二章:ヴェリスフォート魔法学校への旅
修正中のため急遽内容変更する可能性あり
早朝の霧が地面を薄く覆い、テオドールの足元で渦を巻いていた。古びた木製の馬車が王城の石畳を離れ、彼の新たな旅路が始まった。車輪が土の道をゴトゴトと進み、チリチリと小石を弾く音が静寂を破る。しがみついた霧が馬の蹄の下で踊るように揺れ、馬車を引く二頭の栗毛の馬は白い息を吐きながら前進していた。
「ヴェリスフォートまでは一週間ほどかかりますぞ、お若いの」と、髭の生えた車夫が肩越しに言った。その顔には幾筋もの皺が刻まれ、長年の旅路が残した痕跡を物語っていた。「山道は険しく、天候も気まぐれでな。ですが、ご心配なく。この道、何度も通っておりますから」
テオドールは頷き、革の鞄から取り出した魔法書に目を落とした。フィルスから授かった古代語で書かれた初級呪文集だ。馬車の揺れに合わせて文字が踊るように見える中、彼は集中力を高め、一文一文を丹念に読み進めた。
道の両側に広がる景色は徐々に変化していった。王城近郊の手入れの行き届いた畑や庭園から、次第に野生の草花が咲き乱れる荒野へ、そして密集した木々の林へと変わっていく。時折、遠くに小さな村が見え、石造りの民家から立ち上る煙が空へと伸びていた。しかし、テオドールは寄り道することなく真っすぐに目的地を目指した。
「ヴェリスフォートまでの道中は、険しい山道を越える必要がありますからな」と車夫が警告した。「途中で盗賊や野獣が出没することも珍しくない。特に『霧の谷』は要注意ですぞ」
テオドールは窓から顔を出し、遠くに見える山々を見つめた。雲が頂を覆い、神秘的な雰囲気を醸し出している。フィルスが事前に手配した信頼できる馬車で、護衛の魔法が施されているとはいえ、不安を完全に拭い去ることはできなかった。彼は手のひらに小さな火の玉を生み出し、それを消すという訓練を繰り返した。もし危険が迫った時、自分を守る術を持っていることを確認するように。
旅の二日目、馬車は広大な草原地帯を通過していた。風に揺れる黄金色の草の波が地平線まで続き、点々と紅葉した木々が色彩を添えていた。テオドールは窓から顔を出し、清々しい風を感じながら、大自然の美しさに見とれていた。
昼食のために馬車が小さな湖畔に停まったとき、不思議な光景に遭遇した。湖面に浮かぶ三つの小島が、ゆっくりと動いていたのだ。
「あれは…」テオドールが目を凝らすと、それは島ではなく、巨大な亀の甲羅だと気づいた。
「ああ、エメラルド湖の守り手たちですな」車夫が説明した。「古代より、この湖に住む神聖な亀です。滅多に姿を見せませんが、見ると幸運が訪れるという言い伝えがありますぞ」
テオドールは思わず口元を緩め、手のひらに小さな炎を灯した。旅の無事を祈る気持ちを込めて、その炎を湖に向かって放った。炎は空中で美しい弧を描き、湖面に触れる前に消えた。するとどういうわけか、亀たちは一斉にテオドールの方を向き、ゆっくりと頭を下げたように見えた。
「これは驚きだ…」車夫は目を見開いた。「亀たちがあなたを認めたようですな。よほどの素質があるのでしょう」
テオドールは謙虚に頭を下げ、「ただの偶然でしょう」と言ったが、心の中では何か特別なことが起きたという感覚が広がっていた。
旅の三日目、山道に差し掛かる頃、風が強くなり、空気がひんやりと肌を刺すようになった。馬車は狭い山道を慎重に進み、断崖絶壁の縁をなぞるように進んでいった。下を覗けば、遥か下方に霧に包まれた谷が広がっている。時折、崖から小石が落ち、何秒もの間、音もなく落下していくその様子に、テオドールは無意識に喉を鳴らした。
「この先が噂の『霧の谷』ですぞ」と車夫が言った。彼の声には警戒心が混じっていた。「伝説によれば、谷の霧には迷いを誘う魔物が潜んでいるとか。真実かどうかは知りませぬが、警戒するに越したことはありませぬ」
テオドールは窓から身を乗り出し、谷を見下ろした。確かに、不自然なほど白い霧が谷底を埋め尽くし、まるで生きているかのように蠢いていた。彼は不思議と、その霧に吸い込まれそうな錯覚を覚え、慌てて身を引いた。
森を通る際、木々の間から差し込む日差しが、馬車の中に金色の光の筋を作り出した。テオドールはその幻想的な光景に心を奪われ、一瞬、全てを忘れて自然の美しさに浸った。苔むした巨木の間を縫うように進む道は、まるで異世界への入口のようだった。
しかし、その平和な風景も彼に油断を許さなかった。突然、馬車が急停止し、テオドールは前に投げ出されそうになった。
「何事だ?」彼は車夫に問いかけた。
「道が塞がれておりますぞ」と車夫は低い声で返した。「落石か…いや、こんな場所に自然に石が…」
テオドールは警戒心を高め、車外に出た。目の前の道は確かに大きな岩で塞がれており、迂回は不可能に思えた。しかし、よく見ると、その岩の配置は不自然に整然としていた。
「これは…」テオドールは眉を寄せた。「自然の落石ではない。誰かが意図的に道を塞いだのだ」
その瞬間、茂みから数人の男が飛び出してきた。身なりは粗末で、手には刀剣や杖を持っている。山賊だ。
「金品を出せ、そうすれば命だけは助けてやる」先頭の男が吠えた。彼の顔には醜い傷跡が走り、目は冷酷な光を放っていた。
テオドールは一歩も引かず、フィルスの教えを思い出した。「魔法は常に冷静な心で使うべきだ。状況を冷静に分析し、力任せに対処してはならない」
彼は深呼吸し、両手を広げた。「我々には価値あるものはない。ただの旅人だ。どうか通してくれ」
山賊のリーダーは嘲笑った。「ふん、嘘をつくな。その服装、貴族か何かだろう?特にそのローブ、普通の品じゃないな」
テオドールは状況を素早く判断した。五人の山賊、うち二人は魔法使いの可能性がある。正面からの戦いは危険すぎる。彼は車夫に目配せし、静かに呪文を唱え始めた。
「何をごにょごにょ言って…」
テオドールの両手から突然、強烈な炎が吹き出した。しかし彼はそれを直接山賊たちに向けず、頭上の木の枝に向けた。枝は瞬く間に炎に包まれ、山賊たちの真上で激しく燃え始めた。熱さと突然の明るさに、山賊たちは混乱し、散り散りになる。落ちてくる燃えた枝を避けながら、彼らは一時的に陣形を崩した。
その隙に、テオドールは車夫と共に岩を迂回する細い獣道を見つけ、馬車を導いた。山賊たちが態勢を立て直した時には、彼らはすでに遠くへ去りつつあった。
「見事な火術ですな!」車夫は感嘆の声を上げた。「直接攻撃せず、環境を利用するとは賢明な判断です。さすがはヴェリスフォートを目指す方」
テオドールは少し照れながらも、内心では緊張が解けていくのを感じていた。実戦での魔法の使用は初めてだったが、フィルスの教えが彼を救ったのだ。
旅の四日目、天候が急変した。青空が灰色の雲に覆われ、やがて激しい雨が降り始めた。道は泥濘となり、馬車の進行は遅くなった。テオドールは退屈さを紛らわすため、馬車の中で小さな火の玉を操る練習をしていた。
「どうすれば火の強さを調整できるのだろう…」彼は呟きながら、手のひらの上で踊る炎の大きさを変えようとしていた。フィルスから教わった基本だが、まだ完全に習得できているとは言えない。
突然、馬車が大きく揺れ、テオドールの火の玉が床に落ちた。一瞬のうちに床板が燃え始め、彼は慌てて足で踏み消そうとした。
「何事だ!?」車夫が叫ぶ声が聞こえた。
テオドールが外を見ると、馬車は小川の増水した部分で立ち往生していた。車輪が深く泥に嵌り、馬たちは必死に前に進もうとしているが、動けない状態だった。
「このままでは馬たちが疲れ切ってしまう」車夫は心配そうに言った。「押してみますが、この雨では…」
テオドールは考えた。火の魔法が活かせる場面だろうか?直接的には無理だが…
「車夫さん、泥を乾かすことはできないだろうか?」
彼は馬車から降り、車輪の周りの泥を観察した。そして、慎重に小さな炎を使い、泥の表面を乾かし始めた。強すぎず、弱すぎない、絶妙な加減の炎で少しずつ水分を蒸発させていく。
「なるほど、泥を固めるわけですな!」車夫は驚いた表情で見ていた。
約15分の作業の後、車輪の周りの泥は十分に固まり、馬たちは再び力を入れて引っ張ることができた。馬車はゆっくりと動き始め、難所を脱出した。
「見事な応用力ですな」車夫は感心した様子だった。「単純な火術だけでなく、状況に合わせた使い方ができる。これぞ真の魔法使いの素質」
テオドールは誇らしい気持ちと同時に、もっと多くの魔法を学びたいという強い欲求を感じた。陰の特性についても、より深く理解し、応用できるようになりたい。そう思いながら、彼は再び馬車に乗り込んだ。
ある夜、馬車が山間の小さな宿「霧月亭」に到着した。石造りの二階建ての建物で、屋根からは煙が立ち上り、窓からは温かな光が漏れていた。
中に入ると、暖炉の火が心地よく爆ぜる音と、旅人たちの談笑が耳に入ってきた。テオドールは一人、隅のテーブルに座り、熱いスープと焼きたてのパンを前に、少し緊張しながらも周囲の会話に耳を傾けた。
「ヴェリスフォート?あそこはただの魔法学校じゃないぜ」隣のテーブルで、年配の旅商人が若い見習いに語りかけていた。「強力な魔法使いを数多く輩出している名門中の名門だ。入学試験は非常に厳しく、十人に一人しか合格しないとも言われている」
テオドールは耳をそばだてた。
「それだけじゃない」商人は続けた。「入学してからが本当の地獄だ。生徒たちは絶え間ない試練と競争にさらされ、実力がない者はすぐに脱落する。卒業できるのは入学者の半分以下とも言われているな」
テオドールの手が一瞬止まった。彼の心に不安が忍び寄る。自分にそのような厳しい環境で生き残る力があるのか?しかし、同時に内なる火も燃え上がった。挑戦なくして成長なし。彼はその試練を乗り越え、真の魔法使いになる決意を新たにした。
「あんた、ヴェリスフォートに向かっているのかい?」商人が突然テオドールに声をかけた。
テオドールは少し驚きながらも頷いた。「はい、明日にも到着する予定です」
「そうか」商人は彼を上から下まで見て、微笑んだ。「目に決意が見える。良い魔法使いになれるだろう」
その言葉に、テオドールは思わず背筋を伸ばした。
しかし、席の向こうから突然、嘲るような声が飛んできた。「へっ、また一人、夢見がちな若造が無駄な旅をしている」
声の主は、暗い角に座る青年だった。粗末なローブを纏い、目の下には疲労の色が濃い。
「無駄、だと?」テオドールは静かに問いかけた。
「ああ、無駄さ」青年は苦々しく言った。「ワタシもヴェリスフォートを目指していた。去年、入学試験に失敗して戻ってきたところだ。あんたみたいな田舎の魔法使いが合格する見込みなんてない」
テオドールは黙って青年を見つめた。彼の目には諦めと怒りが混じっている。
「どんな魔法が使えるんだ?」青年は挑発するように訊いた。「炎?水?風?」
「炎の魔法だ」テオドールは静かに答えた。
青年は嘲笑した。「炎かい。ありきたりだな。そんなんじゃ話にならない。ヴェリスフォートでは、基本属性に加えて何か特別な才能がないと話にならないんだ」
彼は沈黙を守り、ただスープを啜り続けた。
青年はそのまま自分の挫折談を語り始めた。他の受験者たちがいかに特殊な能力を持っていたか、試験官たちがいかに厳しかったか。テオドールはそれを黙って聞きながら、自分の道を進む決意を固めていった。
宿の一室に入ると、彼は窓から見える満月を眺めながら、自分の旅路を振り返った。王城での修行、フィルスの教え、そして自分の特性の発見。全てが彼をここまで導いてきたのだ。彼は静かに瞼を閉じ、明日に備えて眠りについた。
***
旅の最後の日、馬車は山を下り切り、ヴェリスフォート王国の平原地帯に入った。広大な麦畑が金色に波打ち、遠くには整然と区画された農地が碁盤の目のように広がっていた。
「王国の穀倉地帯ですな」車夫が説明した。「ヴェリスフォートは魔法だけでなく、農業技術も発達している。魔法と科学の融合が彼らの強みなのです」
道は次第に広くなり、舗装された石畳へと変わっていった。行き交う人々も増え、馬車や荷車だけでなく、時には奇妙な形をした乗り物—魔法の力で浮遊する板や、機械仕掛けの足で歩く箱のようなもの—も見かけるようになった。
テオドールは窓から身を乗り出し、その光景に見入っていた。彼の故郷では見られない文明の先進性に、心が躍った。
「あれが…」車夫が指差した先に、テオドールの目は釘付けになった。
地平線の彼方から徐々に姿を現してきたのは、まさに壮大な都市だった。七つの丘の上に築かれたヴェリスフォートの都は、白亜の城壁に囲まれ、中央には王城と思われる巨大な建造物が聳え立っていた。周囲には様々な塔や建物が立ち並び、中でも特に目を引いたのは、街の北側に位置する巨大な複合建築物だった。
「あれが、ヴェリスフォート魔法学校ですぞ」
テオドールの息が止まるほどの光景だった。七つの尖塔が天を突くように立ち、周囲を取り囲む白い城壁は、夕陽に照らされて淡い紅色に染まっていた。学校の象徴的な中央塔は、他の建物よりも遥かに高く、その頂上には不思議な青い光が点っていた。
「青い光は『永遠の炎』と呼ばれるものです」車夫が説明した。「創立以来、一度も消えたことがない魔法の火だとか。学校の魔力の源とも言われていますな」
テオドールは思わず手のひらに小さな炎を灯し、遠くの青い光と自分の火を見比べた。いつか自分もあのような特別な魔法を操れるようになるのだろうか。
馬車は都市の大通りを進んでいった。街並みは整然としており、魔法と科学が融合した独特の建築様式が目を引いた。建物の多くは白や薄い青の石で作られ、窓枠や装飾には金や銀が使われている。通りには魔法の街灯が立ち並び、夕暮れ時にもかかわらず、不思議な明るさで道を照らしていた。
人々の服装も多様で、華やかな貴族から質素な労働者まで、様々な階層の人々が行き交っていた。特に目を引いたのは、色鮮やかなローブを着た魔法使いたちだ。彼らの多くは杖や魔法書を持ち、自信に満ちた足取りで歩いていた。
「学生たちの多くは街中に下宿しているのですぞ」車夫が説明した。「学校の寮に入れるのは、特に優秀な生徒や特別な事情を持つ者だけです」
馬車が魔法学校の正門に近づくにつれ、同じような若者たちが集まっているのが見えた。彼らも、テオドールと同じく入学試験を受けに来たのだろう。様々な地方からの若者たちが、緊張した面持ちで列を作っていた。
「あの子、北方の雪国からきたんだって」
「伝説の魔法使いの子孫だという噂の子もいるらしい」
「昨年は千人以上が受験して、合格したのはたった百人だとか…」
様々な会話の断片が耳に入ってくる中、テオドールは自分の心拍が早くなるのを感じた。様々な背景を持つ受験者たちの中で、自分はどれほどの力を示せるのだろうか。
列の中には、明らかに裕福な家庭の子女と思われる若者たちもいた。高価な装飾が施されたローブを着て、使用人に荷物を持たせ、自信に満ちた表情で周囲を見下ろしている。また、テオドールと同じく質素な身なりながら、目に強い決意を宿した若者たちもいた。
特に目を引いたのは、一人の少女だった。シンプルな緑のローブを着ており、赤褐色の髪を短く切りそろえている。彼女の手には古びた魔法書が握られていたが、その表紙には見覚えのない文字が刻まれていた。彼女は周囲の喧騒に関わらず、静かに本を読み続けていた。
ついに、馬車は学校の門前に到着した。巨大な石のアーチは古代の文字で彫刻され、その上には学校の紋章—翼を広げた神話の鳥と、その中心に輝く魔法の結晶—が誇らしげに掲げられていた。
門の両側には、魔法で動く石像の守護者が立ち、全ての来訪者を冷たい石の目で監視していた。石像は生きているかのように頭を動かし、テオドールが馬車から降りると、わずかに身をかがめ、挨拶するかのような仕草を見せた。
「ここまでですな」車夫は彼の荷物を手渡した。「幸運を祈りますぞ、若き魔法使いよ。あなたの炎が、いつか青い光と同じように特別なものになりますように」
テオドールは深く息を吸い込み、感謝の言葉を述べた後、ゆっくりと受験者の列に加わった。彼の足取りは重く、しかし決意に満ちていた。
列の中で待つ間、彼は少し離れたところで、先ほどの緑のローブの少女が、受付の魔法使いと話をしているのを見た。少女は何かを主張しているようで、身振り手振りを交えて熱心に話していた。受付の魔法使いは最初は頑なな表情だったが、やがて少し表情を和らげ、頷いた。
「あの子、どうやら特別な事情があるようだな」テオドールの隣に立っていた青年が呟いた。彼は長身で、黒髪を後ろで結んでいた。「俺はライデン、東の山岳地帯から来た。君は?」
「テオドールだ。エルグレイン王国から来た」テオドールは簡潔に答えた。
「へぇ、エルグレイン王国か」ライデンは感心した様子で言った。「どんな魔法が得意なんだ?」
「火の魔法だ」テオドールは静かに答えた。「君は?」
「俺は風だ」ライデンは少し自慢げに言った。「ちょっと見せようか?」
彼が手をかざすと、小さな風の渦が指先から生まれ、テオドールの前髪を揺らした。
「なかなかだな」テオドールは微笑んだ。「制御が効いている」
「毎日訓練しているからな」ライデンは得意げに言った。「だが、ここにいる皆もそれぞれ特技を持っているんだ。あの金髪の子は雷を操れるらしいし、後ろの双子は一心同体で魔法を増幅できるとか」
テオドールは周囲を見回し、様々な地方からやってきた若者たちの姿に、競争の厳しさを実感した。しかし、それは彼の決意を揺るがすものではなかった。むしろ、更なる高みを目指す動機となった。
門をくぐると、突然、空気が変わったように感じた。より濃密で、魔力に満ちているようだ。彼の全身が軽くなり、心が開かれていくような不思議な感覚に包まれた。炎の魔法が自然と湧き上がり、制御に少し集中する必要があった。
ヴェリスフォート魔法学校の広大な中庭が、その全景を彼の前に広げた。古代の石畳、色とりどりの魔法の花が咲き誇る庭園、そして空中を漂う小さな光の球。どこを見ても魔法の痕跡があり、空気さえも魔力で震えているようだった。
様々な年齢の学生たちが行き交い、あるものは深い議論に没頭し、またあるものは驚くべき魔法の実演に歓声を上げていた。テオドールの目は、全てを吸収しようと必死に動き回った。
彼は胸の高鳴りを感じながら、中庭の中央に立つ入学管理棟へと足を向けた。新たな学びと挑戦が待っている場所—ヴェリスフォート魔法学校が、今、テオドールの人生の新章の舞台となるのだ。
彼の心の中で、フィルスの言葉が蘇った。「力は手段に過ぎず、解決の鍵ではない」
テオドールは決意を新たにし、学校の大扉に手をかけた。
入学管理棟の内部は広大な大理石のホールとなっており、天井には魔法の歴史を描いた壮麗なフレスコ画が描かれていた。数百人の受験者たちがそこに集まり、それぞれに与えられた番号札を手に、不安と期待が入り混じった表情で待機していた。
テオドールも受付で名前を告げ、「第127番」と刻まれた青い石板を受け取った。受付の年配の魔法使いは、彼の名前を聞くと少し眉を上げたが、特に何も言わずに次の受験者に目を向けた。
ホールの隅にある石のベンチに腰を下ろしたテオドールは、緊張を紛らわすため、周囲の様子を観察していた。先ほど出会ったライデンは、彼から少し離れた場所で他の受験者たちと談笑していた。
「あいつ、すぐに友達を作るタイプだな」テオドールは少し羨ましく思いながら呟いた。
そのとき、誰かが彼の隣に座った気配がした。振り向くと、先ほど受付で議論していた緑のローブの少女だった。近くで見ると、彼女の瞳は珍しい琥珀色で、表情には強い意志と知性が宿っていた。
「こんにちは」彼女は静かな声で挨拶した。「隣に座ってもいい?」
「ああ、どうぞ」テオドールは少し驚きながらも席を詰めた。
少女は荷物を足元に置き、持っていた古い魔法書を膝の上に広げた。テオドールはその本に書かれた文字に興味を引かれた。
「その文字、見たことがないな」彼は思わず口にした。
少女は少し警戒したような目で彼を見たが、すぐに柔らかな表情になった。「古代エルマリア語よ。もう使う人はほとんどいないけど、私の故郷ではまだ伝承として残っている」
「エルマリア…」テオドールは考え込んだ。「伝説の魔女エルマの国?」
少女の目が輝いた。「よく知ってるわね!そう、エルマの血を引く氏族の末裔なの。今はもう少数しか残っていないけど」彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。「私の名前はアイリス。アイリス・エルマリアよ」
「テオドール・ワーグナーだ」彼は自己紹介した。「エルグレイン王国から来た」
アイリスは興味深そうに顔を近づけた。「あの緑豊かな国の?」
テオドールは頷いた。「ああ、そうだ。フィルス・サージェントという魔法使いに少し教わっていた」
「フィルス・サージェント!?」アイリスは驚きの声を上げ、周囲の受験者たちが一瞬彼らの方を見た。彼女は声を落とし、「あの伝説の炎術師に直接教わっていたの?」と囁いた。
テオドールは少し驚いた。フィルスが外の世界でそれほど名高い魔法使いだとは知らなかった。「ええ、まあ…基礎的なことだけだけど」
「基礎的なこと"だけ"じゃないでしょう」アイリスは鋭く指摘した。「あの方の"基礎"は、他の魔法使いの"極意"に匹敵するわ」
その時、がっしりとした体格の男子学生が二人に近づいてきた。ライデンだった。
「やあ、テオドール!もう友達ができたみたいだね」彼は陽気に声をかけた。そして、アイリスに向かって軽く会釈した。「初めまして、ライデン・ストームブリンガーだ。東の山岳地帯から来た」
「アイリス・エルマリアよ」彼女は静かに答えた。
ライデンの目が大きく見開かれた。「エルマリア?西方の古代魔法の?」
アイリスは少し疲れたような表情で頷いた。どうやらこの反応には慣れているようだった。
「凄いじゃないか!」ライデンは率直な驚きを表現した。「エルマリアの魔法は属性に縛られない"純粋魔法"だと聞いているよ。本当なのか?」
アイリスは困ったように髪をかき上げた。「そんな大げさなものじゃないわ。確かに私たちの魔法は属性の枠を超えることもあるけど、それだけ不安定でもあるの。だから大半の魔法使いは特定の属性に特化する道を選ぶわ」
テオドールはこの話に興味を引かれた。「属性の枠を超える…それはどういう意味だ?」
「例えば」アイリスは静かに説明し始めた。「火の魔法使いが水を操ったり、風の魔法使いが大地を動かしたり。でも、それには大きな代償が伴うわ」
「代償?」テオドールは思わず身を乗り出した。
「そうね…」アイリスは言葉を選びながら続けた。「体力の消耗、時には精神的なダメージ。だから私も今は風の魔法に集中しているの」
「風か」ライデンは嬉しそうに言った。「俺と同じだ!何か見せてくれないか?」
アイリスは周囲を見回し、「ここではまずいわ」と答えた。「試験の前に余計な魔力を使いたくないし」
その時、ホールの中央に立つ高壇に、厳格な表情の老魔法使いが現れた。銀のローブを身にまとい、長い白髭を蓄えた彼は、一歩踏み出すと、魔力の波が部屋中に広がるのを感じた。
「受験者の皆さん、注目を」その声は特に大きくはなかったが、ホール全体に響き渡った。「私はヴェリスフォート魔法学校の入学試験官長、アルカディウス・シルバーストーンだ」
ホール内が静まり返った。
「入学試験は三段階で行われる」アルカディウスは続けた。「第一段階は筆記試験。魔法理論と基礎知識を問う。第二段階は実技試験。各自の魔法適性と制御力を見る。そして最終段階は個別面談だ」
受験者たちの間に小さなざわめきが広がった。
「第一段階の筆記試験は、各自に割り当てられた試験室で行われる。あなたの番号が呼ばれたら、指定された試験官についていくように」
アルカディウスは手を上げ、空中に大きな魔法の時計を出現させた。「試験開始まで、残り30分」
テオドールは自分の番号札を見つめた。127番。いつ呼ばれるのだろう。
「俺は43番だ」ライデンが札を見せた。「早めに呼ばれそうだな」
「私は209番」アイリスは少し安堵したように言った。「もう少し心の準備ができそう」
三人は緊張と期待が入り混じった時間を共有しながら、それぞれの思いを胸に待ち続けた。ライデンは落ち着きなく足を揺らし、アイリスは古代の魔法書を黙読し、テオドールはフィルスから教わったことを心の中で復習していた。
「そういえば、テオドール」ライデンが突然口を開いた。「君の火の魔法、どんなものか見せてくれないか?ちょっとだけでも」
テオドールは躊躇った。フィルスは「不必要に魔法を見せびらかすな」と教えていた。しかし、この状況では少し見せても悪くないだろう。
「ほんの少しだけなら」テオドールは手のひらを開き、小さな炎を灯した。それは普通の火とは少し違い、中心に濃い赤色の核を持ち、外側は透明に近い黄色の炎で包まれていた。
「おお!」ライデンは感嘆の声を上げた。「とても純度の高い炎だな。見事なコントロールだ」
アイリスも興味深そうに炎を見つめていた。「これはただの火の魔法じゃないわ…」彼女は小声で呟いた。「何か特別なものを感じる」
テオドールは少し驚き、急いで炎を消した。彼の陰の特性が表面に出てしまったのだろうか。
「番号1番から50番の方々、左側の廊下へお進みください」声が響き、最初のグループが呼ばれた。
ライデンは立ち上がり、「じゃあ、行ってくる」と笑顔で言った。「後で会おう、テオドール、アイリス」
彼が去ると、アイリスはテオドールに向かって静かに言った。「あなたの炎…何か隠しているでしょう?」
テオドールは心臓が高鳴るのを感じた。「何のことだ?」
アイリスは彼の目をまっすぐ見つめた。「私たちエルマリアは、魔法の"色"を見ることができるの。あなたの炎は…二重の色を持っている。表の力と、隠された力」
テオドールは言葉に詰まった。彼女は彼の陰の特性を感じ取ったのだろうか。
「心配しないで」アイリスは微笑んだ。「誰にも言わないわ。私も…秘密を持っているから」
彼女がそれ以上何かを言おうとした時、「番号51番から100番の方々」という呼びかけが響いた。
次々とグループが呼ばれていき、やがて「番号101番から150番の方々」という声が聞こえた。
「私の番だ」テオドールは立ち上がった。
アイリスは彼の袖を軽く引いた。「幸運を祈るわ、テオドール。試験が終わったら、また話しましょう」
テオドールは頷き、「ありがとう、アイリス。君にも幸運を」と言って、呼ばれたグループに合流した。
彼らは長い廊下を進み、それぞれ別々の小部屋に案内された。テオドールが入った部屋は質素なもので、机と椅子、それに魔法の明かりがあるだけだった。机の上には羊皮紙と奇妙な形をしたペンが置かれていた。
「着席してください」部屋の隅に立っていた監督官が言った。「ペンに触れると、試験が始まります。制限時間は2時間です」
テオドールは深呼吸し、椅子に座った。彼はペンに手を伸ばす前に、一瞬目を閉じ、フィルスの教えを思い出した。「知識だけでなく、知恵を持て。答えを求めるだけでなく、問いの本質を見極めよ」
彼がペンに触れると、羊皮紙に魔法の文字が浮かび上がり始めた。試験が始まったのだ。
各試験室で受験者たちが問題と格闘する間、ライデンはすでに筆記試験を終え、次の実技試験の待機室にいた。彼は自信に満ちた表情で、他の受験者たちと談笑していた。
アイリスはようやく試験室に入り、深い集中力で問題に取り組んでいた。彼女の周りには微かな風が渦巻き、彼女の緊張を和らげているようだった。
テオドールは問題の難しさに眉を寄せながらも、一つ一つ丁寧に解いていった。その表情は真剣そのもので、時折、彼の指先から小さな炎が漏れるのを誰も気づかなかった。
三人はそれぞれの場所で、自分の未来をかけた試験に臨んでいた。




