9 予感①
アルベック城は帝国から離れた場所に位置するため、皇帝や宰相たちの動きは全く届かない。
だが王国との国境に近いので戦況はすぐに入ってきたし……この頃、王国に侵略したものの返り討ちに遭って敗走する帝国軍がアルベック城に逃げ込むことも多くなった。
「やっぱり、王国軍には勝てないのでしょうね」
「……そうね」
今日も多くの負傷兵が逃げ込んできたため、アルベック城は朝から大忙しだ。
「敗者の世話などしなくていい!」と帝都から来た騎士たちが言うが、ミランダは皆を指揮して負傷兵の治療を行っていた。
負傷兵たちは、精強な王国軍を前にすっかり逃げ腰になっていた。しかも中にはレベッカたちとさほど年の変わらないだろう若い兵士もいて、「家に帰りたい……」と泣いていた。
メルデ帝国は広大な領土をもつが、それは決して戦によって勝ち得たのではない。
メルデ帝国は代々温厚な皇帝が治めることが多く、君主の勝手な亡命により困窮する小国を保護する目的で併呑したり、話し合いによって領土を譲渡されたりと、円満な形で領土を広げてきた。
そして帝国は魔術師が生まれやすいものの、騎士団の練度はほどほどだった。前皇帝も武力ではなくて心で他国と渡り合おうとしており、そんな帝国がたった二年で最強の軍事国家になれるはずもない。
細々とした国を攻めている間はよかったが、さすがに騎士の国であるリドベキア王国に攻めるのは間違いだった。
当然女王は侵略戦争を仕かけてきた帝国に怒ったし、またシリル王子も様々な戦いで帝国軍を撃退しているという。
(シリル殿下……ご無事なのね)
逃げ帰ってきた帝国軍は戦場で出会ったシリルのことを「非常に恐ろしい王子だった」と怖気を振るっているが、ミランダにとっては嬉しくもあり――そして、悲しくもある情報だった。
たとえシリルがこの城に攻めてきたとしても、ミランダはもう彼に温情をかけられない。
ミランダが守るべきなのは、この城で生きる人々だ。
それでも……叶うことなら、シリルと戦いたくない。
もしミランダの命ひとつでアルベック城の人々全員を生かしてもらえるのなら、指揮官として彼の前に首をさらすべきだ。レベッカたちは怒って止めるだろうが、最終手段はそれしかない。
(シリル殿下……いずれあなたは、ここに来てしまうの?)
彼の毒の治療をしたあの夜から、三ヶ月経った。
彼は帝国軍が恐れるほど勇猛な王子として活躍しているようだが、だからこそ帝国の所業を許さず――いつかここまで攻めてくるのだろう。
(……私は、戦う。ちゃんと戦う。でも……)
誰も傷ついてほしくない、と思うのは、贅沢な願いなのだろうか。
アルベック城にある変化が起きたのは、もうすぐ冬になるだろうひんやりとした朝のことだった。
「騎士たちがいない?」
「はい。それに、私たちが治療した兵士たちの一部も姿を消しています」
朝食の準備中にそう言うのは、レベッカ。その顔色は悪く、ミランダは眉根を寄せた。
ミランダは指揮官なので、自分用の大きな部屋を与えられている。普通はそこで三食を食べるのだが、せっかくなのだから昼食や夕食などは食堂で皆と一緒に食べ、朝食だけはレベッカが持ってきてくれたものを部屋で一緒に食べていた。
この二ヶ月ほどで、レベッカはミランダのお付きのような存在になっていた。元々彼女は魔道学院の首席だったらしく、「私がミランダ様をお守りします!」と意気込んでいるのを、他の生徒たちも応援していたのだという。
一生懸命で前向き、そして勉強熱心なレベッカのことをミランダも高く評価しており、今では一緒に朝食を食べながら一日の予定を確認したり、最近気になっていることを相談しあったりするようになっていたのだが……。
「……いつもならこの時間、早く飯を寄こせと叫んでいるわよね?」
「ええ、ですので最初に気づいたのが厨房のおばさまたちで。変だと思って部屋に行ったら、もぬけの殻だったんです」
「逃げたってこと?」
ミランダはそう言ってから、はっと嫌な予感がしてきた。
偉そうで横暴な、帝都から送られてきた騎士たち。彼らと、最近治療してアルベック城に滞在していた兵士のうち比較的元気な者たちがいなくなった。
「……レベッカ、皆はもう、気配探知魔術は使えるわね?」
「はい。みんなで協力しないと遠くまでは伸ばせませんが……」
自分が教えた魔術が身についているのを確認し、ミランダはうなずいた。
「早番の子たちに、北西へ気配を伸ばすように言っておいて」
「帝都の方向じゃなくてですか?」
「ええ。それから、城に残っている兵士たちの人数の確認も。私の予想が外れればいいんだけど……うっ……」
指示を出していたミランダだが、ふとテーブルに載っていたスープの匂いがふわんと鼻をくすぐり――胃の奥から強烈な吐き気がよじ登ってきた。
真面目な顔でミランダの指示を聞いていたレベッカはぎょっとして、椅子から立ち上がった。
「ミランダ様!?」
「ご、ごめんなさい。ちょっと、気分が悪くて……」
「無理しちゃだめです! 私、皆に指示を出してきますから、ミランダ様は横になっていてください!」
「でも……」
「すぐに戻ってきますから。いいですね、動いちゃだめですよ!」
いつもとは逆でレベッカはびしっとミランダを叱り、急いで部屋を出て行った。
一人になったミランダはちらっと朝食を見て……またしても胃が気持ち悪くなってきたため、レベッカには悪いと思いつつ料理に蓋を被せてからソファのほうに向かった。
(こんなときに体調を崩すなんて……)
ソファに仰向けに寝転がったミランダは、嫌な拍動を始めた胸元に手を乗せる。
見張りの騎士や兵士たちが、いなくなった。
それはある意味、ミランダたちの監視がなくなったというので喜ぶべきことだが……そうも言っていられない。
ミランダたちを見張るために滞在していた騎士たちが、なにも言わずにいなくなった。それが表すのは――
(もう王国軍が近くまで迫っているのかもしれない。だから、逃げられる人は逃げたのではないかしら……)
最初から騎士たちには、ミランダたちと一緒にここで王国軍に立ち向かうつもりなんてなかった。
王国軍が迫り、ミランダたちが逃げられないタイミングになったら自分たちは一足先に帝都に逃げ帰る。そのときに、比較的元気な兵士たちにも声をかけて一緒にとんずらしたのではないか。
もしそうだとしたらまさに、恩を仇で返された気分だ。
もちろん、一度王国軍を前に敗走した者たちにもう一度戦えなんて言うつもりはないが……それでも、城の仲間として一緒に問題解決に当たれるのではと期待していたのに。
(だとしたらこの城に残っているのは、私たち魔術師と非戦闘員である城の住人、そして戦うことの難しい負傷兵だけ……)
レベッカに指示を出して残っている兵士の確認もさせたが、おそらく皆戦闘のできない者たちばかりだろう。騎士たちは最初から、ミランダたちが討ち死にしてでも王国軍と戦い敵の数を減らすつもりだったのだ。
(今の状況を、把握しないと。でも、体がしんどい……)
はあ、とため息をついたところで、レベッカが帰ってきた。
「お待たせしました! 今、城の皆で協力して作業に当たっています」
「ええ、ありがとう。助かったわ」
「……ミランダ様、体調が優れないのですね?」
レベッカが気遣わしげに顔を覗き込んできて……そのときミランダは、あるひとつの予感を抱いた。
そうであってほしくない、それだけはやめてほしい、と思っていたもの。
でも、時期を考えるとそうである可能性が十分にあるもの。
(レベッカなら……)




