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RAIN  作者: 恵奈
6/21

二本の傘

たぶん社会人。



 すごい音。

 雨の叩きつけるような音に、思わず顔を上げた。


『午後からは強い雨に見舞われるでしょう』


 天気予報の言葉を思い出す。

 日曜の午後、バスの乗客は少なく。私は一番後ろの席に一人座り、ぼんやりとしていた。

 手には二本の傘。

 一本は私のもので、もう一本は。


 勢いの弱まることのない雨足は、バスの窓から見る景色を少し変える。

 窓についた水滴は視界をさえぎってしまうし、降り注ぐ雨粒は霞ませてしまう。

 色とりどりの傘を追い越していくバスに揺られながら、私は1年前のことを思い出していた。






「一緒にいてもつらい」


 私から、そう言い出した。

 彼は黙ったまま、何にも言葉を返してはくれなかった。ただ、その表情だけは雄弁で、私と同じように、ひとつの出口を見つけたことにほっとしてるように見えた。

 どうしてこんなことになったんだろう。

 彼と付き合いだしたころは、嬉しくて幸せでしょうがないくらい、輝いていたのに。

 時間がたつにつれて、そして大人になっていくにつれて、色褪せてしまった。

 学生のときに付き合ってた恋人とは、社会人になってから別れることが多いって、友達が言っていたっけ。

 そういうことだったんだろうか。

 自由な時間が減った分だけ、彼を想う気持ちが減っていってしまったの?

 忙しい毎日が続くたびに、会えない日が続いて。



 小さなすれ違いだったんだと思う。

 彼の休みの日には、私は仕事で。

 私の休みの日には、彼は仕事で。

 不満ばかりがたまって、不安ばかりが募って。

 優しくしてあげられなかった。

 幼かった私たちの恋は、毎日の中のさまざまなゆとりがあったからこそ、成立していたのかもしれない。

 不満から来る鋭い言葉は私の心を傷つけ、不安から来る尖った言葉は彼の心を縛り付けた。

 好きなのに。

 好きなのに、うまくいかない。

 短い逢瀬の中で話せる言葉は、数少なくて、私たちは修正できなくなってしまった。

 気持ちと、その存在が、重くて。


「一緒にいてもつらい。別れようか」


 泣きながら、そう言った。






 今、彼はどうしているのだろう。

 男物の黒い傘の柄を、私はゆっくりと指でなでた。

 私の部屋にあった、彼のものは全部返したはずだった。

 だから、1年たった今、ひょっこり出てきた彼の傘に、正直戸惑った。

 だけど、捨ててしまうことはできなかった。

 返そう。

 ただシンプルにそう思った。

 そうして、たまたま代休だった今日、私は彼の家へと向かっている。


 1年ぶりだった。

 だけど、長く行ってなかったからといって、彼の家を忘れたりはしていなかった。

 一度も迷ったりすることなく、切符を買い、バスを乗り継ぐ。

 終わったはずの恋なのに、どうしてか胸が高鳴る。

 ドキドキしながら彼の家に向かったことを、まだ身体が覚えてるんだろうか。

 それとも未練?


 心を通わせ合うことをやめた人。

 それは、別れた恋人には違いなかったけれど、キライになったから別れたわけじゃない。

 幼かったから。

 そんな理由は、時間がたつにつれて曖昧になって消えて、きれいに忘れてしまっていた。


 だからこそ、なのだろうか。

 2度目の失恋気分を味わってしまうのは。


 時間が止まったような気がした。

 車窓の向こう側、雨に霞んだその景色がいやにゆっくりと過ぎていく。

 見間違えたりしない。

 ずっと好きでいた人だから。


 彼は、笑っていた。

 その笑顔はとても幸せそうに見えた。

 そして、その彼の横で笑っている女性の表情も。

 それを見たとたん、いろんなことが失われていく音が聞こえた。

 彼のそばに、私の居場所はもうない。


 降りるはずだったバス停が過ぎてゆく。

 まるでいつものことのように、傘を並べて仲良く歩く二人の姿は、望みもしないのに私の記憶に焼きついた。

 もう彼らの姿は見えないほど遠のいたはずなのに。

 目を閉じると、その光景が思考を支配し。

 逃げるように目を開けると、涙がにじんだ。

 一年も離れていたのだから、彼のそばに誰かがいたとしても全然当たり前のことなのに、私はそれを予測していなかった。

 傘を届けに行ったら、彼が前と変わらない笑顔を向けてくれると、私は本気で思っていた。

 なんて傲慢なんだろう。

 つらいからといって簡単に手を離してしまった私には、もう彼に会う資格なんてないのに。






 雨の中、バスは走り続けた。たどりついた終点で、私はバスを降りる。

 折り返し運行するバスを見送り、私は傘をさして歩き出す。

 手には彼の傘。


「行き場、なくなっちゃったね」


 傘はまるで私のようだった。

 彼の顔を見たとたん、私は思い出していた。

 私は別れたけれど、逃げ出したけれど。

 彼を好きでいることをやめたわけじゃなかったことを。

 彼はたぶん、それを知らない。

 今となっては知る必要もないこと。

 私のこの気持ちは誰にも受け止められることなく、さまよい続けるんだろう。行き場もなく。


 下を向いて歩いていると、また涙が出てきそうになるからまっすぐ前を向いた。

 よく知ってる街だ。

 彼と出会った街。

 高校時代を過ごした街。

 ふと道端を見ると、パン屋の軒先に高校生らしい男女がうっとうしそうに空を見上げているのに気がついた。

 その二人の間にぽかんと開いた空間が、なんだか懐かしくて笑った。そして切なくなる。

 30センチほど離れたその空間は、高校生だったころの私が知っている。

 好きなのに、素直になれなくて、とてももどかしかった距離。

 今はただうらやましいだけ。

 私と彼は、もう手を伸ばしても届かない。


「傘ないの?」


 私はゆっくりと二人に近づいてそう聞いた。

 女の子が控えめにうなづく。


「これ、あげる。使って?」

「え、でも」


 女の子は、ちらりと彼氏のほうを見てから、私を見る。


「持って帰りたくないの。だからどうぞ?」


 座り込んでいた彼氏のほうに傘を差し出す。彼氏は、それを受け取ったあと、ぺこんと頭を下げた。


「じゃ」

「あありがとうございましたっ」


 傘がなくなった分だけ、気持ちが軽くなる。

 行き場を与えられた傘。

 彼女たちの距離を少し縮めてあげてね。


 私はもう二度と来ないつもりの街を、静かに歩き始めた。





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