26 急転直下①
アルベック城で過ごす日々は、穏やかでかつ充実していた。
いろいろな事情があって保留になっているが、いずれミランダはこのアルベック城の城主となる。
だから、まだその準備段階ではあるものの城の皆はミランダとセドリックを「城主様とそのご子息」として扱ってくれた。
アルベック城はあくまでも帝国辺境にある小さな城塞都市なので、離宮のようにメイドたちが有り余っているわけではない。そのためミランダも乳母と一緒にセドリックの世話をしつつ、城のあちこちに足を運んで皆の手伝いをしていた。
城下街で木の剪定中に梯子から落ちたおじいさんがいる、と聞いたら治療に行き、水の魔術で牧場にいる家畜たちの体を洗ってやったり、はたまた城に届いたという手紙の確認作業をしたり。
とても、楽しかった。
楽しいと思えるのがシリルや女王たちに申し訳ないと思うくらい、アルベック城の仮の城主として過ごすのは、ミランダにぴったりだった。
(私はやっぱり、王子妃になる器なんかじゃないのね)
城下街の子どもたちの手を引き、軽く空を飛んで一緒に遊びながら、ミランダは考えていた。
離宮では、何不自由なく生活ができた。魔術を使おうとして「ミランダ様のされることでありません」と言われるのは、立場として仕方ないものの寂しいと思っていた。
だからこそ、セドリックを抱っこして空の旅をしたときにはまるで若い頃に戻れたかのように楽しかったし、魔術を使いつつアルベック城の仲間たちと一緒に働くのがおもしろいと思えた。
セドリックも離宮からアルベック城に移ってもいつもどおりで、すっかり城のアイドルになっている。
セドリックを抱っこしたミランダが城下街を歩くと、あちこちから「ミランダ様!」「セドリック様!」という声が上がり、自分の名前が呼ばれているということはわかるらしいセドリックが喃語で応えると、皆は大喜びした。
ミランダはまだ、シリルの恋人でしかない。いろいろあった末にミランダだけこの城に戻り、城主として生きる未来もあるかもしれない。
(でも、だらだらと流されるわけにはいかないわ)
ミランダは、女王夫妻に恩義がある。
それに、シリルのこともこのままではいけないとわかっている。
(この気持ちも含めて、シリル様に言わないといけない)
女王は、シリルに迎えに行かせると言っていた。はたして彼がいつ王城を発ち、どれくらいの速度で来るのかはわからないが……空を飛べるミランダたちと違って馬で来ることになるのだから、どんなに急いでも三日はかかる。
まだミランダたちが城に来て二日目だから、シリルが来るのは最速でも明後日くらいだろう。
それまでに、ちゃんと気持ちの整理をしよう。
そう思い、レベッカを伴って城下街を歩いていたミランダはアルベック城のほうを見つめたのだが――
「……ミランダ?」
ふいに、背後から声が聞こえた。
この城の誰もが「様」をつけてミランダを呼ぶ中、その女性の声はミランダを呼び捨てした。
「……誰!? ミランダ様に近づかないで!」
いち早く気づいたレベッカが声を上げると、少し離れたところで待機していた他の魔術師や兵士たちもざっと集まり、ミランダを囲むように立ってくれた。
ミランダの後方に、粗末な身なりの女性がいた。金色の髪はぼさぼさで、そのわりに長い前髪の下の目がぎらぎらとしている。
どこか、帝城にいた頃の自分を彷彿とさせるような身なりの、若い女性。
(……この人は)
「あの……」
「ミランダ! やっぱりあなたね!」
女性はひっくり返った声を上げて、ミランダに近づこうとする……が、その前にレベッカらが立ちはだかった。
「下がりなさい! 誰かは知らないけれど、ミランダ様を呼び捨てにした挙げ句お近づきになろうなんて!」
「はぁ!? ガキは下がっていなさいよ!」
女性はレベッカに向かってきたが、あと少しで手が届くというところでバシン、と何かにぶつかったかのように弾かれて倒れた。レベッカが展開した透明な防御魔術に阻止されたようだ。
「ちっ……! ちょっと、ミランダ! 顔なじみが来たっていうのに、なに突っ立っているのよ!」
「顔なじみ……?」
はて、と首を傾げるミランダに、地面に尻餅をついたままの女性は悔しそうに唇を噛みしめた。
「ヴィヴィアンよ! 忘れたわけじゃないでしょう!」
ヴィヴィアン。
(……えっ? もしかして、宰相令嬢だったあのヴィヴィアン様?)
かつて帝国が悪しき皇帝によって支配されていた頃。賢臣だった前宰相の処刑ののちにその座に就いたのは、皇帝の命令をハイハイと受け入れるだけの無能な宰相だった。シリルの暗殺計画を実行させたのも、彼だ。
そしてヴィヴィアンは、その宰相の一人娘だった。
どうやらシリルにお熱のようでそれが理由でミランダに突っかかってきたものの、帝都制圧時にはシリルに擦り寄ったために突っぱねられ、その後は適当に放り出されたのではなかったか。
(そのヴィヴィアン様が、なんでアルベック城に……)
だがすぐに、理由の察しがついた。
元メルデ帝国魔術師団員のミランダが、リドベキア王国の王子シリルと密かに愛を育み、アルベック城で息子を産んだ。息子セドリックは王家の子と認知されて、ミランダとセドリックはアルベック城を離れて王城に招かれた。
……このストーリーは、王国だけでなく帝国にも広く伝わっている。
だから帝都から追放されたヴィヴィアンもこの話を聞いて……王都には行けなくても、アルベック城にいればいつかミランダが帰ってくるのではと思ったのではないか。
(そうだとしても、なんの用事で……)
ヴィヴィアンは、シリルの妃の座を狙っていた。その結果はあまりにもお粗末なものだったが、逆ギレしたことでシリルの恋人になったミランダやその息子セドリックを狙ってもおかしくない。
ミランダは眉根を寄せ、さっと手を差し伸べた。いつでも、魔術を展開できるように。
「……覚えているわ。私のことを散々、おばさん扱いしてくれたわね」
「む、昔のことじゃないの! 今のミランダは……きれい、よ……」
そうは言うが、ものすごく言葉の切れが悪いし、怒りを堪えているかのように顔が歪んでいる。
「ミランダ様を、おばさん呼ばわり……!? 最低!」
ミランダを敬愛するレベッカにとって許せぬ発言だったようで、彼女はずいっとヴィヴィアンに詰め寄った。
「帝国と王国の戦争での犠牲者が少なくて済んだのは、ミランダ様のことを想ったシリル殿下のおかげなのよ!」
「ふざけないでよ! わたくしのお父様を処刑したくせに、なにが『犠牲者が少なくて済んだ』なの!?」
ヴィヴィアンはムキになってレベッカに言い返すが……ミランダは内心、あちゃあと思った。
(これじゃあ、自分が帝国の悪徳貴族の娘だと言っているようなものじゃない!)
シリルは帝国との戦争でなるべく帝国側の被害も抑えたいと思ったようで、降伏する者は皆寛大に受け入れたという。そのため、先の戦いで処刑されたのは皇帝や宰相などの……帝国の膿だけだった。
ミランダはヴィヴィアンの素性がばれないようにそれとなくぼかしてあげたのに、ヴィヴィアンのほうから自爆するなんて。
案の定、それを聞いたレベッカたちだけでなく、周りで様子を見ていた城下街の民たちもぎょっとしたようにヴィヴィアンを凝視した。
「処刑、って……まさかあなたの父親、帝国の高官だったの?」
「そうよ! わたくしは、宰相令嬢だったのよ! あの戦いが起きるまでは!」
もう黙ったほうがいいのに、というミランダの願いは通じず、ヴィヴィアンはぎゃあぎゃあまくし立てる。
「なぁにが帝国の民のため、よ! わたくし、シリル殿下のことが好きだったのに……わたくしの愛を拒絶してお父様を手にかけただけでなく、こんなババアに騙されるなんて!」
「いい加減にしなさい! 宰相は、処刑されてしかるべきことをした。そしてあなたはシリル様のご温情で生かされたのでしょう!」
ミランダが進み出て声を上げると、ヴィヴィアンはぎりぎりと歯を噛みしめた。
「うるさい! ババアのくせに全部手に入れて、あまつさえわたくしに説教なんかして……! 全部シリル殿下のせいなんだから、代わりにあなたがわたくしの面倒を見なさいよ! あなた、ここの城主なんでしょ!?」
(……なるほど。ここに来た理由は、庇護を求めるためだったのね)
魔術のために持ち上げていた腕を少し下ろすものの、ミランダはたまらなく悲しい気持ちでヴィヴィアンを見下ろした。
ヴィヴィアンにだって、生きる権利はある。
宰相は愚かだったが、娘に自分の仕事について全く教えなかったというのは賢明だったのかもしれない。おかげで、宰相令嬢でありながらヴィヴィアンはシリルに見逃されたのだから。
だからもしヴィヴィアンが生きることを望み、そのためにアルベック城に身を寄せたいというのなら、ミランダだって無碍にはしなかった。
ヴィヴィアンの名と宰相令嬢という身分を捨てて平民になるしかないだろうが、それでもいいと彼女が言うのなら、彼女のことをなにも知らない、彼女とは過去になにもなかったことにして、彼女を一人の民として受け入れていた。
……だが、ババアと罵りシリルの温情をも足蹴にするヴィヴィアンに、ミランダが保護を申し出る義理はあるのだろうか。
「……残念だけれど、ヴィヴィアン様。あなたが何者であろうと、私はあなたをアルベック城に迎え入れることはできないわ」
ミランダは静かに言い、慎ましくも美しいアルベック城下街を眺める。
「私はいずれ、このアルベック城の城主となる名誉を賜る。私はこの城を、帝国や王国などの国籍にかかわらず、あらゆる人々にとっての安らぎの場所、第二の故郷となることを願っているわ」
だから、とミランダはヴィヴィアンを冷たく見下ろした。
「私は、あなたを受け入れることはできない。私が守っていくこの城に……あなたを置いておくことはできないわ」
はっきりとした拒絶の言葉に、ヴィヴィアンは目を見開いた。そして――
「……う、ふふ。残念だわ、ミランダ。わたくしの言うことを聞いていれば、内緒にしてあげたのに」
「……なに?」
「――ミランダ!」
ヴィヴィアンの物言いから、一抹の不気味さを覚えたミランダが問い返した――直後。
ガガッ、ガガッと蹄が石畳を蹴る力強い音が響き、人垣が慌てて割れる。その先――南の門のほうから駆けてくる白馬とその背に跨がる人を見て、ミランダは息を呑んだ。
「シリル様!?」
「迎えに来たぞ、ミランダ!」
手綱を操って、シリルはミランダの横に馬を停めた。全力で走ったからか、馬は汗びっしょりだしシリルの髪も正装も風であちこち乱れている。
(な、なんで!? まだ二日目の午後よ!?)
どんなに急いでも三日はかかるだろう路程を、彼は一体どんな方法で二日足らずで踏破したのだろうか。
……いや、その疑問は後でいい。




