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第五十四話 淡愛

 私は床に溢してしまった水をようやく拭き終えた。

ティッシュ3枚じゃきかなかったから、

ダイニングにあった食器洗い用の布切れを使ってようやくーー


 でも、そのせいで私はまた暇になってしまった。

半日のお留守番を頼まれて二つ返事で了承しちゃったけど、

自分だって本当はお祭りに行ってみたかった。


 一昨日、康太くんと近所のレストランで食事した時の事を私は思い出した。

夜なのに明るい街灯に照らされたアスファルトの歩道と、頭上を煌めく

提灯の数々ーー今考えれば、あの提灯はお祭りの為の装飾だったのかもしれない。


 なんて、行かないって決めたくせにそればかりが気になる自分が嫌になった。

私のこの、無駄に謙遜して自分の気持ちを伝えられない悪癖ーー


 『悪癖? じゃあ、貴方の気持ちは、どこにあるの?』


 あぁ、また始まった..。これは、私の妄想劇だ。

一つ置かれた映画館の座席最前列に腰を据え、目の前のスクリーンをジッと眺めた。

しかし役者は不在の様だ。幕は既に広がっているものの、映像は流れなかった。


 だから私は、手元のポップコーンをつまみ口の中に入れた。

本当は行儀が悪いとわかってるけど、食べた後に指先に付着した味付けの粉を

舐めるのがどうやら自分は好きな様だ。


「へぇ、めっちゃ分かる!

俺もそれ好きなんだ。ハッピーターンとかで良くやる!」


 そんな時、私の隣からにゅっと伸びた色白の腕に私はギョッとした。


「こ、康太くん..?」


 なのに、目線をすかさず横に走らせた先にあったのは、どこまでも果てしなく

続くかのような暗闇を分断する、非常階段を示す文字、緑と白のピクトグラムだった。


 私はどういうわけか暗い場所が苦手だから、その唯一の光源は安心材料だ。

あと10秒待とう。10秒待って何も始まらなかったら、私はすぐにでも席を立とう。


 頭の中で秒数をカウントした。正確性は無いけど、後5,4,3ー


 残り、2秒だった。その時、暗転した館内からブーっというサイレンのような

音が鳴り響き、直後スクリーンから映像が流れ始めた。


『ごめんなさい..』


 しかしそれは酷く不明瞭で状況がイマイチ読み込めない。それに

ガサガサっと不協和音が入り、毛布が波打つような上下運動を繰り返す。

震えるような声音で誰かに謝罪の意を表明しながらただ、繰り返すーー


『私は誰に謝っているの? 康太くんに..? 栄田さんに..?

違うよね。私はあの人達に対しては外面だけは良く見せようと必死に取り繕った。

本当の気持ち? そんな内面性と分断して、最後表に出て来たもの、

それだって紛れもない貴方だという事も知らずにねーー』


 そして、奇妙な役者は毛布から這い出て続けるのだった。


『謙虚でありなさいー本音は隠すのが美徳だーー

でもね。そうやっていくら”あんた”が律儀に、丁寧に振る舞って何になるの?

康太くんは舞台から退場して、またあんた一人だけが残された』


「..。でも、、仕方ないじゃ無い..。康太くんは、栄田さんの事が好きで、

それは向こうも同じなのに、、私が何を....」


 しようにも、もうどうしようもないだなんて分かりきってた。

それなのに、私の身体が、頭がうるさくて堪らない。胸が切なくなって、

理性と本能の境界線がボヤけてどうしようもない..。


 私の心のベクトルは、康太くんに向かっていた。


『ほら..。それが本音じゃない?

二人のデートの邪魔したくないって聖人ぶっても..。

あんたは聖人なんかじゃない。ただ、一人でいるのが怖いだけ....」


「一人..」


 映画の中の演者が、克明にそう告げた次の瞬間ー

スクリーンの幕は閉じ黒いカーテンが上から垂れ下がり、館内の照明は点灯した。

故に、私の座る客席と周りの空席が一様に見渡せたものの、果てしなく続くその中に、

客の一人も見つける事は出来やしないーー私はまた一人になった。


 それに一昨日、唯一そんな自分を助けてくれたあの人と、

彼が差し出してくれた雨除けの傘はもうどこにも無かった。


 二人はいつ帰ってくるかも分からない。二度と帰ってこないかもしれない。

あの二人はもしかすると知人同士で、

二人して私をこの家に押し留めたいだけなのかもしれない。

 

 嫌な妄想が頭の中いっぱいに広がった。善良な二人が、そんな事をするはずはない。

私を置いて出ていくだなんて酷い真似をするはずないーー


 だから本当の問題、つまりこの胸のつっかえは自分の中にあるはずなのに、

私は私という存在の主人格でありながら、その根幹をなす原因を見つけられずにいた。

思考の沼にハマったようだ。こうなるともう、考える事自体、億劫になって来るー


 こんな時、私は猛烈に何か書物に向かいたい衝動に駆られる。

これといって興味を惹かれるジャンルも無いが幸いな事に、康太の本棚には

まるで子供のおもちゃボックスのような、

色んな嗜好の本や雑誌、漫画が敷き詰められていた。


 小説、詩、伝記、哲学、自己啓発本、参考書ー


 種々折々の山積まれたそれは、老舗の古本屋みたいだ。

中にはかなり年季が入っており、ページをペラペラ捲るとチャタテムシの死骸があるものや、

紙自体が茶色く変色してしまい、文字のインクが滲んで読めないものまでーー


「ふふ..」


 奥の方に埋もれた細長く薄い本が見えたから、私はそれを引っ張り出した。

かなり露出の多い女性が表紙を飾るグラビア誌や、少年漫画誌だ。

男の人の家だからある程度予期していたけど、一見エッチな事はあまり考えてなさそうな

あの無愛想な康太くんが、これを見て真顔のまま頬を赤く染めて硬直してる姿を想像すると、

それがいかにも彼のイメージとピッタリハマったせいで、私は笑ってしまった。


 何だか、

この時の私はプライベートでの彼の姿を暴こうとしている探偵みたいだった。

康太くんは今までずっと、普通の人より感情が希薄なのだと思ってたけど、

意外とそうでもないんじゃないか? だとか、思い出したらキリがなかった。


 興味本意のまま、恐らく自分が今している行為を客観視出来て

いないだけなのかもしれないけど、まだ比較的真新しい本が綺麗に並べられた

本棚の上の方に私は手を伸ばし端っこにある一冊を手にした。


 分厚くて、赤い本だ。表に大きな文字で大学名が書かれている。

そんな本がよく見ると何冊も並んでいた。康太くんが解くのだろうか?

しかし勉強机に目を走らせても、そこには睡眠導入剤とパソコンしか置いてない。


 嫌に整理された机だ。

私は高価そうな硬い椅子に腰を据え、

テーブルランプの近くに置いてある星の砂入りのガラス瓶に目線を走らせた。

それは遠目から見るとよく分からないけど、近付けてみるとガラスの所々に

うっすらと凹凸のついた傷やヒビ割れが見える年季の入った代物だ。


 コルクで、穴の空いた瓶に栓が閉められている所までも

私の持っているものと全く見分けが付かないから、康太くんが私のを

自分のものだと勘違いしてしまったのも納得出来るーー


 なのにそれすら分からない程、あの時の自分は視野が狭くって、、


 今もそうなのかもしれない..けど、私は康太くんに対する認識を間違えていたし、

その誤解のせいで初めて会った時に衝突を繰り返してしまった事も反省しつつ、

自分の胸の内からはそれと同時に、ある一つのわだかまりが消えた。


 もしかして、私がずっとモヤモヤしてたのは..


 そのあまりに利己的な理由に自分でも呆れたくらいだけれど、

私が今日、康太くんのお誘いを突っぱねたのは、単に彼の誘い方が嫌だったからだ。

  

 彼は私を誘う時、「七瀬”も”来る?」と言ったーー


 この、まるで自分を栄田さんの付属品のように扱う康太くんの態度が嫌だった。

面と向かって、一緒に行こうと言って欲しかった。栄田さんは栄田さんーー

それと同じで、私だって私なんだ。


 そう言ってやりたくて、でも言える度胸もないせいで、

私は今になるまでずっと、心の中にモヤを抱え込む羽目になった。


「あぁ、何だかとてもスッキリした気分!

自分の感情に整理をつけるって、やっぱりとても大事な事なのね!」


「...分かった」


 苦しい


「だから..何....??」


 苦しい


 気づけば、私の顔はべちょべちょに濡れていた。

机上のプラスチック製のデスクマットには水溜まりが出来ていて、頭が痛かった。


 自分でも、自分がどうして泣いているのかよく分からないーー

辛くないのに、悲しくないのに、一人でいる事に不満は感じていないのにー

どうやら自分の心にはまだ、消化不良のわだかまりが沢山あるらしい。



「康太くんに、会いたい..」



 故に、自分の口から何故こんな言葉がついて出て来るのか、


 私にはよく分からなかった。






 

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