第三十一話 記憶
俺は意識を失い、無の空間をしばし奔流した。
右も左も、上も下も真っ暗で、一寸先どころか無限に続く闇の中で、
平衡感覚もないまま、ひたすら漂い続ける。それだけでも気味が悪いのにーー
『ヤサイスクナメ、アブラカラメマシマシ』
などと訳の分からぬ呪文がどこからともなく聞こえて来たかと思えば、
直後に周囲の映像は、赤色のカウンターテーブルの並ぶ飲食店? の中に切り替わった。
飲食店とそう判断したのは、目の前にキッチンが見えたからだ。
それも、、独特な形状をした太麺に、鼻をつんざく豚骨の匂いからして、
恐らく俺が今いるのは、ラーメン屋なのだろうか?
俺はあの脂っこい食べ物がそこまで好きではないからあまり来る事はないのだが、
正午を回っても昼食をまだ食べていない手前、無性に腹が鳴って仕方がない。
というか....
「俺は何でこんな場所にいるんだよ!!!」
『ふふふ..。良いツッコミね..』
と、俺はそう言われるまで気づかなかった。
隣のカウンター席に座る、翼の生え、頭上には光の輪を持つ、何者かの存在ーー
彼女はテーブルの上に置かれた烏龍茶を片手に持ち、先ほどから俺の顔を凝視している。
「誰だ..。お前..??」
『別に..、、今、君は夢を見ているからね。
私は”夢の世界の住人”と、そういう事にしておきましょうか..』
「ふーん..。なるほどそれは可笑しな夢だなーー」
『何を言っているの?ーー夢というのは元来可笑しなものでしょう?』
「それもそうだ..」
この瞬間、全てに合点がいった俺は、すんなりこの状況に適応した。
というのもどうやら自分は、栄田とのアレに疲れて寝落ちしてしまったらしいと、
そう考えたからであったのだが、、
何か大切な記憶が欠落しているような気がしてならなかった。
隣の席の彼女とは初対面のはずなのに、以前もどこかで会ったような、そんな気がする。
『矢場君は..』
「え..?」
『矢場君は何か注文しなくて良いのですか? 折角のラーメン屋なのに..』
「あぁ、そういう設定なんだな..。じゃあ、お前が選んでくれよ。
さっきのコールといい、ここの常連感あったし..」
『そうですか..。それならば私が決めて差し上げましょう。
矢場君は、この店に来るのは初めてですよね?』
「そうだけど?」
『では、券売機に向かって、小ラーメンを選んで。
ここのは量が多いからーー』
「了解..。随分と練り込まれた設定だな..。
自分の夢だってのが信じられないくらいだ..」
とブツクサぼやきつつ、俺は彼女に促されるままに食券を購入する。
「出来たよ」
『うん。じゃあ次は席に座って、コールの番よ。
本来なら店員さんが来て訪ねてくるから、それに応じて言い伝えるのだけれど残念。
今日は休養中みたいだし、私が代わりに矢場君の要望を聞くわ..』
「おいちょっと待て..。分かったけど、
コールって何を言えばいいの??」
『簡単よ。ラーメンにトッピングするもの、そう例えば、
ニンニク、ヤサイ、アブラ、カラメーーこれらを通常より
多めにするか少なめにするか、それとも規定量で啜るか?
最終的な判断は全部あなた次第ーー』
「オッケー。じゃあ口が臭くなるし、ニンニクは無しで、
野菜は多め、アブラとカラメ? って奴は身体に悪そうだから少なめで..」
『えぇ..。了承されたわ..。これで後は待つだけ』
「ふぅ..。やっと終わった? オーダーだけで一苦労だったよ..。
ところで、どのくらい待っていれば来るんだ? 店員さんいないけど、
夢の中だから自動で出現するみたいな感じか?」
『はぁ..? 店員さんもいないのに来るはずないでしょ??
寝ぼけているの??』
「....え?」
『今やってるのはあくまで、おままごとの延長線よーー
私、ラーメンが大好きなの。地上の世界を覗く時に漂ってくる
香ばしい豚骨の匂いをのせた蒸気ーー何度食べたいと願ったか..??
でもーー私は地上のものを食べる事が出来ないし、そもそも
生命維持としての空腹という概念自体存在しないからーー
あぁ..。こういう形で再現した所で、虚しさばかりが募っていく..』
「チッ..」
『何? 怒ってるの? 別に良いじゃない!
ちょっとくらい私に付き合ってくれたってぇ! でもまぁ..、、
私も充分懲りた事だしさ、、茶番抜きで、これから本当の事を告げます..』
「はいはい分かったよ..。くだらない夢見せてくれてありーーーー」
「がと....」
と言おうとしたその瞬間、夢の中の住人を自称する彼女は、
俺の目の前で指を一回鳴らす。すると途端に周囲の風景は歪曲し、
何もない虚無の真っ白な空間に置き換わった。
ズキンーー
頭痛が走る。風邪の時、ずっと横になっていた状態から立ち上がった時の
あの、刺すような痛みがまるでおさまる気配を見せず、得体の知れない生き物が
体内を這っているかのような”ぶちぶち”という不気味な音と共に、
表皮からポツリポツリと顔を出した鳥肌が身体全体を覆う。
「ぐあ..」
まるで、記憶の奥底に封をしていた何かが解放されるような、激しい不快感ーー
『私は..』
彼女の声、どこかでーー聞いた覚えのある声ーー
プロのオーケストラの、どんな管楽器や弦楽器よりも豊かな響きを持つ美しい声音ー
この声の主を、俺は先日何処かで聞いたばかりだった。それも今と似たような状況で..
なのに、あと一歩のとこで停滞しては、また激しい頭痛に晒されるの繰り返し。
もう限界で、頭だけではなく精神が先に参ってしまいそうだった。
誰、誰、誰ーー
彼女は誰だ?? いや、それだけじゃない。
俺は他にも何か、、思い出してはいけない記憶を抱えている。
それはまるで地雷のように潜伏している。それも恐らく、踏んだら大爆発では済まない何か..
だから、やめろ..。思い出すなーー
『私は、天使..』
「....」
『昨日ぶり..。思い出した、、よね....』




