私を束縛した令息が、令嬢になって戻ってきた
「婚約を解消してください」
私が彼にそう告げたのは、一年前のこと。
彼自身は合意してくれなかった為、実質婚約解消ではなく、婚約破棄になるのだろう。
一人娘の婿が欲しい裕福な我が子爵家と、領地と事業の経営難に喘ぐ伯爵家の三男。十四歳の時に婚約し、懸命に交際を続けて三年後、もう無理だと気付いてしまった。
六歳上の彼は、とにかく束縛が激しかった。
女学校への送り迎えはもちろん、休日も朝早くから家にやって来て、傍から離れない。大切な試験を控えていようが、外出の予定があろうがお構い無しだ。
教師だろうが友人だろうが使用人だろうが、異性と少しでも話そうものなら不機嫌になり、『子どものくせに色目を使うな』『品位がない』などとお説教が始まる。デビュタントを迎えても、お茶会や夜会などの社交の場に行かせてもらえないのはもちろん、学校の実習で出かけることすらいい顔をしなかった。
まだ若い私を心配してくれているのだ、婚約者なのだから当たり前だと思い込もうとしたけれど……同じく婚約している友人の話から、そうではないと知ってしまう。
『もっと勉強がしたい』『家族や友人と過ごす時間も大切にしたい』と、勇気を出して自分の気持ちを伝えてみた。だけど、『勉強なら僕が教えてあげる』『結婚するんだから僕も家族でしょ? 家族より友人を取るの?』と全く話が通じなかった。見兼ねた両親が何度も厳しめに伝えてくれたけど、身分が上なのをいいことに、彼は『自分』を貫き通した。
十七歳になり、卒業旅行を指折り数えて楽しみにしていると、『泊まりなんて許せない、行かないでくれ。行ったら僕は死んでしまうよ』と泣きながら縋られた。怖くて返事が出来ずにいると、なんと学校に乗り込み、教師も御者も全て女性にしろと抗議する始末。
ただでさえ窮屈な貴族の結婚。この人と結婚したら、一生羽を折られて、狭い鳥籠に閉じ込められるのだろうか。そう考えたら、うまく呼吸ができなくなってしまった。
『お前の幸せが一番大事だ』
父のその一言で、私は婚約を解消……破棄しようと決意した。慰謝料やら何やらで両親に迷惑を掛けてしまうし、新しい相手を見つけることも難しくなるだろう。わかっていても、もう心が限界だった。
『僕の何が悪いのかわからない』
『嫌なら言ってくれれば良かったのに』
『君のことが心配だっただけ』
彼はそんな言葉を吐きつつ、頑なに拒み続けたけれど。慰謝料として多額の資金援助をすることで、何とか合意してもらえた。
彼の意思を無視し、伯爵様が合意した婚約破棄。そう簡単に諦めないのではと覚悟していたけれど、彼はそれきりパタリと姿を現さなくなった。
私の気持ちをわかってくれたのだろうか。むしろ私が彼の気持ちを理解しようとしなかった為に、彼だけでなく、両親や多くの人を振り回してしまったのではないか。
自由にはなったものの、今度はそんな罪悪感に苛まれながら、苦い気持ちで女学校を卒業した。
男性に対し恐怖心を抱くようになってしまった私は、すぐに新しい相手を探すことなどできなかった。かといって家に閉じこもっていると、悪い方へ悪い方へと考え気持ちが沈んでしまう。
いっそ修道院にでも行こうかとどん底にいた時、私を気にかけてくださっていた恩師から、母校の女学校の養護職員として働いてはどうかと勧められた。私が持つ回復魔力は微弱だけど、人を癒すヒーリングの力に長けているからと。
不安定な自分に、生徒のケアなど務まるのか。最初は不安だったけれど、生徒達の心と向き合う仕事に、次第にやりがいを感じるようになっていった。
商家の跡取り娘から貴族の令嬢まで、進路や対人関係など様々な悩みを聴き、背中を撫でたり押したりしている内に、徐々に自分の傷も癒えていく。
学生時代は自分のことで精一杯だったけれど、みんなこうして何かしらの悩みや苦しみを抱えていた……そんな当たり前のことに気付けたからかもしれない。
生徒がもっと気軽に悩みを相談できる方法はないかと考えた私は、全生徒と教師に配布されている通信用の魔道具を使い、匿名でメッセージを受け付けられるよう体制を整えた。
すると忽ち、たくさんの悩みが寄せられた。匿名で気軽に相談出来るとあって、より様々な心に触れられるようになったのだ。
『恥ずかしくて誰にも相談出来なかったので……気持ちがすごく楽になりました』
『大した悩みではないと思っていたのに、自分が思う以上に辛かったことに気付けました』
『小さな “ 居場所 ” に救われました。話を聴いてくださりありがとうございます』
そんな言葉をもらえて、すごく嬉しかった。
ある日、一通のメッセージが届いた。通信具の蓋を開けば、文章が手紙のように宙に浮かび上がる。
『はじめまして。婚約者のことを相談したくてメッセージを送りました。先日、彼から突然婚約を破棄されてしまい……今、絶望の中にいます。
私は彼を愛していたので、絶対に合意する気はなかったのですが、愚かな父が慰謝料欲しさに合意してしまいました。
私の何がいけなかったのかな。毎日彼に寄り添い、彼に尽くしてきたのに。もっともっと甘えて欲しかったし、甘えさせて欲しかった。他の何よりも自分を優先して、自分を見て欲しかった。婚約者であれば、それが当然ですよね?
本当に、私の何がいけなかったのな。どうして嫌われちゃったのかな。嫌う前に言ってくれたら直したのに』
ただ男女が逆なだけで、あまりにもあの頃の自分達と似た境遇に、全身がぞわりと粟立つ。額には嫌な汗が流れ、私は慌てて通信具の蓋を閉じた。
辛かった日々を思い出したから、だけではない。得体の知れぬ違和感や、なんとも言えない気味の悪さを、言葉の端々から感じてしまう。
それでも私は、彼女の婚約者と似た自分の経験を元に、真摯に悩みと向き合い返事を送った。
それからすぐに届いたメッセージを見て、私は吐き気を催した。
『優しい先生が、そんな自分勝手な方だったなんて……正直驚きました。婚約者さん、理解してもらえず、どんなに苦しんだことでしょうね。拒絶されて、否定されて、死んでしまいたいほどだったのではないでしょうか。もしかしたら死んでしまうかもしれませんよ?
でも、私は死にませぬ。だって、私のことを本当に嫌いになるはずなんてないもの。今頃彼女は、私を愛していたことに気付いて、後悔して、私を待っているはずだから』
──彼だ。
間違いなく彼だ。
吐き気を堪えながら、一語一句じっくり目で追う。……うん、これを書いたのは、絶対にうちの生徒じゃない。十代の少女のふりをした異常な男だ。
『~せぬ』というのは、彼の口癖。『今頃彼は』と書くべきところが、『彼女は』となっている。
それより……この粘着質で自分本位な思考が、彼であることを何より証明している。軽々しく『死ぬ』などと口に出し、恐怖や罪悪感で人を縛りつけようとするところも。
蓋を閉じると、心の奥から何かが沸々と込み上げる。さっきまでの吐き気はすっかり消え、代わりに凄まじい怒りが全身を包んだ。生徒の為の大切な場所を利用してまで、恨み辛みをぶつけるなんて……
弱々しいふりをして、雑草のようにしぶとく逞しい。
プライドばかりが異様に高く、自分が拒まれる事実を受け入れられない。
全てを人のせいにして、自分は悪くないと主張する。
バレないとでも思ったの? それとも気付いて欲しかったの? どちらにしてもおかしすぎる!
もしかしたら自分が悪かったのかもしれない。もっと私が大人なら、もっと私が努力すれば、彼のことを理解してあげられたのかもしれない。ずっと抱いていたそんな罪悪感は、一気に吹き飛んだ。
どんなに大人になっても、どんなに努力しても、この人とは一生わかり合えない。やっとそう気付いたからだ。
私は通信具を手に恩師の元へ向かい、濁して伝えていた元婚約者とのあれこれから、なりすましメッセージの件まで全てを話した。
メッセージの送信者を特定するには、学校長の許可を得なければいけない。もし本当に生徒だったら大変なことになるので、しばらく気付かないふりをして、やり取りを続けながら証拠を掴みましょうと言ってくださった。
──その日は意外とすぐにやって来た。
いつも通り若い令嬢(下級貴族の令嬢という設定らしい)になりすまし、恨み辛みを綴った文章の中に、婚約破棄前に贈られたものと同じ、彼の自己陶酔ポエムが紛れ込んでいたのだ。すぐ消されてしまったが、複写機能を使い、保存することに成功した。幸いなことに、ポエムが綴られたその手紙も残っている為、照らし合わせれば立派な証拠になるだろう。
早く自分に気付いて欲しいというメッセージだったのか、単に間違っただけなのか……真意は不明だが、これでやっと学校長の許可が下りると安堵した。
調べたところ、メッセージの送り主は、うちの生徒だった。正確に言えば、その生徒の通信具を使って、第三者がメッセージを送っていたことが判明した。
その第三者とは、もちろん彼だ。病気療養中で学校を休んでいる遠縁の女の子から、『壊れているから修理に出してあげる』などと上手いことを言って通信具を奪い、パスワードを聞き出した上、不正利用していたのだ。
婚約破棄する際に交わした、資金援助する代わりに、一切の接触を禁止するという約束を破った彼。お蔭で我が家は、堂々と資金援助を打ち切ることが出来、伯爵家とは何の関わりもなくなった。
また、婚約者を異様なほど束縛し、別れてからも女生徒のふりをして付きまとったという醜聞が徐々に広まり……彼は無一文で勘当されてしまったらしい。
いつか……彼を愛し、理解してくれる人は現れるのだろうか。あの粘着質で一方的な想いが、望まぬ人へ向かわないようにと願っている。
ずっと抱いていた罪悪感と決別した私は、その後、職場で知り合った男性と恋をし、一年間の交際を経て結婚した。身分は我が家よりもずっと低かったけれど、父は彼の誠実な人柄を気に入り、何より娘が幸せになるならと泣いて喜んでくれた。
迎えた結婚式の日。愛する人の腕に寄り添い、祝福の中を歩く。花びらの雨を幸せな気持ちで受け止めていると……それを降らせてくれる人達の中に、ふと、知らない女性がいるのに気付いた。
誰だったかしら……見覚えはあるのだけど。
なんとも言えない気味の悪さを感じていると、彼女の真っ赤な唇がゆっくりと動いた。
『ワ・タ・シ・ハ・シ・ニ・マ・セ・ヌ』




