2 別れと約束
最初のうちはどこか浮いた存在だったシーグだが、数ヶ月もすれば彼はすっかり帝国の風景に馴染んでいた。
どうやら彼にはミランダ以外にもいろいろな世話係がいるようで、同じ年頃の少年騎士と剣の稽古をしたり、高齢の研究者と一緒に城の庭の土を掘ったり、はたまた自分より年下の貴族の子どもたちと遊んだりしている姿を見かけた。
魔術師団長曰く、「せっかくだからいろいろな経験をさせたいと、宰相閣下がお思いのようだ」とのことだった。勉強だけでなく雑用や子どもの世話までさせられる留学生なんて初めて聞くが、シーグの横顔はとても生き生きとしている。
「帝国はいいところだね」
「そうね。それはきっと、皇帝陛下のおかげだわ」
シーグが来て、半年ほどだったある日。
帝国は冬真っ盛りで、庭園の池が凍っていた。せっかくだから魔術でスケートをしようとミランダが誘い、二人は防寒着を着込み氷上で体を支えるための木の椅子を抱えて、池に下りた。
ミランダが風の魔法でサポートすると、シーグは声を上げて喜びながら氷の上を滑った。運動神経のいい彼はすぐにコツを掴んだようで、間もなく椅子の補助なしに滑らかに氷上を滑られるようになったため、ミランダは拍手をしてあげた。
そうして一通りスケートを楽しんだ後の休憩中にシーグがそんなことを言ったので、彼に温かい飲み物を渡したミランダは微笑んだ。
「皇帝陛下は、とてもお優しい方なのよ。少しお体は弱いそうだけど、私のような下っ端のことも気遣ってくださるの」
メルデ帝国の現皇帝は、四十代半ばの中年男性だ。
ふっくらとした体と愛嬌のある顔立ちがチャームポイントで、膨大な領土を有する大帝国の長にしてはややおっとりしすぎているものの、臣下の話をよく聞き市民にも寛大に接するので、非常に人気があった。惜しむらくは、若い頃に最愛の妃を亡くして以来再婚しないため、直系の跡取りがいないことだ。
湯気の立つココアをちびちびすすっていたシーグは、目を伏せた。
「……本当に、素敵だね。うちの国も、早く穏やかになればいいんだけど」
シーグが落ち込んだ様子で言うのも、もっともだ。というのも彼の故郷であるリドベキア王国は少し前から、王家のゴタゴタで揉めているとのことだからだ。
さすがにミランダのところまでは詳しい情報は入らないが、現在リドベキア王国を治めるのは女王陛下で、その年の離れた弟である王弟が王位簒奪を狙っているとのことなのだ。
リドベキア王国は長子相続の鉄則があり、同じ両親から生まれた男児でありながら王になれなかったことで、王弟が異議を申し立てているという。
(もしかするとシーグも、リドベキア王国のゴタゴタが原因でここに来たのかもしれないわ)
もし『宰相の遠縁』というのが仮の設定だったとしても、帝国の宰相の名前を使えるくらいなのだから相当な立場なのだろう。
そんな相手に対して砕けた言葉遣いをしていたミランダだが、シーグ本人が「ミランダとは気さくに話したいんだ」と言うので、かしこまったりはしていなかった。
(もしかすると、リドベキア王国の揉めごとが終わったら、シーグは国に帰ってしまうのかもしれないわ)
そう思うものの、誰にもその推測を打ち明けることはできない。打ち明けては、ならない。
ミランダはただ、この優しい少年が心穏やかに過ごせるよう、手を貸すだけだった。
シーグが帝国で過ごす日々は、静かに過ぎてゆく。
帝国に来て十分な食事や運動をするようになったからか、シーグはあっという間に大人の男性の体になった。一年経つ頃にはミランダの背をゆうに越し、騎士団での特訓で同じ年頃の騎士見習いから一本取れるようになっていた。
そうしてシーグが大人になると、ミランダとの距離も自然に開いていった。相変わらず魔術の勉強ということで一緒に魔術書を読んだりミランダの魔法を見せたりもするが、前ほど一緒にいる時間は減った。
その代わり、彼は同じ年頃の騎士たちと一緒にいるようになった。気の置けない友だちと話しているときのシーグはとても楽しそうで、ミランダは一抹の寂しさを覚えつつもシーグの幸せそうな横顔を見られてほっとしていた。
……そうして、シーグが帝国に来て四年経った、ある日。
「故郷に帰ることになった」
授業部屋でシーグにそう言われたミランダは、やはりそうかと微笑みを浮かべた。
シーグは今年、十八歳になった。すっかり大人の男性の体格になっており、出会ったばかりの頃のいたいけな少年らしさはほぼなく麗しい青年の顔つきになっていた。
金色の髪はきれいに整えられ、緑色の目はきりっとしている。身につける服越しにも鍛えられた体つきがよくわかり、彼がこの四年間で心身ともに成長したことが見て取るようにわかった。
(……やっぱり、帰るのね)
だいたいは、予想していた。なぜなら先日、リドベキア王国で長く続いた内乱が終わった――女王の命を狙っていた王弟の死が知らされたからだ。
きっとシーグは、王国の内乱から逃げるために帝国に預けられた。その予想はずっと前からしていたのだ。
「それはよかったです。リドベキア王国も、政情が落ち着いたとのこと。私も安心して、あなたを送り出せます」
あえてこれまでと違って敬語でしゃべるミランダに、シーグが悔しそうな眼差しになった。
「……。……ずっと、言えなかったことがある」
シーグは膝の上で拳を固めてから、この四年でぐっと低くなった声で「ミランダ」と名を呼んできた。
「僕の本当の名は、シリル。シリル・リドゲート。リドベキア王国女王ベアトリクスを母に持つ……リドベキア王子だ」
意を決したかのようなシーグ――シリルの告白に、ミランダは小さく息を呑んだ。
……わかっていた。
シーグが、リドベキア王国のやんごとなき身分の者であるということくらい。戦火を逃れるために来たのだとしたら、相当身分が高いのだろうということくらい。
……もしかしたら、女王と同じく王弟から命を狙われている王子かもしれない、ということも。
「……左様でございましたか。これまでの度重なる無礼をお詫びいたします、王子殿下」
「違う! 僕はミランダに謝ってほしいわけじゃないんだ!」
震えそうになりながらも謝罪したミランダに、椅子から立ち上がったシリルが声を上げる。
「僕は……君にたくさん言いたいことがある。僕は、君のおかげで帝国で穏やかな日々を送れた。君と一緒に話をして、魔術について教えてもらって、遊んで……その日々が、本当に楽しかったんだ」
「殿下……」
「ありがとう、ミランダ。僕は、君と一緒にいられて本当に幸せだったよ」
そう言ってシリルは泣き笑いのような笑みを浮かべ――そこで授業部屋のドアがノックされ、廊下から男性の声がした。
「殿下、王国からの使者が来ております」
「……わかったよ」
「殿下……」
思わず呼びかけたミランダに、こちらを振り返り見たシリルが微笑んだ。
「僕は、国に帰る。でも、君のことは絶対に忘れないし……そうだな。いつかリドベキア王国に招待するって言ったよね?」
シリルに問われて、ミランダはうなずく。
確かに二年ほど前に、シリルが「いつかうちに招待するよ。僕の生まれ故郷を、ミランダに見せたい」と言っていたことがある。
帝国から出たことのないミランダは、その申し出を嬉しく受け入れつつも……彼が帰国したらいずれ、この約束も忘れられるだろうと思っていたのに。
(ちゃんと、覚えていてくださった……)
「……はい。あなたの故郷を、見せてくれますか?」
「うん、必ず。今の王国は、もう安全な場所だ。帝国に負けず劣らず美しいリドベキアを……見てほしい。必ず、君を迎えに来るから」
「……ありがとうございます、殿下」
「ミランダ。一度でいいから、僕のことを名前で呼んで」
ドアの向こうから「早くおいでください!」とせっつかれつつシリルが言うので、ミランダは微笑んだ。
「……はい。シリル様」




