。バイトの忙しさ故週に一度、この日くらいにしか会えない俺にはもう、西原にはほとんど会えないだろう。彼女は退院後、別の学校へ編入する。休日に家にまで押しかけるような真似は出来ないし、多分今日で西原に会うのは最後になるだろう。
忘れないよ。
これが最後だとしても。
ゆっくりとドアノブを回そうとして――ためらった。
「待って!」
ピタリと。ドアノブにかけた手を、俺は止めた。
「まだ、行かないで……」
彼女の言葉に目を丸くし、俺はゆっくりと振り向いた。
「翔君」
西原が今、俺のことをそう呼んだ気がした。
Floral Hearts ~忘却のローズマリー~、今回で連載終了です。
STARLIGHT先生原案の企画、FH企画の一つとして投稿したFHローズマリーでしたが……恥ずかしい!
台詞も展開ももう何もかも恥ずかしい!
恋愛物を書き慣れていないせいで余計恥ずかしい!
そんな恥ずかしさ全開の作品ですが、よろしければ、感想や評価などをいただければと思います……。
不定期ローペース更新でしたが、これまで付き合って下さった皆様方、本当にありがとうございましたm(__)m