4 帝国の策略
「……あーっ、みぃつけたぁ! 役立たずのおばさん魔女!」
調べ物のために書庫に向かおうとしたミランダの背中に、きんきんとした声が突き刺さった。
(げっ。またこの人は……)
正直振り向きたくはないが、ここで無視すれば後で数十倍返しされるのはわかっているので、渋々足を止めて振り返った。
「これは……ヴィヴィアン様。ごきげんよう」
「ええ、ごきげんよう、おばさ――じゃなくて、魔術師団員さん!」
やだ、言い間違えちゃった、とばかりに舌を出すのは、淡いピンク色のドレス姿の美少女だった。金色の巻き毛を背中に垂らしており、紫色の目元は色っぽく垂れて甘いメイクも施されている。
彼女は、現宰相の娘であるヴィヴィアン。年齢は確か十七かそこらだったと思うが、年のわりに若干舌っ足らずで頭の足りてなさそうな話し方をするのが特徴だ。
多くの国民が重税に苦しむ今の帝国で、こんなに豪華な装いができるのはほんの一握りの――皇帝のお気に入りだけだ。
彼女の父である宰相は前皇帝の時代にはただのいち貴族で、密かに支援していた皇弟が即位したことで宰相に任命され、皇帝の採決にハイハイと言って下々に命じるだけの簡単なお仕事をしているそうだ。
そんな宰相の一人娘であるヴィヴィアンは、今こそ我が人生の春とばかりに大手を振って歩いている。現皇帝の子どもはまだ幼いし皇妃はずっと前に亡くなっているので、今の帝国で最も勢いのある令嬢がヴィヴィアンと言ってもいいだろう。
……そんなヴィヴィアンは、ことあるごとにミランダに突っかかり、敵視し、いちゃもんをつけてくる。
「ねえねえ、おば――魔術師団員さんって、なんでそんなに汚い格好をしているの? それでも一応、女でしょう? 恥ずかしくないの?」
ヴィヴィアンはわざわざミランダのもとまで来て、それから「臭っ!」みたいな仕草をする。
確かに以前よりは身なりが粗末になったが、それでも最低限の身だしなみは整えている。髪も手入れをする時間がないだけで毎日洗っているし、幸い自分には水を生み出し温める魔力があるので、温かい風呂にも毎日入っている。服もよれているが洗濯しているので、臭くないのは確かだ。
(この人、シリル殿下に懸想しているのよね……)
わざわざミランダを探しては難癖をつける理由は、つい最近わかった。
どうやらヴィヴィアンは『留学』していた頃からシリル――シーグに目をつけており、そんな彼と親しくするミランダに嫉妬していたそうだ。
嫉妬もなにも、ミランダはただの世話係なのだからヴィヴィアンがシーグに果敢にアタックすればよかった。
だが当時のヴィヴィアンはシーグが王子だとは知らなかったので、「顔はいいけれど、わざわざアタックするような価値はない」と判断していたという。そんなシーグがリドベキア王子だと知ると彼女は地団駄を踏んで悔しがり、ミランダに八つ当たりをするようになったのだという。
そして宰相令嬢となった今、彼女を止められる者はいない。ヴィヴィアンの悪行の被害者は少なくないが、ミランダに当たっている間は自分に矛先が向くことはないからと、放っておかれているのが現状だった。
「……私のような下賎な者は、宰相令嬢とお話しするのも畏れ多いことでございます」
「ええっ、そんなことないわ! わたくし、あなたとお友だちになりたいと思っているの。それなのに、突っぱねられるなんて……悲しいわ……」
ヴィヴィアンはそう言いながら、目をかっぴらいている。そうしていると乾いた眼球を潤すために涙が溢れ、彼女はそれを上品に拭った。
傍目から見ると、身分の低い魔術師にいじめられる宰相令嬢、の図になっているのかもしれない。
(お友だちになりたい人のことをおばさんと言うのは、やめたほうがいいわよ)
本人にはとても言えないので心の中だけで忠告してから、ミランダは頭を下げた。
「私には身に余ることでございます。……では、ヴィヴィアン様のお時間をお取りするのも申し訳ないので、これで」
「ああっ、ひどいわ、おばさ――魔術師団員さん!」
周りの同情を誘うかのように悲しげな声で言うが、まずはミランダの名前を覚えてから茶番を始めてほしい。
ミランダからすると寒々しい演技だが、宰相令嬢にお近づきになりたい人はたくさんいる。
案の定、周りで様子を見ていた若い貴族の男性たちが今だとばかりにヴィヴィアンを取り囲み、「宰相令嬢、どうか気を落とされず!」「あんな年増の言うことなんて信じなくていいのです!」と聞こえよがしに慰めているが……非常に馬鹿馬鹿しい。
(『留学』期間中にシリル殿下を落とせなかった腹いせを、私にしないでほしいわ)
幸い、宰相は娘の乱痴気騒ぎよりも皇帝に擦り寄るほうが大切らしいので、少々ヴィヴィアンに対して雑に振る舞っても宰相から叱責が下ることはない。
だからミランダもヴィヴィアンに絡まれたら適当にいなしているのだが、自分の地位向上のために『あれ』にべったりになる貴公子たちの気持ちが、全然わからない。
(あんなのだったら、シリル殿下に相手にされるはずもないわ)
ふうっとため息を吐き出し、ミランダが思い出すのは二年前に別れたシリルのこと。
かつては小さかった彼も今は、二十歳になっているはずだ。四年間そばを離れていた母である女王に親孝行するためにも、彼は王族として軍の指揮を執ったり各地方に出向いたりと、勢力的に働いているという。
(帝国軍の狙いは、王国の領土。だとすると、王都で守られる女王陛下より、城を離れることの多い殿下が狙われるかも……)
それは、帝国が王国に対する開戦宣告を行ったときから、ミランダが危惧していたことだ。
現在のリドベキア王家の者は少なく、女王とシリルの他には女性か高齢者か幼児しかいないそうだ。次期国王であるシリルは王国にとっての希望の光だが、同時に急所でもある。
(シリル殿下をお守りして、王国の侵略を防ぎたい。でも……私には、なにもできない)
ただでさえ帝国魔術師団はガタガタで、ほとんどの権利を没収されている。せっかく帝国は他の国に比べて魔術師の誕生率が高くて養成機関も充実していたのに、皇帝の悪策のせいで魔術師たちは迫害され、使い捨てられている。
(私が下手に動けば、魔道学院にも累が及ぶ。それだけは……してはならない)
右にも左にも曲がれず、前に進むしかない。
それも、血と泥で汚れた誤った道を。
ミランダは重い足取りで書庫に向かったが……ふと、中から声が聞こえた。
(先客かしら?)
試しに書庫のドアを押してみたが、開かない。鍵がかかっているようだ。
(ここは、夜中でなければいつでも開いているのに……)
重要書類のある書庫の奥はともかく、誰でも閲覧可能な書籍が収められた場所は、早朝に鍵を開けて夜に施錠するまでの間は出入り自由になっているはずだ。
ミランダは少し考え込み……念のために、中を調べることにした。
調べるといっても、難しいことはない。魔術を、使えば。
(本当に、私の能力って軽んじられているわよね)
ミランダは壁伝いに移動し、書庫と壁一枚を隔てた場所で壁に寄りかかった。そうして魔術を展開し、薄い壁の向こうに自分の『耳』を伸ばしていく。
魔術は、さまざまなことを行える。火を熾す、水を生み出す、風を起こすように『わかりやすい』ものもあれば、今ミランダがやっているように視覚ではわかりにくいことをすることもできる。
昔、シリルが帝国にいた頃。彼と一緒に魔術で伝言ゲームをしたり、遠くのものを見たりして遊んだ。
魔術師ではない彼は、ミランダが壁の向こうに置いているものを当てたり遠くの音を聞いたりするのを知って、「隠密活動に向いているな」と言っていたものだ。
(正直これは盗聴だから、悪用するつもりはないけれど……今はもしかしたら、不審者が中にいるかもしれないし)
そういうことで壁に寄りかかって書庫内の気配を探っていると、男性たちの声が聞こえてきた。どうやら鍵をかけた書庫にこもり、秘密の話をしているようだが――
(……これ、宰相の声だわ!)
声は複数人分聞こえるが、そのひとつはあの役に立たない宰相のものだった。
どうせまた、皇帝に渡す袖の下の額の話でもしているのだろう……と思って盗聴をやめようと思ったミランダだったが。
「……だ。シリル王子は、南の駐屯地にいる」
「好都合だ。騎士団からはぐれたところに、毒矢を射かければ……」
(……なに!?)
壁から離れそうになっていたミランダは慌てて元の位置に戻り、どくどくと鳴り始めた心臓を抱えて書庫内の会話に集中する。
(シリル王子に、毒矢……!? まさか……!?)
「毒の手配は?」
「既に完了し、駐屯地に送っております」
「よかろう。王国の技術では得られぬ種類の毒であれば、シリル王子の暗殺は成功だ。あの気丈な女王も、一人息子が死ねば動揺するに違いない」
「そこを、一気に叩くと?」
「ああ。王子を殺して国境を突破し、王都に攻め込む。うまくいけば、一ヶ月のうちに皇帝陛下にリドベキア領を献上できるであろう!」
がはは、と宰相が下品に笑うのを、壁越しのミランダは震えながら聞いていた。
(シリル殿下が、暗殺される……? 毒は、既に送られている……)
宰相によるシリルの暗殺計画は、既に動いている。シリルは今、王国南の駐屯地にいて、帝国軍はシリルたちを急襲しようとしている。
王国軍は精強だと、シリルが言っていた。だが急襲に加えて毒矢となると、騎士団でも対処しきれない。ましてやそれが、帝国でしか作られない種類の毒だとしたら……。
(殿下が、危ない……!)
居ても立ってもいられなかった。
シリルは無事だろうか、自分には何ができるだろうか、と悩んでいたときとは、違う。今、ミランダがするべきことは間違いなく、存在する。




