果樹の巫女は静かに微笑む ~婚約破棄された無能令嬢、実は王国の食糧を支える唯一の存在でした~
「――本日をもって、リリアーヌ・フォン・クレセンティア。君との婚約を破棄する」
王宮の大広間に、王太子エドワルドの声が高らかに響き渡った。
数百の貴族たちが息を呑み、視線が一斉にこちらへと集まる。煌びやかなシャンデリアの光が、残酷なまでに私の姿を照らし出していた。
(ああ、ようやくこの日が来たのね)
私――リリアーヌ・フォン・クレセンティアは、内心で小さく息をついた。
表面上は驚愕に目を見開き、青ざめた表情を作る。五年間演じ続けた『無能で無害な公爵令嬢』の仮面。最後まで、きちんと被っておかなければ。
「殿下、それは一体……」
震える声を作るのは簡単だった。だって、何度も練習してきたのだから。
「説明が必要かね?」
エドワルドは勝ち誇った笑みを浮かべ、傍らに立つ女性の肩を抱き寄せた。
蜂蜜色の巻き毛。涙を湛えたような琥珀色の瞳。儚げで可憐な――王国中がその名を知る『聖女』セレナ・メイフィールド。
「私は気づいてしまったのだ。セレナこそが、私の運命の人であると」
運命の人。
ああ、なんて陳腐な言葉だろう。
(殿下、あなたの『運命』という言葉の軽さには、毎回感心させられますわ)
「リリアーヌ様、申し訳ございません……」
セレナが儚げな声で囁く。その華奢な体を震わせ、今にも泣き出しそうな表情。完璧な被害者の演技。
けれど、その琥珀の瞳が一瞬だけ私を捉えた時、そこに閃いたのは紛れもない勝利の色だった。
(その演技、私の方がずっと上手いわよ)
私は心の中でだけ、冷ややかに笑った。
◇
「君には何の取り柄もなかった」
エドワルドの言葉が続く。金髪が煌めき、碧眼が傲慢な光を放っている。典型的な王族の美貌。それだけは認めてあげてもいい。
「社交も苦手、魔法の才能もない。聖女の足元にも及ばない、ただの凡庸な令嬢」
周囲の貴族たちがひそひそと囁き合う声が聞こえる。
「まあ、可哀想に……」
「でも、仕方ないわよね。あの方、本当に何もできない方だもの」
「聖女様と比べたら、月とすっぽんですわ」
哀れみ。嘲笑。好奇。様々な視線が私に突き刺さる。
その通りだ。
リリアーヌ・フォン・クレセンティアは、そういう存在として生きてきた。
十五年間、ずっと。
(母様……私、ちゃんと最後まで演じ切るわ)
母の言葉が蘇る。病床で、母は必死に私の手を握りしめた。その手は驚くほど冷たくて、けれど込められた力だけは強かった。
『いいこと、リリア。お前の力は決して誰にも見せてはなりません』
『果樹の巫女の力は、必ず誰かに狙われる。お母様のように……だから、隠しなさい。無能な振りをして、目立たず、静かに生きるのです』
十五年間。
私はその教えを守り続けた。
触れただけで枯れ木に花を咲かせる力を。
囁くだけで果実の精霊と言葉を交わせる能力を。
王国の食糧の八割を支える、唯一無二の祝福を。
すべて、隠して生きてきた。
「ええ、殿下のおっしゃる通りですわ」
私は静かに微笑んだ。完璧な、従順な令嬢の微笑み。
「私は、何の取り柄もない令嬢でございました」
「理解が早くて助かるよ」
エドワルドは満足げに頷いた。その傲慢な笑みが、私の胸に小さな火を灯す。
怒りではない。
解放感だ。
「殿下」
私は一歩前に出た。周囲がざわめく。
「私からも、一つだけ申し上げたいことがございましたの」
「何だ? 泣いて縋るつもりか?」
「いいえ」
私は背筋を伸ばした。桜色の髪が窓からの風に揺れる。翡翠色の瞳が、初めて本当の光を宿す。
「婚約破棄、ありがとうございます」
大広間が静まり返った。
「……何?」
エドワルドの顔から笑みが消える。
「私、ずっと殿下に申し上げる機会を窺っておりましたの。『どうか私を解放してください』と」
「な……何を言っている?」
「申し訳ありません」
私は深々と一礼した。
「私、殿下のことを一度も愛したことがございませんでしたわ」
沈黙が、広間を支配した。
エドワルドの顔が赤くなる。セレナの目が鋭く細められる。
(その顔、よく覚えておきますわ)
「どうぞ、聖女様とお幸せに。私は私の道を参りますので」
踵を返す。
その背中に、エドワルドの叫びが飛んだ。
「待て! 勝手に去ることは許さん!」
「ご心配なく」
私は振り返らずに答えた。
「もう二度と、殿下の前には現れませんわ」
大広間の扉を押し開ける。
背後で、エドワルドの怒声と、セレナの何かを囁く声が聞こえた。けれど、もう関係ない。
十五年間の仮面が、音を立てて剥がれ落ちていく。
(ああ、清々する)
私は唇の端を吊り上げた。
◇
その夜、私は王都を発った。
従者も護衛もいない。必要なのは、この身一つと、懐に入れた一通の権利書だけ。
母が遺してくれた、最後の贈り物。
『辺境領グリューネヴァルト』
荒れ果てた、誰も見向きもしない土地。税収もほとんどなく、住む者もいない。
けれど私には分かっていた。
あの土地の下には、眠っている果樹の精霊たちがいる。
私を待っている。
馬車が王都の城門を抜けた時、銀色の光が宙に舞った。
『リリア、リリア!』
見た目十二歳ほどの少女の姿をした大精霊フィオーレが、馬車の窓から顔を覗かせる。銀色に輝く髪と、露草色の透き通った瞳。
『ようやく自由になれたね! もう隠さなくていいんだよね!?』
「ええ、フィオーレ」
私は頷いた。
「もう、隠す必要はないわ」
馬車の窓から、遠ざかる王都の灯りを見つめる。
あの光の中で、今頃エドワルドとセレナは祝杯を挙げているのだろう。邪魔な婚約者を追い払えて、さぞ嬉しいことだろう。
(でもね、殿下)
私は小さく笑った。
(後悔するのは、あなたの方ですわ)
「さあ、新しい人生を始めましょう」
十五年ぶりに、私は心から笑った。
◆◆◆
辺境領グリューネヴァルトは、噂以上に荒れ果てていた。
枯れた果樹が並ぶ丘。ひび割れた大地。朽ちかけた小さな屋敷。
馬車を降りた私は、荒野を見渡して小さく息をついた。
「……ひどいものね」
王都からの道中、三日かかった。その間、ほとんど人の姿を見なかった。それほどまでに、この地は忘れ去られていた。
『でもね、リリア』
フィオーレが私の周りをくるくると飛び回る。
『ここには、たくさんの精霊が眠っているよ。みんな、あなたを待っていた』
「分かっているわ」
私は枯れた果樹に向かって歩き出した。
触れる前から、感じる。土の下で、微かに震える命の気配。水を求め、光を求め、誰かの祝福を求めて眠り続けている精霊たち。
「もう、大丈夫よ」
私は枯れた幹に手を伸ばした。
「私が来たわ」
指先が樹皮に触れた瞬間――
光が弾けた。
金色の、暖かな光が私の手から溢れ出す。
枯れ枝から新芽が吹き出す。蕾が膨らみ、花が咲き乱れる。白、桃色、紅。満開の花々が、死んでいた果樹園を埋め尽くしていく。
『わあああ!』
フィオーレが歓声を上げる。
『すごい、すごい! リリアの力、全然衰えてない!』
「当然よ」
私は微笑んだ。
「十五年間、使わなかっただけですもの」
次々と果樹に触れていく。林檎、梨、桃、葡萄。触れるたびに花が咲き、蕾が膨らみ、命が蘇る。
精霊たちの声が聞こえる。
『巫女様だ』
『巫女様が来てくれた』
『ありがとう、ありがとう』
「ありがとうはこちらの方よ」
私は精霊たちに語りかけた。
「待っていてくれて、ありがとう。これからは、一緒に生きましょう」
風が吹いた。
花びらが舞い上がり、荒野だった土地を彩っていく。
その時だった。
「っ……!」
背後で、息を呑む音が聞こえた。
振り返ると、一人の男が立っていた。
漆黒の髪。灰銀色の鋭い瞳。鍛え上げられた長身の体躯には、古い傷跡がいくつも刻まれている。
腰には使い込まれた剣。
常に険しい表情を浮かべた、野性的な風貌の男。
「……あんた、何者だ」
低い声。警戒心を隠そうともしない眼差し。
私は花びらが舞う中、穏やかに微笑んだ。
「ただの農家志望の、元令嬢ですわ」
男――後に知ることになる、アルヴィン・ゼクト・ヴァルトシュタインは、信じられないものを見る目で私を見つめていた。
◇
「農家志望だと?」
アルヴィンの声には、明らかな疑念が滲んでいた。
「その身なり、その言葉遣い。どう見ても貴族だろう」
「元、ですわ」
私は今や満開の花を咲かせた果樹を撫でながら答えた。樹皮の感触が心地いい。精霊たちの喜びが、指先から伝わってくる。
「昨日までは公爵令嬢でしたけれど、今日からはただのリリアですの」
「……」
アルヴィンは険しい顔のまま黙り込んだ。
(無愛想な人ね)
私は内心で苦笑した。けれど、その警戒心の奥に、深い傷を負った者特有の影を感じ取る。
人を信じることをやめた者の目だ。
「あなたは、この土地の方?」
「……通りすがりだ」
「通りすがりの方が、こんな辺境の荒野にいらっしゃるの?」
「悪いか」
「いいえ」
私は首を振った。
「私も似たようなものですわ。居場所をなくして、流れ着いた者同士」
アルヴィンの目が僅かに揺れた。
『リリア、この人間は危険じゃないよ』
フィオーレが耳元で囁く。人間の目には見えない姿で、私の肩に座っている。
『傷ついてるだけ。すごく、深く』
「そう」
私は小さく頷いた。
「あの、失礼ですけれど」
「何だ」
「お腹、空いていらっしゃいません?」
アルヴィンが面食らった顔をした。
「……は?」
「これから果樹園を整えますの。お手伝いいただけたら、お礼に食事を差し上げますわ」
沈黙。
長い、長い沈黙の後。
「……勝手にしろ」
そう言って、アルヴィンは踵を返した。
けれど、立ち去りはしなかった。
果樹園の端の、枯れた切り株に腰を下ろす。腕を組んで、私の作業を見守る体勢。
(変な人)
私は笑いを噛み殺しながら、次の枯れ木に手を伸ばした。
◇
その日から、無愛想な男は、なぜか果樹園の片隅に居座るようになった。
名前はアルヴィン・ゼクト・ヴァルトシュタイン。
元王国騎士団長。
その経歴を聞いた時、私は少し驚いた。王国最強と謳われた剣士が、なぜこんな辺境に。
「追放されたんだ」
アルヴィンは淡々と言った。
「濡れ衣を着せられて、騎士団を追われた。詳しいことは聞くな」
「聞きませんわ」
私は微笑んだ。
「私も、詳しいことは話しませんから」
アルヴィンが怪訝な顔をした。
「あんた、俺のことを怖がらないのか」
「怖がる理由がありませんもの」
「……変な女だ」
「よく言われますわ」
私は果樹の手入れを続けた。アルヴィンは相変わらず切り株に座って、私の作業を見ている。
時々、重い荷物を運ぶのを手伝ってくれる。枯れ枝を集めてくれる。朽ちかけた柵を直してくれる。
口数は少ないけれど、不思議と居心地は悪くなかった。
『リリア、あの人間、だんだん変わってきてるよ』
ある夜、フィオーレが言った。
『最初に会った時より、目が柔らかくなってる』
「そうかしら」
『うん。きっと、あなたのおかげだね』
私は答えなかった。
ただ、少しだけ嬉しかった。
◆◆◆
辺境領の変化は、驚くほど早かった。
私が触れた果樹は次々と蘇り、一ヶ月もしないうちにたわわな実をつけ始めた。林檎、梨、桃、葡萄、柑橘類。色とりどりの果実が、かつての荒野を彩っていく。
『すごいね、リリア! こんなに早く実がなるなんて!』
フィオーレがはしゃぐ。
「精霊たちが頑張ってくれているからよ」
私は果実を一つ摘み取った。真っ赤に熟れた林檎。口に含むと、甘い果汁が弾ける。
(美味しい)
十五年ぶりに、自分の祝福で実った果実を食べた。
王都にいた頃は、いつも我慢していた。能力を使えば、すぐに気づかれてしまうから。
でも、もう我慢する必要はない。
「アルヴィン」
私は林檎をもう一つ摘み取って、切り株に座る男に差し出した。
「召し上がって」
「……」
アルヴィンは無言で林檎を受け取り、一口齧った。
「……悪くない」
「あら、それは褒め言葉として受け取っておきますわ」
「別に褒めてない」
「はいはい」
私は笑った。
◇
噂は、思ったより早く広まった。
「失礼、ここがグリューネヴァルト領でしょうか?」
果樹園の入り口に、恰幅の良い男が立っていた。栗色の髪と温かみのある茶色の瞳。人好きのする笑顔を浮かべている。
「はい、そうですけれど」
「おお、これは……」
男は果樹園を見渡して、目を丸くした。
「噂には聞いておりましたが、本当だったとは。こんな見事な果樹園、王都でも見たことがありません」
「ありがとうございます。あなたは?」
「申し遅れました。私はオスカー・ヴァン・ローゼンクランツ。商人をしております」
男は深々と頭を下げた。
「荒れ果てた辺境領が、わずか一月で果実の楽園に変わったという噂を聞きまして。ぜひ、お取引をお願いしたいのです」
商人オスカー。
彼が最初の一人だった。
その後、噂を聞きつけた商人や職人が次々とやってきた。果実を求める者、新天地を求める者、仕事を求める者。
小さな領地は、瞬く間に活気づいていった。
「リリアーヌ様、今日の収穫高です」
オスカーが帳簿を差し出す。彼は今や、この領地の筆頭商人となっていた。
「ありがとうございます、オスカーさん」
「いえいえ。それよりリリアーヌ様、またあの無愛想な騎士殿が睨んでおりますぞ」
「え?」
振り返ると、アルヴィンが果樹園の端から、鋭い目でこちらを見ていた。
「……あれは、別に睨んでいるわけではありませんわ」
「ほう?」
「あれがあの人の普通の顔なのです」
「なるほど、これは失礼を」
オスカーはにやりと笑った。
(何を笑っていますの、この人は)
私は首を傾げた。
◆◆◆
その頃、王都では異変が起きていた。
◇
「どういうことだ、セレナ!」
王宮の聖女の私室に、エドワルドの怒声が響き渡った。
「祝福を与えた作物が、次々と枯れているぞ!」
セレナは蒼白な顔で震えていた。
(馬鹿な、こんなはずでは……!)
彼女の『聖女の奇跡』は、すべて偽物だった。
幼い頃、母である呪術師がリリアから力の一部を盗み取った。その欠片を使って、セレナは『奇跡』を演出してきたのだ。
けれど、本体であるリリアが王都を離れた瞬間から、盗んだ力は急速に衰え始めていた。
「答えろ! 何が起きている!」
「私の……私の力では……」
セレナの声が震える。
「使えん! 何のための聖女だ!」
エドワルドの罵声が突き刺さる。
ほんの一月前まで、『運命の人』だと囁いていたのと同じ口で。
(この愚か者が)
セレナは内心で舌打ちした。けれど、表面上は涙を浮かべて俯く。
「申し訳……申し訳ございません……」
「謝罪など聞きたくない! どうにかしろ!」
エドワルドが部屋を出て行く。
扉が閉まった瞬間、セレナの顔から涙が消えた。
「……リリアーヌ・フォン・クレセンティア」
琥珀色の瞳に、暗い炎が灯る。
「あの女のせいだ。全部、あの女が王都を離れたせいで……」
唇を噛みしめる。
「殺してやる。必ず連れ戻して、今度こそ全ての力を奪い取ってやる」
◇
数週間後、王都からの使者がグリューネヴァルト領に到着した。
「リリアーヌ・フォン・クレセンティアはいるか!」
騎士の姿をした男たちが、果樹園の入り口で声を張り上げる。
「王太子殿下の命令である! ただちに王都へ連行する!」
私は作業の手を止めて、彼らの前に立った。
「お帰りください」
穏やかに、けれど毅然と告げる。
「私はもう、王都の人間ではありませんの」
「何を言っている! 王太子殿下の命令だぞ!」
「王太子殿下の命令……」
私は小首を傾げた。
「それは、私に従う義務があるのでしょうか?」
「当然だ! お前は王国の民だろう!」
「ええ、王国の民ですわ」
私は頷いた。
「けれど、婚約を破棄されたのは殿下の方ですわ。私はもう王家とは何の関係もない、ただの辺境の農園主」
「詭弁を! 従わねば反逆罪に問われるぞ!」
「反逆罪、ですか」
私は微笑んだ。穏やかな微笑みのまま、けれど瞳の奥に鋼の光を宿して。
「むしろ、お尋ねしたいのは私の方ですの」
一歩前に出る。
「王都の作物が枯れ始めた、と聞きました。聖女様の祝福を受けたはずの畑が、次々と」
使者たちの顔が引きつった。
「それが、私と何の関係が……」
「私は十五年間、何の力も持たない無能な令嬢でしたわ。殿下もそうおっしゃっていたでしょう?」
沈黙が落ちた。
私は背後の果樹園を振り返った。たわわに実った果実。精霊たちの歌声。笑顔で働く人々。
「この土地は、私を必要としてくれています」
振り返る。
「申し訳ありませんが、もう遅いのです」
使者たちは何も言えなかった。
「お帰りください。そして殿下にお伝えくださいな」
私は完璧な貴族令嬢の微笑みを浮かべた。
「『後悔しても、もう遅いですよ』と」
◇
使者たちが去った後、アルヴィンがぼそりと呟いた。
「……容赦ないな」
「あら、そうかしら」
私は肩をすくめた。
「十五年分の我慢料と思えば、あのくらい可愛いものですわ」
アルヴィンの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
それは、彼がこの地に来て初めて見せた笑みだった。
(……笑えるじゃない、この人)
私は少しだけ、胸が温かくなるのを感じた。
◆◆◆
「もう隠し通せないよ、リリア」
フィオーレが深刻な顔で言った。
月明かりの下、私とアルヴィンは果樹園の丘に腰を下ろしていた。満開の花を咲かせた果樹が、銀色の光に照らされている。
「あの女……セレナとかいう人間。あいつが持っている力は、お前から盗んだものだ」
「知っていたわ」
私は静かに頷いた。
「幼い頃、母と一緒にいた時に。彼女の母親に襲われたの」
アルヴィンの目が細まった。
「それで、能力を隠していたのか」
「ええ。母は私を守るために……」
言葉が途切れた。
フィオーレが悲しげに目を伏せる。
「マルグリット様は、呪術師との戦いで深手を負った。それが原因で……」
「母は死んだわ」
私は感情を押し殺して言った。
「私を守るために、私に力を隠すことを教えて、そして逝ってしまった」
沈黙が降りた。
夜風が吹いて、花びらが舞い上がる。
「……俺も」
アルヴィンが重い口を開いた。
「濡れ衣を着せられた。王家の陰謀に巻き込まれて、騎士団を追われた」
私は彼を見た。灰銀色の瞳が、月明かりに照らされている。
「だから、人を信じられなくなった」
「……ああ」
「でも、今は?」
アルヴィンは答えなかった。
ただ、静かに立ち上がり、腰の剣に手をかけた。
「王都から追手が来る。本格的なやつが」
「分かっているわ」
「俺は……」
言葉を探すように、アルヴィンは眉間に皺を寄せた。口下手な彼が、何かを伝えようとしている。
「お前を、守る。この剣で」
私は目を瞬いた。
「……どうして?」
「どうしても何も」
アルヴィンは私から視線を逸らした。
「お前のいるこの場所は……悪くないと、思うからだ」
私は、ふわりと笑った。
「ありがとう、アルヴィン」
その笑顔に、元騎士団長は不意を突かれたように視線を逸らした。
耳の端が、僅かに赤い。
(……可愛い人ね)
私は心の中でだけ、くすりと笑った。
◆◆◆
王都は混乱の極みにあった。
作物は枯れ、疫病が蔓延し、民の不満は日に日に高まっていく。
「セレナ! どうにかしろ!」
エドワルドは髪を振り乱して叫んだ。かつての優雅な王太子の姿はどこにもない。目の下には深い隈が刻まれ、頬はこけている。
「私の……私の力では……」
セレナは震えていた。盗んだ力は完全に消え失せ、もはや何の奇跡も起こせない。
「使えん! 何のための聖女だ!」
その時、執務室の扉が開いた。
「殿下」
入ってきたのは、老いた国王ヴィクトールだった。
白髪交じりの金髪と、疲れた碧眼。長年の政務で消耗した、けれど確かな威厳を持つ老王。
「父上?」
「すべて、分かった」
国王の声は静かだったが、重く響いた。
「セレナ・メイフィールド」
名を呼ばれ、セレナの体が強張った。
「お前は聖女ではない。呪術師の娘であり、先代の果樹の巫女を殺した者の血を引く」
セレナの顔から血の気が引いた。
「な、何を……」
「証拠は揃っている」
国王は冷ややかに言った。
「辺境領から届いた精霊の証言、そして古い記録。マルグリット・フォン・クレセンティアを殺したのは、お前の母親だ」
セレナの体が震え始めた。
「そして、幼いリリアーヌ殿から力を盗んだのも」
国王は哀しげにエドワルドを見た。
「お前は騙されていたのだ、息子よ。この女と、その偽りの奇跡に」
「嘘だ!」
エドワルドが叫んだ。
「セレナは……セレナは運命の……!」
「運命?」
セレナが嘲笑った。
もはや儚げな仮面は剥がれ落ちていた。琥珀色の瞳に浮かぶのは、純粋な悪意と嘲りだけ。
「あなたを操るのは簡単だったわ、エドワルド。『運命の愛』なんて囁けば、すぐに信じるんですもの」
「っ……!」
「本当に愚かな男」
セレナは歪んだ笑みを浮かべた。
「あの地味な婚約者の方がよほど価値があったのに、気づきもしなかった。王国の食糧を一手に支える果樹の巫女を、無能だと見下して、捨てたのよ。あなたが」
エドワルドの顔が蒼白になった。
国王が衛兵を呼んだ。
「セレナ・メイフィールドを拘束せよ」
「離せ! 離しなさい!」
セレナが暴れる。けれど、衛兵たちの手は容赦なく彼女を捕らえた。
「そしてエドワルド」
父の目が、深い失望を湛えていた。
「お前を王太子の座から降ろす」
「父上……!」
「私は息子に期待しすぎた。王たる資質を見誤った」
国王の声は静かだったが、その静けさが逆に重い。
「お前の愚行で、王国は滅びかけている。その責任を、お前は取らねばならない」
◆◆◆
すべてが終わった後、国王自らが辺境領を訪れた。
◇
「リリアーヌ殿」
老王は深々と頭を下げた。王国の頂点に立つ者が、元公爵令嬢に頭を垂れている。
「そなたと、そなたの母上に対する仕打ち、心より詫びる」
「陛下、お顔をお上げください」
私は静かに言った。
「私が恨んでいるのは、陛下ではありません」
「それでも、だ」
国王は立ち上がり、一通の勅令書を差し出した。
「グリューネヴァルト領の完全なる独立を認める。そなたは自由だ。王家の命令に従う義務も、宮廷に顔を出す義務もない」
「ありがとうございます」
私が勅令書を受け取った時、屋敷の外で騒ぎが起きた。
「離せ! 私はリリアーヌに会うのだ!」
聞き覚えのある声。
エドワルドだった。
廃嫡され、見る影もなくやつれた元王太子が、衛兵を振り切って庭に飛び込んできた。
「リリアーヌ……!」
その目は血走り、かつての傲慢さは消え失せていた。金髪は乱れ、碧眼には正気の光がない。
「頼む、戻ってきてくれ。お前がいなければ、王国は……」
「お断りいたします」
私は穏やかに、けれど揺るぎなく答えた。
「どうして!?」
エドワルドが縋りつこうとする。アルヴィンが一歩前に出て、私を庇った。
「私が間違っていた、それは認める! だから……!」
「殿下」
私はアルヴィンの肩越しに、エドワルドを見た。
そして、一つの果実を差し出した。
深紅の、美しい実。
「これは『後悔の実』と呼ばれるものですわ」
エドワルドは怯えたように果実を見つめた。
「な、何を……」
「お召し上がりになれば、ご自身が何を失ったか、お分かりになりますわ」
私は微笑んだ。穏やかな、けれど容赦のない微笑み。
「私が十五年間、何を我慢してきたか。母が何を犠牲にしたか。そして、殿下が捨てたものが何だったか」
「……」
「すべて、思い出せますわよ」
エドワルドは震える手で果実を受け取った。
そして、一口齧った瞬間――
彼の瞳から、涙が溢れ出した。
「私は……私は、何て愚かな……」
膝をつき、その場に崩れ落ちる。
「リリアーヌ……私は……お前を……」
「ええ、本当に」
私は冷たく言い放った。
「殿下は愚かでした。でも、もう遅いのです」
振り返る。
「お帰りください、殿下。私には、もう殿下に差し上げる時間はございません」
アルヴィンが黙って私の傍に立つ。その存在が、言葉よりも雄弁に語っている。
この女には、もう新しい居場所がある、と。
◇
王都の危機は、私の協力によって収束した。
ただし、私が王都に戻ることはなかった。
「民のために力を貸すことはいたします。けれど、私の居場所はここですの」
私はそう宣言した。
王国中の農地に、私の祝福を受けた種が蒔かれた。私自身は辺境に残ったまま、フィオーレや他の精霊たちを通じて豊穣をもたらした。
グリューネヴァルト領は『果実郷』と呼ばれるようになった。
商人オスカーのネットワークで特産品が王国中に広まり、小さな領地は瞬く間に繁栄を極めた。
移住者が増え、街ができ、笑顔が溢れた。
私が望んでいたのは、まさにこれだった。
◆◆◆
ある夜のこと。
満開の果樹の下で、私とアルヴィンは並んで座っていた。
銀色の月明かりが、花びらを照らしている。どこからか、精霊たちの歌声が聞こえてくる。
「なあ」
「はい?」
「俺は、味音痴だ」
「知っていますわ」
私はくすりと笑った。
「何を食っても、大して美味いとは思わない」
「ええ」
アルヴィンは何かを言いたげに口を開き、閉じ、また開いた。
口下手な彼には珍しく、言葉を選んでいるようだった。
「でも」
ようやく、言葉が紡がれる。
「お前の作る果実だけは……悪くないと、思う」
私は目を瞬いた。
「……それは」
アルヴィンは不器用に、私の手を取った。
大きな、剣だこのある手。けれど、触れ方はとても優しい。
「お前の作る世界は、悪くない」
「……」
私の声が、微かに震えた。
「求婚、ですの?」
沈黙。
アルヴィンの耳が、真っ赤に染まる。
「……そう取ってくれて、構わない」
私は、十五年ぶりに涙を流した。
悲しみの涙ではない。
嬉し涙だった。
「お受けいたしますわ」
満開の花が、二人を祝福するように舞い散った。
精霊たちの歌声が、夜空に響く。
『おめでとう、リリア』
フィオーレの声が聞こえた。
『やっと、本当の幸せを見つけたね』
私はアルヴィンの手を握り返した。
「ええ」
桜色の髪が、月明かりに輝いた。
「これが、私の選んだ人生ですの」
◇
果実郷の夜明けは、いつも甘い香りに包まれている。
色とりどりの果実が実り、花が咲き乱れ、精霊たちが歌う楽園。
かつて『無能な公爵令嬢』と呼ばれた女と、『追放された騎士団長』と呼ばれた男が、そこで穏やかに暮らしている。
「リリア、今日の朝食は?」
「林檎のタルトですわ。昨日収穫した分を使って」
「……悪くない」
「あら、また『悪くない』ですの? たまには『美味しい』と言ってくださいな」
「……そのうちな」
「ふふ、楽しみにしていますわ」
二人の笑い声が、朝の果樹園に響く。
◇
王都では、今も後悔の実を食べたエドワルドが、塔の一室で贖罪の日々を送っているという。
セレナは追放され、二度と王国の地を踏むことは許されなかった。
私は彼らを憎んではいない。
けれど、許してもいない。
ただ、もう関係のない人たちだと思っている。
私の世界は、ここにある。
この果樹園と、精霊たちと、そして――
「リリア」
「はい?」
「……愛している」
不器用に、けれど真っ直ぐに告げられた言葉。
私は、心から笑った。
「私も、愛していますわ。アルヴィン」
果実郷の物語は、まだ始まったばかり。
無能な公爵令嬢と、追放された騎士団長。
二人の新しい人生は、甘い果実の香りと共に、ゆっくりと紡がれていく。




