第十九話 ベッドの上で二人きり
俺の今の母に、血の繋がりは無い。
というのも遡ること数余年、
自分にとって本当に血の繋がりのある
正真正銘の母親は乳がんの早期発見が遅れた
所謂”末期癌”という奴で他界したからーー
というのは以前にも話した通り。
そして母が死んでから三年経ったある年、
父が久しぶりに赴いた小学校の同窓会で出会った
当時のクラスメイトのうちの一人
その人が、
後の俺の母親となる人物との再会だったそうだ。
♢
「康太。そちらの女性は?」
しかしともかく、母と七瀬が出会ってしまった以上、
さっきファミレスで取り決めたばかりのルールを、、
「ごめんね。今まで紹介してなかったけど、僕の彼女」
「こ、こんばんわ..。康太くんにいつもお世話になってます..」
とここまでは事前の定型通りだが、それでも
ついている嘘も嘘だから七瀬は躊躇いながら言った。
まぁ無理もない。俺だって嘘であるとはわかっていても、
顔から火が吹くくらいには恥ずかしい。
「そ、そうなの..? え、えっとお名前は..?」
「七瀬志穂です。すみません。先に言うべきでしたね」
「い、良いの良いのそんなに畏まらなくて..。
わ、私も康太が家に彼女さんを連れて来るのなんて初めてだったから、
少し動揺してしまっていてーー」
おい、余計な事を言うな
「あ、私は矢場康太の母です。七瀬さんですよね。
これからもうお帰りですか..? もし良ければ、もっと
家でゆっくりしていってもーー」
「そのつもりだよ母さん..。だからあの、言わなきゃいけない事があって..」
事前の計画通りに進めるのなら、
ここで出来るだけ長い溜めを作る事がー
「七瀬を、しばらく家にーー」
「あぁでもどうしよう..。私あしたから出張で三日間は
家を空けるから、そのための準備もあるんで大したもてなし
は出来そうに無いわね..。あれ? 今なんて言おうとしたの..?」
「ううんーー何でもない..」
なるほど。これは嬉しい誤算だ。
確かに母は仕事の都合上短期的な出張を繰り返す事は多いが、
それが今、ちょうどこのタイミングで重なるとは、俺はラッキーだ。
「そう、なら良いんだけど..」
「あ、いやでもさ..。母さん。
七瀬をさ、今日家に泊めてっても良いかな..?」
「ち、ちょっと待って。そんな突然言われても..」
「大丈夫。七瀬の親御さんには許可貰っているし、な..?」
ここからはアドリブーー
「は、はい..。貰って、、ます..」
「そ、そうなの..。じゃあ、私にはそれを断る理由はないしね。
康太ーーあんたの部屋の押し入れに掛け布団ひとつ入ってたでしょう?
冬物だけどエアコンは効いているし問題ないと思うから、それを床に
ひろげなさい..。あ、七瀬さんは康太がいつも使っているシングルの
ベッドで寝てもらって....」
あ、床上の煎餅布団で雑魚寝するのって、七瀬じゃなくて俺?
「え..。七瀬には父さんの部屋を貸し」
「彼女さんをあんなゴミ部屋に押し込む気なの?
そんな失礼きわまりない事しないの。ごめんなさいねぇ七瀬さん..」
「い、いえそんな..。
お邪魔させて頂いている私が言えるような事では..」
そしてこの時、
一瞬だけ七瀬は挑戦的な瞳と緊張が僅かに入り混じった
眼光を俺の方に向けた気がし、、
「それに..。掛け布団は不要です。
私が康太くんと、同じシングルベッドで寝ますから」
は??
「え..」
と、真っ先に反応したのは意外にも、
呆気に取られた俺ではなく母だった。
「で、でも七瀬さん..。あのベッドは二人で眠る分には
少々面積が足りませんよ..??」
「はい、存じ上げております..。ただ、完全に身体を密着
させた状態で入ればーーー」
もう見ていられなかった。
七瀬の繰り出す想定外の発言の連続に困惑する母。
それらを傍目で観察しながら、
これはもう止めねばならないと、そう思い
俺は彼女の口を右手で覆った後、母の視界の切れるであろう
階段の上がり口のところにまで連れて来た。
「な、な、なななに言ってんだよ七瀬!」
「照れた..?」
挑発的な口ぶり、上目遣いーー
数分前までの七瀬とはまるで違う変容ぶりにまだ
上振れた俺の感情の余波は収まらない。
「じ、冗談だよな一緒に寝るなんて..」
しかし返答を求めた刹那の後、やって来たのは
七瀬のアンサーではなく母の足音だった。
「ちょっと康太! いきなりどこに行く気!?」
「あっ..。すみません!! 私が変な事言ったせいで..」
「全くだよ七瀬。ベッドは別々で良いよな」
「うん..」
やや悲壮感と哀愁の漂う曖昧な返事。しかし彼女はすぐに
真顔になった後に、近くにとまったエレベーターの一つを指差し、
これに乗るよう矢場家の二人を促す。
そんなエレベーターが上昇する僅かの間に母は尋ねた。
「お二人は、どこで出会ったのかしら..?」
「高校の文化祭ーー元々は俺の女友達が誘った他校の子でさ。
そこから意気投合して、まぁ今ではお付き合いっていう感じかな」
もっともらしい捏造した過去に、母は得心したようだ。
良かったよー
本当は文化祭なんて面倒くさい行事、適当なヨッ友数人連れて
他クラスの出し物を徘徊するだけの惰性の作業なのに、今ので
すっかり薔薇色の青春に改竄されたな。なんて、、
「ねぇ..。七瀬さん、ひとつ聞いても良いかしら..?」
「はい」
「貴方、康太のどんなところが好きなの?」
♢
雑多なもので散らかった俺の部屋には、母の手によって早急に
クリーニングがかけられた。
彼女が出来たのに関わらず、こんな汚い部屋で過ごさせるとは
情けないだとか、もっとしっかりしろだとかーー
不真面目な自分にとって、それは無理なお願いだ。
「康太くん。机の引き出しの中に入ってるこの錠剤は..?」
「....。勝手に開けんなよ」
「睡眠薬だよ..」
「スイミンヤク?」
きょとんとした顔で、俺の発言を反復する七瀬は恐らく、
普段は聞き馴染みのないであろう奇妙な薬を、どこか訝しげな
面持ちでさっきからずっと眺めている。
「俺さ、不眠症だった時期があってさ。
でも、それ飲むとグッスリねれるんだ」
「....」
七瀬の右手に握られた睡眠薬入りのパックーー
足元に置かれた空のビニール袋ーー
中身の歯ブラシはさっき使ったばかりで、
ホワイトニングされた七瀬の歯は現在真っ白である。
と言っても元から口臭のあるような子ではなかったし
最初に着ていた制服はかなり損傷して色褪せていたにも関わらず、
七瀬自身には目立った汚れも外傷もなく寧ろ全身から女性特有の
良い匂いを発していた。
だから、彼女の制服をさっき洗濯機の中で確認した時、
あの汚れようにはかなりの衝撃を受けたものだ。
雨風に晒されたのもあるだろうが、それだけではないような感じだ。
第一布の質が低すぎる。今時あんなヨレヨレで薄っぺらい生地、
ペットボトルをリサイクルして作った服なんかの方がまだ数倍は
着心地がマシなぐらいだ。おまけに制服のデザインも古臭いーー
相当歴史の深い女子校とかじゃないと、今時セーラー服なんて着るか?
いや、それくらいは着るか..。さっきから眠いせいで頭が働かない。
もうかなり夜も更けている。
七瀬はピンピンしているが深夜を回った今、俺の意識はもう
朦朧とし始め、これ以上座った状態を保つのでさえ厳しくなった。
ばさっ
結局耐えきれずに、俺は身体をベッドの上に横たわらせた。
「あー眠い..。もう寝ようよ七瀬ーー」
徐に、覇気のない声で呼びかけたのはほとんど無意識で、
自分の消失しかかった意識は、既に夢の世界へと誘われている。
「おや..す」
ぱさっ
「あ、、、」
気のせいだろう。
一瞬、身体を横に向けた事によって生じたスペースに、
誰かが入り込んだような気がした。といっても目は閉じているから
それはあくまで感覚として伝わって来ただけーー
しかし、部屋の明かりが消えたのだけは分かる。
空気が乾燥し、室内は急速に静寂と黙考の場へと置き換わったからだ。
ここ東京の都心において周囲に立ち並ぶ高層ビル群の明かりは
未だにこの10階のフロアに対しても微弱な光を供給するし、
この連日続く猛暑のせいで内部にカビが生えかかったエアコンの
臭い冷風が仄かに香ってくる。
それなのに、音だけが唯一、調和を取れていないのだ。
鉄筋コンクリート製のビルであって音が漏れにくく入りにくい
構造はもちろんの事、会話はなくなり、各々が眠りにつく中で
それは日常の断片的な風景に過ぎない。
はずだったーー
今日は違った。今日という非日常的な一日は、こんな普遍的な
睡眠中の一幕でさえ、異常に置き換えていった。
「ぐすっーーぐすっーー」
恐らく俺の近くのどこかで声を押し殺し嗚咽をもらす七瀬の存在ー
彼女は、俺から沈黙と黙考を奪い代わりに深い同情と憐憫の念を与えた。
いくら人の心情が察せられぬ俺とて、彼女のここに至る経緯を
なぞらえば、涙の意味は自ずと理解出来る。
怖いんだ。
暗中でたった一人、ここまでの事、そしてこれからの事に
思いを巡らせないといけない。
誰かにぶつけたくてもぶつけられず、
一人で全部抱え込まないといけない。
それら全てが容易に想像でき、
なんとも居た堪れない気持ちになってくる。
しかしここで『大丈夫だよ』と彼女の背後から腕を交差させ、
耳元で甘い言葉でも囁いてみれるものだろうか? 二人は本当の
彼女でもなんでもないし、ヘタレた自分にそんな勇気もなく、
ただ選択する行為は”黙殺”ーーあるのみ。
それでも、いつかは。
一人孤独と不安を抱える七瀬のそのほんの一部でも背負ってやりたい。
これから何万回も続くであろうこの夜を、悲しい物にはさせたくない。
だからあくまでこれは練習だ。運の良いことに
ちょうど目の前に抱き枕ほどのサイズ感の物体もある。
それを、七瀬だと見立てた俺は事を進めていく。
まずは、背後からーーしかしこれではただの変態だ。
確かどこかで男女のスキンシップ。とりわけ慰める場合は
頭を撫でるのが良いと学んだ事がある。
頭を撫でて、次はーー
しかし、眠気はいよいよピークに達していた俺がこの後
とった行動は定かではないものの、何故か温かいと感じだ。
謎の温もりが、自身の心臓を中心に放射線状に伸びていって、
普段は冷たい末端まで緩やかに体温が上昇する。
それどころか、顔には生々しい吐息がかかってきた。
いや、吐息は流石に有り得ないか..。七瀬がいるわけじゃないしーー
「康太くん。お休みなさいーー」
などと逡巡しているうちに、俺の意識はブツリと切れた。
しかしそれを失うほんの直前、七瀬の声がした気がした。
♢
「辛い時、困っている時、悲しい時、そんな時に、
一緒にいてくれる人..」
「えっと七瀬さん..。それは、、」
「はい。私の、好きな人の事です」




