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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

来迎屋

ダキニの恋

掲載日:2026/03/26

 1 伊綱



伊綱(いづな)!」


 母の声に体を強ばらせる。家というには粗末な仮説小屋の裏で、ぎゅっと体を縮めた。幸い体が小さいため、積み上げられた木箱の影に見つからないよう隠れることは容易だった。今は誰にも会いたくなかった。母でさえも。


 空は紅に染まり、烏の叫びは耳につく。禿鷹が西に飛んでいく。


「伊綱、ここにいたのか」


 低い声が上から降ってきた。恐る恐る天を仰ぐと、母の顔があった。辰砂のような瞳に、小麦色の肌、大きな狐耳、炭のような黒髪。私がどうしても手に入れられないものを、母は当然のように持っている。その強さも美しさも、ダキニ族の族長たるには十分だった。


「どうした、また虐められたのか。みんな心配しているぞ」


「わ、私なんて、誰も……」


 視界の端に、自分の白い髪が映る。大嫌いな髪だった。ダキニ族の他の女たちは皆、母のような深い黒髪なのに、なぜ私だけこんな色なのだろう。


「私なんて、なんて言うな。今日は若い男の肉が手に入ったからな。宴だぞ、早く来い」


 そんなこと百も承知だ。いい肉が手に入ると、皆浮き足立つから嫌でもわかる。宴、それはよりによって族長の娘が出来損ないだということをこれでもかとわからされる場所だった。狩りも、手仕事も、人と喋るのも苦手な自分は、ダキニ族の中で居場所がない。加えて、この白い髪。今日だって、散々虐められたばかりなのだ。また宴の爪弾きになるのは目に見えている。


「……行きたくない」


「伊綱」


「行けば、また、私のせいで、母さんがなんか言われる。私が、こんな髪だから……」


 私が、こんな娘だから。


 母は大きなため息を一つつくと、その美しい顔に笑みを咲かせた。


「わかった。今日は母さんも宴には出ない!」


 木箱の上の埃を簡単に払うと、母はその上にどっかりと座った。


「それはダメだよ、母さん族長でしょ、出なきゃ」


「私の可愛い伊綱がいなきゃ、いくら若い男の肉だって美味しくないからな。今日はここで一晩明かそう」


 母の尻尾が揺れる。夜のような黒い尻尾が。


「だから伊綱、言いたいことは全部言って、思う存分泣け。大丈夫、母さんがついてる」


 思わず、涙が滲んでくる。涙は大粒の雫になり、地面を黒く染めていく。私は、人目も憚らず泣いた。大声を上げて泣いた。泣き止むまでずっと、母は隣にいてくれた。


 ***


 結局宴には顔を出したが、肉を食べるだけ食べてすぐに抜け、そそくさと自分の天幕に帰った。布団に入ったが、目を閉じると虐められた時のことが頭に浮かんできてしまい、上手く眠れなかった。ただでさえダキニ族は人々に恐れられ、迫害されているというのに、ダキニ族の輪の中にも入れないのでは、私の行く場所はどこにもなかった。


 遠くから宴の音が聞こえていた。笑い声に加えて、楽しげな音楽も風に運ばれてくる。あの中心に母はいる。誰からも愛される母が。皆を照らす太陽のような母が。


 ようやくあたりも寝静まったころ。母が天幕に帰ってきた。どうせ遅くまで片付けを手伝っていたのだ。族長だからといって、木端な仕事を他人に任せる人間ではなかった。


「伊綱、起きているか」


 一瞬返事をするか迷ったが、嘘をつくのは苦手なので、渋々身を起こした。


「星読みに聞いたんだが、今日は星が流れるそうだ。見に行かないか」


「他の人は?」


「いない。二人だけだ」


 母は、皆には内緒だ、と言って笑った。


「じゃあ、行く」


 ほっぽってあった片刃剣を腰に差し、天幕を出る母の背中を追う。数十の仮設集落を抜けると、永遠に続くかと思われる荒野が広がっている。一陣の風が、頬をすり抜ける。砂の匂いが濃くなる。母は岩が積み上がった高台を見つけると、その岩の上に腰掛けた。母の隣に腰を下ろす。母のお気に入りの、甘い香油の匂いがする。


 目が周りそうなほどの満天の星だった。生き物の息吹は、どこにも感じられなかった。地上に目を下ろすと、今までいた天幕の集落は、虫ほどに小さくなっている。


「その髪が嫌か?」


 母は大きな手で私の頭を撫でた。


「嫌だよ。どこ行っても虐められるし」


「そうか、そうか」


 相変わらず明るい笑顔を見せると、母は少しだけ遠くを見つめた。


「伊綱のその白い髪は、お前の父さんから譲り受けたものだ」


「……父さん?」


 父、という存在は知っているが、ダキニ族には、掟だかなんだかよく知らないが、男はいなかった。もちろん、父の話など聞いたことがない。


「ダキニ族は、今でこそ他の種族と交流して食糧を補えているが、昔は悪いことや辛いことをして、食べ物を得ていた。私も一時期、ひどい仕事に就いていてね、そんな時に出会ったのが伊綱の父さんだった」


 母の瞳が陰る。その寂しげな横顔は、私の知らない顔だった。


「父さんは、来迎屋(らいごうや)だった。白い髪に、紫水晶のような瞳をしていたな。父さんは出会うや否や、私が殺した獲物に向かって、経を読み始めたんだ。死者を正しい輪廻に還す、来迎屋、という職があるのは知っていたが、実際に見るのは初めてでね。度肝を抜かれてしまった。私が唖然としていると、父さんはこう言った。君はこれからこの人を食べるんだろう、と」


 獣人ダキニ族が恐れられている理由。それは食人の必要があるからに他ならない。人間以外の食料も食べられるが、それで完全に腹の足しになるかといえばそうではなかった。人間の血肉こそが唯一の糧なのだ。一度食べれば一週間は保つが、それ以上空けると永遠の眠りに瀕する。


「それで、怒られたんでしょ。坊主ってのは、そういう人種だから」


 母は首を振った。


「私も怒られると思った。でも、父さんは違った。自分で殺したものを、責任を持って食べる、それは人間が長く忘れ去った、正しい行いだ、と言ったんだ」


「……それ本当に坊主? 変な人だよ」


「ああ、その通り本当に変な人だったよ。坊主のくせにいつも明るくて能天気で、優しくて。私はいつしかあの人に憧れていた。今でも、毎日思い出すよ」


 そんなに焦がれる男なら、なぜ一緒にいないのだろうか。ダキニ族以外の人々は、つがいで行動しているのをよく見るのに。


「それで、父さんはどうしたの」


 そう聞くと、母は哀しげに笑った。


「別れたよ」


「なんで」


「……ダキニ族には、子をその腹に宿した時、夫と離れなければならない掟がある。ダキニの女にとって、一番美味しいと言われているもの、それは、愛する男だからだ。子供を腹に宿したら、いつもより腹が減るのが早くなるのも相まって、父親というものはこれ以上ないご馳走に見えてしまう」


「そんな悲しいこと」


 思わず岩上の砂を握る。固唾を飲む。


「違うよ、伊綱。悲しいんじゃない。愛しているからだ。愛しているからこそ、そのためにその身を全て、自分の腹に取り込みたくなってしまう。でもそれで殺して食べてしまっては、この国じゃ重罪人扱いだ。そのために掟があり、離別がある。おい、伊綱、泣くな」


「だって、母さん、ずっと父さんのこと好きなのに」


 母は、優しく私を抱きしめた。母の香りがふわりと広がる。太陽の香り、を表すなら、こんな感じなのだろうか。甘くて、そして乾いた香り。


「伊綱は、優しいな」


 小さく、つぶやくような声だった。


「母さんが言いたかったのは、伊綱の白い髪は、母さんが愛する人の白い髪だってことだ。誇りを持て、伊綱。その白い髪とダキニの血は、父さんと母さんが生きた証でもあるんだから」


 母が宙を見た。つられて顔を上げると、星屑の海の中、一欠片の光が真っ直ぐに泳いでいるのが見えた。泳ぐ星は次第に増え、流星たちは優しい光を地上に落とす。


「父さんに、いつか会えるかな」


「きっと会えるよ。父さんも私たちも、見上げる空は同じだから」


 母は、わしゃわしゃと私の白い髪を撫でた。


 母に言われると、私の白い髪もそう悪いものではないような気がしてきた。両親の願いを引き継いで私がここにいるのだ。


荼鬼(だき)様!」


 その名は現在の母の名であり、族長が代々襲名する名だった。呼ばれた声の方を見ると、同じくダキニ族で警備を担当している伊織(いおり)だった。おかしい、今日は夜の見張りだったはずだ。伊織は全身に汗をかいており、その黒い肌には先ほどまでなかったはずの傷跡が無数についている。


「どうした、伊織」


 母の顔に緊張が走る。伊織は居住まいを正すと、暗い面持ちで口を開いた。


「天幕が、襲撃されています」


 伊織はその言葉を告げるや否や、地面に倒れた。


 ***


 そこはもう火の海だった。人の肉が焼ける匂い、その香ばしさを感じてしまう自分が嫌だった。見知った顔がいくつも地面に倒れ、それは山となっていた。その人の山に、火がくべられる。


「しっかり焼いとけ、もとより化け物の女たちだ。化けて出るかもしれんぞ」


 見たことのある人間だった。蓄え編んだ髭は確か、祭りの時見た。中央舞台を見下ろすように欄干から見つめていたこの人物は、この郡の領主ではなかったか。


「お前は……」


 絶句した母にも、この人物の正体がわかっているのだろう。私の手を握る力が強くなる。


「まだ残っていたか。……ほほう、化け物にしては美人じゃないか」


 いやらしい笑みだった。宝石に彩られた美しい着物なのに、なぜかそれが酷く汚らしいものに思えた。


「貴様、我が一族の愚弄は、許さんぞ!」


 母は領主に掴みかかろうとするが、いつの間にか現れた領主の手下によって乱暴に捕らえられる。手下は二、三人で母をがっちり固定すると、頭から地面に叩きつけた。突き飛ばされた衝撃で思わず繋いだ手が離れてしまい、私は少し離れた場所に尻餅をついた。


「何をする!」


 地面から睨みつけるその瞳は、炎で一層紅蓮に染まる。


 領主は私の存在が初めて目に入ったのか、こちらに視線を向けた。氷の刃が背中に伝うかのような恐怖が、体を走り抜ける。動くことなど、声を上げることなど不可能だった。母はそれに気づくと、押しつぶされたようなうめき声を出した。


「やめろ……娘の命だけは……」


「うるさい」


 母の首に、槍が振り下ろされた。


 刃には黒い油が塗られている。後に私は、それは致死量の毒だと知ることになるが、その時はまだ知らない。とにかく、母の頭蓋はその瞬間に胴体から離れた。あんなに煌めいていた瞳も、今では赤い空洞だった。泉のように吹き出した血を、いかにも穢らわしいとでも言いたげに領主は拭う。


 叫びたかったのに、喉が潰れてしまったかのように動かない。この場にはもう、ダキニ族はいない。助けなどどこにもない。体がバカみたいにガクガクと震えていた。


「どうします、処理しますか」


 手下の声は、あくまでも冷静だった。惨劇など起こっていないかのように。


「こんな子供じゃ、荒野に投げ出されたらどっちにしろ生きてけねえだろ、ほっとけ」


 領主とその手下たちは、ろくに後片付けもせずそそくさと撤退していった。燃えるダキニ族の山と、冷え固まった母を前にして、私は一歩も動けなかった。


 夜空に星々が輝いていた。こんな夜なのに、荒野を寂しく照らす星々は、残酷なほど綺麗だった。星も人間も、王に存在を許されているのに、なんでダキニ族は死ななければならないのだろう。この世界に、ダキニ族の居場所はどこにもないのだろう。遺体の山は闇を照らし、私は一人だけ生き残ってしまった。なぜ、私は生きているのだろう。母は、なぜ私を生かしたんだろう。こんな、生きていてもしょうがない世界に。


 考えるまでも、ない。


 今までピクリとも動かなかった足に、急に力が入る。母親に駆け寄ると、その黒い肌から耳飾りを外した。そのまま私の耳につける。頬に一筋、涙が伝う。これを最後の涙にしようと誓った。


「……これより、ダキニ族の族長を襲名する」


 煙を含んだ空気を、思い切り吸い込む。誰もこの場に生きていない今、その言葉は自分に言い聞かせるためにあるようなものだった。


「私は荼鬼。ダキニ族の、荼鬼だ」


 弱虫な伊綱はもう、この世には必要ない。





 2 荼鬼



 謁見の間には王の臣下である夜叉、天部たちが整列し、一様に首を垂れていた。その列を二つに割くように真紅の絨毯が敷かれ、王までの一本道を形成していた。謁見の間には物音ひとつ響かず、厳かで静謐(せいひつ)だった。


 真紅の絨毯に、足を踏み出す。褐色の肌を彩るのは目の色に合わせた赤い宝石たちだった。こんなもの、賎民である私には一生手に入れられないものだったはずなのに。


 王の御前に、跪く。


「これより、夜叉の任命式を始める」


 王の臣下には二種類ある。


 王都で王の世話に励む忠臣を天部、王都の外で人民を統括するのが夜叉だった。今日この日、食人族の生き残りでしかなかった荼鬼は、正式に夜叉として就任する。所謂特別枠である。王を護る臣下のうち、一定の割合で賎民を混ぜるのだ。慈悲深い王は賎民のために闘技場を設置し、その中で勝ち残った者を夜叉にする。ただ腐っても賎民なので、他の夜叉と違って領地が分け与えられるわけではなかった。結局のところ王の奴隷である。悔しくないといえば嘘になるが、騒いだところでこの世界には賎民のための平等なんてないのだ。


「お役目、必ずや勤め上げいたします」


 近しい臣下でないと王の顔は見てはいけない。狐の面越しに真紅の絨毯を映す。


 王の返答はごく短いものだった。


「白い」


 それは返答というより、ただの感想だった。思っていたより年若い声だった。白い髪程度で傷つくことはもうないが、それでも、その一言で幾重にも重なる重圧をかけられたような気がした。これが、この国の王。背中に刃物を突きつけられているような感覚に陥る。暑くもないのに黒い肌に汗が伝う。


「ダキニ族族長、荼鬼を夜叉に任命する」


 王直々に、夜叉の証である黒い布が下賜される。上等な絹織物だ。臣下たちに見せつけるようにその場で羽織る。


 ふと、視線を感じたような気がした。


 前方には天部と夜叉たちが控えている。誰の視線かはよくわからなかった。荼鬼が就任したぞと知らしめるために見せつけたので、視線を感じるのは当たり前なのだが、その視線だけは何かが違った。


 それは、多分、酷く優しいものだった。


 ***


「これから荼鬼様には、夜叉の補佐として入っていただきます」


 天部の一人、多聞が言った。王の文官で、主に人事を担当しているらしい。


「具体的には」


「ご自身で夜叉をお一人選んでいただいて、その補佐をするのです。賎民夜叉を所望される方は少なくありませんので、無論荼鬼様にも多数の申し出が入っておりますよ。ほら、ここに」


 多聞が広げた書類には、名前と領地の羅列があった。早い話が夜叉の使いぱしりだ。ここまでのしあがってきたにも関わらず、やはり生まれとは縁を切れないということか。


「……少し考えさせてくれ」


 多聞は一つ頭を下げると、控室を出ていった。


 書類を睨む。当然、知っているものはいなかった。悩むことすら難しかった。私はどこにも丸をつけず、気晴らしに廊下に出た。


 円柱型の王城をぐるりと囲む回廊は、片側全面窓になっており、王都の街がよく見える。この王都に住んでいる者は皆特権階級だった。千年前に王が就任する際、忠臣を固めて作った都。やはり生まれで全てが決まる世界だった。


「ちょっと、いいかな」


 いつのまにか後ろに人が立っていたようだ。振り向くと、大柄な男がいた。


「さっき任命式に参加してた、荼鬼さんで合ってる?」


 男の物腰は柔らかかった。腰まで垂らした真っ直ぐな髪は黒く艶があり、甘く精悍な顔貌はそれだけで女を落とせそうだった。先ほど謁見の間で感じた視線はこの男からだと確信した。


「そうだが、お前は」


「俺は愛染(あいぜん)。サーグラタットの領主だ」


 サーグラタットと言えば、王都の隣の港町である。海運の要衝であると共に、王都の関所でもある巨大都市だ。


「私に何の用だ」


 聞きはしたが、返答は決まっている。補佐に就いて欲しいという話だろう。あんな巨大な港町じゃ、腕の立つ補佐官の一人や二人必要である。


 ところが、そうではなかった。愛染は私に跪くと、金の指輪を一つ外した。その意味を察して、鼓動が嫌に早くなる。まさか私が、まさか。そもそも、賎民の象徴である仮面すら外してないのに。


 愛染は、そっと私の手を取る。


「俺の正妻になってもらえませんか」


 差し出された金の指輪は、陽光を柔らかく跳ね返している。


「は、はあ?! 馬鹿なのか! 初対面の賎民の女に指輪を渡す奴があるか!」


「一目惚れって、あるんだなあって思って」


 演技には見えないような口ぶり。この男、何を考えているんだ。私を騙す魂胆にしてもあまりにも目的が見えなさすぎる。


「何自分の世界に入ってるんだ! 頭おかしいんじゃないのか! とにかく、こんな急な申し出、断るに決まってる!」


「荼鬼さん」


 愛染は急に真面目な顔になって、立ち上がった。私より頭ひとつ分は高い身長。私はすっぽりその影の中に入ってしまう。


「な、なんだ……」


 程よく筋肉の付いた大きな手が頭の後ろに回される。仮面の紐がゆるりと解け、私の顔が露わになる。


「やっぱりかわいい」


 私の顔をひと目見た愛染は、満足げににっこり笑った。


「かわ……っ?!」


 顔が熱かった。無性に苛々する。かわいいとはなんだ。戦士の私に向かって、まさかかわいいとは! 馬鹿にしているのだろうか。ずっと、戦いだけを考えてきた私にとって、それは最大の侮辱であるはず。


 それなのに。


 わからなかった、何も。


 愛染を突き飛ばして、一目散に控室に戻る。鍵をかけて、置いてあった箒で扉を塞いだ。やけに息が切れていた。鏡台の前に崩れるように座ると、自分の顔が真っ赤になっているのが見えた。


 頭がぐらぐらする。慣れてないだけだ。あんな、最悪な軟派男に口説かれて息が上がるなんてどうかしている。今まで誰にも、甘い言葉なんて、吐かれたことなかったから。だから驚いただけ。次からは大丈夫。


 ふと、多聞が置いていった書類が目に入った。


 書類の一番上には、愛染の文字が輝いている。


 私はそれを引き寄せると、少し悩んで、愛染の欄に丸をつけた。


 ***


「まさか俺のところに来てもらえるなんて」


 サーグラタットの領主邸からは、きらめく海が一望できる。彫り物が施された欄干に体を預けて、五月の風に当たる。明るい緑色の海には沢山の貿易船が浮かんでおり、この街が活気に溢れているということがわかる。


「ほかに知り合いがいなかっただけだ」


「あの場で求婚したのは正解だったかな」


「それに関しては許していない」


「えー?」


 愛染の黒髪が風に靡く。端正な横顔が顕になる。まるで美術品のように美しい男というのは存在するのだなと思った。愛染は私の視線に気づくと、その涼しげな目を細めてにこりと笑う。私は目を逸らす。

 愛染は手を差し出した。


「なんの真似だ」


「握手。これから荼鬼さんと一緒に仕事をするんだから」


 差し出された愛染の手は、私の指より関節ひとつ大きい。藍色に染められて整えられた爪や、腕や首を彩る装飾品から、身なりに手を抜かない男だということがわかる。


「……わかった」


 握り返す。愛染の手は温かく、優しかった。私には勿体ないくらいに。豆で硬くなった手のひらは武人のそれなのに、なぜこんなにも柔らかいのだろうか。


「あと、あの」


「うん?」


「荼鬼でいい、名目上は同僚だから」


 そもそも蔑視される身の上だ。敬称をつけられるのは慣れていなかった。着任にあたり、愛染は狐面の着用すら嫌がった。愛染という男にとって、私は賎民ではなく、他の民と同じなのだと言っているようだった。ただ私の顔が見たいだけという可能性もあるが。


 愛染は顎に手を当てて少し考えた。


「ん〜じゃあ、荼鬼ちゃん」


「ちゃん……?!」


「嫌だったら止めるよ」


 ちゃん付けなんて、なおさら呼ばれ慣れていない。食人鬼として見られたことは多々あれども、一人の女として見られたことなど無いというのに。でも、存外悪い気分ではなかった。


「……いい、別に」


「やったあ。これからよろしくね、荼鬼ちゃん」


 相変わらず愛染はニコニコしている。何が面白くてこんな顔をしているのか全く検討がつかなかった。


「ああ、よろしく」


 もっと知りたい、と思った。私と間反対の人間。いつも楽しそうで、いつも朗らかな人間。私に無いものを持っている人間。


 私は、その愛染の横顔に、なぜか見たこともない父親を思い出した。


 ***


 港町サーグラタットには、表と裏がある。


 シャンバラ国内でも指折りの規模を有するサーグラタット港は年間を通して賑わう港だ。王都への通行権を独占しているため、海路を使い郡外からの人の流入も多い。しかし人が集まるというのは一長一短で、それに起因する治安の悪化は避けられない問題となっていた。中でも、花街を中心にした賤民街の広がりは近年一般民衆を悩ませるものに発展していた。


 賤民。死に穢れた民。


 その起源ははるか千年前、王の統治が始まったころに遡る。千年前、人間の命の儚さを嘆いた王は、国民たちに永遠の命を約束した。王はその手のひらに人間を乗せ、不死の薬を分け与えてくださった。そして人間は死ぬことのない肉体を手に入れた。怪我も、病もたちどころに治る体になり、人間は気力が尽きるとただ眠るだけ。人間の寿命は個々人の気力およびその郡の保有している気の総量から決まるようになり、「死」は人間から遠ざかった。


 しかし、手のひらから零れ落ちた者たちがいた。病人、獣人、障碍者。その者たちは、ごくまれに生まれ、死ぬことのなくなった人間たちの寿命を吸い取り、死をまき散らす有害な存在となった。それがいわゆる賤民たち。


 そして、私は、その最たる存在。


 死を食べ、死をまき散らす、最も穢れた種族。


 賑わう大通りを駝獣(だじゅう)で横断しながら、そんなことをぼうっと考えていた。真横に砂漠を有するサーグラタットは全体的に湿度が少なく、町並みは原色を帯びている。ぽつりぽつりと仮面を被る賤民の姿を見受けられるが、一様にうつむきがちに、存在を消すようにして通りを歩いていた。


 愛染は民衆から随分と慕われているようで、上がる黄色い歓声に手を振り返したり、笑顔を振りまいたりしている。こんな歓声は私にははじめてで、隠れたい気持ちを必死に抑えた。面越しではなく人混みを見下すというのも慣れない。


 民衆には届かないような小声で、愛染は言う。


「荼鬼ちゃんには、賤民対応を手伝ってほしい」


 どうせそんなことだろうなと思っていた。特に愛染のような貴族は、「気枯(けが)れ」を避ける。近くにいるだけで死が感染するようなものの対応だ。寿命を売ってまで率先する貴族は早々いない。ダキニ族のように懸賞金がかけられていれば話は別だが、賤民の補佐官がいるなら丸投げしたほうが話は早い。


「引き受けよう」


 同じ夜叉とはいえ相手は貴族様だ。断ることはできない。しかし、賤民に賤民を排除しろというのは残酷な話だった。同じ穴の狢と言えばそうだが。


「うん。じゃあ行こうか」


 そう言いながら賤民街の方角に舵を切ったので、私は驚愕の声を漏らす。


「……お前も行くのか?」


「俺が行かないでどうするんだ」


「いや、こういったものは領主本人ではなく下の者に任せるのが道理だと思うが」


「道理? ただでさえ賤民は貴族を敵視している。領主自ら足を運ばなければ信用なんてしてもらえないだろ?」


 愛染は、さも当然というような顔を見せる。


「信用って、お前、何する気だ」


「交渉」


「交渉って……」


 私のような者は本当に特例なだけで、王は基本的に賤民の存在を許していない。それなのに、王直属の夜叉が賤民と「交渉」だなんて、どっちつかずもいいところだ。ばかげている。


「頭がお花畑なのか」


 貴族出身貴族育ちだと、いくら寿命が縮むと口でいえども、感覚的にわからない。生活に死が直結している者たちのことなど推し量れないのだ。ああ、違う人種だなと思い知らされる。


(しかし、この男、それ以上のことをもし考えていたとしたら……)


 その場で駝獣を止めた私を訝しむように、愛染は振り返った。


「なんか言った?」


「いや」


 日干しレンガ造りの街に、立ち並ぶ色とりどりの屋台の喧騒に、私のつぶやきはかき消される。

 私はため息を一つだけついて、その背中を追った。


 ***


 賤民街の入り口には、黒い鳥居が立っていた。まるでここから先は異世界とでも言いたげに。


 適当な馬宿に駝獣をつなぎ、賤民街のなかに入っていく。


 港口の整備された町並みとは一変して、増築を重ねごたついた街並みが広がる。いつのまにか道行く者皆仮面をつけており、あたりに気枯れが漂っていた。大通りでは隠れるように歩いていた賤民たちは、ここでは大手をふるって闊歩している。


 愛染と私は仮面をつけて、入り組んだ路地の最奥に進む。


 混沌とした路地裏に、目的の場所はあった。特に看板もない布で仕切られただけの入り口に腕を押す。

 少し埃っぽいが整頓された空間だった。ところせましと寝台が並んでいる。薬草特有の鼻に抜けるような匂い。闇診療所、といったところか。


 愛染は気にした風もなく奥の部屋に向かっていく。簡単な羅紗布で仕切られた先は診察部屋になっており、薬品や書類が棚の中に折り重なっている。窓際には、白い羽織の中年男性が座っていた。小さい窓から、頼りない日光が降り注いで、男の影を切り取っている。男性は書類から目線を上げると、薄く皺の寄った笑顔を向けた。


薬袋(みない)先生、お久しぶりです」


 愛染は頭を下げた。領主が簡単に頭を下げるなどと、この薬袋とかいう男は、実は貴族とかなのだろうか。


「愛染か。今日はどうした?」


 薬袋の方も、なんでもない風に返す。


「賤民夜叉を雇いまして、そのご紹介をと」


 愛染は体を横にずらし、私を前に立たせた。


「荼鬼だ。よろしく頼む」


「ほう、なるほどな」


 薬袋は吟味するように私を見つめてくる。視線が痛い。


「……何か」


「いや、弟子に銀髪の奴がいたんだが、それを思い出してね。それにしても、ダキニ族とは珍しい」


 そういって薬袋は無精ひげをさすった。


「薬袋先生はお医者さまでね。いくつか診療所を開いているんだ。ここ以外にも、郊外のオアシスとか、港の先の倉庫街なんかにも診療所がある」


 医者。千年前には尊敬される職業だったというが、体の傷がすぐ修復する今となっては、賤民にしか需要のない、なっても金が稼げるわけでもない生業だった。賤民たちにとっては、医者はなくてはならない存在だが、あえてこの職業を選択するものは、来迎屋と同じくらいいない。


 大きな都市には、大なり小なり賤民街が生まれる。そこで力を持つのは大抵医者かやくざ者だ。サーグラタットでは前者ということなのだろう。


「愛染、何度も言うが、お前のようなお貴族様がこんな所に来るもんじゃないぞ。お前や俺にその気がなくとも、賤民からしたら、悪の親玉に変わりはないんだから」


「わかっています。なので、これからは荼鬼に交渉をお任せしようかと」


 私は無言で頷いた。


「……愛染。賤民夜叉まで連れてきたということは、あくまで賤民と交渉を続ける気なのか」


「当たり前です」


「不利益を買うのはお前だぞ」


「全て承知の上です」


 愛染は毅然と言い放った。その表情に、薬袋は面食らう。


「あ~……愛染といい釈天(しゃくてん)といい、俺の弟子には馬鹿しかいないのか」


「返す言葉もありません」


 薬袋はため息をつくと、雑なつくりの木の椅子から立ち上がり、伸びをした。


「とにかく、荼鬼、か。これからよろしくお願いする」


 薬袋はその思慮深そうな目を細めた。賤民には珍しいが、快活な人間なのだろう。その笑顔は屈託がなかった。


 ***


 帰路につくころには、すでに日が傾き始めていた。賤民街のすぐ横にある、入り組んだ花街を抜けるのは予想よりも大変で、玉ねぎ頭の領主屋敷はまだ遠くにそびえたっている。


 雑踏に、腹が鳴る。


「……愛染」


 頭がふらついていた。体に限界が来ていた。計算ではまだ持つと思っていたのに、久しぶりに嗅いだ賤民街の腐臭が空腹を刺激してしまったらしい。腹が減って仕方がなかった。


「荼鬼ちゃん?」


 愛染は心配そうに見つめてくる。


「すまない。席を外してもいいか」


 人気のない路地にはすでに夕闇が落ち、女一人で行動するには少し危ない時間帯だった。それでも、この男に迷惑はかけられない。


「そんなふらふらしているのに、一人にできないよ」


「これは発作みたいなもので……」


 雇うときにダキニ族の習性は一通り説明されているとは思うが、貴族相手に自分で言うのは屈辱的だった。なにも憂いのない人間に。


 しかし、愛染は気づいていたらしい。私は手を引かれ、暗い路地の脇に連れ込まれた。


「肉が、食べたい?」


「……」


 沈黙は肯定だった。愛染は腕を組むと、罰が悪そうに唇を噛んだ。


「しくったな。ダキニ族を雇うからには両脚羊肉の準備をしておこうと思ってはいたんだけど……」


 そんな、お貴族様が、両脚羊肉(じんにく)の手配だなんて。汚職も同然だ。何を言っている。


 しかし、食欲にはかなわない。慣れていない街で闇市をぶらついている時間はない。この場での最善は。


「血でいい」


 正直、目の前の男の匂いですら、空腹の助けとなっている。口からぼたぼたとよだれが垂れる。


「肉じゃなくても、血でもつなぎにはなる。数日はもつ」


「わかった」


 私の言わんとしていることが伝わったのか、愛染は着物の襟を落とすと、身を差し出すようにその場に座った。


 私にはそれが、丁寧に盛り付けられた食材に見える。


 もう、何も考えられない。


「いただきます」


 一目散に、その首筋にかぶりついた。


「いッ……」


 牙を立てて、あふれ出る血潮を啜る。間違っても肉まで食べないように細心の注意を払う。


(これ……なんで……)


 なんだかいつも食べる肉より、柔らかい。やっとのことで意識を保っているが、いいと言われたら骨の髄まで食べつくしたいくらい美味しかった。空腹のせいだろうか。なんせ王都に行ってから何も食べてなかったのだ。とろけるくらいの旨味と甘みに頭がふわふわする。夢中で吸った。時間も忘れるくらいに。


「だ、荼鬼ちゃん……ちょっと……」


 愛染のかすれた声で我に返る。急いで口を離すと、愛染の方がふらついていた。吸いすぎると失血になるのを失念していた。


「すまない、調子に乗った」


 頭に冷水がかけられたようだ。急に冷静になった。肉が欲しいだけじゃ飽き足らず、あまつさえ領主の血を吸ってしまったのだ。この場で首を斬られてもおかしくはない。大体、ダキニ族が貴族と触れ合うことだって、通常ではありえない。


「大丈夫。このくらいじゃ倒れない」


「もし所望なら腹を切って……」


「やめてくれ!」


「……愛染?」


 愛染の顔は鋭く凍り付いていた。この男、こんなに怖い顔ができたのか。


「荼鬼ちゃんは、やっと見つけた希望なんだ。勝手に命を捨てることは絶対に許さない」


 あまりの剣幕に固まっていると、愛染は自分が言っていることにやっと気づいたようで、きまりが悪そうに目を伏せた。


「だから……えっと、俺の血でよければ、緊急時に飲んでいいから」


 一変してしおらしくなった大男に、なんだかおかしくなってしまって、少し噴き出した。


「ありがとう」


 愛染は驚いたように藍色の目を見開いた。


 もうすっかり日は落ち、日干し煉瓦の建物に切り取られた狭い空には、荒野と同じ星が輝いていた。



 □



「はあっ……はあっ……」


 夜が嫌いだった。母親の命を奪って生まれてきた。父はいつも仕事で忙しく、たまに会っても冷たい目線を向けられるだけだった。教育係は将来立派な領主になるようにといつも厳しく、侍女たちは可愛がってくれたがそれ以上にはならなかった。領主の息子に本心から打ち解けられる友達がいるはずもなかった。いつも一人だった。


「おい、いたぞ!」


 低い声がもうすぐそこまで迫っている。


 流石に脚がもつれてきた。ふくらはぎが痛む。負けてはいけない。唇を強くかみしめる。


 夜が怖かった。教育係の叔母は、できないとすぐに納屋に閉じ込めて、朝まで迎えに来なかった。だから僕は、いつも大人の言うことを聞いて、誰よりもいい子でいた。それでも父は褒めてはくれなかった。


 夜が寂しかった。暗闇は孤独を増長させた。母に会いたかった。美しかったと聞いた。優しかったと聞いた。しかし、その姿を見たことはない。


「もう逃げられないぜ、おぼっちゃん」


 すぐ背後から、痰が絡まった声が聞こえた。

 乱暴に襟首をつかまれる。両足が宙を掻いた。


「たすけ……」


 声に出したはずの言葉は、出なかった。布を口に巻かれたのだ。恐る恐る後ろを見ると、鬼の仮面を被った、身なりの悪い半分禿げ頭の男が僕の体を宙にぶら下げていた。


「男だが、美しい顔だな、こりゃ値打ちもんだ」


 男の肌は、黒い痣でおおわれていた。


 今日はいい日ではあったのだ。いつものように仕草がなっていないと叱られ、納屋に閉じ込められた。しかし、いつもと違う点があった。叔母がかけた納屋のカギが緩んでいたのだ。びくともしなかった石の扉は、夜半に静かに開いた。飛び出さずにはいられなかった。それだけ暗闇は怖かった。


 そして僕は今日、悪い子になった。


 しかし納屋から抜け出せたとして、目的地はない。あてどなく歩いていたら、いつもは絶対に近づくなと言われていた花街のほうに来ていた。仮面を被らないで、高価な絹織物を着た少年は嫌でも目立つ。いつの間にか、知らない大人と追いかけっこになっていた。


 罰が当たったのだ。領主の息子は絶対にその使命から逃げてはいけないというのに。


 ***


 いつの間に眠らされていたのだろう。目を開けると格子の牢の中だった。あの布に薬でも塗ってあったのだろうか。


「お、起きたな」


 先ほど僕を捕まえた、筋肉質の鬼が言った。見張りをしていたようだ。


「親方連れてきましたぜ!」


 石壁の奥から、声が聞こえてくる。やせぎすの男だ。後ろにもう一人引き連れている。


「本当に上玉だねえ」


 首から腕にかけて刺青が走っている男が僕を覗き込む。二人より背は低いが、威圧感があった。しゃんと背筋が伸び宝石をぶら下げているあたり、この人が親方なのだろう。しかし僕が知っている宝石とは違い、その色合いは派手で趣味が悪かった。


 男は牢の鍵を開けると、格子の中に入ってきた。筋張った生白い手で僕の顎を掴む。そのぬるりとした動作も相まって蛇のようだ。


「藍色の目……今にも泣きだしそうでかーわいい」


 恐ろしくて口を開けることすらできなかった。荒縄で縛られているので、そもそも身動きを取ることすらできない。


(たすけて……王様……)


 我らが願う主は、王以外にはあり得ない。王の姿を見たことがないが、必死に願う先は王だった。シャンバラの人間は皆そうだ。


 少なくとも、この時の僕は。


「奴隷にしても売れるが……これは花街に放り込んだら化けるよ。体もしっかりしているし、なにより品がある」


 頭の中で逡巡し、男娼に身をやつす覚悟を決めたその時だった。

 ふと、闇に歪んだ廊下の奥から、もう一つ蝋燭の光が揺れているのが目に入る。


「おーやってるね」


 まだ若い男。さわやかな通る声がした。


 その姿を目にした途端、体が震えた。


(……来迎屋?!)


 あとからやってきたその男は、四角い箱を背負っていた。棺桶だ。そして四ツ目の鬼面は、その生業を端的に表すもの。眠った人を「完全に」殺す役割を持った人間。腰に刺した短刀はそれを執行するためのものだろう。それだけでも十分特異なのだが、中でも一番に目を引くものがあった。


 蝋燭に照らされ少し赤らんでいるが、その男は、淡雪のような白い髪を持っていた。


「釈天~! ご無沙汰じゃないか」


 親方の声ぶりに花が咲いた。この男が幽玄な雰囲気の来迎屋を好んでいるのは一目で分かった。


「うん。しばらく北の方を回っていたから」


「今日はどうしてサーグラタットに?」


「ちょっと薬袋先生に用事。それよりさあ」


 釈天と呼ばれた来迎屋は、僕に視線を移した。その四つ目の鬼面の奥、紫色の瞳が揺れる。反射的に強張る。


「ねえ、これかわいいね。俺が買っていい?」


 釈天が、仮面の奥で笑ったような気がした。


「釈天、そういう趣味あったの?」


「最近は少年もいいなあと思いだしてね。こんなきれいな子だ。市場価格よりいい値で買うよ」


 そう言って釈天はしゃがみ込むと、金の詰まった袋を親方の前にどかっと置いた。親方は一目散に袋をぶん取り、中に入った小判を数えた。


 やがて、親方は仮面の下で満面の笑みを浮かべたのがわかった。


「流石、釈天は価値がわかってるわねえ」


 交渉は成立したようだ。釈天は荒縄を掴むと、ふらついた僕を無理やり立たせる。


「じゃ、これ、もらってくから」


 そう言い残して、釈天と僕は館を出て行った。


 ***


 館は南の倉庫街の一角だったようだ。市街から少し離れた森の中に連れ込まれる。暗い森、月明かりの照らす夜。ひどいことをされる想像をしてびくびくしていると、予想に反し釈天は丁寧に縄を解いた。


「はーどうしよう。かっこつけて生活費全部払っちゃったよ。薬袋先生にたかるかな」


 そんなことを、肩を落として言うものだから、思考が追いつかずきょとんとしてしまった。この人、悪い人ではないのか?


「あの……」


「ん?」


「僕は、どうなるんですか」


「うーんどうなるかな。今からお家に返してもいいんだけど、それじゃ将来がちょっと心配だな」


「将来?」


 何を言っているのだろう。大体、そういう目的で買った少年の将来を心配するものなのか。


「次世代の夜叉候補様には、人権教育ってやつをちゃんとやる必要がある。見たところ君は、賤民のことをなにも知らないようだし、ここで俺がちょっくらコード書き換えて、バグを忍ばせないと、未来は変わらないだろうし」


 釈天は、おもむろに仮面を外す。恐ろしいほど美しい顔だった。月光に映える白い髪に薄く紫がかった瞳。およそこの世のものではない。


「社会科見学の時間だよ、愛染君」


 そして、その美貌をくしゃくしゃにして、にいと笑った。



 □



 数日後、薬袋に案内されてやってきたのは、サーグラタットから少し離れたオアシスだった。サーグラタットは王都が近い都市という関係上、市街地を離れるとすぐに砂漠地帯になる。平野が広がる砂漠地帯には数えきれないほどのオアシスが点在するというが、薬袋に案内されたのはその一つだった。


 砂漠での行商は苦痛を伴うものだ。サーグラタットおよび王都に出入りする一般の商人は海路を使う。逆に通行権を持たぬ賤民は関所のない砂漠を行き交う。そんなこともあってか、オアシスに勃発した街というのは大概賤民の街になっている。


「こんな郊外まで出張るのか」


「逆だよ。俺が最初に診療所を開いたのがここだ」


 賤民の街ということもあって、やはり皆仮面をしているのは町中の賤民街と同じだが、明るいというか、また違った賑わいがある。交通の要衝だということも関係しているのだろう。日干し煉瓦つくりの四角い街並みに極彩色の露店が出ている様子は、サーグラタットの港とほぼ同じだった。


 薬袋の診療所は街の中心部にあった。


「素敵なお耳!」


 診療所に入るなりそう話しかけられたので、驚きでのけぞってしまった。


 獣人の女だった。しかし虎猫の耳と二股の尻尾なので、ダキニ族ではない。栗色の髪はふわりと巻かれて後ろでゆるく結ばれている。意志の強そうな眼は、仮面の上からでも爛々と輝いているのがわかる。


「同じ獣人の方に出会えるとは思ってもいませんでした。私は(さち)と申します」


「荼鬼だ。よろしく……」


「はい! よろしくお願いします!」


 幸はそのまっすぐな瞳で私の手を握るとぶんぶんと振った。


「幸姫様。初対面であんまり振り回すのはやめたげな」


「あら、薬袋先生。人と人との関係は触れ合いが大事なんですよ? で、荼鬼さんは新入りさんです?」


「違う違う。愛染の代理だよ」


「愛染さんの……?」


 幸は私を不思議そうに見つめる。


「賤民夜叉の荼鬼だ。愛染の名代でこちらに参上した」


「夜叉様! それは失礼いたしました」


 幸は丁寧にお辞儀をする。動作一つ一つが可憐で、賤民にしては、やけに身のこなしに品がある。それに、愛染にも敬称を使わない薬袋がなぜこの女には様付けなのか。


「幸姫様は、元々領主の娘でな。まあいろいろな要因が重なって、獣人になってしまったんだよ。そんなこともあって、賤民たちから姫様扱いされているんだ」


「後天的に、獣人に……!?」


 それは、貴族から賤民になったということではないか。


「全ては天のご意志です」


 起こっている不幸に対し、本人は特に気にしていないようだった。


「それで、幸姫様は、今日は何しに来たんだ。薬が欲しいのか?」


「それもありますが、それだけじゃありません。今日は、反乱軍の立ち上げをお知らせしに来ました」


「なに?」


 少なくとも夜叉の前で堂々と言うような言葉ではない。


「幸姫様、何する気だ」


「私は作りたいのです。すべての賤民が安らかに暮らせる場所を。私たちは王の圧政を享受して短い生を投げて死んでいく。賤民ではない人間はそんなこと気にも留めない。非情な世界です。反乱軍とは言えど、暴力に訴えることは望んでいません。ただ賤民の、賤民による安住の地を作りたいのです。荼鬼さんだって、賤民である以上、望んでいることは同じはず」


「愛染と話し合えば……」


 愛染は私を雇い薬袋を師と仰ぐような人間だ。王に命令されたからと言って、この都市に巣くう賤民すべてを殺せるとは思っていないだろう。例えばこのオアシスの街とか、焼き払われることがないとは言えないが、後手に回るのは確実だ。


「もし領主が代替わりしたら同じことが言えるでしょうか? 逃げ回るだけじゃ安住の地とは言えません。それに、愛染さんは……表裏がある方です」


 幸姫は目を伏せて言った。


「あの方は、賤民窟になっていた倉庫の一区画を焼き払ったことがあります」


 それは、あまりにも冷たい言葉だった。


 ***


 屋敷に戻ると、愛染は羽毛の詰まった座布団に囲まれた長椅子に腰かけ、夕闇の中に洋灯をともして夕餉を取っていた。


 低い卓には見事に盛り付けられた豪華な食事が並び、酒瓶の中には飴色の蒸留酒が注がれている。開け放たれた窓から、潮風が気だるく吹き込んでいた。下座では、侍女たちがゆったりした音楽を演奏している。


 毎日こんな贅沢を尽くしているのだから、やはり呆れてしまう。外交の意味もあるだろうが、一人で夕餉を取っているときの方が少なく、大概は宴が開かれている。それだけではない、この侍女の中にも、妾が何人かいるのを知っている。屋敷内の噂じゃ毎日違う女と関係を持っているらしい。


 酒池肉林の生活と、食べるものにも困る生活。


 不平等ないとされる、王の治世。


 愛染は、私が帰ってきたのがわかると、あからさまに嬉しそうに頬を緩ませた。


「今日はお疲れ様。砂漠まで行って大変だったでしょ」


「薬袋からは、薬の開発に使う材料を用意してほしいと頼まれた。詳しくは帳簿に残してある」


「ありがとう。検討しよう」


 自然な動作で私を隣に誘導する。酒を勧められ、言われるがままに手に取るが、口をつける気にはなれなかった。


「……どうしたの?」


「お前、何を考えている。領主に反した行いばかりじゃないか」


「領主だから、賤民の対応をきっちりしているんだ」


「偽善だ。どうせ、賤民に融和を持ち掛け、内部構造を把握し、一掃したいだけだろう。私を妻にしようとしたのだって、その方が政治に有利だからだろう」


 いまだに信じられなかった。私たちの側じゃない人間が、私たちに真に寄り添おうとしている事実を。


「……なぜそう思う?」


「お前自らの手で、賤民窟を焼き払ったと聞いた」


 愛染は額に手を当てて、深くため息をついた。


「わかった。食べ終わったら出る。ついてきて」


 ***


 市街地から南に下ると、港の倉庫街になる。古代には当時の技術を結集させた「工場」があったというが、王の治世である現在ではそんなものは必要なかった。


 そこはだだっ広い場所だった。着いた頃には月は高く上っており、青白い光が空き地を照らしていた。


「俺が焼き払った倉庫があった場所だ。以前ここは、子供の人身売買の会場だった。王は遊興を許してはいるが、人間に価値をつけることは許していない。だから王の法通り処刑を実行した。賤民だから焼く、賤民だから憐れむ、それは違う」


 愛染は建物の基礎だけになった空き地を、強いまなざしで睨む。


「賤民であろうとなかろうと、法を犯した者は罰する。それだけだよ」


「私は……」


 腰に差した短刀を握りしめる。正確には短刀ではなく、鞘の中の刃は黒い肉用包丁だった。王に所持を禁じられている刀、人を殺すことができる介錯刀だった。ダキニ族族長に引き継がれる伝統武器で、母の形見でもあった。


「人を食べる私は、罪人か?」


「荼鬼ちゃんは、人を殺してないだろう」


 平然と言った。何の根拠もないのに。


「罪は行為そのものだけにある。雇用に当たり、集められる限りの情報を調べさせてもらった。君の「食事」は大概、闇市で出回っている加工された肉か、川を流れてくる顔の判別もつかない腐った肉だ。王の定める法の「殺し」や「弱者への暴行」をしているわけじゃない。無罪だ」


「そうか」


 そういわれて、なぜか心の空っぽの部分が満たされていくような感じがした。空の盃に甘露を注がれるような。あるはずのものが正しい場所に収まる感覚。


「許せないんだよ。賤民だって、好きで死を纏ったわけじゃない。俺だって、「気枯れ」る可能性はある。それなのに、差別はなくならない。俺はただ、賤民も一般人も差別されることなく、同じ目線に立ってほしいだけ」


 同じ法の下で、裁ける世界になってほしいだけ。


 賤民の幸福のみを約束する幸姫とはまた違った理想だった。しかし、生まれの違う愛染が、しっかりと現実を見て導いた結論だということはわかった。


「まったく、とんだ理想論者だな」


「こんなこと言うと大概馬鹿にされるから、誰にもいわないけどね」


 愛染は照れくさそうに笑った。恥ずかしくなると鼻を触る癖があるらしい。ぐしぐしと鼻の下をこすった。


「妾にも?」


「あたりまえだろ。勘違いしてるようだけど、お妾さんたちは跡継ぎのためにしょうがなく寝ているようなもんだから……」


「じゃあなぜ私には話したんだ」


 愛染はまた鼻をこする。


「……荼鬼ちゃんだから、かな。実はこれ、大昔に出された、宿題の答えなんだ」


「え?」


 聞き返したが、返答が帰ってくることはなかった。



 □



 釈天は僕にぼろを着せ、仮面を被せて、サーグラタットの賎民街を連れ回した。賤民街にはいろいろな人種がいた。来迎屋に始まり、医者、娼婦、病人……どの人も屋敷の中にいては絶対に関わらない人々だった。


 誰もが何かしらに苦しめられており、一般の人間からじゃ考えられないような悩みを持っていた。法を犯すものも、犯さない者もいた。その暮らしを嘆いている者も、楽しんでいる者もいた。それらの人間に、見たところ違いはなかった。


 誰もが皆、死に抗って生きていた。


 生きたいと願っていた。


「わからなくなりました。賎民は排除すべきものなのに、悪い人ばかりじゃない。元はいい人でも、金銭やその他の理由から罪を犯す者もいる。僕はそんな人も裁かなければいけないんでしょうか」


 国内最大級とも噂されるサーグラタットの花街は、賤民街と港をつなぐ中間点にあり、海から(そび)え立つ斜面にへばりつくように広がっている。仮面も仮面じゃない者もまじりあう不思議な空間だった。


 街を見下ろす階段に座り、仮面を少しずらし露店の焼き鳥を頬張る。粗雑にかけられた香辛料は、屋敷では絶対に食べられないような荒々しさがあった。


「そうだね。でもその人がやったことは悪いことだ」


 その時の僕には、釈天の答えは冷たいものだった。根は優しい人なのに、いけないことをしただけで裁かれなければいけないのだろうか。ひとでなしだ、と思った。


「一つ、宿題を出そうか」


 釈天は焼き鳥を食いちぎった。


「俺には、ダキニ族の娘がいる」


「人喰い一族の?」


「そうだよ。俺と同じ白い髪をしているけれど、俺と違い人を食べて生きる種族だ。愛染くんは、俺の娘にどんな裁きを与えるのかな」


 みな生きたいだけ。幸せになりたいだけ。


 釈天の子供だというその子も、ただ食料が欲しいだけ。


 今の僕じゃ判断がつかなかった。


「常に考えるんだ。自分がなりたい領主の姿を、自分の信条を。揺らぐことない信条が、領主を領主たらしめる。もっと勉強して、人と触れ合って見識を広めるんだ。そうしたらこの宿題もきっと解ける」


 釈天は紙袋に食べ終わった串をいれて立ち上がった。


「さて、そろそろ潮時かな」


「え?」


「俺とはここまでだ。ここから領主邸までそんなにかからない。帰ったら、ここ数日の記憶は無かったことにして過ごしなさい」


 隣の山の上、頂上にある玉ねぎ頭の領主邸を見つめながら言った。白い髪が金色の海風に乗り、はためいている。


 なんとなく察しはついていた。これが永遠の別れになることを。


「釈天さん」


「なんだい」


「ありがとうございました」


「礼を言われる筋合いはないな。俺が買った少年が勝手に逃げただけなんだから」


 釈天は脇に置いてあった棺桶を背負うと、階段を降り始める。屋敷とは反対方向だった。ここ数日で分かったことだが、この不格好な棺桶は、人が入っているわけではなく、行商を行う来迎屋が仕事道具や家財を入れているだけのものだった。外からは不気味に見えるものでも、中身を知れば日常だなんて、賤民そのものを表しているようでもあった。


「じゃあね、愛染くん。願わくは、安らかな輪廻を」


 来迎屋の常套句だけ言って、立ち去ろうとした釈天に向かい、必死で叫ぶ。


「最後に一つだけ、聞いてもいいですか!」


 釈天は振り返らずに歩みだけ止めた。


「ダキニ族の子の、名前を教えてください」


 もし会えた時、ちゃんと答えを出せるように。


「伊綱だ。縁を繋げられるように、伊綱」


 それだけ言って、釈天は踵を返した。


 手をひらひらと振りながら遠ざかっていく背中を、僕はしばらく見つめていた。



 □



 賤民街の診療所は坂を少し上がった場所にあり、二階の窓からは市街が一望できる。海からの湿気がもろに来る地形上、二階は薬草などの材料を保管する場所になっていた。


「助かる。この薬草は南から取り寄せないとなかなか手に入らないものでな」


 薬袋は私が持ってきた薬草の枚数を数え、帳簿につけた。手持無沙汰になった私は、背中を壁に貼り付けその筆跡をぼうっと眺める。医者にありがちな、速度だけ重視した、他人からは読みづらい字だった。賤民で字を書けるほうが珍しいが。


「幸姫様の件だが、愛染には言わなかった」


「そうした方が良いだろうな。いくら相手が愛染だとしても、まだ方針も固まっていないうちから領主に通報するのは得策じゃない」


 一通りの検品が終わったのか。薬袋は金の入った袋を渡してきた。数えると、愛染が要求した額通りの金額が入っている。


「確かに受け取った」


 すると、遠くから人の声が聞こえてきた。まさに海風に乗ってきたという感じで、何をしゃべっているかわからないが、大きな声を上げているのがわかる。


「さっきから気になっているんだが、港口の方が騒がしくないか」


 薬袋に言われて窓の外を見ると、確かに、港の方から煙が上がっている。


 サーグラタットの治安維持を任されている私としては、目が離せない状況だった。


「行ってくる」


「気をつけな」


「大丈夫だ。介錯刀が持ち出されない限り、ダキニ族が喧嘩で後れを取ることはない」


「そっちは心配してないが、荼鬼は……お前さんが自分のことどう思っているかはわからないが、相手から見たら「ダキニ族の女」だからな」


「どういうことだ」


「わからないならいい。とにかく、行ってきな」


 薬袋はそう言って診察に戻っていった。


 ***


 港口は混乱状態だった。仮面を被った者たちが、一堂に会し防衛網を作っている。木箱で台が作ってあり、その少し高くなったところに、筒を持って演説する男がいた。幸姫は先ほど診療所で見かけたので、その筋の者ではないようだが、反乱軍には間違いがなかった。


「昨今、各郡のリンガ倒壊は他人事ではなくなっている! 賤民になってしまった移民も受け入れろ!」


「賤民だって生きている!」


「賤民にも港を開けろ!」


 波のように繰り返す声に、頭がぐらつく中、王の御旗を掲げた愛染の私兵たちの集団を見つけ駆けつける。


「荼鬼様! いらっしゃったのですね!」


 鎧を着こんだ手下の一人が顔を輝かせた。私は仮面を取る。


「愛染はこちらに来るんだな?」


「すぐいらっしゃる予定ですが、山頂の領主邸からは少々距離がありまして」


「わかった。ここは私がどうにかする。愛染のつなぎとして対応しよう。あちらの演説台と同じ高さの台を作ってもらえるか。あと拡声用の筒も」


「かしこまりました!」


 兵士たちは港に積まれた木箱で手際よく高台を作った。私は、足まである羽織をはおって、夜叉の証である黒い布を頭巾にして耳と尻尾を覆い隠した。顔に傷があるわけではないので、目立つところさえ隠していれば賤民には見えない。


 筒を手に、演説台の上に立つ。


 沢山の人がいた。仮面の人も、兵士も、避難が済んでいない普通の人間も。皆が混乱し、熱狂し、逃げ回っている。


 自分に嘘をつく準備はできた。


「沈まれ! 賤民に入れる港はない!」


 夜叉の到来に、仮面の者たちに少し怯む。


「サーグラタットは王都の関! 関を通る資格がないものが入れるなどと思いあがるな!」


 私の威圧的な声に、仮面の者たちが怖気づいたその時だった。


 強い、潮風が吹いた。


 途端に黒い布が風に飛ばされる。私の耳が衆目にさらされる。


「あれって……」


「ダキニ族よ!」


「なんであっちの味方をしてるんだ?」


「一番の賤民が夜叉だなんて」


「賞金首が賤民夜叉ってホントだったんだな」


 その大半は動揺と嘲笑だった。


「裏切者!」


「裏切者!」


 その呼び声は、水面に落ちた石が作る波のように広がっていく。一瞬で敵味方が変わるその光景に、私はただ立っていることしかできなかった。


 その声は、確かに言っていた。


 賤民なのに、夜叉としているのはおかしいと。


 賞金までかけられた種族が、王に許されているのはおかしいと。


 お前だけが、いい暮らしをするのは、割に合わないと。


 私は、愛染の、お荷物であると。


「やめないか!」


 私を押し飛ばすようにして、演説台に上ったのは愛染だった。


 愛染は拡声筒を握ると、はっきりした声で言う。決して叫びではない。落ち着いた、しかし、確かに響くその声で。


「私は、サーグラタット領主、愛染だ。私は王僕であるが、サーグラタットは王の所有物である前に私の管轄地だ。昨今、賤民が増加しているのも知っている。その幾分かがサーグラタットに移民として定住しているのも知っている。賤民とてこの世界に生まれている以上、この地の民だ。「特別扱い」する気は毛頭ない。すでに、賤民用の港を整備する手はずを整えている。賤民代表の薬袋とも組んで、公的な診療所の建設も念頭に入れている。もちろん、その二つとも、一般人とは区域を分けて設置する予定だ」


 王が聞いたら卒倒しそうな言葉の羅列だった。


「完成するまで苦しい思いをさせるかもしれない。だが、少しだけ、少しだけでいい。俺を信じてはもらえないか」


 最後の方はもはや請願だった。


 いつの間にか、仮面の軍団は水を打ったように静まり返っていた。愛染に、いくらでも批判の言葉をかけることはできた。しかし、誰も非難することはしなかった。


 賤民ではない普通の人間が、王に異を唱えることなど、ここ千年間なかったからだ。その覚悟の重さは、誰もが知っていた。


 ***


 食事場にやってきていた。


 サーグラタットは大きな川の下流であるので、流された死体が堆積しやすい。特に下水の処理施設の付近は、ろ過装置に引っかかったそれをくすねることができて好都合だった。


 私はむさぼるようにして、あまり状態のよくないそれを、古代の遺跡の片隅で隠れるように頬張っていた。四角い形の灰色の遺跡の中はしんと暗くて、何に使うかもわからない機械が放り出されている以外、人はいなかった。


 悔しいんだか悲しいんだかよくわからなかった。あの場は愛染が治めてくれたが、心の中がぐちゃぐちゃした。こういうときは寝るか思い切り食べるのが一番だった。


「や~っと見つけた」


 暗闇にいきなり人の声があらわれたものだから、びっくりして体が跳ねる。


「⁉ なぜここが」


 松明を持った愛染だった。一番見られたくないところを見られてしまった。


「荼鬼ちゃんが行きそうな所はわかる。鬱憤たまるとおなか空くもんね」


 私が持ってきた遺体をよけながら、私の隣に座る。地面が湿っているのもおかまいなしのようだ。手ごろな段差に松明を立てかける。その黒髪と横顔が、炎で赤く染まる。


「ごめん、ああいう仕事は俺の役目なのに。もう少し早く俺が駆けつけていれば」


「いや、勝手に行動した私が悪い。それよりその……気持ち悪くないのか」


 血やら泥やらが着いた手を布巾で拭う。


「腐って虫が集ったもの食べてるんだぞ。しかも同族の肉を」


「まあ、においはきついけど……」


 愛染は手に止まった蠅を振り払った。


「好きな子のことは、目を逸らしたくないから」


 私を真っすぐ見て、なんでもないように笑う。


「馬鹿なのか……」


「そうかもしれない。でもさ、それ以上に、俺はもっとちゃんと、荼鬼ちゃんのことが知りたい」


 史上最悪の人たらしだ、と思った。


 わかったことがある。この男には嘘がないのだ。ずっと笑顔でいるのは、相手を信じているからなのだ。いつも人間を疑ってかかるのに慣れた私とは真反対だった。


「お前、なんでそこまでして、賤民に関わろうとするんだ?」


「う〜ん。まあ色々理由はあるけど、一番は恩返しかな。まだ小さかったころ、賤民街に迷い込んだことがある。娼館に売り出されそうになったところを、白い髪の来迎屋に助けてもらったんだ」


「それは……」


 この国に白い髪の人間はほとんどいない。二十数年生きてきて、自分以外の白髪を見たことはない。稀に年老いた者で白い頭髪が混じっている時はあるが、元から白い人間はそうそういない。


「まだ年若い男で、ダキニ族の娘がいると言っていた。伊綱って名前だったから、荼鬼ちゃんじゃないとは思うけど……」


「伊綱は、私だ」


「えっ」


「荼鬼は族長が引き継ぐ名だ。七歳のころ、私はダキニ狩りに会い、一族郎党殺され私だけ生き残った。その時に伊綱という名前を捨てたんだ」


 こんなこと、誰にも話したことなかった。誰にも話すつもりはなかった。


「王の治世に、ダキニ族の居場所はない。ずっとひとりで、逃げ回っていた。南の端からここまで、心が休まる日はなかった。ある時、闘技場で勝ち抜けば、賤民でも夜叉になれることを知った。体を鍛え、文字を独学した。全ては生きるためだった」


 いつの間にか、組んだ拳からは血の気がなくなり、氷のように冷えて震えていた。怖かった。母以外に自分の内面をさらけ出すのは初めてだった。


 愛染は、なにも言わなかった。藍色の目を伏せて、私の話をじっと聞きいっていた。


「何を言っても、嘲笑に聞こえるかもしれないけど……」


 しんとした暗闇を、松明の炎だけが揺らめきながら照らしている。


「よくがんばりました」


 大きな手が、冷えたこぶしを包み込む。

 温かかった。春の日の光みたいだった。


「なっ」


「荼鬼ちゃんはえらい。ずっと一人で頑張ってたんだ。周囲の声にも、酷い差別にも負けないで、誰でもできることじゃない」


 胸が苦しかった。心臓から何かがあふれ出てくる感覚だった。それは目頭まで昇ってくると、塩辛い涙を形成した。


「あれ、なんで……」


 ぼとぼとと涙が溢れてくる。止めようとしても止まらなかった。弱虫の伊綱はあの日封印したはずなのに。


「泣いていいよ。ここには俺しかいない」


 愛染はぎゅっと手を握った。


「うっ、うええん」


 大の大人だというのに、声を上げて泣いた。初めて、私は人に許されたのだ。冷たい王の承認ではない。獣としてではない、人として生きていいと許されたのだ。


 一つのかがり火が、二人だけを照らしている。


 遠く、波の音が聞こえていた。


 結局、愛染は、私が泣き止んで食事を終えるまで側にいてくれた。その後、流石に我慢できなかったのか、盛大に吐いていたが、それでも私は嬉しかった。初めてだった。捕食する姿を見ても、私を化け物扱いしない人間。賤民を汚い者と一蹴しない、理解をする努力をしてくれる人間。


 馬鹿みたいに、優しい、人間。


 母が言った愛は、今の気持ちに当てはまるのだろうか。父に会った母は、こんな気持ちだったのだろうか。


 ***


 秋も深まるころ、この都市では盛大な新年祭が開かれる。花街の商工会を中心とした新年祭は、毎年万単位の人間を動員し、数日間に及ぶ華やかな祭典となる。毎年の例に違わず、薬袋の知らない不法な地下療養所が摘発されたり、下水が噴き出したりと、今年も小さな事件はちょこちょこ起きたが、そのたびに駆けずり回っていたらいつの間にか当日になっていた。


 今日も、愛染と一緒に遅くまで仕事をし、くたくたで帰ってきた。


「荼鬼ちゃん、新年祭の最終日、時間ある?」


 長椅子にごろんと寝転がりながら愛染は聞く。


「そんなこと言って、私の予定はお前が管理してるだろう……確か空きだったが」


「俺と一緒に回らない?」


 一瞬なんの誘いか悩んだが、つまりそういうことだと察して顔が赤くなる。ああ、この条件反射をどうにかしないといけない。


「お前、他に女いくらでもいるだろ。わざわざ私とじゃなくたって……」


「だーかーらー荼鬼ちゃんがいいって言ってるだろ」


 あからさまに機嫌が悪そうに眉をひそめたので、私はため息をついた。


「しょうがないな……」


「やったー!」


 今まで寝転がっていたのが噓のように、愛染は天に向かって拳を振り上げた。


「まったく……子供かお前は」


 自分の頬が緩んでいるのには、気づかないふりをした。


 ***


 そうはいっても、こういった祝祭の類に自発的に参加したことはなく、これまでまともな人間関係を築いてこなかったため、何を準備したほうが良いのかわからなかった。しょうがなく、沙羅という、愛染の妾のなかでも一、二を争う美女に外見を見繕ってもらった。華やかな衣装は、なんだか自分じゃないような気さえしてくる。


 祭り囃子が喧騒の合間を縫って聞こえる。


 ごった返す花街の入り口で待っていたら、髪を一つにまとめた愛染がやってきた。襟を落とし、黒い肌着を見せているため筋肉が浮き出ている。その姿に、わけもなく喉を鳴らした。食欲だと思うことにする。


 私を視界に入れた瞬間、愛染はなぜかうめき声をあげた。


「どうしよう……」


「なんだ、財布でも忘れたのか」


「荼鬼ちゃんがめちゃくちゃかわいい……」


「そうか? ひらひらしていて動きにくいんだが……」


 沙羅が選んだ腰布は、地面に着くぐらい長くて、しかも何層にも布が仕込んであるため、いつもの機動性を最優先したものと比べると身動きが取れない。


 ふと、愛染を見る。長いまつ毛の影で切り取られた頬は、心なしか紅潮していた。


 それから、露店を回って飲食をし、広場で踊りに参加した。いつも生死の判断に迫られている私からすれば、酷く他愛もないことをした。ただ楽しむためだけに行動するなんて、初めてだった。


 祭りの最後は、海から花火が上がるとのことだった。混むだろうとなんとなく渋っていたら、愛染は私物の小舟を沖合に出してくれた。


 ***


 大輪の花が、水面に映っている。


「きれいだ」


 しばらく二人で沈黙を享受していた。


 花火のうち上がる音と、波音だけが二人を包み込んでいた。


「俺は、夜が怖いんだ」


 唐突に、愛染が口を開いた。


「母親が早くに亡くなってね。前領主だった父親も仕事が忙しく、夜、一緒に寝てくれる人はいなかった。領主の息子だと腫れもの扱いされて、心から話せる友人もいなかった。ずっと、寂しかった。荼鬼ちゃんがはじめてだったんだ。俺を変に敬わずに、真正面からぶつかってくる女の子。謁見の間での一目ぼれだったけど、関わるうちに、それ以上にどんどん好きになった。荼鬼ちゃんといると楽しくて、俺は一人じゃないんだって思った。ずっと一緒にいたいって思ったんだ」


 藍色の目は、私をまっすぐ見つめている。


「伊綱。俺の、正妻になってくれないか」


 任命式のときと言葉はほぼ同じだった。しかし、そこに滲み出た覚悟は全く違った。賤民の問題も、私個人の問題も、すべて一緒に背負い込むという強い意志が、そこには感じられた。


 でも、私は、もう決めていた。


「……すまない」


 決めていたのに、この言葉を実際に発するのは予想以上に大変だった。締め付けられるような胸の痛みを伴った。


「私は、恋をしない。誰かと結ばれようとは思わない」


 ダキニ族の呪いは、私で最後にしなければならない。次世代にまで波及させていいものではない。何度考えたって、同族を食べるのは愛ではなく苦痛だった。


「でも、今夜くらいは、一緒に寝てやっても……いい」


 最後の言葉は、私の欲望なのか、同情なのか、それとも許しを乞うているのかわからなかった。


「……わかった。それが、荼鬼ちゃんの覚悟なんだね」


 愛染はごめん、と短く言うと、私の頬に唇を落とした。


 ***


 その夜、私は愛染に抱かれた。


 閨での愛染は変わらず優しく、私にはもったいないくらいだった。肌を合わせる感覚は、耐えがたいほどに熱く蕩けるものだった。


 正直に言おう。


 愛染の隣は、甘ったるいほどに幸せで。

 私はこの幸せを失うのが、怖くなった。


 ***


「出るのかい?」


 早朝。愛染を起こさないように寝所から抜け出し、屋敷を出る身支度をしていたら、妾のひとりの沙羅が話しかけてきた。


「ああ」


 沙羅は金色の瞳を細めて、柔らかい黒髪を揺らす。


「ねえ、荼鬼様。いち妾から言わせてもらうけど、愛染様は荼鬼様のことを、本当に愛しているんだよ」


「……知っている」


「幸せになっちゃいけない人間なんて、いないんだよ」


「知っている。だがそれは人間の話だ。獣には当てはまらない」


「そうかい」


 沙羅は何を言っても無駄だと察したようで、それ以上何も言わなかった。


「……行ってくる」


 薄明の、山頂の屋敷に背を向ける。


 ダキニ族の愛は、熱く深い。


 このまま愛染の正妻になり、心の底から愛したとして、いつか、私は、愛染を食べてしまうのだろう。

 それは、絶対に避けなければならない事態だった。そうなる前に、離れなければならない。そうでもしないと、自分が止められなくなるのはわかっていた。


 私が不幸になっても、愛染だけは、不幸になってほしくなかった。


 ダキニの恋は、叶えてはいけないのだ。



 □



 今年の賤民夜叉の任命と聞いても、別段心躍ることはなかった。賤民夜叉は大概、武力に優れた大男がなるものだった。王が設けたその制度自体、優性思想を体現しているようで気持ちが悪かった。弱肉強食とは言うが、強さの定義なんてその状況により変わる。そもそも、「賤民たちに特別に権利を与えてやる」だなんて、傲慢も過ぎる。


 しかし、実際任命式に現れたのは、美しい女性だった。


 引き締まった黒い肢体は彼女の気高さを象徴しているようだった。寸分も隙がない動きは、戦いの中で培われたものだろう。赤い瞳は熱く生命の炎を宿し、そして何よりその白い髪は、王城の眩い照明を反射して、きらきらと光っていた。


 場違いな胸の高鳴りを表に出さないようにするので必死だった。ダキニ族、絶えたと聞いていたが、まさか。


 運命に感謝した。特に意識はしていなかったが、心の中でずっと探していたのだろう。そしてついに、出会ってしまったのだ。


 正妻を取るなら、あのひと以外の選択肢はもう思いつかない。


 賤民の差別がなんだ。あなたを幸せにするためなら、この不条理な世の中をいくらでも変えて見せよう。


 食べられたってかまわない。あなたが望むのならば、いくらでもこの身を捧げよう。


 そして俺は、禁断の果実に、自ら口をつけたのだ。

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