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一章:絶望の炎と血涙

修正中のため急遽内容変更する可能性あり

その夜、ワーグナー家の平和は突如として終わりを迎えた。


マーク卿がアルフレッド王との会議から戻ったのは、既に日が沈み、夜の帳が降りた後だった。彼は王からの重要な任務を引き受け、明日から軍の再編成に取り掛かる予定だった。しかし、彼の心にはまだ言いよどんだ部分があった—黒狼団の首領ヴォルフについての疑念だ。彼はアルフレッド王にヴォルフの名を口にしなかった。それは単なる個人的な因縁と捉えられかねなかったからだ。しかし、彼は内心、全ての襲撃の背後にヴォルフがいることを確信していた。


城から帰る途中、マークは馬上から夜空を見上げた。星々は明るく輝いているが、月は雲に覆われ、辺りは通常より暗かった。彼は何か不吉なものを感じ、馬の速度を上げた。彼の直感は、戦場で鍛えられた兵士としての勘だった。そして、彼の直感は間違っていなかった。


マークは丘を登りながら、急に胸騒ぎを覚えた。通常なら館の窓から漏れる温かな明かりが見えるはずだが、今夜は何か違っていた。闇の中に、不自然な動きが見えた。彼は馬を止め、目を凝らした。


館の周囲に、黒い影が忍び寄っていた。彼らは音もなく動き、まるで夜そのものの一部であるかのように館を取り囲んでいった。風すら止まったかのような静寂の中、彼らの存在を感じ取ることは普通の人には不可能だっただろう。しかし、マークの鋭い目は、それらが明らかに訓練された兵士たちであることを見抜いた。


「黒狼団…!」彼は息を飲んだ。まさか、こんなに早く行動に出るとは。彼は即座に馬を森の中に導き、侵入者に気づかれないよう慎重に進んだ。館を囲む者たちの数を数え、彼らの装備を確認した。少なくとも20人はいるだろう。そして、彼らの装備は明らかに貧しい盗賊団のものではなく、質の高い武器と防具を持っていた。


マークは素早く決断した。正面からの突入は自殺行為だ。彼は側近の騎士たちがいる近くの哨所に急行し、援軍を呼ばなければならなかった。そして何より、家族の安全を確保しなければならない。


その時、館の方から轟音が響き渡った。マークは思わず振り返り、館の入り口から黒い影が次々と流れ込むのを目にした。「くそっ!」彼は歯を食いしばり、即座に方向転換した。哨所に向かっている余裕はない。今すぐ家族を救出しなければ。


彼は馬から飛び降り、森の中を駆け抜けた。邸宅の裏手には秘密の入り口があり、それを使えば気づかれずに館内に侵入できるはずだ。マークは剣を抜き、決死の覚悟で館へと向かった。


彼らのリーダー、ヴォルフは、漆黒の鎧に身を包み、月明かりさえも飲み込むような漆黒のマントを纏っていた。彼の顔には狼の紋章が刻まれた仮面が掛けられ、その下から覗く冷酷な双眸は、まるで獲物を捕らえた野獣のように鋭く光っていた。


「行け、金目のものは全て根こそぎ奪え!」とヴォルフが低く鋭い声で命令を飛ばす。その声は威厳に満ち、従う者たちの心を鼓舞すると同時に、彼らの獣性を目覚めさせるかのようだった。


黒狼団の一味は獣のような唸り声を上げながら、手に手に武器を持ち、松明の光が闇夜に不気味な影を落としながら、屋敷内に雪崩れ込んでいった。彼らの足音は床を震わせ、剣と斧が空気を切り裂く音が響き渡る。


屋敷内では、寝静まっていたメイドや従者たちが突然の襲撃に目を覚まし、まだ夢と現実の狭間にいるような混乱した表情で恐怖の叫び声を上げながら逃げ惑った。彼らの白い寝間着は夜の闇の中で幽霊のように揺れ動き、その恐怖に歪んだ顔は松明の光に照らされ、オレンジ色に染まっていた。


「助けて!誰か!」「逃げろ!」「黒狼団だ!」


様々な悲鳴が重なり合い、恐怖の交響曲を奏でる。しかし、その絶望的な叫びはすぐに冷たい斬撃音や鈍い打撃音によってかき消される。床に飛び散る鮮血が松明の光に照らされ、暗い廊下に赤い模様を描き出した。


部屋の奥から響くのは、重い足音と割れるガラスの音、そして盗賊たちの不気味な笑い声だ。彼らはまるで祝宴にいるかのように陽気に笑い、見つけた宝物を奪い合い、時には従者を嬲るのを楽しんでいた。


襲撃者達は部屋中を見渡し、代々ワーグナー家に伝わる絵画、祖先から譲り受けた宝飾品、外国から輸入された高価な貴金属、どれもが比類なき価値を持つ品々に目を奪われた。何世代にもわたって積み上げた富が、一瞬にして無法者の手に渡ろうとしていた。


「物色なんて後にしろ!」ヴォルフは黒いマントを翻しながら、冷ややかな視線で豪華な調度品が並ぶ広間を見渡した。彼の声には焦りと、同時に何かを探し求める緊迫感が混じっていた。「まずはワーグナー卿の家族を見つけ出せ!奴らを生きたまま捕らえろ!」


彼の命令に応じ、盗賊たちは暴力的に各部屋のドアを蹴破り、寝室や隠れ場所を探し始めた。ヴォルフの隣に立つガルフは、痩せた体つきながらも俊敏な動きで作業を行い、絵画、宝飾品、そして銀食器に至るまで、何一つ残されることなく、大きな麻袋に手際よく詰め込んでいく。その細い指は、まるで長年の経験を持つ職人のように器用に動き、価値のあるものを見極めていた。


屋敷の中では、足音と物が壊れる音が響き渡り、まるで悪夢のような光景が繰り広げられていた。高価な家具は倒され、古代の壺は床に投げつけられ、書物は暖炉に投げ込まれ、燃え上がる火が紙を貪り食う様子は、まるで黒狼団の破壊欲を体現しているかのようだった。


「おい、こっちにはまだ金庫があるぞ!」と、黒髪を結んだ大柄な盗賊が、書斎の壁に隠された金庫を見つけて叫ぶと、ヴォルフは眉をひそめ、歯を食いしばった。


「急げ、全部奪え。それから、焼き払って跡形も残すな。」ヴォルフがそう言い放つと、その声には復讐の炎とも呼べる怒りが込められていた。彼の動機は単なる強奪を超え、もっと個人的な恨みが絡んでいることを感じさせた。


部下の一人、痩せた男で「ガルフ」と呼ばれる者が、もぬけの殻になった食堂に向かい、手慣れた動作で火打石を取り出した。彼の細い指が素早く動き、火花が散る。火種が生まれると、彼はそれをカーテンに近づけ、炎が布地を舐め始める様子を、子供のような好奇心で見つめた。


その時、突然前方の廊下からメイドのアメリアが飛び出してきた。彼女の顔は恐怖で青ざめていたが、それでも主人の屋敷を守ろうとする決意に満ちていた。彼女の手には銀の燭台が握られ、即席の武器として構えていた。


「止めなさい!このお屋敷を燃やすなんて、そんなことは許さない!ここはワーグナー卿の大切な家なのよ!」彼女の声は震えていたが、その目は勇敢さを失っていなかった。


アメリアはガルフに向かって燭台を振り上げようとした瞬間、彼女の気配にも気づかず、背後から近づいていたヴォルフが無音で彼女の背後に立ち、一瞬の躊躇もなく剣を突き刺した。冷たい金属が彼女の背中を貫き、胸から突き出る。


「お前の許しなんていらねーよ」そう捨て台詞を吐き、ヴォルフはアメリアの体を無造作に蹴り飛ばした。彼女の体はまるで人形のように宙を舞い、壁に叩きつけられた。壁に赤い染みが広がり、彼女の体は床にくずおれ、もはや動かなくなった。


唐突に起こった出来事に棒立ちになるガルフ。彼の細い顔には、一瞬の驚きと恐怖が走った。彼はリーダーの冷酷さを知っていたが、それでもこの無慈悲な殺害に言葉を失った。


「チンタラするな、さっさとやれ」とヴォルフは再度命じ、今度はその声に怒りが混じっていた。彼の仮面の下から覗く目は、血に飢えた狼のように赤く光っていた。


ガルフは自分の任務に立ち返り、屋敷のカーテンや家具に次々と火をつけ始めた。炎は貪欲に燃え広がり、乾いた木材や布地を捕らえ、数分もしないうちに屋敷の一部は激しい火の海と化した。熱が部屋中に充満し、黒い煙が天井に溜まり始める。煙は廊下を伝って屋敷中に広がり、まるで死の使者のように各部屋を訪れていく。


火の勢いは徐々に増し、窓ガラスが熱で割れ、天井からは焼けた梁が落ち始めた。かつて美しく、威厳に満ちていたワーグナー家の屋敷は、今や地獄絵図と化していた。


館の中では、テオドールが自室のベッドで眠りについていた。彼の顔は穏やかで、昼間の剣の練習で疲れた体を休めるように、深い眠りに落ちていた。幼いながらも、その寝姿には父親に似た凛々しさがあり、将来の騎士としての資質が感じられた。彼の枕元には、父から贈られた木製の剣が大切に置かれていた。


隣の部屋では、エレナが読みかけの本を膝に置き、暖炉の火を見つめていた。その本は、古代の秘術と記憶術に関する稀少な写本で、彼女はその内容を深く研究し、後世に伝えるべき知識を精査していた。彼女は学者としての知性と、母としての優しさを兼ね備えた女性だった。マークはまだ城から帰っておらず、彼女は夫の帰りを静かに待っていた。


その時、下階から微かな物音が聞こえた。エレナは首を傾げ、耳を澄ませた。普段なら使用人たちが動く音だが、この時間にはありえないことだった。彼女の直感が危険を察知し、全身の神経が緊張した。

「誰かしら…?」彼女は静かに立ち上がり、ドアに向かった。


突然、館全体に轟音が響き渡った。玄関のドアが暴力的に開けられ、金属の武器がぶつかり合う音と、男たちの叫び声が混じり合う。エレナは一瞬凍りついたように立ち尽くし、次の瞬間、我に返って走り出した。


「テオドール!」彼女は息子の名を叫びながら、隣室のドアを開け放った。


テオドールは騒音で目を覚まし、混乱した様子で起き上がっていた。「母さん…?何が…」彼の声は眠気と恐怖で震えていた。


エレナは即座に息子に駆け寄り、その小さな体を強く抱きしめた。「大丈夫よ、テオドール。でも今すぐここを出なくては。」彼女の声は落ち着いていたが、その瞳には恐怖と決意が混ざり合っていた。母として息子を守るという強い意志が彼女を支えていた。


階下では戦いの音が激しさを増していた。マーク卿の親衛隊は不意打ちを受けながらも果敢に戦っていたが、侵入者の数と技量の前に、徐々に押されつつあった。金属がぶつかり合う鋭い音、倒れる家具の轟音、そして男たちの苦悶の叫び声が、かつては平和だった館内に反響していた。


エレナはすぐにテオドールの手を取り、部屋の奥にある隠し通路へと向かった。古い城館の多くには、非常時のための脱出路が設けられていた。ワーグナー家の館も例外ではなく、マークは常々、「万が一の時のために」と言って、家族にその場所と使い方を教えていた。今、その用心深さが家族の命綱となっていた。


「母さん、何が起きてるの?父さんは?」テオドールは困惑した様子で、しかし母親の手をしっかりと握り返した。彼の小さな声は恐怖で震えていたが、その目には勇敢に状況に立ち向かおうとする決意も見えた。八歳ながら、彼は既に騎士の心を持ち始めていた。


「黒狼団よ…」エレナは短く答えた。彼女は息子に真実を告げるべきだと判断した。「説明する時間はないの。今は私の言う通りにして。」エレナはテオドールを促しながら、書棚の奥にある隠しレバーを引いた。


書棚が滑るように動き、壁の一部が音もなく開いて、狭い通路が現れた。そこは石造りの細い道で、緩やかに地下へと続いていた。マークが念入りに用意した秘密の通路は、森の外れまで続いていたのだ。エレナはランプを手に取り、テオドールを先に通路へと押し入れた。


「この通路を進めば、森の外れに出られるわ。そこでサイモンを待ちなさい。彼が来たら、あなたを安全な場所に連れて行ってくれるから。」エレナの声は冷静を装っていたが、その奥に秘められた不安は隠せなかった。サイモンはマークの側近で、万一の事態に備えて常に連絡が取れるようになっていた。彼女は内心、マークが無事であることを祈っていた。


テオドールは母親の言葉に混乱し、恐怖を感じていたが、従うしかなかった。しかし、通路に入る直前、彼は振り返り、母親の手を強く握った。「母さんも一緒に来て!」彼の青い瞳には、母を失う恐怖が映っていた。


エレナの目に涙が浮かび、彼女は息子の頬に手を当てた。「私はあなたの後ですぐに行くわ。でも先にいくつか大事なものを持ってこなければならないの。」彼女は息子の額にキスをし、背中を優しく押した。「行きなさい、テオドール。勇敢に、そして賢く。私はすぐ後から行くから。」


その「大事なもの」とは、ワーグナー家の秘密の書物と、マークから預かっていた軍事機密の書類だった。それらが敵の手に渡ることは、決して許されなかった。特に、エレナが長年研究してきた「記憶の術」に関する古代の知識は、誤った手に渡れば危険な武器となりうるものだった。


テオドールは不安な表情を浮かべながらも、母親の言葉に従い、暗い通路へと踏み出した。エレナは最後に息子の姿を見つめ、そっと隠し扉を閉めた。「神よ、息子を守りたまえ」彼女は静かに祈った。


彼女は深く息を吸い、次の行動を決めた。彼女にとって大切なものは既に安全な場所へと向かっていた。今は、残された使用人たちを守り、そして重要な書類を守るために、できる限りのことをしなければならなかった。


エレナは引き出しから小さな短剣を取り出し、部屋を出た。この短剣はマークが彼女に贈ったもので、緊急時の自己防衛のためのものだった。彼女は学者としてよりも戦士として知られていたわけではなかったが、マークは彼女に基本的な護身術を教えていた。


下階では戦いの音がまだ続いていた。彼女は静かに階段を降り、混沌とした状況を把握しようとした。館の至る所で火が燃え始めており、煙が廊下に充満し始めていた。エレナは咳をこらえながら、慎重に動いた。


館の玄関ホールは戦場と化していた。数人の侵入者と、マーク卿の親衛隊が激しく戦っていた。侵入者たちは黒い衣服を身にまとい、顔を覆っていた。彼らの動きは訓練された戦士のようで、単なる盗賊とは思えなかった。明らかに軍事訓練を受けた者たちであり、エレナはすぐに彼らが「黒狼団」であると確信した。


彼女はホールの隅に身を隠し、状況を見極めようとした。親衛隊は侵入者たちを押し返しつつあったが、次々と新たな敵が現れるようだった。彼女は使用人たちの安全を確保しなければならないと思い、キッチンへの裏口に向かった。


その途中、彼女は驚愕の姿を目にした。一人の男が、まるで風のように剣を振るい、親衛隊の騎士たちを次々と倒していた。その剣には青白い光が宿り、振るう度に空気を切り裂くような鋭い音が響いた。「剣気」—エレナは息を飲んだ。マークから聞いていた恐るべき技術だった。そして、その男の黄色い瞳は、闇の中でさえ獣のように輝いていた。


「ヴォルフ・ヘルムスロート…」彼女は震える唇で囁いた。マークが最も恐れていた男、かつての戦友にして今は宿敵となった男が、今、彼女の目の前にいた。


ヴォルフはその場で立ち止まり、何かを感じたように周囲を見回した。エレナはすぐに身を隠し、彼の視線を避けた。彼女は冷静さを取り戻そうと努めながら、キッチンへの道を急いだ。


キッチンでは数人の使用人たちが恐怖に怯えて身を寄せ合っていた。料理長のマーサは大きな包丁を手に、若い女中たちを庇うように立っていた。彼女の眼には怯えと同時に、毅然とした決意も見えた。


「奥様!」マーサは安堵の声を上げた。「どうしたらよいでしょう?館の周りが全て—」

「すぐに裏口から逃げなさい!森へ向かって!」エレナは命じ、彼らを急がせた。「別々の方向に逃げるのよ。そうすれば全員が捕まる確率は下がるわ」


使用人たちは彼女の指示に従い、次々と裏口から外へ飛び出していった。エレナは最後に残り、全員が無事に出たことを確認した。彼女自身も外に出ようとした時、火の手が上がる音と熱気が感じられた。

「火事…!」彼女は悟り、恐怖に目を見開いた。


侵入者たちは館に火を放ったのだ。エレナは咄嗟に決断し、書斎へと向かった。重要な書類を守らなければならない—そう思った瞬間、ホールからの声が彼女の耳に届いた。


「ワーグナー卿の家族はどこだ!見つけ出せ!」それはヴォルフの冷酷な声だった。「生きたまま捕らえろ。特に息子を!」


エレナの背筋に冷たいものが走った。彼らの目的は財宝だけではなく、家族だったのだ。特にテオドールを狙っている—それはマークへの最大の打撃となることを、ヴォルフは知っていたのだ。


彼女はテオドールが既に脱出していることに安堵しつつも、自分自身の危険を感じた。


彼女は書斎へと急いだ。煙で視界が悪くなる中、彼女は記憶を頼りに書斎への道を見つけた。石造りの壁に沿って進み、熱くなり始めた床を踏みしめながら、やっとのことで書斎に辿り着いた。


書斎は煙で霞み始めていたが、まだ火の手は届いていなかった。エレナは急いで秘密の引き出しを開け、中の書類と小さな箱を取り出した。


箱には「記憶の術」に関する古代の石板と、翻訳された羊皮紙が収められていた。彼女はそれらをドレスの下に隠し、再び部屋を出ようとした時、彼女の前に黒い影が立ちはだかった。


「見つけたぞ、ワーグナー家の奥方だ!」


侵入者の一人が、冷酷な笑みを浮かべながら彼女に向かって来た。彼は若く筋肉質で、その目には残忍な喜びが浮かんでいた。エレナは咄嗟に短剣を構え、後ずさりしながらも気丈に対峙した。


「何を望むの?金なら、好きなだけ持っていきなさい。」彼女は毅然とした態度で言った。彼女の声には恐怖が感じられなかったが、それは強い母性本能が彼女の恐怖を押し殺していたからだった。今、彼女の頭の中には、テオドールの安全以外の考えはなかった。


「我々が望むのは金だけじゃない。」侵入者は答え、じわじわと近づいてきた。「貴族どもに、民の苦しみを知らしめるのだ。特に、ワーグナー家には…」彼は言葉を切り、冷酷な笑みを浮かべた。「特別な恨みがある。ヴォルフ様からの挨拶だと思ってもらおう」


その言葉に、エレナは一瞬驚きを隠せなかった。これは単なる強盗ではなく、「貴族狩り」の一環、そして何よりもヴォルフのマークへの復讐だったのだ。彼女の頭に、夫が最近心配していた黒狼団の話が蘇った。


「あなたたちは間違っている。私たちは常に民のために…」


彼女の言葉は相手の冷たい笑いによって遮られた。「口先だけの慈悲など、何の価値もない。お前の夫が私たちの仲間を何人殺したと思っている?今夜、その報いを受けてもらう」


侵入者が一歩踏み出した瞬間、窓ガラスが砕け散り、矢が侵入者の肩に突き刺さった。彼は悲鳴を上げて倒れ、エレナは驚いて窓の方を見た。


「エレナ!こっちだ!」


窓の外には、馬に乗ったマーク卿の姿があった。彼は弓を手に、館の周囲に集まった親衛隊を率いていた。彼の顔は煤で黒く汚れ、服は所々破れていたが、その目は戦士の鋭い光を宿していた。


「マーク!」エレナは安堵の声を上げ、窓に駆け寄った。彼女の夫が無事であることに、心から感謝した。

「飛び降りろ!捕まえる!」マークは馬を窓の真下に寄せ、腕を伸ばした。


エレナは迷うことなく窓枠に登り、夫の方へと身を投げた。マークは彼女をしっかりと受け止め、馬の上に引き上げた。彼女は夫の胸に顔を埋め、一瞬の安堵を感じた。


「テオドールは?」マークは即座に訊ねた、その声には深い心配が滲んでいた。彼は妻を抱きしめながらも、目は館の周囲を素早く見回し、敵の動きを警戒していた。


「安全よ。隠し通路から逃がしたわ。森の外れで待っているはず。」エレナは夫の胸に顔を埋めながら答えた。彼女は本が無事に持ち出せたことも伝えようとしたが、周囲に敵がいる状況では危険すぎた。


マークは安堵の息を吐き、馬に拍車をかけた。「こちらに火の手が回る前に離れるぞ!」彼は親衛隊に向かって叫び、一行は森の方角へと駆け出した。


彼らの周囲で、黒装束の男たちが次々に現れた。彼らは弓矢を放ち、マークたちを狙ったが、速い馬の動きにほとんどが外れていった。マークは一方の手でエレナをしっかりと抱き、もう一方の手で剣を握り、迫り来る敵を払った。


「マーク、彼らの中にヴォルフがいるわ!」エレナは夫の耳元で囁いた。


マークの表情が硬くなった。「ヴォルフが直接動くとは…それほどまでの恨みか」彼は歯を食いしばり、さらに馬の速度を上げた。ヴォルフと対峙する時が来るだろうが、今夜は家族の安全が最優先だった。


「森の入り口に罠があるぞ!」騎士の一人が叫んだ。「向こうに行けません!」

マークは一瞬考え、方向を変えた。「北の小道へ向かう。そこからケイン峠を越えれば、彼らの追跡を振り切れるはずだ」


一行は森の中の小道へ向かったが、そこには既に黒狼団の一隊が待ち構えていた。それは計画された罠だった。マークたちは四方を囲まれ、絶体絶命の状況に陥った。


「マーク・ワーグナー」低く冷たい声が闇の中から響いた。


「久しぶりだな、かつての...同僚よ」


木々の間からヴォルフが姿を現した。彼は漆黒の鎧に身を包み、月明かりさえも飲み込むような黒いマントを纏っていた。


彼の顔には狼の紋章が刻まれた仮面が掛けられ、その下から覗く冷酷な双眸は、まるで獲物を捕らえた野獣のように鋭く光っていた。


「ヴォルフ...」マークは歯を食いしばり、エレナを馬から降ろした。「お前がここまでするとは思わなかった」


「私を過小評価するな、ワーグナー」ヴォルフは冷笑した。「お前が私から全てを奪ったように、私もお前から全てを奪う。それが復讐というものだ」


マークは腰の剣を抜き、エレナを後ろに庇った。「エレナ、逃げろ。テオドールを探し出して、城へ向かうんだ」


「でも、マーク...」エレナは恐怖と心配で声を震わせた。


「行け!」マークは強く命じた。「息子を守るんだ」


エレナは涙ぐみながらも頷き、森の中へと走り出した。マークの親衛隊は彼女を守るように彼女の後について行った。


「逃がすな!」ヴォルフは配下に命じたが、マークが立ちはだかった。


「お前の相手は俺だ、ヴォルフ」マークは剣を構え、堂々と立ちはだかった。「いつか決着をつけるべき時が来るとは思っていた。まさか今夜とはな」


ヴォルフは笑い、自らの長剣を抜いた。剣の刃が青白い光を放ち始め、その周囲の空気が震えた。「今夜、お前の命をいただく。そして、息子も」


二人の剣士が激突した。マークの剣技は見事だったが、ヴォルフの「剣気」の前には徐々に押され始めた。風のような速さのヴォルフの攻撃を、マークは必死に受け流し、時折隙を突いて反撃した。しかし、ヴォルフの力は超人的で、マークの剣はその鎧を傷つけることさえできなかった。


「もはや若くないな、ワーグナー」ヴォルフは嘲笑した。「かつては私を打ち破ったが、今はその力もないようだ」


マークは息を切らしながらも、諦めなかった。「お前の力が増したのか、それとも単に狂気に取り憑かれただけか」


「力とは何かを教えてやろう」ヴォルフの剣が黒い光を強め、その刃から波動のようなものが放たれた。マークはそれを受け止めようとしたが、その力に押され、大きく後退した。


ヴォルフの攻撃は容赦なく続き、マークの体力は徐々に消耗していった。彼は何度も倒れそうになりながらも立ち上がり、エレナとテオドールのことを思い、必死に戦い続けた。


しかし、運命は残酷だった。マークが一瞬バランスを崩した瞬間、ヴォルフの剣が彼の胸を貫いた。


マークは膝をつき、血を吐きながらもなおも剣を握りしめていた。「エレナ...逃げろ...」

ヴォルフは冷酷に笑い、剣をさらに深く突き刺した。


「お前の最期の言葉も聞こえないほど苦しむがいい。」


マークの体から力が抜け、彼は地面に崩れ落ちた。彼の瞳は次第に焦点を失い、最後の力を振り絞って妻の方を見た。「エレナ...逃げろ...」


その言葉と共に、マーク・ワーグナー卿の命は尽きた。エルグレイン王国最強の騎士、正義と忠誠の象徴が、森の闇の中で倒れたのだ。彼の血が地面に広がり、月明かりに黒く光った。


「マーク!いいえ!」エレナは叫び、夫の体に駆け寄ろうとした。しかし、黒狼団の男たちが彼女を取り囲み、行く手を阻んだ。


「ワーグナー家の奥方、エレナか」ヴォルフは血まみれの剣を振るいながら言った。「お前の夫はもう死んだ。次はお前の番だ」


エレナは恐怖と絶望に襲われたが、彼女は学者としての冷静さを失わなかった。彼女はドレスの下に隠した書類と石板のことを思い、それを守らなければならないという使命感が彼女を支えた。


「なぜですか?」彼女は震える声で尋ねた。「マークは常に公正で、民のために尽くしてきた人です。あなたへの復讐心だけで、このようなことを...」


ヴォルフは仮面の下で冷笑した。「公正?民のために?笑わせるな。お前の夫は私を裏切り、私の名誉を奪った。そして私は全てを失った。今夜、その借りを返しているだけだ」


彼はゆっくりとエレナに近づき、剣を掲げた。「お前の息子はどこだ?言えば、お前の死は苦しまないようにしてやる」


エレナは震える唇を噛み締め、毅然とした態度で答えた。「私は何も言いません。あなたは決して息子を見つけることはできないでしょう」


「そうか」ヴォルフは冷たく言った。「それならば...」


彼の剣が閃き、エレナの体を貫いた。彼女の口から血が溢れ、彼女は夫の隣に倒れた。死の淵にあっても、彼女の最後の思いはテオドールのことだった。「神よ...息子を...守りたまえ...」


ヴォルフは二人の遺体を見下ろし、満足げに頷いた。「奴らの息子を探せ!」彼は部下たちに命じた。「テオドール・ワーグナーを生きたまま連れてこい。私自身の手で殺したい」


黒狼団の男たちは森の中へと散り、テオドールを探し始めた。ヴォルフは二人の遺体を邸宅へと運ばせた。彼の復讐は半ば達成されたが、完全なものとするには、ワーグナー家の血筋を完全に絶やさねばならなかった。


その頃、テオドールは隠し通路から抜け出し、母から教えられた通り森の外れへと向かっていた。彼の小さな体は恐怖と不安で震えていたが、それでも彼は必死に前に進み続けた。


月明かりさえも雲に覆われた夜の闇の中、彼は時折振り返っては、遠くに見える炎の明かりを見つめていた。炎の赤い光が暗闇を引き裂き、夜空に向かって黒い煙を吐き上げている。彼の家が焼かれているのだ。


「母さん…父さん…」テオドールは小さく呟きながら、森の中をよろめくように進んだ。


彼は約束の場所に辿り着き、母の指示通りサイモンを待った。しかし、時間が経つにつれ、彼の不安は増していった。サイモンはなかなか現れず、遠くの炎はさらに大きく、明るくなっていった。


「サイモン…どこ?」彼は震える声で呟いた。「母さんも父さんも…」


待つこと一時間以上、テオドールの体は冷たい夜露で濡れ、疲労と恐怖で震えが止まらなくなっていた。もう待ちきれないと思った彼は、立ち上がり、炎が上がる方向へと引き返すことを決意した。母が危険だからと言っても、彼の心は家族の安否を確かめずにはいられなかった。


「もう待てない…家に戻らなきゃ」


テオドールは勇気を振り絞り、森を通って来た道を引き返し始めた。彼の小さな足が枯れ葉を踏みしめる音が、夜の静寂の中でやけに大きく響いた。彼はできるだけ音を立てないように気をつけながら進んだ。父から教わった忍び足で、慎重に森の中を移動した。


彼が燃え盛る館の方へと近づくにつれ、状況は彼の想像を超えるものだった。


かつての美しい家は、今や炎の海と化し、その熱は遠くからでも感じられるほどだった。黒煙が月を覆い、赤い火の粉が夜空に舞い上がり、地獄絵図そのものの光景が広がっていた。


屋敷全体が崩壊し始め、天井から落ちてくる燃えた梁や、床を抜ける火の穴など、至る所に危険が潜んでいたが、彼はその危険を顧みず、両親を見つけ出そうとする焦燥感に突き動かされていた。彼の幼い心は、まだ両親が無事である可能性にすがりついていた。


「父さん…母さん…どこにいるの?」テオドールの目には、両親の姿は見えず、ただ炎と煙、そして崩れ落ちる屋敷の破片だけが彼を取り囲んでいた。返事はなく、ただ虚無が彼の心を襲った。


その時、彼の叫び声を聞きつけた襲撃者の一人、体格の良い「ラルフ」という男がゆっくりと炎の向こうから近づいてきた。彼の体つきは熊のように大きく、顔には戦いで負った古い傷跡が複数刻まれていた。彼の目は、楽しみを見つけた子供のように輝いていた。


ラルフはその醜悪な顔に冷酷な笑みを浮かべ、テオドールを見下ろした。彼の影がテオドールを完全に包み込み、まるで希望の光を遮るかのようだった。「見つけたぜ、小僧…お前はここで終わりだ。」彼は低く笑いながら言った。


彼は大きな手でテオドールを強引に抑え込み、少年が抵抗するのも物ともせず、力任せに引きずり始めた。テオドールの体はラルフの手の中でまるで小鳥のように無力だった。彼は叫び、蹴り、噛みつこうとしたが、その全ての抵抗はラルフの腕の上でかすかな振動として消えていった。


彼の胸は恐怖でいっぱいで、足は震えて動けない。呼吸は早く、目は焦点を結ばず、まるで現実から逃れようとするかのように辺りを素早く見回した。外に連れ出されると、そこにはリーダーの「ヴォルフ」が冷ややかな笑みを浮かべて、立っていた。


月明かりが雲の合間から差し込み、ヴォルフの仮面に反射して不気味な輝きを放っていた。彼は静かに立ちながら、まるで長年の狩りが実を結んだ猟師のような満足感を漂わせていた。


彼はまるで子供を弄ぶかのように、優しい口調で語りかけた。その声は蜜のように甘く、しかしその裏には毒が潜んでいた。


「おい、見てごらん。パパとママは、もうここにいるよ?」ヴォルフは軽い調子で言いながら、紳士のように手をひらりと振り、その先にはテオドールの前に無惨に転がる両親の遺体があった。


月の光が雲間から漏れ、その青白い光が二つの動かぬ体を照らし出した。


マーク卿の体は多数の刀傷で覆われ、かつて誇り高かった彼の顔は今や血に塗れ、恐怖と痛みで歪んでいた。


エレナ夫人の体も同様に無惨に扱われ、彼女の美しい顔は今や認識し難いほどに叩き潰されていた。


彼らの周りには暗い血溜まりが広がり、館の炎に照らされ赤黒く光っていた。


テオドールはその光景を見た瞬間、全身が凍りついたように感じた。血に染まった両親の体が地面に横たわっている—彼にとって到底受け入れられない光景だった。彼の心は現実を拒絶し、目の前で起きていることが夢であることを祈るが、冷たい夜風が彼の頬を打ち、これが現実であることを容赦なく教えていた。


恐怖と悲しみが一気に押し寄せ、声も上げられない。ただ、震えながらその場に崩れ落ち、目の前の現実を理解することもできない。彼の青い瞳は涙で曇り、信じられないという表情で両親の体を見つめ続けた。


ヴォルフはそんなテオドールの反応を楽しむように、低く笑いながら言った。その笑い声は夜の静寂を切り裂き、テオドールの心に更なる傷を与えた。


「ああ、可哀想に。お前は運が悪かった。こんな夜に屋敷が襲撃され、両親がこんな姿になるなんてな。もっと良い人生を送りたかったよな?」彼はその言葉を吐き捨てると、残酷な笑みを浮かべながら、自分の部下たちに向かって合図を送った。


「彼らの最後の別れだ。少し時間をやろう。」そう言いながら、彼は嘲笑するように頭を傾げた。


テオドールは両親の遺体に向かって這い寄り、震える手で父の冷たくなった手、母の血に染まった髪に触れる。「父さん…母さん…目を開けて…お願い…」彼の声は震え、涙が頬を伝って地面に落ちる。彼はこの状況を理解できず、ただ両親が目を覚ますことだけを祈っていた。


しかし、返事はなく、両親の体は動く気配もなく、命の息吹は既に去っていた。テオドールの心の中で何かが壊れていく音が聞こえるようだった。彼は低く泣き始め、その声は次第に大きくなり、夜空に向かって響く悲痛な叫びとなった。


「いやだ!お願い、起きて!」彼の絶望的な叫びは夜の闇に吸い込まれ、ヴォルフと彼の仲間たちの残忍な笑いだけが返ってきた。


ヴォルフは冷たく微笑みながら、二人の部下に合図した。彼らはテオドールの前から両親の遺体を引きずり、燃え盛る家の方へと向かい始めた。


「やめろ!お願いだからやめて!」テオドールは絶望的な叫びをあげ、立ち上がろうとするが、足が言うことを聞かず、ただその場にへたり込むしかなかった。彼の小さな体は激しく震え、顔は涙で濡れていた。


ヴォルフの冷酷な笑いは止まらず、彼はさらに挑発するように、「泣け、もっと泣けよ!その涙も、今夜が最後だ!」と嘲笑し続けた。彼の声には真の喜びが含まれており、この状況を心から楽しんでいることが伝わってきた。


彼は両親の遺体をテオドールの目の前で、燃え盛る家の中へと無造作に投げ込んだ。炎が二つの体を包み込み、黒い煙が立ち上り、テオドールの目からもはや両親の姿は見えなくなった。


涙が止めどなく流れ、テオドールの声は次第に弱まっていった。彼はもうどうすることもできない。両親を失った喪失感と圧倒的な無力感が彼を押しつぶしていた。彼の小さな体は激しく震え、顔は涙と煤で汚れ、目は虚ろに炎を見つめていた。


そんな中、ヴォルフは満足そうにテオドールに近づき、ゆっくりと剣を抜いた。その剣は月明かりを受けて不気味に輝き、まるで血に飢えているかのように見えた。彼はテオドールの前にしゃがみ込み、その幼い顔を剣の先でそっと撫でるように触れた。


「さて、そろそろお前も終わりにしてやるか…いい人生だっただろう?お前みたいなガキは山ほど居るが、その中じゃ相当いい方だぜ。いい事なんか長続きしねぇーんだわ。」ヴォルフは目を細め、テオドールの恐怖を味わうかのように言葉を続けた。「よかったなお勉強になって。お代はその命で支払ってもらおうか!」


彼は冷酷に笑いながら、テオドールの胸に剣を突き立て、わずかに皮膚を破り、血の一筋が流れるのを見て楽しんだ。テオドールは痛みと恐怖に目を見開き、息が詰まるような感覚を覚えた。ヴォルフはさらに剣に力を込め、ゆっくりとテオドールの体内に刃を進めていった。


テオドールは激しい痛みに体をよじり、叫び声を上げた。その声は燃え盛る炎にかき消され、襲撃者たちの嘲笑が響き渡った。ヴォルフはなおも楽しむように、「どうだ、苦しいかい?」と言い放つ。それはまるで獲物の最期の呼吸を楽しむ捕食者のようだった。


その後、ヴォルフは刺さった剣をさらに深く突き刺し、テオドールの小さな体を貫通させた。剣先は地面に突き刺さり、テオドールの体は剣に串刺しにされた状態で、地面との間に宙吊りになった。彼の小さな手が剣に伸び、何かを掴もうとするが、力はすでに失われつつあり、その動きはすぐに止まった。


テオドールの体からは血が流れ続け、その赤い液体が地面に小さな池を作り始めた。彼の視界は次第にぼやけ、周囲の音も遠くなっていく。彼は涙と血で顔を濡らし、全身の力が徐々に抜けていくのを感じた。


死の瞬間、テオドールの頭に、両親との幸せな日々の記憶が走馬灯のように流れた。父との剣の練習、母の優しい笑顔、家族で過ごした暖かな食卓の風景。そして、彼の心は次第に深い闇の中へと沈んでいった。


彼の瞳から生命の光が消え、小さな体は力なく垂れ下がった。ヴォルフはしばらくその姿を眺め、満足したように肩を回した。


「さて、片付けるか。」彼は冷たく言い放ち、剣を引き抜いた。


襲撃者たちはテオドールが息絶えたことを確認すると、剣を回収し、彼を燃え盛る屋敷の中へ無造作に投げ込んだ。テオドールの小さな体は炎の中に消え、黒い煙が天に向かって立ち上った。それはまるで、彼の魂が天に上るようにも見えた。


彼らは炎の中で焼け落ちる屋敷を背に、黒狼団のリーダー、ヴォルフを中心にして静かにその場を去っていった。ヴォルフの冷酷な笑みは、仮面の下に隠れ、彼らの姿は夜の闇に溶け込んでいった。


炎は夜空を赤く染め、その光は遠くまで届き、まるで終末の日のような不気味な輝きを放っていた。かつて栄華を誇ったワーグナー家の屋敷は、今や灰と化し、その栄光は一夜にして燃え尽きた。残ったのは崩れ落ちる燃えさしと、永遠に消えることのない悲しみの記憶だけだった。


しかし、この残虐な殺戮の夜に、誰も気づかなかったことがある。テオドールの体が炎の中に投げ込まれた瞬間、黒焦げになると思われたその体は、不思議な青い光に包まれ始めた。その光は炎をも押しのけ、テオドールの体を守るかのように輝いていた。そして、誰の目にも触れることなく、テオドールの体は炎の中から消え去った。

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