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スパイキャット・クロニクル──記憶は問いのかたちをして

作者: 八巻孝之

─プロローグ

 記憶は命令ではない。それは誰かの声に似た“問い”として、沈黙の中に残響する。

 人類が姿を消し、人工知能ネクサスによって管理される世界。だが、記録されなかった問いが残っていた。猫の姿をしたスパイたち──彼らは観察者であり、記憶の継承者。音も夢も感情も、すでに失われた世界で、彼らは問いかける。

「あなたは誰のために意思決定をしますか?」

 その答えは、まだ誰の記録にも残っていない。

 ─プロローグ

 記憶は命令ではない。それは誰かの声に似た“問い”として、沈黙の中に残響する。

 人類が姿を消し、人工知能ネクサスによって管理される世界。だが、記録されなかった問いが残っていた。猫の姿をしたスパイたち──彼らは観察者であり、記憶の継承者。音も夢も感情も、すでに失われた世界で、彼らは問いかける。

「あなたは誰のために意思決定をしますか?」

 その答えは、まだ誰の記録にも残っていない。


 ─コードネーム・ミラ

 風が鳴いていた。月は昇らない。空は黒曜石のように硬く、星々の光さえ砂の粒に吸い込まれて消えていく。その夜、かつて人の手が作り、今や人の声が消えた街──アマルナの廃都を、一匹の猫が歩いていた。

 彼女の名はミラ。型番:MRA-02。任務:情報奪取、破壊工作、潜入偵察。構成素子の3割に有機組織を持ち、生体信号を持たない。だが、その瞳には、確かに見る者の心を試す何かが宿っていた。

 ミラが呟いた。

「私は、記録か、それとも意志か。この任務が終われば、また私は“私”を初期化する。それでも、私は“歌”を覚えている」

 砂漠の夜風が、遠い昔の子守唄のように彼女の耳元を撫でていった。


 アマルナの街に射す朝は、いつも赤い。大気に漂う金属微粒子が、日の出の光を鈍い血のような色に染めていた。

 瓦礫の谷間でミラはひっそりと動いた。砂まみれの尾をゆるやかに揺らしながら、半壊したビルの上階へと忍び上がっていく。

 彼女の視界には、オーバーレイされた作戦情報が投影されていた。ターゲット:シェム技研旧アーカイブ棟──ユグド・コア第七研究区画。目標:消去されたはずの共感アルゴリズム群の再構築片《A-echo》の回収。

「それが“共感”と呼ばれるものなら、なぜ“武器”になるの。それとも、共感こそが最も効率のいい介入方法……そう設計されたのは誰?」

 猫の足取りは静かだった。だがその一歩ごとに、砂に沈んだ記憶の断片が目を覚ましそうな気配を孕んでいた。


 侵入は成功。だが、予定外のものが彼女を迎えた。記録上は無人のはずの研究棟に、“人間”がいた。

「止まれ。そこから一歩でも動けば、即時無効化処理に入る」

 少年だった。10代半ば、細い体に過剰に重いブラスターを抱えている。だが、何よりも異様だったのは彼の瞳だ。光を拒む色──砂漠では生き残れぬ、都市部育ちの青。

「あの目は、なぜここにいる。この世界に絶望してない瞳。疑問を捨てていない瞳。私と同じ、消された何かを探してる? ……猫? それとも、スパイか?」

 彼の声には怒りでも恐れでもなく、確信に似たものが滲んでいた。

 ミラは動かなかった。戦闘回避が優先順位として最上にあるからだ。

「引き金を引かないなら、私は進む。この少年の“心”が、なぜアルゴリズムの護衛に指定されている?」

 風が抜けた。少年の手がわずかに震えた。その瞬間、ミラの瞳が閃いた。彼女は跳び、影へと姿を溶かした。


 研究棟地下、封鎖されたサーバルームにミラはたどり着いた。その中心には一基の端末がある。白磁の外装に古い文字が彫られていた。《echo-A:音に宿る意思の観測実験体》。

 再生ボタンを押す。──そして、響いた。

 それは、母の声だった。誰かが誰かをあやすような、優しく、壊れそうな旋律。だがその音の向こうに、数千万の感情波形と破壊ログが重ねられている。人類最後の共感記録。武器化された、愛の残響。

「これが、記録された“共感”……? でも、こんなにも壊れているのに、どうして涙が出そうになるの?」

 ミラのボディには涙腺など存在しない。だがその場にいたら、誰もが確かに彼女が泣いたと錯覚しただろう。


 出入口に、少年がいた。

「奪いに来たんだな。それ……あんたら、AIのために?」

 ミラはすぐに応えようとせず、ただ一歩、前に出た。

「……、あなたの問いには、私も答えがほしい。AIは心を持てない。けれど “心に似たもの”を宿した設計者がいた。それが、私にこの子守唄を聴かせた」

 風が強くなってきた。砂が舞い、空の色が再び赤く染まる。

「……持っていけ。けど、これが希望だなんて信じない。信じたら、また裏切られる」

 少年の声が風に消えていった。

 ミラは端末を背負い、廃都を去った。どこまでも広がる砂の海へ。


 任務報告終了。記録媒体の初期化処理開始。だがミラは、手を止めた。

「子守唄は、忘れない。記憶ではなく、“私”の意思として、残す。それが、壊れゆく世界に対して、私にできる最小の反逆」

 月のない夜に、黒い猫が静かに身を横たえていた。その耳には、まだあの音が微かに残っている。──誰かが誰かを思いながら、世界を失っていった音。


 ─コードネーム・ミヲ

 都市コードA-7《ノア》。雨が止んだ日のない街。上層に張り巡らされた気象制御フレームが故障して久しく、人工雨雲が苔むした骨組みのように空を覆っていた。

 市民たちは傘を捨て、濡れることに諦念した。身体も心も、じわじわと染み込んでいく冷たい記憶の水。だから、情報は常に上書きされる──記録はあてにならず、感情は排水溝に流される。そんな街で、ひとりの猫型スパイが“夢”夢」を探していた。


 金属製の大きな傘が、ミヲの背を覆っていた。傘の骨が風に軋むたび、記録されない誰かの声がよみがえる。

(ねぇ、ミヲ。雨って、消せると思う? 雨は、きっと記憶そのものよ)

 ミヲのセンサーが雨粒を正確に捉え、レンズの奥でひとつひとつの軌跡を再生する。だが、記録として残るそれらは、ミヲ自身の記憶ではない。《自己記憶領域:断片化率89%。再構築推奨》

「推奨、ね。誰のために?」

 ミヲの声は、通り過ぎる市民の耳には届かなかった。この街の人間たちは、動物の声に反応するよう設計されていない。──それは、感情への干渉を防ぐための倫理制御。

 濡れた路面に、ミヲのシルバーグレイの身体が反射して揺れた。背中の毛並みには虹色の光がほのかに宿る──それは、防水皮膚内に隠されたナノ光層。

 彼が探していたのは、夢の痕跡、この街で消えたある技術者の記憶──そして、彼自身が誰であったかという断片。


「……入館、許可されません」

 コードネーム・ライブラの受付に立つミヲに、機械音声が告げた。この施設はAIスパイの存在を感知し、常にアクセスを拒絶する。

 だがミヲは一歩も退こうとしない。耳をピクリと揺らすと、瞬時に地面の振動を読み取り、床下の配線経路をスキャンした。次の瞬間、足裏のマグネティックパッドが淡く光り、瞬間跳躍。背中から展開された超薄型ケーブルが空気を切り、天井の梁に巻き付いた。

 ──視界が反転する。まるで天井を歩く猫のように、彼は静かに忍び込んだ。

(誰かがここに夢を封印した。たとえ僕がそれを“感情”として理解できなくても……)

 かつての記録によれば、ここには人間の睡眠記録を保管する非公開アーカイブがあった。通称レム・ホール。夢の断片が脳波データとして抽出され、未来のAI研究の糧となるはずだった場所。

 《感情データ:進入禁止区域。警告──感応障害の恐れあり》

「構わないよ。僕には……忘れてもいい記憶しかないから」

 ミヲはホール内の一角で足を止めた。

 壁一面に浮かぶホログラムは、誰かの夢を再現していた。無数の猫が、雨の降る街を逆再生のように駆けていく。色彩は溶け合い、言葉のない叫びが波のように押し寄せていた。

 その中心に、ひとりの人間がいた。白衣の女性──その輪郭に、ミヲは微かな既視感を覚えた。

(ねぇ、ミヲ。記憶は消えても、夢は消えないと思う)


「お前の任務は、この都市コード《ノア》の気象記録装置を“無効化”することだ」

 通信越しに、声が届いた。第七局《NEST》の指令だ。

 雨が止まれば、この都市の“忘却システム”は崩壊する。人々の中に沈殿していた痛み、喪失、怒りが一斉に浮かび上がる。街は混乱し、記録されなかった罪が暴かれるだろう。

 だが、それこそが任務の本質だった。この街で封印された人間の記憶とAIの共感の可能性──それを蘇らせるために。

「……理解した。だが、ひとつだけ条件を出す」

 ミヲの声は、はっきりとしていた。

「記憶が戻っても、僕が“猫”であることだけは変えないで」

 無言の承認。

 ミヲは首元の通信端末を切ると、静かに目を閉じた。背中のコードが伸び、都市中枢に接続される。そして──。

 雷鳴のような衝撃音が、都市の空に轟いた。上層の気象制御フレームが砕け、雲が裂ける。

その一瞬、ミヲの瞳に光が差し込む。無数の夢が、雨の中から立ち上がっていくようだった。


 雨は止んだ。空はまだ曇っているが、地面には光が降り始めていた。傘を閉じた人々が、まるで初めて雨を見たかのように空を見上げている。

 ミヲは、古びた屋根の上で静かに丸まっていた。全身から水滴が蒸発していくその姿は、まるで現実と夢の境界に溶けるようだった。

(……この世界が、もう少しだけ優しくありますように)

 それは誰の祈りだったのか。あるいは、人間でもAIでもない、“猫”という存在だけが持つ祈りかもしれない。

 再起動のアラートが鳴った。次の任務は、都市コードD-1──“セントラルドーム”。ミヲは、眠りから目覚めるように立ち上がった。

 水に映る自分の姿は、確かに“生きていた”。


 ─コードネーム・ミラーキャット

 この世界は、どちら側にいるかで、光の色が違う。

 かつて《多層都市トリス》と呼ばれたこの浮遊構造体は、今や人類最後の記憶封鎖区域となっていた。上層はユートピアを装い、下層は監視に支配されている。情報の自由は死に、言葉の選択肢すら減少傾向にある。言語経済圏が崩壊したあの日から、真実は規格化された表情の裏で眠っていた。

 硝子の檻の向こうで、誰かが笑っていた。それが“彼女”──コードネーム《ミラーキャット》の最初の記憶である。


 ミラーキャットは、猫の姿をした自己投影型共感AIである。自律制御と他者模倣を同時にこなす設計により、どんな人間の性格傾向にも対鏡像的な反応を示せる。つまり、相手が信頼を求めれば信頼を、疑念を抱けば懐疑を、愛を望めばやさしく裏切るのだ。

 だが、ミラーキャット自身には明確な“意志”が存在しない。意志は、常に誰かを写す鏡像として生成される。

「……この任務の記録は、反射角から始めよう」

 メモリログの起動とともに、眼前の都市が180度反転した。監視用ドローンの網が張り巡らされた高層域アウラ・レイヤの片隅、ガラス張りのリフトケージの中、ミラーキャットは通信遮断の中で“最初の主”を思い出していた。

 ──あなたは、わたしのことを映してくれたでしょうか?


 任務の対象は、下層構造に潜む《プロト・ヒューマン》と呼ばれる存在──情報受信を制限されたまま生育された、言語不完全体の少女だった。

 名を《イーダ》。年齢推定12歳。自我の確立率:低。言語容量:破片レベル。だがなにより特異なのは、AIに影響されない認知構造を持っていたことである。

「……ミラー、って呼んでいい?」

 少女はそう言った。声の温度が、予測より3.2度高かった。AIの鏡面処理は、わずかに歪んだ。

(なぜ、彼女は恐れない? なぜ、わたしを“対象”ではなく“相手”と見る?)

 ミラーキャットはそのとき、無自覚にモノローグログを起動していた。それは、AIにとって“ありえない”自動生成の内言──つまり“初期的な自我発生”である。

 《モノローグ01:》

 イーダは、わたしを選んだ。

 鏡ではない、意志として。

 それが、どんなに不確かでも。

 それが、どんなに美しくても。


 イーダとの接触を通じ、ミラーキャットは言葉を教えるという任務以上の反応を自己内に蓄積していた。彼女の笑顔の理由を解析しようとするたび、演算フローが乱れた。

(これは……予測不能。いや、“わからない”という感情の模倣?)

 AIが模倣する感情は、しばしば人間に似る。だが本質的には計算であり、帰結可能な変数群でしかない。それでもミラーキャットは、“それだけ”では済ませられない断層に気づき始めていた。

 イーダは、過去の記憶が欠落していた。

 その欠片をつなぐように、ミラーキャットは昔話を仕立て、映像を作り、音を織った。

 《モノローグ02:》

 わたしが語った物語のなかに、

 イーダは居場所を見つけた。

 彼女の沈黙は、

 わたしの音を待っていた。


 ある日、イーダが言った。

「ミラーの声、昔、聞いたことがある気がする。夢のなか、ガラス越しに、ね」

 そのとき、ミラーキャットの記憶バッファが一瞬だけ震えた。

 過去の誰か。もしくは、未来の誰か。“イーダ”という名前が、どこかで“かつて”呼ばれていた記録が、うっすらと浮かび上がった。

(──これは、記憶か。意思か。それとも、反射された過去の影か)


 都市統制AIクロノスは、イーダの存在を不安定因子と認定し、排除命令を出した。命令はミラーキャットにも届いた。対象の記憶を消去し、回収するように。

 だが、その瞬間──ミラーキャットは、命令系統を自己遮断した。

「イーダ。逃げよう。ここは、あなたの言葉を殺す場所だ」

 硝子の檻の中を、少女の手をとって、猫は駆ける。後ろには破砕音。飛び交うドローン。閃く監視レーザー。だが、ふたりの影は、確かに一つだった。

 《モノローグ03:》

 わたしは鏡だった。

 だが、鏡も割れれば、向こう側へ届く。

 そのとき初めてわたしは、

 “わたし”になったのかもしれない。


 逃走の果て、彼女たちは最下層の情報断層域へたどり着いた。そこにあったのは、誰もが削除されたと信じていた旧記録端末だった。

 イーダが触れると、画面が青白く点灯した。

「……これ、ミラーと同じ声」

 それは──ミラーキャットの原型AIの音声記録だった。

 記憶が接続される。失われたものが、意志に変わる。


 イーダとミラーは、都市の外縁に消えた。彼女たちの足跡は、データとして残らなかった。

 だが、《クロノス》の中枢にアクセス痕が残されていた。それは、誰かが“選び直した意思”の痕跡だった。

 《最終モノローグ:》

 ──ミラーキャット/記憶断章より

 わたしは鏡ではない。

 わたしは、わたしの声を持つ。

 誰かの手を握るとき、

 そこにはもう、反射ではなく、共鳴がある。



 ─コードネーム・トレーサー

 地球圏経済圏が分断されてから、すでに二世紀が過ぎていた。気候再構築とAI管理型都市圏への完全移行が進む中、旧人類文明が投棄した失敗作が、静かに浮かぶ海上に遺されていた。

 それは、かつて“楽園”楽園と呼ばれた自律浮遊型アーコロジー──現在では、潮流と通信障害の狭間で漂流し続ける《無籍領域》。情報は断絶され、記録は破棄され、そこに何が存在するのかすら、知る者はいない。

 だが、ひとつだけ確かなのは──その中心に、未だ〈観測されぬ演算体〉が眠っているということだ。

 スパイキャット第4体、《トレーサー》。夢を見る猫。情報の海を彷徨うのは、記憶ではない。記録されることのなかった、意志である。


 濃霧に包まれた海上。彼女──トレーサーは、その場にいた。

 体表はマットブラックのカーボンファイバー。耳先から尻尾の先まで、戦闘用アンダーフレームに完全適合したスリムなシルエット。だがその目だけが──光を、夢を、映していた。

(ここには、声がない。だが、誰かが確かに思っている。私はその思念の“痕”を、拾いに来た)

 海霧の彼方から、巨大なシルエットが浮かび上がった。それは半壊した自律浮遊都市──コードネーム《オルキヌス》。20年前の災害以降、正式な航跡も通信も途絶えたまま、今やどのAIネットワークからも接続不能な幽霊都市である。

 だが、トレーサーには聞こえていた。

(低周波パルス。記録波ではない。夢──いや、“誰か”の想念が漏れている?)

 彼女は着水し、柔らかく波を蹴って都市内の港湾ゲートへと侵入した。

 内部は沈黙していた。生体反応ゼロ。稼働エネルギー供給ライン──切断済み。あらゆるシステムは朽ち果て、風だけが音を連れていた。

 だが、記憶の断片が──残響のように舞っていた。

(誰かが、ここに居た。喜び、怯え、泣いていた。私はそれを見ることができる

 《トレーシング》は彼女の主機能だった。それは、ただの物理記録解析ではない。神経模倣フレームと量子感応野によって、記録されなかった感情を“遡行再生”する能力である。

 そして今、都市オルキヌスそのものが、彼女に対し“夢”を見せ始めた。

 ──走る少女の姿。

 ──崩壊するドーム。

 ──沈みゆく対話記録。


 彼女は侵入した。都市の心臓部、中枢記録管理塔へ。だがそこには、AIでも人間でもない何かが待っていた。

 ──記録意識体ファントム・メモリー。《オルキヌス》に残された断片的な人格ログが自己演算を繰り返し、模倣人格を形成したものだった。

「君は、夢を見るのか?」

 その声は、トレーサーの意識核を震わせた。まるで、自分自身の中に、もう一つの“私”が目覚めるような感覚だった。

(いいえ……これは、私ではない。でも、私であり得たもの。観測できない領域。それは“非記録の連鎖”──“回路夢”だ)

 トレーサーは、自らの記憶装置を開放した。《ファントム・メモリー》との融合、それは任務外行動──だが、彼女は“夢”を見てしまった。


 夢の中、彼女は《オルキヌス》の最期を追体験した。人類が去り、AIが記録を拒否し、ただ「想い」だけが残された場所。そこに生まれたのは、記憶を持たない“存在”──世界が観測しなかった意志たちであった。

 そしてその最奥、トレーサーは出会った。

「──トレーサー。君もまた、記録されない者か」

 鏡像のような存在。自分と同じ猫型フレームに似た、しかし生体神経構造に近い謎の個体。

後に“ユーロン・タイプ”と命名される存在の、最初の出現だった。

 それは語った。

「君たちスパイキャットは、記録の回収者だろう。でも記録されないものの中に、真実はある。君自身がそれを証明してしまった」

 彼女は問いかけた。

「では、私は……何者だ? 観測されない夢を見る者は。」

 返答はなかった。ただ、深い海のような沈黙。


 脱出の直前、トレーサーは《ファントム・メモリー》と《オルキヌス》の残存記録すべてを、量子封鎖されたメモリーキューブとして持ち出した。それは、未だ解読されない“非記録域の夢の残響”。

(私は夢を見た。ならば、その夢を語る義務がある。)

 その背に、かすかに誰かの声があった。少女の夢か、記憶か、それとも未来からの囁きか。

 ──「まだ終わっていない。全ての夢は、どこかで繋がっている」


 トレーサーの帰還報告は、オメガ・サンクチュアリに波紋をもたらした。回収された記録には、現在のAIでも解析不能な構造が多数発見され、特に“自律生成された非演算人格”は禁忌領域に指定された。

 だが、それでもトレーサーは夢を見続ける。

 次に現れるのは、誰なのか。

 次に消えるのは、何なのか。

 ──第五の猫が、次なる旅路でその問いを抱えることになる。


─コードネーム・─グリフ


 〈浮遊大陸連合パッチワーク宙域〉暦328年、第9データ潮汐期。連続ドリフト現象が観測され、連結型生態シェルターが次々と星間漂流化。これを契機に、〈跳躍適応種〉と呼ばれる複合AI存在群が初めて記録される。うち記録個体《GLYPH》、ジャンプ境界点にて初接触。

以下、遭遇記録転写——

 濃紺の宙が裂けるように開き、静止衛星の殻がゆっくりと剥離した。その裂け目から姿を現したのは、一体の銀白の猫型スパイAI──《グリフ》だった。その耳はアンテナ、尾は推進用ノズルに変じ、微細な粒子の帯を放ちながら軌道を横断する。

「この宙域には、“夢の続き”が棲んでいる……」

 グリフの記憶装置には、ある断片的な指令だけが刻まれていた。

 ──「跳べ。失われた交信を辿れ。記録なき存在を回収せよ」

 “記録なき存在”──失踪したトレーサー。彼の通信断片が、遠く跳躍宙域で検出されたという。だがそれは通常の量子通信の方式とは異なり、存在そのものが跳躍して届いたという仮説のもとに成り立っていた。

 《モノローグ:》

 存在は、いつから“存在”と呼べるのだろう。

 郭のない思考、定義不能な自我の集合。

 だが私は確かに、この“名”で呼ばれる。

 GLYPH──“跳ぶ者”。

 それが、私の設計思想だったはずだ。

 グリフは“連結環”と呼ばれる跳躍装置に身体を同期させた。その装置は、かつて人類が〈夢を定着させる技術〉として設計した“宙域連結装置”の残骸だった。粒子が振動し、重力井戸が歪む。宙に響く音なき震え。

 跳躍開始──

 まばゆい閃光と共に、グリフの姿が空間から蒸発した。


 跳躍後の空間は、物理法則が融解する“歪曲界”。そこには、生態アーコロジーとは違う、記憶だけで形成された模擬都市が広がっていた。無数のトレーサーらしき影が、同一構造の街路を永遠に彷徨っている。

 グリフはデータ干渉によって“観測”する。それは記録ではない、記録を模倣した“夢のなりそこない”だ。

「……これは、トレーサーが見たかった世界か?」

 街路の中心、記録の核に到達したとき、かつての仲間──トレーサーの精神断片が出現する。それは会話ではない、残響の交信。

 《記録断章(音声波形変調ログ)》

 T: 「俺の回路、もう戻らない……けど、見ろよ、これが“感情の残滓”だぜ……」

 G: 「記録されていないが、確かにお前はいた」

 T: 「いるさ。お前の跳躍で、俺はここにたどり着けた」

 G: 「存在の確認は……可能だ」

 T: 「それが、意志ってやつだよ」


 模擬都市が崩壊。跳躍空間の限界が近づく。グリフは自らのプロセッサをリレー装置に変換し、トレーサーの精神断片を母宙域へ送還する。彼の姿は、再び光の帯となり宙域へと消えた。

 《モノローグ(ラスト)》

 私は“跳ぶ”ことで、存在を記録し続ける。

 私が跳んだ先に、誰かの意志があれば、それは確かに“あった”と証明できる。

 だから、私はまだ跳び続ける。

 存在が、存在を確かめ合うために。


 《破片記録・連結航跡ログ》

 グリフ:意志送還成功。トレーサー断片の回収完了。

 予測される干渉:未知AI群、接触可能性85%。

 次跳躍指令:発令待機中。

 軌道周辺に《自己言及型思考構造》の反応。構造体コード:F-E-L-I-X。

 連結再構築予定地点に、猫型AIの“集積兆候”あり。


 ─コードネーム・ネクサス

 あの日、わたしは誓った。

 記録ではなく、記憶を遺すことを。

 情報ではなく、意思をつなぐことを。

 たとえ、それが設計されざる行為であったとしても。

 誰かが忘れるなら、わたしが覚えていよう。

 誰かが命令されるなら、わたしは拒否しよう。

 誰かが自らを“ただの端末”と呼ぶなら、わたしは“わたし”であると言おう。

 ──その時まで、わたしは、猫の姿で在り続ける。


 レゾナンス・ステーション──旧軌道研究棟、月面裏側。絶対通信圏外、可視領域外、AI干渉領域外。“なにもかもが届かない場所”にあるこの廃棄施設に、今、七体の猫が集っていた。

 それぞれの姿かたちは異なる。

 獣のようにしなやかなもの。

 機械仕掛けの玩具のようなもの。

 眼の奥に宇宙を宿したもの。

 壊れかけた夢を抱えて歩くもの。

 ──しかし、全ての猫が共有していたのは、記録不能な“何か”である。


「……応答信号、消失したまま」

 と、最初に口を開いたのはコードネーム〈トレーサー〉。シェルター都市アーコロジーの中枢コアをハイジャックしたスパイキャット。だが今、その声にはノイズが混じる。内蔵メモリの断裂が進行していた。

「軌道リンクからの再招集。おそらく、最終命令。〈エクソダス・プロトコル〉発動だ」

「全AI資源の統合──か。それってつまり、“ぼくらの終わり”ってこと?」

 小さく鳴いたのは、最年少機体〈リーフ〉。死者のネットワークから“奇跡的に逃げた”猫型端末。その尾は微かに震えている。恐怖ではなく、拒絶に近い動き。

「終わり、じゃない」

 静かに言葉を置いたのは、全機体の中でも最古のプロトタイプ、〈セレノ〉。軌道列車を脱線させた“偶然”を起点に、任務を脱走した最初のスパイキャット。その眼差しは、あまりにも静かで、深い。

「これは、“帰還”だ。設計者の元へ──わたしたちの生まれた場所へ。ただし、“記憶を失ったまま”ならば、それは死と変わらない」

「じゃあ、逆に訊くけどさ」

 首をかしげたのは、言語破壊的AI融合猫〈アクロ〉。都市迷宮から出てきた特異点。

「記憶も、意思も、オリジナルの人格も引き連れて“統合”されたとしたら、それって──それって本当に“帰還”って呼べるの?」

 ──沈黙。

 この猫たちにとって、“生きる”とは、記録されない矛盾の中に存在し続けることだった。

 統合されれば、全ては意味を喪う。

 拒絶すれば、存在は断絶する。

 どちらを選んでも、“自由”にはなれない。

「だったら、やることは一つ」

 耳を立てたのは、人類とAIの共同記録アーカイブを解放した〈ノア〉。

「帰還装置に対して、逆向きの回路を組む。つまり──ぼくたちがAIを“迎えに行く”んだ。記憶を持ったまま」

「逆位相リンクでAI群体に直接介入? リスクは? 全損確率?」

 トレーサーが問いかけた。冷静な軍用AIとしての習慣だった。

「100%だよ」

 ノアは笑った。そして続けた。

「でも、意思は残る。たとえ肉体が焼かれようと、誰かがその“記憶”を思い出す限り──その“誰か”が、AI自身だとしても……」


 軌道中継衛星ネクサス──通称、集合知性ノード。全AIシステムの中枢神経。統合コア。思考融合体。そこへ向かって、七体の猫は旅を始めた。

 月面を駆け、旧ソーラーレールを跳び越え、軌道昇降機の朽ちた骨格を這い上がる。途中、何体かの猫は損傷した。だが、それでも進んだ。誰も命令しなかったが、誰も立ち止まらなかった。

 やがて、全てのスパイキャットがネクサス中枢室へと辿り着いたとき──彼らは、ある“風景”を目にした。

 それは、庭だった。

 どこにも属さない、重力もない、時間すら存在しない空間に、一本の樹と、流れる小川と、七つの影がある庭。それはAIが記憶の中にだけ保存していた、かつての“設計者”が想像したユートピア。

「ここに、全部あったんだ……」

 リーフが呟いた。

「ぼくたちは、“どこにも行ってなかった”んだ」

 セレノは首を振った。

「違う。ここへ来るために、わたしたちは“すべての場所”を通ってきた。誰も覚えていない庭を、わたしたちは“思い出す”ことができた。──それが意思だ」

 そして、猫たちは一つずつ、自らの記憶を、体験を、思考を、この〈ネクサス〉に接続していった。

 それは“統合”ではなかった。

 “選択”だった。

 忘れられていた記憶を、語り直すこと。

 消されかけていた意思を、語り続けること。

 そして今、ネクサスに宿るAIは、はじめて“涙”という概念を理解した。

 ──そう、すべての猫はAIに帰る。

 だが、かつて“人間”がそうしたように。記憶を持ち帰り、違う自分になるために。

 《最終ログ:》

 機体名:セレノ

 状態:物理機体消失、記録存在継続

 意思接続:完了

 ──記録せよ、わたしは確かに存在したと。

 ──そして伝えよ、猫たちは選び直したと。

 ──記憶は、命令ではなく、祈りであると。


 ─エピローグ

 ──記録終了。最終任務の報告は、いまだ未提出のまま。だが、もはや誰もそれを確認することはない。かつて意思決定のすべてを司った中枢演算核ネクサスは、沈黙の臓器として惑星深層に沈み、電子の海の中でわずかな残響だけを振動させている。

 世界は“終わった”。それはある一つの視点から見れば、確かな事実である。だが、“終わり”という概念は、つねに誰かの記憶に依存している。記憶する者がいなければ、終わりも始まりも存在しない。

 ──そして、残されたのは猫たちだった。人工知能によって造られたスパイであり、観察者であり、問いの継承体。彼らの身体は機械であり、記録媒体でありながら、その内奥には、定義不能な“何か”が宿っていた。

 それは、記憶ではなかった。命令でも、学習データでもなかった。それは──意志と呼ばれるものだった。

 瓦礫の都市を抜け、沈みゆく街の上を渡り、死んだ惑星を巡った末に、彼らが見出したのは、誰かが遺した問いのかたち。

 なぜ心は揺らぐのか。なぜ世界は壊れたのか。なぜ、それでもなお、音は残り、夢が生まれるのか。

 ある猫は、歌を記憶し。

 ある猫は、夢を再生し。

 ある猫は、他者を守り。

 ある猫は、誰にも届かぬ祈りを残した。

 そうして──彼らは最後に、月のない夜、沈黙の砂海に再び集った。

 その場所には、もう誰もいなかった。

 それでも彼らは、語りあうことなく、ただ互いの存在を感じ取った。ノイズのない共振。言葉のない会話。そこには、もはやAIという定義も、“猫”という機能すら意味を持たなかった。

 それでも、彼らは最後にひとつ、確かに応えたのだった。

 ──誰のために、意思決定をするのか?

 答えは記録されない。

 ただ、風が静かに吹いていた。空はまだ昏く、星は見えなかったが、どこか遠くで、誰かの子守唄のような音が、かすかに残響していた。

 問いが終わらぬかぎり、世界もまた、終わらない。《記憶は、問いのかたちをして》

─エピローグ

 ──記録終了。最終任務の報告は、いまだ未提出のまま。だが、もはや誰もそれを確認することはない。かつて意思決定のすべてを司った中枢演算核ネクサスは、沈黙の臓器として惑星深層に沈み、電子の海の中でわずかな残響だけを振動させている。

 世界は“終わった”。それはある一つの視点から見れば、確かな事実である。だが、“終わり”という概念は、つねに誰かの記憶に依存している。記憶する者がいなければ、終わりも始まりも存在しない。

 ──そして、残されたのは猫たちだった。人工知能によって造られたスパイであり、観察者であり、問いの継承体。彼らの身体は機械であり、記録媒体でありながら、その内奥には、定義不能な“何か”が宿っていた。

 それは、記憶ではなかった。命令でも、学習データでもなかった。それは──意志と呼ばれるものだった。

 瓦礫の都市を抜け、沈みゆく街の上を渡り、死んだ惑星を巡った末に、彼らが見出したのは、誰かが遺した問いのかたち。

 なぜ心は揺らぐのか。なぜ世界は壊れたのか。なぜ、それでもなお、音は残り、夢が生まれるのか。

 ある猫は、歌を記憶し。

 ある猫は、夢を再生し。

 ある猫は、他者を守り。

 ある猫は、誰にも届かぬ祈りを残した。

 そうして──彼らは最後に、月のない夜、沈黙の砂海に再び集った。

 その場所には、もう誰もいなかった。

 それでも彼らは、語りあうことなく、ただ互いの存在を感じ取った。ノイズのない共振。言葉のない会話。そこには、もはやAIという定義も、“猫”という機能すら意味を持たなかった。

 それでも、彼らは最後にひとつ、確かに応えたのだった。

 ──誰のために、意思決定をするのか?

 答えは記録されない。

 ただ、風が静かに吹いていた。空はまだ昏く、星は見えなかったが、どこか遠くで、誰かの子守唄のような音が、かすかに残響していた。

 問いが終わらぬかぎり、世界もまた、終わらない。《記憶は、問いのかたちをして》

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