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一章:テオドール・ワーグナーの誕生

修正中のため急遽内容変更する可能性あり

真夜中の冷たい影が城の回廊を覆い尽くす中、エレナの荒々しい呼吸が石造りの壁に反響し、大広間の隅々まで響き渡っていた。普段は威厳に満ちた領主の寝室は、今やその静謐さを完全に失い、生命の誕生を告げる緊張感で満ち溢れていた。窓ガラスを叩く風の音は、まるで外の世界が内側の出来事を気遣うかのようだったが、室内にいる者たちの耳には、もはやその音すら届かなかった。


古き城塞の厚い壁の向こうでは、夜の帳が深く落ち、北風が荒々しく吹き荒れていた。エルグレイン領の守護者たちは、通常なら古い石造りの見張り台で眠たい目をこすりながら、機械的に領土の境界線を見張っているはずだった。しかし今宵、彼らの心はいつになく緊張感を帯びていた。自分たちが守るべき領主の館から届くかもしれない知らせを待ちわびていたのだ。


「どうだろうな、ワーグナー卿の御子は無事に誕生されるだろうか」


年老いた衛兵長のゴードンが風を切る音に負けじと、若い部下に声をかけた。彼の顔には風雪に鍛えられた無数の皺と、主への忠誠心が刻まれていた。彼はマーク・ワーグナー卿の父の代から仕えてきた古参の兵士であり、今や若き領主の幸福を心から願っていた。


「きっとそうでしょう」若い衛兵は確信を持って答えた。「ワーグナー家には女神様の加護がありますからね。昔から、この地を守る家系ですもの」


ゴードンは微笑み、懐から取り出した水筒から一口飲んだ。「そうだな。ワーグナー家は代々、この地方の守り手として民に慕われてきた。お前も知っているだろう、マーク卿がヴァルハイム峠の戦いで見せた勇気と智恵を。あの時、黒狼団の先制攻撃を見事に予測し、民を守り抜いたんだ」


若い衛兵は敬愛の念を込めて頷いた。マーク・ワーグナー卿の名は、領内のみならず周辺諸国でも勇敢な戦士であり、公正な統治者としての評判が高かった。そして今、彼の跡継ぎとなる子供が生まれようとしているのだ。


エルグレイン領の主であり、尊敬されるマーク・ワーグナー卿は、妻のベッドの傍らに膝をつき、彼女の汗ばんだ手を両手で包み込んでいた。その強く骨ばった手から伝わる妻の痛みの鼓動が、彼の心臓を共鳴させるように打ち震わせる。普段は冷静沈着な指導者として領民に敬意を払われるその顔は、今や希望と不安が交錯する一人の男の表情へと変わっていた。


彼の青い瞳は、通常なら戦略や政策を見通す鋭さを湛えているが、今は不安と期待で揺れ動き、その瞳には苦しむ妻を前に無力感さえ浮かんでいた。彼は二十九歳の若さでエルグレイン領の統治を継承し、五年の間に領内の治安を回復させ、農業生産を増加させ、そして何より周辺に出没していた黒狼団の脅威から民を守ってきた。しかし今、彼のすべての勲功も、妻の産みの苦しみの前には何の助けにもならなかった。


「エレナ…大丈夫だ、もうすぐだ…一緒に乗り越えよう。」彼の低く落ち着いた声は、感情の波に揺さぶられて微かに震えていたが、それでもなお、深い愛情と決意を滲ませていた。政治家としての顔も、戦士としての素質も、今は全て脇に置き、ただ一人の夫として、そして未来の父として、この神聖な瞬間に立ち会っていた。


マークの心は過去へと遡った。エレナとの出会いは運命的だった。七年前、隣国との国境紛争を解決するための会議でのことだった。彼女はアルフレッド王の宮廷に仕える学者の娘で、その聡明さと芯の強さに、彼はすぐに心を奪われた。エレナは単なる美しさだけでなく、秘術と古代の知識に精通し、彼女の助言はマークの外交交渉を何度も助けた。二人が結ばれるまでに一年を要したが、それは彼の人生で最も幸福な決断だった。


そして今、彼らの愛の結晶が誕生しようとしている。マークの胸中に去来する感情は複雑だった。父としての喜びと責任、そして言葉にできない恐れ。彼は自分の父を若くして失っており、父親というものの模範を十分に知らないという不安があった。さらに、この乱世において、一人の子供を立派に育て上げることの難しさも痛感していた。


特に、近年再び活動を活発化させていた黒狼団の存在が彼の心に暗い影を落としていた。彼らは単なる盗賊団ではなく、古い民族の恨みと新しい貪欲さが入り混じった危険な集団だった。その首領ヴォルフの名を聞くだけで、国境の村々は震え上がった。マークは何度か彼らと戦い、一時的に追い払うことには成功したが、根絶やしにはできていなかった。


「わが子には、平和な世界を残したい…」彼は心の中で祈った。


ベッドに横たわるエレナの顔は、汗の粒が真珠のように光り、長い茶色の髪が濡れて額に張り付いていた。眉間と額に刻まれた深い皺は、彼女が耐え忍んでいる痛みの激しさを如実に物語っている。しかし、その琥珀色の瞳には、苦しみの奥に確かな希望の灯火が灯っていた。新しい命が、この世に生を受けようとしている—その奇跡的な瞬間を、彼女は全身全霊で迎え入れようとしていた。


エレナ・ワーグナーは二十七歳で、アルフレッド王国宮廷に仕える学者の家系に生まれた。幼い頃から書物に囲まれて育ち、特に古代の秘術と歴史に関する知識において並ぶ者がいないと言われるほどだった。彼女は十七歳の時、宮廷魔術師の見習いとなる機会を得た。しかし彼女は単純な呪文の唱え手以上のものを目指していた。彼女の真の関心は、古代の予言と「記憶の秘術」—失われた知識を保存し、次世代に伝えるための古い魔法体系だった。


彼女がマークと出会ったのは、その知識を求めて北方へ旅する途中だった。二人の縁は思いがけないものだったが、互いの中に見出した強さと誠実さが、彼らを結びつけた。エレナはマークの妻となり、学者としての探求を続けながら、エルグレイン領の人々にも受け入れられていった。


しかし今、彼女はこれまで経験したことのない試練に直面していた。出産の痛みは、彼女が読んだどんな本にも正確には書かれていなかった。それは肉体を引き裂くような激しさを持ちながらも、どこか神聖で、生命そのものの力強さを感じさせるものだった。


「はぁ…はぁ…もう…来るわ…感じる…」エレナは息を切らしながら言葉を紡ぎ、次第に間隔を縮めて襲いかかる陣痛の波に身を委ねた。痛みに震える声の中に、どこか神秘的な喜びが混ざり合い、その声色は母になる女性だけが知る特別な音色を帯びていた。


彼女の脳裏には、この九ヶ月間の思い出が走馬灯のように流れた。最初に胎動を感じた朝の静けさ、胎内の子に向けて毎晩語りかけていた古い詩の言葉、そしてマークと共に子供の将来について語り合った穏やかな夜。彼女は自分の子に、学問の素晴らしさと、知識の持つ力を伝えたいと願っていた。そして何より、愛する力と、他者を思いやる心を育てたいと願っていた。


「エレナ様、あと少しです。もうすぐお子様に会えます。」床に膝をつき、横で付き添うメイドのアメリアは、亜麻色の布で静かにエレナの額の汗を拭いながら、経験を感じさせる落ち着きと優しさで声をかけた。彼女自身も内心は不安でいっぱいだったが、今この瞬間、彼女が冷静に取り仕切らなければならない。幾度もこのような場面を見守ってきたとはいえ、主人夫婦の待望の子という特別な存在への責任感が、その細い肩に重くのしかかっていた。


アメリアは四十歳を超え、エルグレイン城で二十年以上仕えてきた忠実な従者だった。マークの母親に仕え、その死に際して側にいたのも彼女だった。彼女はエレナが嫁いできた時から、この知的で優しい若き領主夫人を自分の娘のように思い、支え続けてきた。そして今、彼女は新しい世代の誕生に立ち会おうとしていた。


部屋の隅では、もう一人の侍女が熱い湯を沸かし、清潔な布を用意していた。城の下層では、領主の子の誕生を待ち望む使用人たちが眠れぬ夜を過ごし、良い知らせが届くことを祈っていた。エルグレイン城全体が、新しい命の到来に向けて息を潜めているようだった。


マークもアメリアの言葉に深く頷き、震える声で「そうだ、エレナ。もう少しだ…俺たちの子供が…」と続けた。彼の声には不安が隠しきれず、その喉から絞り出される言葉には、何もできない自分への歯がゆさが滲んでいた。これまで幾度となく戦場で剣を振るい、困難な政治的局面を切り抜けてきた彼だが、目の前で最愛の人が苦しんでいるというのに、ただ手を握ることしかできない無力感に苛まれていた。


「大丈夫、大丈夫…きっと母さんは強い人だから、きっと…」と自分に言い聞かせるように、彼は何度も心の中で繰り返す。その表情には、妻への心配と、未だ見ぬ我が子への期待が交錯していた。


彼の心に、先日の不吉な夢の記憶が浮かんできた。炎に包まれたエルグレイン城と、暗闇の中で輝く一対の黄色い目。彼はその夢を誰にも語らなかったが、不安は彼の心の奥底に潜んでいた。黒狼団の脅威は日に日に強まっており、最近では隣国からも不穏な噂が届いていた。マークは自分の家族と領民を守るために、より強くならなければならないと感じていた。


部屋の空気が一瞬張り詰めた。エレナの呼吸が変わり、彼女の体が一層強張った。マークは妻の手をさらに強く握り、何か言葉をかけようとしたが、喉が渇いて声が出なかった。


エレナは痛みの波の合間に、力なく目を開け、夫を見上げた。青白く緊張した夫の顔を見て、彼女は痛みの中にあっても微かに微笑みを浮かべた。「マーク…あなたの顔、少し青いわよ…大丈夫?私より心配してるみたいね…」彼女の声は弱々しかったが、その中に微かな冗談めいた調子と、夫への優しさ、そして二人の絆に対する深い信頼が込められていた。


マークはその言葉に驚き、一瞬自分の表情を意識して、「いや…俺は大丈夫だ。むしろお前のほうが心配だろうが…」と不器用に微笑みながら答えた。その微笑みには照れと愛情が混ざり合い、彼の優しさが表れていた。


「ふふ…あなたのそういうところが好きよ。いつも心配性で、私のことばかり気にしてくれて…でも今は、私、強くなれる…あなたと、この子のために。」エレナは痛みの合間に微笑み、夫の手をそっと握り返した。彼女の指先には、これから始まる新しい命への愛情と、家族としての絆に対する決意が込められていた。


外では雲が月を覆い、部屋はさらに暗くなった。しかし二人の間に流れる愛情の絆は、その闇をも照らすかのように明るく、確かなものだった。マークは妻の掌に自分の唇を当て、「俺がついている。必ず乗り越えよう」と囁いた。


エレナの中では古い知識が呼び覚まされていた。彼女が研究していた「記憶の秘術」には、命の誕生に関する神秘的な教えも含まれていた。それは単なる肉体の誕生ではなく、魂と肉体が結びつく神聖な瞬間についての洞察だった。彼女は痛みの中にあっても、自分の体内で育んできた命との深い結びつきを感じていた。


「この子には特別な運命がある…」彼女はぼんやりとそう感じていた。それは単なる母親の直感を超えた、彼女の持つ秘術的な知識からくる予感だった。エレナはこの子に対して深い責任を感じていた。この子を育てるだけでなく、自分の知識を伝え、そして何より、この混沌とした世界で自分の道を見つける力を与えたいと願っていた。


その思いを胸に、彼女は新たな痛みの波に身を任せた。「あぁっ…!」彼女の悲鳴が部屋中に響き、マークの顔が一層青ざめた。アメリアは冷静に状況を見極め、「もうすぐです、エレナ様。力を抜かずに…」と声をかけた。


部屋の灯りが風に揺れる中、エレナは全身の力を振り絞った。彼女の魂は肉体の痛みを超え、新しい命を迎え入れるために開かれていた。


「エレナ様!もう頭が見えます!」アメリアが高揚した声を上げ、いよいよその瞬間が訪れることを告げた。その言葉に、エレナは天井に向かって首を反らせ、最後の力を振り絞って身体を奮い立たせた。


「頑張れ、エレナ…!俺たちの子供が…!」マークは彼女の手を握りながら、必死に声をかけ続けた。彼の心臓は早鐘のように鳴り、血液が頭へと急速に流れるのを感じた。時間の流れが遅くなったかのように感じる中、彼は妻の苦しむ姿に対し、ただひたすら祈ることしかできなかった。


部屋の空気が張り詰め、まるで時間そのものが立ち止まったかのような瞬間が訪れた。エレナの最後の力を振り絞った叫びが、城の石壁に吸い込まれるように消えていった。


一瞬、時間が止まったかのような静寂が広がった。


次の瞬間、力強い産声が部屋全体に響き渡った。


その声は高らかで、力強く、まるで部屋の隅々まで届くような生命力に満ちていた。それはこれまでの全ての苦しみを一掃するかのように、新しい希望の訪れを告げていた。


同時に、不思議なことが起きた。部屋の中の蝋燭の炎が全て一斉に大きく燃え上がり、一瞬、部屋中が明るく照らされた。それはほんの一瞬のことで、すぐに元の穏やかな灯りに戻ったが、その現象に気づいたアメリアは、思わず息を呑んだ。彼女はエレナの研究していた古い秘術について知っており、この現象が単なる偶然ではないことを直感的に感じていた。


「火の子…」彼女は心の中で思った。「この子は特別な力を持って生まれてきたのかもしれない…」


エレナの胸には一気に安堵と喜びが溢れ、熱い涙が自然に瞳に浮かび、頬を伝って枕に落ちた。彼女の呼吸は乱れ、全身が疲労で震えているのを感じながらも、彼女の表情には一片の後悔もなく、ただ母親としての無限の愛と幸福が刻まれていた。


「おめでとうございます、エレナ様。」アメリアは目に涙を浮かべながらも、職務を全うするかのように慎重に産まれたばかりの赤ん坊を柔らかな絹のような布で優しく包み込み、その小さな命を両手で抱き上げた。赤ちゃんの体は小さくとも、初めて世界に放たれたその力強い泣き声は、部屋中に響き渡り、まるで生命そのものの存在感を主張しているかのようだった。


「男の子です」アメリアは声を詰まらせながら告げた。「とても健康なお子様です」


「見て…マーク…私たちの…私たちの子よ…」エレナは震える声で、疲れた体を少し起こしながら夫に呼びかけた。その声には、言葉では表せないほどの喜びと驚き、そして現実に起きた奇跡を信じられないという思いが混じっていた。出産という苦しみから解放された彼女の目には、今や新しい命を慈しむ母としての光だけが宿っていた。


「これが…俺たちの…子供…」


マークの声は感動で震え、気づけば頬を伝って熱い涙が流れ落ちていた。彼は長年恐れと希望の間で揺れ動いていた父親になる瞬間を、今まさに迎えていたのだ。彼の中で、戦士としての誇り、領主としての責任感、そして今、新たに芽生えた父としての愛情が交錯し、言葉にならない感情が胸を満たしていった。


それを見たエレナもまた、疲れ果てた体に鞭打つように上体を起こしながら優しく微笑み、彼の手を取りながら囁いた。「あなたの涙…美しいわ…」


赤ん坊の小さな手足がぴくりと動き、その細い指が空気を掴むように開いたり閉じたりする度に、エレナの目はその一挙手一投足を追い、我が子の存在に心を奪われていった。新しい命が生まれたという実感が、次第に彼女の中で確かなものとなり、母としての本能が自然と湧き上がってくるのを感じた。


マークはエレナの肩にそっと腕を回し、彼女を抱き寄せながら、共に赤ん坊をじっと見つめた。彼の青い瞳には、言葉では表しきれない感動が宿り、涙が止まることなく溢れ続けていた。長い間待ち望んだ瞬間が今ここに訪れ、彼の胸は締め付けられるような幸福感で満たされていた。その感情は喉に詰まり、言葉にならない程の喜びとなって彼を包み込んだ。


「私たちの宝よ、マーク…これから、三人で…新しい家族として…」エレナの声は疲れと感動で震えながらも、未来への希望に満ちていた。


マークは深く頷き、エレナの手を取り、そっと唇を寄せた。彼の口づけには、これまでの全ての苦労と試練を乗り越えてきた感謝と、これから始まる新しい人生への誓いが込められていた。「ありがとう、エレナ…。そして、ようこそ…我が家へ。」


アメリアは赤ん坊を慎重にエレナの待ち望む腕に預け、その小さな体を母親の胸にそっと寄せた。エレナはその温かく柔らかな体を慎重に抱きしめ、赤ん坊の小さな顔を覗き込んだ。まだ開ききっていない赤ん坊の瞳、わずかに開いた唇、そして驚くほど美しい産毛の生えた頭—全てが彼女には宝物のように感じられた。


部屋の空気がかすかに震えるのを感じたとき、エレナは自分の持つ秘術的な感覚が呼び覚まされるのを感じた。彼女は赤ん坊の額に軽く唇を当て、そっと囁いた。「あなたは特別な子よ。私はあなたに私の全てを伝えるわ…古の知恵を、魔法の記憶を…そして何より、あなたを守る力を…」


小さな手がエレナの指にしっかりと巻きつき、その驚くほど力強い握りに、彼女は自然と微笑んだ。彼女の心に芽生えた母としての愛情は、すでに深く根を下ろし、これからの人生の全てを変えてしまうほどの力強さを持っていた。


「こんなに小さいのに…力強いわ…この子は…」エレナは頬を流れる涙を拭うこともせず、微笑みながら赤ん坊の頬をそっと撫でた。彼女の指先が触れる赤ん坊の肌は驚くほど柔らかく、生命の神秘に触れたかのような感覚を彼女に与えた。


エルグレイン城の外では、空がようやく明るくなり始めていた。嵐は去り、明け方の静けさが訪れていた。衛兵たちは長い夜の見張りを終え、交代の時間を迎えていた。


城の最上階から、一人の使用人が急いで階段を駆け下りてきた。「生まれました!」彼は息を切らしながら叫んだ。「ワーグナー卿の御子が無事お生まれになりました!」


その知らせは瞬く間に城中に広がり、長い間緊張していた空気が一気に祝福ムードに変わった。料理人たちは祝いの準備を始め、使用人たちは喜びの言葉を交わした。やがて、この知らせは城を超え、エルグレイン領全体に広がっていくだろう。


古い衛兵長のゴードンは、その知らせを聞くと杖をついて立ち上がり、「万歳!」と声を上げた。彼の老いた顔には、純粋な喜びが溢れていた。「ワーグナー家に神の祝福を!」


その頃、部屋の東側にある窓から、夜明けの最初の光が静かに差し込み始めていた。柔らかな黄金色の光が少しずつ部屋を満たし、まるで新しい命の誕生を祝福するかのように、優しく三人を包み込んでいく。その神聖な光景を見つめながら、エレナの心に自然と新しい命にふさわしい名前が浮かんできた。


「テオドール…」エレナはその名前を静かに、しかし確信を持って口にした。「テオドール・ワーグナー。あなたの名前よ。」その声はまるで永遠に続く愛を誓うかのように穏やかで、しかし揺るぎない決意が感じられるものだった。彼女が選んだその名には、「神の贈り物」という古い言葉の意味が込められており、新しい命への深い感謝と、この子がもたらすであろう希望への願いが表現されていた。


マークはその名を聞き、深く頷いた。彼の目には理解と承認の色が浮かび、「テオドール…素晴らしい名前だ…私たちの大切な宝だ。」と言葉を添えた。彼はそっと子供の頭に手を置き、これから守るべき新しい絆を感じ取った。


アメリアも涙ぐみながら、「本当に美しい名前ですね、エレナ様」と、心からの祝福の言葉を添えた。部屋にいた誰もが、その名前に対して異議を唱えることはなかった。全員が、新しい命の誕生とその名に相応しい深い意味を心から受け入れ、そして祝福していた。


窓から差し込む朝の光がさらに強まり、部屋全体が黄金色に包まれる中、エレナとマークは静かに、しかし確かに、これから始まる新しい家族としての生活を思い描いていた。彼らを包む柔らかな光と、静かに流れる時間の中で、未来への希望と決意が静かに育まれていくのだった。


エルグレイン城から数十マイル離れた深い森の奥で、一人の男が冷たい笑みを浮かべながら空を見上げていた。彼の黄色い瞳は闇の中で異様に輝き、風になびく漆黒の髪と鎧の上に羽織った毛皮のマントが、彼の威厳と野性的な雰囲気を一層際立たせていた。腰に差した長剣の柄には、帝国の紋章が刻まれていたが、それは今や傷つき、汚れていた。


「ワーグナー家に子が生まれたか…」彼は低い声で呟いた。その声には憎悪と共に、かつての同僚への嫉妬が混じっていた。「マーク・ワーグナー…お前は今でも栄華を極めているのか」


この男の名はヴォルフ・ヘルムスロート。かつては帝国騎士団の有能な剣士として名を馳せた男だが、今は黒狼団の首領として北方の村々を恐怖で支配する存在となっていた。彼の剣の腕前は伝説級であり、その「剣気」は敵を震え上がらせるほどの威力を持っていた。


彼の周りには、獣のような目つきをした男たちが十数人、焚き火を囲んで座っていた。彼らの多くは帝国の法から逃れた脱走兵や元囚人たちだったが、ヴォルフのカリスマ性に惹かれて集まってきた者たちだった。彼の鋭い眼光と冷徹な判断力に魅了され、忠誠を誓った者たちである。


「団長、次はどこを襲いましょうか?」若い盗賊が尋ねた。彼もまた、ヴォルフの元で剣の訓練を受けている元兵士の一人だった。「エルグレイン領の東の村は金になりそうです」


ヴォルフは冷たく笑った。彼の表情には、かつて帝国騎士団の一員として人々を守ると誓った日々の面影はもはやなかった。「まだだ。今はワーグナーにしばらく平和を味わわせてやろう」彼は剣を研ぎながら続けた。「彼の幸せが最高潮に達した時、我々はそれを奪い取る…最も痛い方法でな」


彼の言葉に、団員たちは不気味な笑いを漏らした。焚き火の炎が彼らの顔を赤く照らし、その目には残忍な期待が宿っていた。かつて規律と名誉を重んじた騎士たちの集団は、今や欲望と憎しみに駆られた盗賊団と成り果てていた。


「時が来れば、我々はエルグレイン城に攻め込み、ワーグナー家の血筋を絶やす」ヴォルフは立ち上がり、腰に下げた剣の柄に手をかけた。かつてマーク・ワーグナー騎士団長から賜った剣だった。「あの日、奴が私を追放しなければ、こんなことにはならなかったのだ」


ヴォルフは空を見上げ、遠くエルグレイン城の方角を睨みつけた。「待っていろ、マーク・ワーグナー。お前の幸せも、お前の命も、いずれ我らのものとなる。貴族の特権に胡坐をかき、民の苦しみを知らぬお前に、真の絶望を教えてやろう」


深い森の中で、黒狼団の笑い声が冷たい夜気に溶けていった。遠くエルグレイン城では、テオドール・ワーグナーの誕生を祝う喜びの声が響いていたが、彼らの未来には、すでに暗い影が忍び寄っていたのだった。


ヴォルフは一人、焚き火から離れ、月明かりの下で自分の過去を思い出していた。


彼の心には、今でも鮮明に焼き付いている記憶があった。ヘルムスロート家の長男として生まれながら、その血筋に相応しからぬ「野獣の瞳」と呼ばれた黄色い眼を持って生まれたこと。幼少期から顕わになった異常な力と制御できない怒り。そして、常に優等生だった従兄弟と比較され続けた日々。


ヘルムスロート家は古い貴族の血筋を引く名家だった。歴代、帝国の中枢で活躍する政治家や軍人を輩出してきた。しかし、ヴォルフはその期待に応えることができなかった。彼は幼い頃から野性的で、貴族としての礼儀作法よりも、力の行使に喜びを見出す子供だった。彼の両親は彼を恥じ、家庭教師たちは彼を諦め、使用人たちは彼を恐れた。


「おまえの目は獣の目だ。何か悪魔の血でも混じっているのではないか」


父親はいつもそう言って、ヴォルフを蔑んだ。母親もまた、彼を避けるようになっていった。唯一、彼に優しかったのは老いた剣術指南役だけだった。その老騎士は、ヴォルフの中に特別な才能を見出したのだ。


「お前には特別な力がある。それは『剣気』と呼ばれるものだ。剣を振るう時、お前の魂そのものが剣となって敵を切り裂く。千年に一人の才能だ」


十四歳の時、ヴォルフはその「剣気」を初めて解放した。家庭教師に叱責された怒りが頂点に達したとき、彼の周りに見えない力の渦が発生し、部屋の壁を切り裂いた。それを目の当たりにした父親は、ヴォルフを家から追い出すことを決意した。


「こんな怪物は、我が家の恥だ。帝国騎士団に入れ。そこで戦士として死ぬか、あるいは人間になるかだ」


こうしてヴォルフは、若くして帝国騎士団に入団することになった。彼の異常な戦闘能力は、騎士団でも直ぐに認められた。特に剣術においては、彼の右に出る者はいなかった。しかし、彼の気質は相変わらず荒々しく、チームワークや規律を重んじる騎士団の精神には馴染めなかった。


そこに現れたのが、騎士団の新しい団長、マーク・ワーグナーだった。彼は貴族出身でありながら、庶民感覚を失わない公正な人物として知られていた。マークは若きヴォルフの才能を高く評価し、自らの副官に抜擢した。


「お前には素質がある。その力を正しく使えば、お前は騎士団の、いや帝国の宝となる」


マークの言葉に、ヴォルフは初めて希望を見出した。彼は誰かに認められたことがなかったのだ。彼はマークに忠誠を誓い、その片腕として働き始めた。マークの指導の下、ヴォルフの粗暴な性格は少しずつ矯正され、彼は騎士としての誇りも身につけ始めた。


ところが、昇進が早すぎたことで、騎士団内に嫉妬の芽が生まれた。また、ヴォルフ自身も力を得るにつれて傲慢になり、自分の地位を利用して私腹を肥やすようになっていった。彼は部下たちに賄賂を要求し、自分に逆らう者には「剣気」の力を示して従わせた。そして、その腐敗の輪は次第に広がっていった。


マークはそれを知り、深く失望した。彼はヴォルフを呼び出し、厳しく諭した。


「ヴォルフ、お前は何をしているのだ。騎士の誓いを忘れたのか?我々は民を守るために剣を振るうのであって、自分の欲のために力を使うのではない」


しかし、ヴォルフの心は既に闇に染まっていた。彼はマークの言葉を聞き入れず、逆に彼を攻撃した。


「お前に何がわかる!生まれた時から恵まれた環境で育ち、全てを与えられてきたお前に!俺は全てを自分の力で勝ち取ってきたのだ!」


二人の戦いは激しかった。ヴォルフの「剣気」は強力だったが、マークの冷静さと経験が勝り、ヴォルフは敗れた。マークはヴォルフを騎士団から追放し、彼の名を帝国の黒書に記した。これにより、ヴォルフは家族からも完全に勘当され、全ての地位と名誉を失った。


追放されたヴォルフは、自分を慕っていた部下たちと共に山賊となった。彼らは「黒狼団」と名乗り、辺境の村々を襲って略奪を繰り返した。そして、ヴォルフの「剣気」の力と、彼のカリスマ性に魅了された無法者たちが次々と集まり、黒狼団は恐るべき規模の盗賊団へと成長した。


「マーク・ワーグナー…お前は私から全てを奪った。だから私もお前から全てを奪う。これが私の復讐だ」


ヴォルフは月を見上げながら誓った。彼の心には憎しみだけが残っていた。かつてマークに対して抱いていた尊敬の念は、今や激しい怨恨に変わっていた。そして今、マークに跡取りが生まれたと聞き、彼の復讐心は一層燃え上がった。


彼は焚き火に戻り、黒狼団の幹部たちを集めた。「計画を練るぞ。ワーグナー家を滅ぼす計画をな」


彼らの笑い声は夜の森に響き渡った。一方、エルグレイン城では、テオドール・ワーグナーが新しい命の息吹と共に眠りについていた。彼はまだ知らない。自分の運命が、すでに復讐に燃える男によって狙われていることを。

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