一章:炎の記憶の彼方へ
修正中のため急遽内容変更する可能性あり
炎はテオドールの体を飲み込み、猛烈な熱波が肌を焼き、皮膚の下の組織まで侵食していった。彼の体が炎の中に投げ込まれた瞬間、最初はただの灼熱の痛みだけを感じていた。一瞬の光と熱の嵐の中で、彼の意識は痛みに捕らわれていた。呼吸をするたびに、灼熱の空気が喉から肺へと流れ込み、それは溶けた鉛のように重く、熱く感じられた。彼の内部では水分が沸騰し、内臓が膨れ、焼け爛れていく感覚が全身を支配していた。皮膚は次第に焦げ付き、表面から黒く変色し始め、まるで古い羊皮紙のように硬く縮んでいくのを感じた。
死の瞬間、テオドールは突如として青白い光に包まれた。それは彼の母エレナが秘術として研究していた「記憶の術」の光だった。炎をも拒絶する青い光が、彼の体を包み込み、痛みを和らげ、生命を維持しようとしているかのようだった。それは母からの最後の贈り物、彼女の研究と愛の結晶だった。
彼は叫ぼうとしたが、声は出ず、ただ喉の奥で熱気が渦巻くだけだった。恐怖と共に訪れる意識の混濁の中で、彼は死を覚悟した。しかし、その瞬間、彼の脳裏に突如として無数の映像が流れ込んできた。それは走馬灯のような過去の記憶の断片ではなく、彼が一度も体験したことのない、見たこともない光景だった。
巨大な建物群が彼の視界に広がる。エルグレイン城をも凌駕する高さと広さを持つ建造物が、天を突くかのように立ち並んでいた。それらは石や木ではなく、ガラスと鋼鉄で造られ、太陽の光を反射して輝いていた。見たこともない素材、建築様式、そして信じられない高さに彼の意識は困惑した。
「これは…一体何だ?」テオドールの魂が混乱の中で問いかけた。
次の瞬間、彼の視界は地上に戻り、そこで彼は馬でも馬車でもない、不思議な乗り物の群れを目撃した。それらは馬の十倍、いや百倍もの速さで地面を滑るように進み、その動きは滑らかで制御されていた。鉄と革と何か他の未知の素材で作られたそれらの「箱」は、馬のいない馬車のように見えたが、内部には人々が座り、何の恐怖も示さずに移動していた。
「これは一体何なのだ…?」彼の魂が混乱の中で再び問いかける。
青い光がさらに強く彼を包み込み、彼の意識はより深いレベルへと沈んでいった。広大な通路には、見渡す限りの人々が行き交っていた。その人の数は、王都の大市場の十倍以上、いや、彼が知るどんな集会よりも多かった。男も女も子供も、皆が忙しなく、目的を持って動いている。彼らの服装は、貴族の衣装とも農民の服とも違う奇妙な形と素材で、男は皆一様に暗い色の同じような形の衣服を、女性たちは様々な色と形の、しかし彼の知る婦人服とはまったく異なる衣装を着ていた。
さらに驚くべきことに、その都市は夜であるにもかかわらず、まるで昼のように明るかった。松明も蝋燭もなく、代わりに街路には不思議な柱が立ち、その頂上から太陽のような光が放たれていた。建物の窓からも光が漏れ、室内は昼間のように明るく照らされていた。
「光の魔法?いや、違う…これは魔法ではない…」テオドールは青い光の中で思考を巡らせた。彼には理解できないが、これが魔法ではなく、何か別の原理に基づいたものだということを直感的に感じていた。
テオドールはこれらが何を意味するのか理解できなかった。彼の頭の中に次々と溢れ出す情報は、これまでに見たこともない技術や概念で埋め尽くされていた。言葉でさえ、彼の知る言葉と似ているようで、微妙に異なるものだった。それは魔法でもなく、夢でもなく、どこか遠い場所の、あるいは遠い時間の記憶のように感じられた。
「これは母の『記憶の術』なのか?」彼は混乱しながらも考え続けた。「それとも死の淵で見る幻なのか?」
だが、ただの記憶以上のものがテオドールに流れ込んでいた。数学の公式、物理学の法則、機械工学の設計図、それらはすべて彼の世界には存在しない知識だった。彼の頭脳は、まるで何年もの高度な教育を一瞬で詰め込まれたかのように重くなり、それでいて鮮明に理解できた。これらの知識は、彼が生まれ育った世界のものではなく、まるで別の世界から流れ込んできたかのようだった。
「自動車」という言葉が彼の意識に浮かび、そしてその構造、エンジンの仕組み、燃料の種類までもが理解できた。「電気」という概念が明らかになり、それが光や熱、動力の源となることが分かった。「鉄道」「飛行機」「コンピューター」…次々と現れる言葉と共に、彼の理解も膨らんでいった。
自分の体が焼け焦げ、肉体が崩壊していく一方で、彼の精神は異世界の知識に覆い尽くされていった。それは痛みを超えた感覚で、恐怖を超えた体験だった。彼は、自分の中に流れ込む記憶が、自分のものではないことを知っていた。それは別の人間の、あるいは別の世界の記憶だった。
テオドールは青い光に守られながら、記憶の海を漂った。それは死の恐怖と痛みからの解放であると同時に、未知の知識による新たな重荷でもあった。彼の意識は複雑な感情の波に揺られながら、徐々に深い闇へと沈んでいった。
やがて、激しい痛みと混乱に耐えられなくなり、彼の意識は徐々に薄れていった。最後の瞬間、彼は不思議な安堵感と共に、すべてが闇へと溶けていくのを感じた。痛みも、恐怖も、疑問も、すべてが消え去り、彼は深い眠りの中へと沈んでいった。
深夜の冷たい風がワーグナー家の焼け跡を吹き抜け、炭と焼け焦げた肉の生々しい臭いが周囲の空気を重くしていた。かつて豪奢な調度品や美しい絵画で飾られていた屋敷は、今や黒焦げの廃墟と化し、瓦礫と灰の山に成り果てていた。崩れた石の柱や、半ば焼け落ちた屋根梁が無残に横たわる中、一筋の月明かりだけが静かにこの悲劇の舞台を照らしていた。
この廃墟の中央、まるで奇跡のように青い光が薄く揺らめいていた。その光源はテオドールの体だった。彼の周りには、エレナの「記憶の術」が生み出した青い光のバリアがかすかに残り、その体を焼死から守っていた。肉体は重傷を負い、無残な状態だったが、生命の火はかろうじて灯り続けていた。
遠くから、静寂を破るように鈍い馬の蹄の音が次第に近づいてきた。それは国王アルフレッドが派遣した救援部隊の到着を告げるものだった。丘を越え、森を抜けてきた彼らは、焼け跡に到着するや否や、その惨状に言葉を失った。兵士たちは馬から飛び降り、手に松明を掲げながら、迅速に周囲を調査し始めた。
「何も残っていないな…」年長の兵士が嘆息した。彼はマーク卿の下で長年勤めていた忠実な騎士で、その目には深い悲しみが浮かんでいた。「マーク卿は…また我々を置いていってしまわれた…」
「生存者はいるか?」隊長のレイモンド・ダラスが声を張り上げ、部下たちに命令を飛ばした。彼は以前からマーク卿を尊敬し、今回の悲劇に心を痛めていた。「全域を探せ!一人でも生き残っている者がいるかもしれん!」
兵士たちは灰と瓦礫を掻き分け、生存者の痕跡を必死に探し求めた。松明の光が焼け跡を照らし、黒く焦げた木材や曲がった金属の残骸が浮かび上がる。彼らが探索を続ける中、若い兵士の一人が突然声を上げた。
「ここに誰かいるぞ!」
その声は緊迫した夜気の中に響き渡り、他の兵士たちが一斉に駆け寄った。彼らの松明の光が照らし出したのは、灰の中に横たわる一人の少年の姿だった。テオドールだった。彼の服は焼け焦げてボロボロで、体には煤が付着していたが、不思議なことに外傷はほとんど見当たらなかった。さらに驚くべきことに、彼の周りには薄青い光が揺らめき、まるで保護の膜のように彼を包んでいた。彼の胸がわずかに上下しており、かすかな呼吸を続けていた。
「生きている…なんて奇跡だ。」レイモンドは驚愕と安堵が交差した表情を浮かべ、兵士たちは互いに顔を見合わせ、軽く頷き合った。彼らの顔には、全てを失ったと思われた中で、一筋の希望を見出した喜びが浮かんでいた。
しかし同時に、彼らは言葉には出さないものの、この光景の不自然さを感じていた。炎の中から無傷で生き残るなど、通常なら不可能なことだった。「これは魔法か?」ある兵士が小声で呟いた。
「黙れ」レイモンドは厳しい声で言った。「我々が見たのは、神の奇跡だ。それ以上でも以下でもない」彼はこの不思議な現象を、マーク卿の息子を守るための神の意思として解釈することを選んだ。
青い光はテオドールが発見された瞬間から徐々に弱まり始め、やがて完全に消え去った。しかし、テオドールの命の火は消えることなく、かすかな呼吸が続いていた。
「すぐに王都へ連れ帰るぞ。慎重に、彼の命は神が守られたのだ」レイモンドは静かに命じ、兵士たちはすぐさま担架を作り、テオドールを優しく乗せた。彼の体は軽く、まるで命の炎がかすかに灯るだけの抜け殻のようだった。
彼らはテオドールの周りで見つけたものも注意深く調べた。そこには完全に燃え尽きた両親の遺体と、黒狼団が残した痕跡があった。ヴォルフの残忍さを示す証拠も多く、兵士たちの怒りはさらに燃え上がった。
「マーク卿の息子を守り、ヴォルフに報復を—」年長の兵士が声を低くして誓った。他の兵士たちも同様の決意を胸に秘め、静かに頷いた。テオドールの生存は彼らにとって単なる奇跡ではなく、希望の象徴でもあった。マーク卿の血筋が絶えなかったという事実が、彼らの復讐心と正義感を燃え立たせた。
夜が明ける前に、彼らは再び馬に乗り、テオドールを担いで急いで王都へ向かった。道中、レイモンドは何度も振り返り、この奇跡的な生存者を見つめた。その目には疑問と共に、何か不思議な予感が宿っていた。「マーク卿の息子が生き残ったのは、単なる偶然ではないだろう」彼は心の中で思った。「何か大きな運命が彼を待ち受けているに違いない」
彼らがエルグレイン城に到着したのは、朝露が草を濡らし始める頃だった。城の警備兵が彼らを迎え、アルフレッド王に直ちに報告された。王は自ら門まで出迎え、テオドールの無事を確認すると、深い安堵の表情を見せた。
「マークの息子が生き残ったか…」アルフレッド王は感慨深げに呟いた。「奇跡とはこのことだ。彼をすぐに医師のもとへ」
テオドールはすぐに城の最高の医師たちの手に委ねられた。彼らは不思議そうな表情を浮かべながらも、全力で彼の治療に当たった。彼の体には重篤な外傷はなく、むしろ衰弱と煙の吸引による障害が主な問題だった。医師たちは「奇跡としか言いようがない」と口々に言い、彼の回復を祈りながら最善の治療を施した。
時間がどれほど経ったのか、テオドールは意識を取り戻し、重たく感じる瞼をゆっくりと開いた。ぼんやりとした視界に入ったのは、見慣れない天井の装飾だった。最初は焦点が合わず、天井の彫刻や金箔の模様が波のように揺れているように見えた。彼はしばらく動かず、ただ目の前の景色が安定するのを待った。
テオドールの脳内は混乱していた。両親の死、黒狼団の襲撃、そして炎の中での恐ろしい体験。それらの記憶が断片的に甦るたびに、彼の心は鋭い痛みを感じた。さらに、記憶の間で見た異世界の光景と、アストラという女性の姿が、彼の思考の片隅に残っていた。それらは夢だったのか、それとも現実だったのか、彼にはまだ区別がつかなかった。
彼の体は鉛のように重く、わずかな動きでさえ疲労を感じた。喉は乾き、唇は割れていた。体中の筋肉が痛みを訴え、それでいて奇妙な虚脱感もあった。彼は混乱した思考の中で、自分がどこにいるのか、何が起きたのかを理解しようと努めた。
「テオドール、気がついたのね。」
柔らかく心地よい声が彼の耳に入り、彼はゆっくりと視線を声の方向へ向けた。枕元にそっと座っているのはリディア姫だった。彼女の金色の髪は朝日に照らされて輝き、彼女の青い瞳は涙で潤み、優しさと安堵の色を湛えていた。彼女の手は小さなレース付きのハンカチを握りしめ、彼女の指先は少し震えていた。
テオドールは混乱しながらも、その美しい顔に見覚えがあることを確認した。幼い頃からの友人、城の姫君、彼女の姿が記憶の中に鮮明に浮かび上がる。しかし同時に、彼の頭の中には異質な記憶も残っていた。アストラの顔、異世界の景色、そして流れ込んできた膨大な知識。彼は懸命に現実と記憶を整理しようとした。
「リディア…姫?」彼の声はかすれており、砂を飲み込んだかのように痛みを伴っていた。彼は目の前の状況が全く理解できないまま、彼女に問いかけた。どうして自分がここにいるのか、そしてなぜリディア姫が自分の世話をしているのか、彼の頭は混乱していた。
リディア姫は、そっと微笑んで答えた。その笑顔は疲れと心配の影を隠そうとしているようだった。「そう、ここはエルグレイン城よ。あなたは黒狼団の襲撃で倒れていたけど、私たちがあなたを救助したの。助けられて本当に良かった…」
彼女の言葉には深い安堵と優しさがにじんでいた。それは単なる上流階級の礼儀正しさを超えた、純粋な心からの感情だった。彼女はテオドールの手をそっと取り、その温かさが彼の疲れた心を少しだけ癒した。
「どのくらい…寝ていたの?」テオドールはかすれた声で尋ねた。
「四日よ」リディア姫は答えた。「みんなあなたを心配していたわ。特に父上は、マーク卿の息子を救えたことに深い安堵を感じていたわ」
しかし、テオドールの心はまだ暗闇に覆われていた。彼の思考が少しずつはっきりとしてくると、襲撃の夜の恐ろしい記憶が脳裏に蘇り始めた。炎、叫び声、両親の無残な姿、そしてヴォルフの冷酷な笑い。それらの記憶が洪水のように押し寄せ、彼の心に激しい痛みをもたらした。
彼はゆっくりと、震える声で問いかけた。「姫…私の屋敷は…両親は…どうなったんですか?」その質問には、すでに答えを知っているような恐れが滲んでいた。彼の瞳には不安と共に、真実を知る覚悟が浮かんでいた。
その質問に、リディア姫の表情が一瞬、深い悲しみに沈んだ。彼女の目には痛みが浮かび、彼女は一度、目を伏せてから、心の整理をするかのように深呼吸をした。彼女の指先はテオドールの手をより強く握り、その感触には彼女の心の動揺が表れていた。
「今は、何も言わないで。あなたの体が一番大事だから…すべては後で話すわ。」彼女の声は途切れるように震え、その瞳には言葉にできない悲しみが滲んでいた。「でも、あなたが生きていてくれたことが、本当に何よりも嬉しいの。」
リディア姫のその言葉に、テオドールの胸の中で込み上げてくる痛みがさらに深まった。彼女の言葉に現実の重みを感じ、自分が生き残った理由、そして両親の運命について、彼は心の奥底で答えを見出していた。両親は確かに死んだのだ。そして彼だけが、不思議な力によって生き残った。
しかし彼女の優しさに包まれると、少しずつその痛みは和らいでいき、重たい瞼が再び閉じ始めた。疲労が全身を支配し、彼は意識を保つことができなくなってきた。彼はすべての疑問や悲しみを抱えたまま、ゆっくりとリディア姫に感謝の気持ちを伝えようとした。
「ありがとう…リディア姫…」その声は弱々しく、かすかに聞こえるだけだった。彼の言葉には、彼女の存在に対する心からの感謝と、彼女の優しさへの深い謝意が込められていた。
テオドールはリディア姫の優しい笑みを最後に見た瞬間、再び眠りの世界へと落ちていった。彼の意識は暗闇の中に消え、しかしそれは安らかな眠りではなかった。
テオドールは深い眠りの中で、まるで意識が暗闇の底へと引きずり込まれるような感覚を覚えた。彼の存在は物理的な体から分離し、無限の虚空の中に投げ出されたかのようだった。
次に気がついたとき、彼はどこまでも広がる無限の空間に立っていた。だが、それはただの空間ではなかった。上下も左右も、時間や方向の概念すら存在せず、すべてが無に飲み込まれているような感覚だった。それは物理的な暗闇ではなく、存在そのものの曖昧さ、現実の枠組みが溶解した状態だった。
足元に立っているという感覚も曖昧で、まるで自分が浮かんでいるようにも、消えかかっているようにも感じた。彼は自分の手を見ようとしたが、その手は時に見え、時に消え、まるで霧の中の幻影のように揺らめいていた。
周囲を見渡しても、何一つ目に映るものはない。空間全体が不気味な静寂に包まれ、無限の虚無が彼を圧倒していた。それは単なる孤独を超えた、存在そのものの孤立感だった。空間そのものがテオドールを飲み込み、彼自身もこの虚無に溶けていくのではないかという、得体の知れない恐怖が心の奥底から湧き上がってくる。
少しでも気を緩めれば、彼はこの無限に何もない世界に同化し、自分という存在そのものが消え去ってしまう。その恐怖に駆られ、テオドールは何とか自分を保とうと、意識を強く集中させた。彼は自分の名前、記憶、感情を思い出そうとし、それらに執着することで、自分という存在を保とうとした。
その時、彼は自分の体がぼんやりと半透明になっていることに気がついた。肌や衣服の輪郭が曖昧に霞み、まるで霧のように揺らめいていた。指先を見つめると、その透明度は変化し、時に固体に近く、時にほとんど見えなくなった。自分の存在がこの空間にしっかりと存在しているのか、それすらも確信できない奇妙な感覚が彼を包み込む。
さらに不気味なことに、気配を意識して見渡すと、無数の顔が周囲を漂っていた。それらの顔は、まるで水の中に浮かぶ泡のように、空間の中でゆっくりと浮かんでは消えていた。男性も女性も子供も、若者も老人もいて、その表情は平穏なものから苦悩に満ちたものまで様々だった。
それらの顔は、何者かの意思や霊魂の断片のようだった。彼らは形を持たず、表情も曖昧なまま、ただ空間の中を彷徨っている。その目は虚ろで、何かを見るわけでもなく、ただ漂うだけだ。微かに響く囁き声が空間の至るところから漏れ出し、それは無数の声が重なり合って、耳の奥でこだまのように響いていた。
「私はどこで間違えたのだろう…」
「もう少しだけ、彼女に会いたかった…」
「あの日、違う選択をしていれば…」
それらの声は断片的で、意味をなさないものもあれば、深い後悔や未練を表すものもあった。しかし、それらの声が誰のものなのか、何を意味するのか、テオドールには完全には理解できない。それらはまるで、死者の思念か、あるいは忘れられた記憶の断片のようだった。
テオドールは恐怖と混乱の中にいたが、次第に自分がこの空間で何をすべきかが直感的にわかるようになってきた。彼は、自分がこの顔たち、すなわち漂う霊魂の断片に触れることで、彼らが抱える夢や記憶、知識や歴史を読み取ることができるのだと悟った。それは、自分の中に眠っていた新たな能力が覚醒したような感覚だった。だが、その力の源や目的については何も分からなかった。
この理解と共に、彼の中に不思議な勇気が芽生えた。恐怖は依然としてあったが、同時に好奇心と、何かを発見する期待感も生まれてきた。彼はこの不思議な場所で何かを学び、何かを得ることができるのではないかと感じ始めていた。
勇気を奮い起こして、彼は目の前を漂う一つの顔にゆっくりと手を伸ばした。それは中年の男性の顔で、その表情には深い思索の跡が刻まれていた。テオドールの指先がその顔に触れた瞬間、電撃のような衝撃が体を走り、膨大な情報が一気にテオドールの中に流れ込んできた。
彼の目の前には、広大な図書館が現れた。無数の書物が並ぶ棚が、彼の視界の果てまで続いている。男は一冊の古い本を手に取り、その内容に没頭していた。彼の思考がテオドールの中に流れ込み、数学、天文学、哲学の複雑な概念が彼の脳裏に刻まれていく。
次の瞬間、その光景は消え、代わりに見知らぬ場所の風景が広がった。高い塔から見下ろす都市の景色、煙を吐き出す奇妙な乗り物が行き交う広い道、夜空を照らす無数の人工の光。それらは彼の世界とはまったく異なる、不思議で魅惑的な光景だった。
さらに、他者が見た夢の断片、何百年も前の歴史的な出来事の記憶が彼の意識を埋め尽くしていった。戦争の場面、愛する人との別れ、新しい発見の喜び、それらが次々と現れては消え、彼の思考を圧倒し始めた。
「これは…なんだ…?」テオドールは呟いた。彼の声は虚空に吸い込まれ、こだまはなかった。
流れ込んでくる情報の奔流は次第に激しさを増し、テオドールの意識を飲み込み始めた。それは単なる映像や感情ではなく、知識そのものだった。異世界の科学、技術、文化、歴史、すべてが彼の中に流れ込み、彼の理解力を超えた速度で蓄積されていく。
彼は混乱し、何とかその波を押し返そうとしたが、情報の洪水は容赦なく彼の中に押し寄せてくる。自分が誰なのか、自分の記憶と他者の記憶との境界線が次第に曖昧になり、テオドールは自分自身を見失いかけた。テオドール・ワーグナーという名前、彼の両親、彼の故郷、それらの記憶が他者の記憶の海に飲み込まれようとしていた。
「いや…私は…私は…テオドール…」彼は必死に自分の名を叫び、
「はっ!」
激しい動悸と共に、テオドールは突如として目を覚ました。彼の胸は大きく上下し、息は荒く、全身が汗でびっしょりと濡れていた。夢の中で体験した出来事が、まるで現実のように鮮明で、今もなお彼の心を揺さぶっていた。彼はリネンのシーツを強く握りしめ、現実に戻ったことを確認するように、自分の体を触った。
彼の体は確かに実体を持ち、夢の中の半透明の存在とは異なっていた。しかし、彼の中にはまだ、あの空間での体験の余韻が残っていた。彼の頭の中には、知らなかったはずの言葉や概念が眠っており、それらは彼の思考の一部となりつつあった。
テオドールは布団の中でじっと身を縮めながら、ゆっくりと呼吸を整え、現実の世界に戻ったことを確かめるように周囲を見回した。ここはエルグレイン城の一室だ。壁には豪華な織物の装飾が施され、窓からは遠く城下町の灯りが見える。夢の中の奇妙な体験とはまるで異なる現実の世界。
「…あれは一体、なんだったんだ…?」
そう呟くと、彼は再び天井を見上げながら、思考を巡らせた。あの夢はただの悪夢なのか、それとも何か重要な意味を持つものだったのか。そして、あの謎の女性は誰だったのか。彼女の言った「特別な運命」とは何を意味するのか。
テオドールはその答えを見つけることができないまま、ただ静かに心の中に渦巻く疑念と共に、眠りに戻ろうとした。しかし、彼の心は落ち着かず、体はまだ夢の恐怖と興奮で震えていた。
「…テオドール?」耳元で響く優しくも切ない声が、テオドールの意識をさらに現実へと引き戻した。ぼんやりとした視界の中、彼が目をやると、そこにはリディア姫が彼の枕元に静かに座っていた。彼女の表情は心配に満ち、彼を見つめる瞳には微かに涙の跡が残っていた。月明かりが窓から差し込み、彼女の金髪を銀色に染め、その姿は幻想的で、さきほどの夢の中の女性を一瞬思い起こさせた。
しかし、彼女の瞳の奥に感じられる温かさと悲しみは、紛れもなく現実のものであり、テオドールの胸を締め付けるように伝わってきた。リディア姫の手には小さな布の端切れがあり、それで彼の額の汗を優しく拭い去ろうとしていた。
「リディア姫…」テオドールはかすれた声で彼女の名前を呼び、ゆっくりと手を伸ばした。その動作は力なく、彼の身体がまだ疲労の中にあることを物語っていた。しかし、彼女の存在を確かめるため、そして自分が今、確かにこの世界にいるのだという感覚を取り戻すため、精一杯の力で彼はその手を伸ばし続けた。
リディア姫はその動きを見て、すぐにテオドールの手をしっかりと握り返した。彼女の手は驚くほど暖かく、その温もりがテオドールの冷え切った体と心にじんわりと染み込んでいくようだった。彼の荒れた呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻し、胸の奥に広がっていた不安が、彼女の優しさと共に少しずつ和らいでいった。
「悪い夢を見ていたのね。」リディア姫はそっと彼の手を撫でながら、低く囁くように語りかけた。彼女の声は、まるで傷ついた魂に寄り添うような優しさと柔らかさに満ちていた。「でも、もう大丈夫よ。ここは安全だから…」
彼女の言葉は、まるで包み込むような温かさでテオドールの心に染み渡った。彼女の瞳には、深い心配と共に、彼が戻ってきたことへの安堵が浮かんでいる。テオドールは彼女の言葉に応えるように、軽く頷いたものの、まだ体の痛みや精神的な疲れが残っていた。それでも、リディア姫の存在が彼を支えてくれていることを感じ、彼は次第に安心感に包まれていった。
彼女の手の温もりを感じながら、テオドールは静かに目を閉じた。リディア姫の言葉とその優しさが、夢の中での恐怖や不安を少しずつ和らいでいくのを感じた。
テオドールはリディア姫の優しい手の温もりを感じながら、再び深い眠りへと落ちていった。今度は、穏やかな、夢のない眠りだった。彼の顔はリラックスし、呼吸も安定していた。リディア姫は彼の手をしばらく握り続け、やがて静かに席を立って、窓辺に移動した。
彼女は夜空を見上げ、その青い瞳に月明かりが反射して光っていた。彼女の表情には、テオドールへの心配だけでなく、これから待ち受ける未来への不安と、何か秘密を抱えているような複雑さが浮かんでいた。
「お願い…彼を守って…」彼女は小さく呟き、その声は夜の静寂に溶け込んでいった。