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第四十八話 潮風公園

 どうしよう、とどうにもならない事を、俺は何遍も頭の中で反芻した。


「高所恐怖症って、、」


 しかし、栄田に再度確認を求めようとしたこの時、とある

疑問が俺の頭を掠めた。というのも、我が家は高層ビルの10階に位置しており、

その高度はおよそ30mにまで達する。


 そして、現にそれ(高所恐怖症)を有する人の症状がピークに達するのは

20mと言われているが、彼女は今に至るまでそんな俺の家でも素知らぬ顔で

平然と振る舞ってきたーー??


 それにリビングは一応カーテンをつけているものの常に全開にしてあるから

知らなかった。という訳ではないはずだ。


 ただーーー


 今も尚、

俺の手をギュッと握りしめた彼女の掌からは大量の冷や汗が噴き出しており、

小刻みに震える身体全体からどことなく漂う恐怖心は嘘だと決め付けるには名演すぎた。


「いつから、怖いの?」


 だから俺は、今からすべき発言の趣旨を変えた。

栄田の恐怖症についてただ単純に真偽を問うのではなく『いつから?』と尋ねたのは、

彼女の欠落した記憶の奥底に眠る何かに、ヒビが入ったような気がしたからー


 そして案の定、直後身を翻した栄田は、俺の方に向かってこう言った。


「さっきから..。今までは、こんなに怖くなかったのに....

どう、、あ、、」


「栄田??」


 キレの悪い母音を発し、後に続く言葉を濁らせた。


 そんな栄田を直に見つめると、彼女は照れ臭そうに笑った。


「へへ..。照れるなぁ..

安心して康太ーー私は大丈夫..大丈夫、、だから..」


 『安心して』は、自分に対して向けられた言葉のように感じられた。


「康太、キスーーしよ?」


 まるで身に迫り来る悍ましい何かを必死で振り払うように、

栄田は公共の面前において、あまりにも場違いな提案をしてきた。


「良いよ」


 しかし、俺には彼女の差し出された唇に軽くお返しする以外の

対処法を持ち合わせていなかった。そう、軽くで良いはずだった


 軽く口づけを交わす程度のつもりだった。それなのに、キスする寸前、

思わず息を止めてしまったせいで、接吻は想定の何十倍も長く感じられた。


 栄田の鼻息にあてられて、自分の顔も火照ってきた。


 もう数回は交わしたであろう柔らかい唇には、彼女が昨夜食べたばかりの

餃子のニンニクの香りが少し残っていた。その残り香を嗜む様に、栄田とキスした。


 そして


「プハ..」


 と、栓の抜けたような音が肺から鳴った後ー

俺は栄田から顔を引き離し、俯き加減に少しだけ爪を齧った。

栄田の汗の味と、湧き出たアカが蓄積されているせいで少し塩味の効いた味がした。


 この、動揺を隠すために人差し指の爪を齧ってしまうのは悪癖だ。

治そうと思っても治せないし、無意識にやっていて気付かない事もあるからタチが悪い


「やっちゃったね..」


 すると、未だ俯き加減の俺に、

罪悪感を仄かに感じさせるようなギコちのない

口調で真っ先にそう語りかけてきた彼女は、さっきまで触れ合っていた

自分の唇をキュッと結んで、水晶のような瞳を更に潤ませた。


 


 東京国際クルーズターミナル駅には、レインボーブリッジを渡った先の、

お台場の中心街から少し外れた場所にある、”港町”と言うべきなのだろうか?


 近くには東京湾がありそこから近未来的な建物や運航中の船を

見通す事も出来るが、水場に比較的近い場所で散見されるような

何か海鮮系で際立つものは特にはなく、海はお世辞にも綺麗とは言えない。


 下水で汚染されていた昔と比べれば幾分かマシにはなったそうだが..


 しかしそれらを覆い隠す様に、緑地化を推し進めた結果か

街路樹のようなほんの僅かの区画とはまた別のいわば森林地帯のようなのどかな

場所が縦横無尽に広がっており、夏休み期間中という事もあって、子供連れの

専業主婦達で駅周辺は賑わっていた。こんな猛暑日にも関わらず、ベビーカーを

引いてきてまでママ友同士でお喋りしているくらいで、そんな主婦達が


 キンキンと品のない笑い声を時折発しているのを横目に階段を下っていった。


「栄田、今日も暑くなる予報なんだけどさ、頭は冷やさなくて良いの?」

「大丈夫だよ。麦わら帽子つけてるおかげで直射日光は防げているし、

ここら辺は風も強いからーー」


 そう言って、栄田は昨日から愛用している麦わら帽子のツバを両手で掴み

クイっと持ち上げながら笑った。彼女の頭頂部をジッと観察する。


 しかし、昨日までは2,3個入れていたはずの保冷剤がそこにはなかった。


「ん? ふふ..。どうして私の顔なんかジッと見てるの康太?」

「いや....。保冷..。ううん。なんでもない」


 言葉を濁して、誤魔化すために俺は少し口角の端を吊り上げた。


「ところでさ、これから行く場所について何だけど、、」


 そうして、即座に話題を転換したのも束の間ーー

もはや話すまでもなく目的地はすぐの所にまで差し掛かっており、

向かって左手の奥の方に位置する、朱色の大きな展望台を持つ船はそんな二人の

来園を心から歓迎してくれているみたいだった。


「へぇ、潮風公園って場所なんだね!」


 潮風公園ーー


 小学生の時、当時から割と仲が良かった友人と、今は無くなってしまった

船の遊具やその近くにある噴水で水かけっこをしながら終日遊んでいた記憶が

朧げに残っていたものの、久しぶりすぎてぼやけていた全体像がようやく繋がった。


 南国風の丈の長い木が両サイドに等間隔に並べられている長い一本道だったり、

その先にある噴水、更に奥にある水路では子供達が水場で戯れている事


 わざわざ水着にまで着替えてご苦労な事だ。

近くで保護者らしき人物が微笑ましい様子で我が子を観察している姿も見受けられたが、


「康太..。私も水遊びしたいよ..。暑いよ、、」


「無理。着替え持って来てないから」


 俺は、年齢不相応な彼女の遊びの提案を即座に却下した。

異常気象、正午に近づくにつれぐんぐん伸びていく気温ーー

東京は昔から夏場は冷房なしじゃ血が沸騰するくらい暑いが、

それでもここ最近の暑さは異常だ。

最高気温が40度を超えるなんてもう当たり前になったし、

残暑は八月を過ぎてもまだ続く。


 だから自分だって本当は水遊びをしたかった。

子供みたいに水鉄砲片手に恋人と(水を)浴びせ合うだなんて最高じゃないか?


 でも、俺はそれ以上にやりたい事が今日は沢山あった。

我ながら本当にジコチューだと思うが、ここで服を濡らしてしまえば、

これ以降行く予定の場所、そしてメインのお祭りを満足に楽しめなくなってしまう。


 服の着替えがないのは嘘でもなく、紛れもない事実だ。

あらかじめこういう事態を見通しておけば良かったのかもしれない。


 そう考え、自己嫌悪に陥っていた時だった。


 パシャっと自分の頭上で何かが炸裂するような音と共に、ひんやりとした

透明の物質がまるでスローモーションでもかかっているみたいに、


 自分の目の前を通過した。


「え??」


 透明の物質ーー手に濡れた感触がほとばしるのを刹那理解した。


 あまりの困惑のあまり、間抜けな声を発してしまった。


「あっはは!! どう康太!? 気持ちいでしょ!!」


 そして呆気に取られ後ろを振り向くと、そこには栄田がいた。


 俺の使い古しのスポーツ靴と靴下は水路の傍に無造作に放り投げられており、

膝が見える位置まで、灰色のロングのジーンズは捲り上げられている。


 そんな、彼女の腕先の所々に付着した水滴だけが悪目立ちしていた。


「あははははーーはぁーー康太ったら、、完全に油断してたよねーー」

「....」

 

「あははははーーあれ..? 反応がない..?」

「栄田....」


「え??」


 俺がそう言うと、今度は素っ頓狂な顔を浮かべた栄田は水路から陸に上がり、

濡れた足を乾かすために地面のそこかしこを素足でペタペタと歩き回り始めた。


「うわっ! 地面めっちゃ暑い! 火傷しちゃうよ..」

「栄田....」


「だからどうしたんだってば?」


「サンドイッチ..」

「へ..??」



「リュックの中に、朝食用のサンドイッチ入ってた..。

でももしかすると、今のでびしょ濡れになっちゃったかも..」


「はぁ、あつつ......、、え??」


 現在時刻は8時14分


 公園で海を眺めながら、軽いピクニック気分を味わう為に用意した

サンドイッチ(計3種)は今、そのスポンジを湿らせた(かもしれない)








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