シリルの悩み②
その日も、公務を終えるなりシリルは離宮に飛んで帰り、セドリックとレイチェルを見るなりでれっと溶けた顔になった。
「ただいま、僕の天使たち! ああ、二人とも本当にかわいいなぁ……」
「とーたま、ただいま!」
レベッカに抱っこされたセドリックがもちもちとした手を伸ばして、父親の帰宅を歓迎する。
まだ「おかえり」と「ただいま」の区別はつかないようだがシリルにとっては問題なしのようで、ぐっと胸を押さえた。
「うっ……セドリックがお迎えをしてくれた! とーたまは嬉しいよ!」
「セドリックは今日、おもちゃのピアノを弾いてみたんですよ」
レイチェルを抱っこしたミランダは、レベッカから受け取ったセドリックに頬ずりをするシリルに教えてあげた。
「といっても鍵盤を適当に叩くだけですが、音が気に入ったようで喜んで弾いていました」
「嘘だろう、たった二歳で僕たちの息子はもうピアニストの才能が芽生えているのか!? 天才じゃないか……!」
シリルは感動しているが、本当に鍵盤を適当に叩くだけだった。
それでも親馬鹿な彼はご満悦のようで、「さすがだ!」とセドリックに高い高いをしていた。
「おっと、僕のお妃様とお姫様にも挨拶をしないと。……ただいま、ミランダ。レイチェルも、ただいま」
セドリックを抱っこしたシリルは微笑んで、ミランダの唇とレイチェルの頬にキスをした。レイチェルは眠そうな目を開き、父親と同じ青色の目を瞬かせると、にゃぱっと笑った。
「ううっ、笑顔がかわいい! どうしよう、ミランダ。このままだとリドベキア王国中……いや、メルデ帝国からもレイチェルの求婚者が押し寄せてくるかもしれない!」
「あと十年は大丈夫かと」
ミランダはそう言うが、レイチェルは王孫であり、シリルが即位したら王女となる。
王位を継ぐだろうセドリックと違いレイチェルはどこかに嫁ぐか婿を迎えるかするだろうし、王家の姫の結婚となると幼い頃から綿密に計画を立てられるものだ。
「それに、私はセドリックにもレイチェルにも幸せな結婚をしてもらいたいです。この子たちが心から愛する人なら、私は大歓迎ですよ」
「それはそうだけど、レイチェルに変な虫がついたら……」
「シリル様」
「……わかったよ」
笑顔で窘めるとシリルはしゅんとなった。
……そこで、レイチェルを抱っこするミランダは娘がもぞもぞと動いたことに気づき、はっとした。
「あら……おしめを替えたほうがよさそうだわ」
「そうなのか? じゃあ僕は、セドリックの相手を……」
「……あの。レイチェルのほうは、してくださらないのですか?」
すぐさま背を向けようとしたシリルに、思わずミランダは呼びかけてしまった。近くで様子を見ていたレベッカが、少し身じろぎした気配を感じる。
ずっと、疑問に思っていた。
それに記憶が少々あやふやだが、レイチェルを出産した直後にシリルがなにやら悩ましげな言葉をつぶやいていた気もする。
セドリックのときはあんなに協力してくれたのに、レイチェルのことは愛でるものの世話はしてくれない。
ミランダの言葉にシリルははっとして、そして気まずそうに視線をそらした。
「それは、その……ごめん。そのこと、後で話すよ」
「……わかりました。では、セドリックのことをお願いします」
「うん、任せて」
シリルの言い方は気になったものの、のらりくらりと躱すのではなくて「後で話す」と言ってくれただけで、十分ほっとできた。
そういうことでミランダはレベッカと一緒に子ども部屋に行き、予想どおり汚れていたおしめを乳母たちと一緒に替えて手を洗ってから、シリルの待つリビングに向かった。
かつては荘厳で瀟洒な雰囲気に満ちていたリビングも、今は無駄な壺やら観賞用の鎧やらを全て撤去し、子ども用のぶらんこや積み木、ぬいぐるみなどが転がっている。
元々ここは土足だったがセドリックたちのために一旦掃除して、マットを敷いた。そのマットの上は土足厳禁で、女王だろうと王子だろうと靴を脱いでここに上がり、子どもたちと一緒に遊んだり寝転がったりできるようになっている。
数日前も、遊びに来た女王が「セド君はかわいいわねぇ~!」と言いながら腹ばいになっていたそこにミランダが脚を乗せると、マットにあぐらを掻いて膝の上でセドリックをあやしていたシリルが振り返った。
「レイチェルのお世話、ありがとう」
「こちらこそ、セドリックを見てくださりありがとうございます。……今、お話ししても?」
「うん。僕も、いい加減君に言わないといけないと思っていたんだ」
シリルは静かに腕を差し出してきたレベッカにセドリックを渡してからミランダのためにクッションを引き寄せ、ミランダがそこに座ると真剣な顔で向き合った。
「……僕、レイチェルが生まれたときから思っていたことがあるんだ」
「……なんでしょうか」
「……。……僕、レイチェルの世話はできない」
震える声でシリルが告白したため、ミランダは心臓がひゅっと縮んだかと思った。
ある意味予想どおりの返事だが……真っ向から言われると、さすがにダメージが大きい。
「それは、その……なぜ、ですか?」
「……れない」
「えっ?」
「……女の子の体には触れないんだよ!」
そう叫ぶなり、シリルはがっと自分の頭を抱えてしまった。
「レイチェルは女の子だよ!? いくら父親だからって、女の子の裸を見たり触ったりするなんて紳士としてあるまじきことじゃないか! 大きくなったレイチェルが、父親に裸を見られたと知って傷つくんじゃないかと思って……!」
「……いえ、そんなことはないかと」
あっけにとられていたミランダだが、事情がわかった。
つまりシリルは子育てに飽きたとか娘はほしくなかったとかではなくて、実子とはいえ娘の体に触れることを躊躇っていたのだ。
「いいや、そうに決まっている! そうしてレイチェルに、『お父様なんて嫌い』って言われるんだ……! そんなことになったら僕はっ……!」
「レイチェルは赤ちゃんですよ? それに着替えやお風呂の介助くらい、気にすることではないかと」
「僕が気にするんだよ! レイチェルの世話もしたいのに、あの子のことを考えると躊躇ってしまって……」
シリルは本気で悩んでいるようだが、ミランダのほうはほっと息を吐き出した。
「……よかった。私、あなたがレイチェルのことをあまり大切に思っていないのではと不安に感じていたのです」
「まさか! ……いや、でも君にそう思わせたのは、僕が原因だよね」
ごめん、と謝ったシリルは、膝を抱えて丸くなった。
「……いろいろ考えたけれど、やっぱり僕はレイチェルのことを淑女として扱いたい。だから……裸を見たり直接触れたりするようなことは避けて、もう少し大きくなったときにご飯を作ったり一緒に遊んだりしできればと思っていたんだ」
「はい、十分すぎるくらいです。シリル様の作る離乳食、セドリックからも大好評でしたからね」
シリルは料理なんてほとんどしたことがないそうなのに、元々勤勉で秀才肌だからか一度方法を学ぶと完璧にマスターするだけでなくアレンジも自由自在だった。
セドリックの離乳食はほぼ全てシリルが作っており、メイドや料理人たちを驚かせていたものだ。
シリルの気持ちは、よくわかった。
ミランダとしてもシリルの考えを尊重したいし……そもそも彼は十分すぎるくらい、家族のために時間を割いてくれているのだ。
セドリックもレイチェルも、父親からの愛情をしっかり理解してくれるだろう。
「では、レイチェルのことはこれからも私やレベッカ、乳母たちで行います。シリル様はセドリックのことをお願いしてもいいですね?」
「もちろんだ! 洗濯も掃除もなんでもするし……そうだな。レイチェルのおしめ替えはできなくても、汚れ物の洗濯ならできるからね」
「そこまでは大丈夫ですよ」
さすがに王子が汚れたおしめを洗っていたら、使用人たちが全力で止めるだろう。
ミランダにはシリルのやる気と気遣いだけで、十分嬉しい。
「それに、セドリックももう少ししたらとんでもなく手を焼くことになりますよ」
「ふふっ、受けて立とうじゃないか!」
シリルが挑戦的に笑うので、ミランダも小さく噴き出してしまった。
「……ふふ、よかった。やっぱり仲よしが一番ですね」
少し離れたところで様子を見守っていたレベッカが笑顔でつぶやいたのを聞き、
「……なかよち!」
彼女に抱っこされたセドリックが、嬉しそうに言ったのだった。




