王妃フラグが折れたなら
その日、私の明るい未来は閉ざされた。
「殿下、お待ちください!」
私は王宮の廊下を歩いていた婚約者に声をかけた。面倒くさそうに振り向く殿下の鼻先に、今朝届いたばかりの書状を突きつける。
「これは何なのですか!? いきなり手紙を寄越してきたと思ったら、私との婚約を解消したいだなんて!」
「ちょっと、殿下相手に馴れ馴れしい口を利かないでちょうだい!」
殿下と腕を組んでいた令嬢が、犬を追い払うように手を振った。殿下も「まったくだ」と言いたげな顔になる。
「セレスティア、よく考えてみればこれまでがおかしかったんだ。俺は王太子だぞ。それなのに、お前のようなどこの馬の骨とも分からん奴と婚約していただなんて」
「殿下の婚約者には、もっと高貴な血筋の女性が相応しいのよ。たとえばアタシみたいなね!」
私の後釜に座った令嬢はほくそ笑んでいる。「バカなこと言わないで!」と私は怒鳴った。
「私だって貴族の出身なのよ! それなのに……」
「捨て子のくせによく言う」
殿下が冷たく吐き捨てた。
「お前の出自の不確かさは皆が知っているぞ。その体に流れているのはどんな血だ? きっと卑しいに違いない。農民か、山賊か、はたまた……」
「殿下、セレスティアは私の娘です」
ゼイゼイとした喘ぎ声と共に、杖をついた老齢の男性が登場する。私は「お父様!」と愕然となった。今頃はお屋敷で休んでいないといけないはずなのに。婚約解消を告げる手紙を読んだお父様は、ショックのあまり寝込んでしまったのだ。
「この子を侮辱するのは、たとえ殿下といえども……」
上体がぐらりと傾き、お父様はその場に倒れそうになる。私は慌ててその体を支えた。
「死に損ないが」
殿下が軽蔑したような声を出す。泥棒令嬢も「もうすぐ棺桶が必要になりそうね」とクスクス笑っていた。
二人は腕を組んだまま去っていく。追いかけようとしたけれど、すんでの所で思いとどまった。床に転がっていたお父様の杖を拾う。
「すまない、セレスティア。苦労をかけるね」
「平気よ。さあ、家に帰りましょう?」
こうして私は後ろ髪を引かれつつも、王宮をあとにしたのだった。
****
それから数週間後。私は一人で馬車に揺られていた。
――聞いた? セレスティアさんのお話!
――殿下も思い切ったことをなさるわねえ。
今回の婚約破棄騒動はあっという間に貴族たちの間に広まっていった。そのせいで、私は周囲から好奇の目で見られるようになってしまう。
――皆の関心が薄れるまで領地に帰っていなさい。体調がよくなったら私もすぐに追いかけるよ。
お父様の気遣いを私は素直に受け入れることにした。これ以上余計な心配をかけさせたくなかったから。
「お父様……ごめんなさい」
悔しくて涙が出そうになる。
殿下の言うとおり、私はお父様の本当の娘じゃない。領内の森で泣いていた独りぼっちの幼い私を、お父様が保護してくれたのだ。
多分、その時の私は四、五歳くらいだったと思う。
混乱しているのか「セレスティア」という名前以外は意味の通ったことは話せず、お父様は途方に暮れたらしい。手を尽くして家族を探そうとしたが見つからず、最後には私を養子として迎え入れることに決めたのだそうだ。
妻を早くに亡くし、子どももいなかったお父様は私を実の子のように可愛がってくれた。
自分の年齢から、もう先が長くないことも分かっていたのだろう。残された私が苦労しなくて済むように、骨を折って王太子の婚約者の地位まで手に入れてくれたのである。
これで私は未来の王妃。その将来は安泰だ。
そのはずだったのに、こんなことになってしまった。申し訳なくて仕方がない。
「私はお父様の娘よ」
そう口に出して呟いてみたけれど、声には覇気がない。
――その体に流れているのはどんな血だ?
殿下の揶揄が蘇ってくる。私は輝く自分の両手のひらを見つめた。
「……何なのかしら、これ」
私は他の皆とは違う。私の体は昔からオーラのような光をまとっていたのだ。
けれど、この光は私以外には見えないらしい。たとえば、この輝きのお陰で私は夜でも周囲の様子がはっきり分かるけど、ほかの人たちはそうじゃないから。
お父様にも聞いたものの、これが何なのかは分からなかった。でも、お父様は気にしていないようだ。「神々しくていいじゃないか」と呑気に笑っていたから。
一方の私は、この光の正体が気になって仕方がない。これは殿下の言う「卑しい血」の証なんだろうか?
ふと、馬車が止まる。目的地まではまだ距離があるはずなのに、と思っていると馬車の扉が開いた。
外にいたのは、私よりも少し年上に見える青年だった。引き締まった体つきをしており、腰には剣を差している。端整な顔立ちはどこか愁いを帯びていたが、私と目が合うなり、その表情はすぐさま晴れ晴れとしたものに変わっていった。
「セレスティア様!」
青年が馬車に乗り込んでくる。その場でひざまずき、私の手を取って甲に口づけた。
「お懐かしい……! ますますお美しくなられましたね。お約束通り、お迎えに参上いたしました」
「え、ええと……。あなたはうちの人なの?」
困惑しつつも、実家の者が迎えを寄越したのだろうかと推測する。青年は「もちろんです」と言った。
「さあ、帰りましょう。ふるさとへ!」
青年は私を横抱きにして外に連れ出した。何これ!? 出迎えにしては仰々しすぎるわ! 私をここまで連れてきてくれた馬車の御者もポカンとしてるじゃない!
馬車の近くには、白馬に乗った人が二十人ばかりいた。皆青年と同じ服を身につけている。彼らは私を見て、感激したように目を潤ませていた。
青年が乗り手のいない馬に私を乗せ、自分もその背後にまたがった。私は顔をしかめる。
「こんなに大げさなお迎えはいらないわ。居城までは馬車で行くから構わないで」
「そういうわけにはまいりません。なにせ、十三年ぶりの帰還なのですから」
「十三年? ……きゃあ!」
いきなり馬が動き出し、私は落馬しそうになった。青年が「しっかり捕まっていてください」と言いながら、体を密着させてくる。
「空から落ちたら怪我では済みませんからね」
……空?
馬の腹から何かが飛び出してくる。これって……羽!?
私たちを乗せた馬は空を舞っていた。ほかの人たちも後ろからついてくる。
「嘘でしょう!? ペガサス!? そんなものが現実にいるわけが……」
地面がどんどん遠くなっていくのを見ながら額に手を当てる。私、おかしくなっちゃったのかしら? 唯一分かるのは、この人たちは私の実家からの使者じゃなさそうだということだけだった。
「セレスティア様」
混乱していると、青年に後ろから抱きしめられた。
「お元気そうで何よりです。あなたと離れ離れになってから、セレスティア様のことを忘れた日は一日もありませんでした。あの頃のように、こうしてあなたに触れられる日が来るなんて夢のようです」
「ちょ、ちょっと! 何なのよ、人を誘拐しておいて!」
耳元で囁かれてパニックになる。
「うちに帰してよ! 助けて、お父様!」
「大丈夫ですよ。もうすぐ到着です。ただ、あなたのお父様はもう……」
何しんみりしてるのよ! 意味分かんないわ!
絶妙に噛み合わない会話を重ねる内に、ペガサスは森の中に入っていった。
今日の森は霧が出ている。視界も良好じゃないのに、こんなに低く飛んだら木にぶつかるんじゃないだろうかと心配し始めた時のことだ。
突然辺りが暗くなった。まだ昼間なのにと訝しんでいると、ペガサスが上昇を開始する。
そこに広がっていたのは、予想外の光景だった。
真っ先に目に飛び込んできたのは、真っ黒な空をバックに光る丸い月だ。そして、星明かりだけでは足りないとばかりに浮遊する無数のランタン。
その合間を絨毯に乗った人たちが飛んでいる。遠くのほうには街が見えた。中心部には、巨大な塔を持つ宮殿がそびえ立っている。
「いかがです、久方ぶりの故郷は」
青年がますます強く私を抱きしめる。
「民は皆、セレスティア様のお帰りをお待ちです。戴冠式もじきに行われることでしょう」
「ねえ……」
頭がクラクラしてくる。何が起きているのか、もう自力では理解不能だった。
「一体何なの? ここはどこ? それに戴冠式って?」
「セレスティア様、何のご冗談を……」
言いかけて、青年は口を閉ざす。まさかという顔になった。
「セレスティア様……覚えていらっしゃらないのですか?」
「何を?」
「何もかもです」
青年は痛ましそうな顔だ。
「無理もありませんね。当時、セレスティア様はまだ五歳でしたから」
ペガサスを宮殿のほうへ走らせながら、青年がため息を吐く。
「セレスティア様、あなたはこの国の王族なのですよ。そして、戴冠式はあなたのためのもの。あなたはこの国の女王となるお方なのです」
****
この世界には、一般には知られていない国がある。それが、魔力を持つ者が集まって建国した魔法王国だ。
魔法の力が悪用されるのを防ぐため、魔力のない者には王国の存在は伏せられているという。
だが、二つの世界を行き来するための通路のようなものは存在していた。幼い頃にそこを通った私は、魔法王国の王族でありながら、魔力を持たぬ者たちの国で育てられた――。
「そんなこと言われてもねえ……」
ソファーに深々と座った私は低い声で唸る。
ここは王宮の客間の中。先ほどまでの私は、着替えをさせられたり風呂に入れられたり食事に連れて行かれたりと、めくるめくような歓迎を受けていた。
その傍ら、先ほどの青年から事情を聞き出したのだ。
「ここが魔法の国っていうのは百歩譲って認めましょう。空飛ぶ絨毯とかペガサスとかを見たあとじゃ、否定しているのがバカらしくなってくるもの。でも、私がこの国の王族っていうのは信じられないわ。ええと……」
「ノーマンです」
青年は礼儀正しく一礼した。
「信じられずとも、それが事実なのですよ。それとも、ここが客間なのがお気に召しませんでしたか? 申し訳ございません。嬉しいことに、想定していたよりもご帰還が早まりましたので。もうすぐセレスティア様の居室のお掃除も終わりますから、どうかご容赦を……」
「そういうことじゃなくて」
私はかぶりを振った。
「私が王族だったら、どうして長い間放置していたのよ? 普通、いなくなったらすぐに探すでしょう」
恐らく、二つの世界を繋ぐ通路というのは、お父様が幼い私を見つけた森の中にあったのだろう。今日も、私たちはそこを通ってこの王国へ来たのだから。
「お恥ずかしい話ですが、かつてのこの国には不穏分子がはびこっていたのですよ」
ノーマンは顔をうつむける。
「彼らはある日、反乱を企てました。王族を根絶やしにして、国を乗っ取ろうとしたのです。奴らの魔の手を逃れたのは、第一王女でいらしたセレスティア様だけでした」
つまり、私の実の両親は故人ということか。顔も覚えていないし、まだ自分の出自に納得したわけではないとはいえ、複雑な気分になる。
「セレスティア様はわずかな騎士に守られながら王宮を脱出しました。もちろん、私もお供いたしましたよ。しかし、反乱軍が追っ手を差し向けてきたのです。味方は徐々にその数を減らしていきました。もう逃げ切れないと覚悟を決めた我々は、セレスティア様を魔力のない人間たちが住む世界に隠すことにしたのです」
「敵はそこまで追ってこなかったの?」
「はい。セレスティア様を逃がしたあとで、我々が通路を封印しましたからね。幼いセレスティア様をお一人にすることに不安がないわけではありませんでしたが、あの時はほかに方法がなかったのです」
「そう……」
忘れてしまった記憶の中にこんな秘密があるなんて思ってもみなくて、私はどんな反応をしていいのか分からなくなる。すると、ノーマンが「ご心配なさらないでください」と言った。
「時間はかかりましたが、不穏分子は全て排除いたしました。元々、反乱など成功するはずがなかったのです。この国の王族には大いなる加護がかかっていると言われていますから。王族を害した者には罰が下り、王族を敬う者は祝福を受ける。そう言い伝えられています」
「罰……ねえ……」
それって本当? と疑いたくなる。私を罵ったあっちの世界の王太子は、新しい婚約者と楽しそうにやってるみたいだけど。
「この国は安全になりました。ですから、セレスティア様を呼び戻しても問題ないと判断したのです」
「うーん……」
まだ腑に落ちないことがあって、私は首を捻る。
「ここは国民皆が魔法を使える魔法の国なんでしょう? でも、私には特別な力なんかないけど」
「まさか! セレスティア様がまとう輝き、それこそが我が国の王族の証ではありませんか。つまり、セレスティア様が持つ魔法ですよ」
「えっ、これ、見えるの!?」
私の体の光について、他人から言及されたのは初めてだ。ノーマンは「もちろんですとも」と頷いた。
「魔力のある人間なら、誰にでも見えますよ。私があちらの世界でセレスティア様を見つけられたのも、馬車の外にその光が漏れていたからです」
「そうだったの……」
変な気分。これが魔法? 空を飛べるとかじゃなくて? こんなの、照明器具の代わりにしかならないのに。
「セレスティア様、失礼いたします」
巻き尺を持った女性たちが入室してきた。
「採寸させていただいてもよろしいでしょうか。戴冠式に向けて、新しいドレスを作りたいのです」
「ええと……」
戴冠式、と聞いて胸がざわざわした。私は「また今度ね」と言って客間を出る。
「セレスティア様? いかがなさいました?」
後ろからノーマンがついてくる。私は「だって……」と口を尖らせた。
「いきなり女王になれって言われても……。一応王妃になる教育は受けてきたけど、妃と君主じゃ訳が違うし……」
「王妃!?」
ノーマンは飛び上がって驚いた。
「つまり、セレスティア様は誰かの妻になると!? 何ということですか! 私という者がありながら、他の方と結婚するなんて! 『せかいで一番だいすき』とおっしゃってくださったではありませんか!」
「そんなの知らないわよ。何言ってるの、あなた」
真っ青になるノーマンを見て、私は呆気にとられた。その反応に、ノーマンは絶望的な声を出す。
「私はセレスティア様の夫になれる日を楽しみにしていたのですよ! 捨てないでください! この際、愛人でも構いませんからどうかお側に……!」
「分かったから落ち着いて」
私の足元にひれ伏さんばかりのノーマンをなだめる。彼の頭をよしよしと撫でてあげた。
「私はもう王妃にはなれないから安心してちょうだい。……まあ、女王が務まるとも思えないけど」
「それなら問題ありません」
撫でられたノーマンはうっとりした顔になっている。
「こちらへどうぞ」
ノーマンに手を引かれ、私は手近なバルコニーに出た。
「皆の者、女王陛下のご帰還だ!」
頭上に浮かぶランタンの明かりで照らされた中庭には、大勢の民がいた。王宮に仕えている人たちだろうか。ノーマンの大声で皆がこちらを向いた。
「騎士様の隣にいる方のあの輝き……まさかセレスティア様!?」
「生きておられたという話は本当だったのか!」
「セレスティア様ぁ! よくぞお戻りくださいました!」
皆が黄色い声を上げる。ちょっと迷った末に手を振ってやると、今度は大きな拍手が起こった。
「国民は皆、セレスティア様を歓迎しています」
ノーマンが真摯な口調で言った。
「民から愛されているのは、よい女王に必須の条件ではありませんか。政なら相談役の大臣が山ほどおりますが、民の信頼は他ならぬご自分の手で勝ち取るしかありません。セレスティア様はその難関をすでに通り抜けておられるのですよ」
「こんなに大勢の人が私を……」
私にとっては、昨日まで存在も知らなかった国の民なのに。
温かな感情が湧き起こってくる。この人たちのために何かしてあげたい。そんな想いが胸の内に生まれてきた。
「……あら?」
群衆を見ている内に、私はあるものに気を取られた。中庭に生える大きな木だ。
一旦城内に引っ込んだ私は、人が捌けた瞬間を見計らって、ノーマンと一緒に外に出た。
「立派な木ね」
「幼い頃のセレスティア様は、よく侍女の目を盗んでここに登っていらっしゃいましたよ」
ノーマンが目を細める。
「危ないから降りてくださいと言っても、一向に聞き入れてくださいませんでした。そうしたら、ある日とうとう足を滑らせてしまって……」
「下にいたあなたが受け止めてくれたのよね。迷惑かけたわ」
「……え?」
ノーマンが目を瞬かせる。私もハッとなった。
「セレスティア様……覚えていらっしゃるのですか?」
「え、ええ……」
目を閉じて意識を集中させる。
すると、古い記憶が脳内に浮かんできた。
――ノーマン、よくやったわね!
木から落ちてしまった私は、芝生に尻もちをついた幼いノーマンの腕の中ではしゃいでいた。
――えらいわ。だいすきよ、ノーマン! せかいで一番だいすき!
――ありがとうございます。
――大きくなったら、ノーマンはわたしの花むこになるのよ。うれしいでしょう?
――ええ、とても。私もセレスティア様のことが大好きですからね。
――知ってるわ。でも、やくそくして。ぜったいに、ほかの人とはけっこんしません、って。
――誓いますよ。
そう言って、幼い私たちは小さな唇を重ね合わせた。
「……あなた、私の婚約者だったのね」
私は今始めてノーマンの顔を見たとでも言うように、彼を凝視した。
もう一つ、蘇ってくる記憶がある。
それは城が反逆者の手に落ちた日のこと。私と護衛の騎士たちは、森の中での戦闘に巻き込まれていた。
――セレスティア様! 早く通路の向こうへ!
反逆者の攻撃を掻い潜りながら、ノーマンが叫んでいた。
――だめ! ノーマンもいっしょじゃないと!
――セレスティア様! お早く! もう防ぎきれません!
護衛がまた一人倒れて動かなくなった。幼い私は金切り声を上げる。
――いや! ノーマンも来るの!
――セレスティア様、私はあとで行きますから。
敵の攻撃が飛んできて、ノーマンの体に直撃する。
――行ってください! 必ず迎えに行きます! 約束しますから!
ノーマンは私を強引に通路の中へ押し込んだ。
私は通路の向こう側を目指して泣きながら走った。私がいなくなれば、ノーマンたちには戦う理由がなくなる。幼いながらもそう理解していたのだ。
「セレスティア様!」
肩を揺さぶられて現実に引き戻される。目の前にいたのは、十三年分成長したノーマンだった。
「大丈夫で……セレスティア様!?」
私がいきなりノーマンの服を剥き始めたものだから、彼は狼狽えてしまった。
「い、いけません、こんなところで! お戯れになりたいのなら、人目につかない場所をご用意いたしますから……」
「……傷、残っちゃったのね」
私はノーマンの逞しい胸の傷跡を指先で辿る。
「私、あなたのことが本当に大好きだったわ。それなのに、忘れちゃってごめんなさい。迎えにくるっていう約束、守ってくれてありがとう」
「セレスティア様……記憶が……?」
ノーマンが呟いた。返事をする代わりに、私は彼の胸の傷にそっと頬を寄せる。
ノーマンが私の背中に手を回した。
「お帰りなさいませ、セレスティア様」
****
その日から、私は少しずつ過去のことを思い出していった。
魔法王国で過ごしていた時の記憶が蘇ってくるにつれ、女王となることへの不安は解消されていく。
そもそも、私は王太女だったのだ。政変が起ころうが起こるまいが、私はいずれこの国のトップに立つ定めだったのである。覚悟なんて、それこそ生まれた時からできていたわけだ。
そんな心境の変化を現わすような出来事が起きたのは、私がここに来てから十日ほどがたった時のことだった。
「この国って、昔からこんな感じだったかしら?」
魔法王国に来る時に通った森の中を散歩しながら、私はノーマンに問いかける。
「ずっと夜が続いているなんて。この国、昼は来ないの?」
私は木々の隙間から空を見つめる。今日も空には月が浮かんでいた。
帰国してからというもの、私は一度も太陽の姿を拝んでいなかった。月の形の変化で時が流れているのは分かったけれど、どの時間帯でも辺りは暗いままなのだ。
私の体は光に包まれているから夜でも周りが見えるけれど、ほかの人にとってこの状況は不便ではないのだろうか?
「そんなことはありませんよ。かつてはこの国にも昼夜の区別がありました。ですがこの十三年間、魔法王国は夜のままなのです。なんでも、王族が虐殺された悲しみで太陽が姿を隠してしまったとか」
「あら、まだここに生き残りがいるじゃない」
「ええ。きっと、太陽もすぐにあなたに会いに空に戻ってきますよ」
その時だった。遠くから「セレスティア!」と私を呼ぶ声がした。
「セレスティア、どこにいるんだい、セレスティア! どうか返事をして……セレスティア!」
木陰から青年が姿を現わした。二十歳くらいだろうか。細身の体をした絶世の美男子である。表情も雰囲気も華やかな印象だ。
青年は私を見るなり、頬をバラ色に染めた。
「ああ、会いたかったよ! 私のかわいいセレスティア!」
青年が私を抱きしめた。ノーマンが腰の剣に手をかける。
「この不届き者め! セレスティア様は王族であらせられるのだぞ! そのお体にベタベタ触るなど、羨ましいというかけしからんというか……」
「セレスティア、心細かっただろう? 私が来たから、もう何も心配いらないよ。今までよく頑張ったね。早く家に帰ろう」
青年はノーマンを無視して私の頬を両手で包み込む。私は困惑を隠せない。
「あなた、誰?」
まだ思い出せないだけで、昔の知り合いだろうか。……うん、きっとそうに違いない。この綺麗な顔、どこかで見た覚えがあるから。
そんなことを考えていると、ノーマンが私から青年を引き剥がした。
「貴様! これ以上セレスティア様に触れるな! 何者か知らんが、セレスティア様は高貴なお方なのだぞ!」
「私はその子の父親だよ。親子の再会を邪魔するなんて、君は困った子だね」
「……お父様!」
彼の顔をどこで見たのか思い出して、私は衝撃を受けた。お屋敷に飾ってある若い頃のお父様の肖像画にそっくりじゃない!
「セレスティア様、何をおっしゃっているのですか。あなたのお父様はすでに……」
「そうじゃなくて育ての親よ! あっちの世界で私を拾ってくれた人!」
「……この方が? それにしては随分と若いですが……」
同感である。この青年は、お父様より五十歳は年下に見える。
「さすがセレスティア。こんなことになっても、お父様のことが分かるんだね」
青年は私に親しげな笑みを向ける。女性を十人まとめて悩殺できそうな笑顔だ。私の知ってるお父様はこんな顔はしない……と言いたいところだけど、断言はできなかった。だって、表情にお父様の面影があるんだもの。
「どうしたの、それ?」
「朝起きたら、いきなり若返っていたんだよ」
お父様は肩を竦めた。
「それだけじゃない。不思議なことが起こってね。王太子殿下が急に病で倒れて、もう余命いくばくもないと宣告されてしまった。そして、殿下の浮気相手の令嬢だけど、これがまた奇妙な話でね。一晩で驚くほど老け込んでしまったんだよ。腰が曲がって髪が白くなって……。見た目は老婆そのものだ」
お父様は顎の下に手を当てる。
「何だか、私の病と老いがあっちに飛んでいったみたいだろう? きっと、セレスティアをひどい目に遭わせた報いを受けたんだね」
「そんなこと……いや、そうかもしれないわね」
王族を害した者には罰が下り、王族を敬う者は祝福を受ける。魔法王国にはそういう言い伝えがある。
これは、私が王族としての記憶を取り戻したことで起きた現象なのかもしれない。私を辱めた二人には罰が与えられ、反対に、愛情たっぷりに育ててくれたお父様はご褒美をもらった。そういうことなのだろうか?
「本当にセレスティア様のお父様だったのですね。これはとんだご無礼を」
ノーマンが頭を下げた。
「ですが、どのようにしてここまで来たのです? 魔力がない者が通路を渡ったという話など、聞いたこともありませんが……」
「分からない。ただ、何かに背中を押されている気がしてね」
ふと、お父様の背後から光の玉がすうっと飛び出してくる。その光球は、私のオーラと融合して一つになった。
「なるほど。セレスティア様のお力でしたか」
「私、何もしてないけど……」
この光が勝手に行動を起こしたってことかしら?
でも、ありがたい親切だった。
というのも、私はお父様のことをずっと考えていたからだ。
実は私が別の世界の人間だったことを、いずれはお父様に知らせなければと思っていた。その願いをこの光が叶えてくれたんだろう。
「ところでセレスティア。ここはどこなんだい?」
お父様はマイペースな仕草で辺りを見渡す。私は自分の身に起きたことを説明した。
「女王! セレスティアが!」
事情を知ったお父様は目を丸くする。
「私が王都を発ったのは、セレスティアを探すためだったんだよ。領地から急使が来て、セレスティアがおかしな集団にさらわれたと知らされたんだ」
ノーマンが気まずそうにモジモジした。
「無事でよかった。それにしても魔法の王国とは……。世の中には、まだまだ私の知らないことがあるんだね」
「心配かけてごめんね」
「いいんだよ。それで……君はどうするんだい?」
お父様が真剣な眼差しになる。
「本当に女王になるつもりなの?」
「当たり前でしょう!」
ノーマンが信じられなさそうな口調で言った。
「ほかにどんな選択肢があるというのですか!」
ノーマンが同意を求めるようにこちらを見た。私はごくりと息を呑む。
答えを出す時が来たのだと思った。私は記憶を取り戻し始めてから考え続けていたことを、今初めて口に出すことにした。
「私がこの国で過ごしたのはたったの五年。あっちの世界にいた期間と比べてずっと短いわ」
私は自分の体を取り巻く光を見つめた。
「でも、時間の問題じゃないの。私はここにいなきゃいけない。ここにいて、皆を導いていかないといけない。何だかそんな気がするのよ」
きっと、私が王族だからそう感じてしまうのだろう。これもまた、魔法の一種なのかもしれない。血に宿った使命感だ。
「セレスティア……立派になったね」
お父様は満足そうだ。
「君がそう言うなら、止めはしないよ。あっちの世界でだって、セレスティアはいずれ王妃となるはずだったんだからね。人々の上に立つという意味では、どちらも変わらないさ。それに、王妃だろうが女王だろうが、セレスティアは私の娘だ。私にとって肝心なのはそれだけだよ」
「ありがとうございます、セレスティア様」
ノーマンも笑顔になった。
「先ほどの言葉を聞けば、民も喜ぶでしょう。戴冠式が待ちきれません」
「戴冠式か……いいね。私も呼んでくれるだろう?」
「もちろんよ」
私のオーラの一部が分離して、またお父様の背中に入っていった。これで、帰り道が分からなくなることもないだろう。
「またね、お父様」
「近いうちに遊びにくるよ」
光に誘導され、お父様は森の奥に姿を消した。
「あっちの世界の人間とは没交渉が基本だけど……特例ってことで大目に見てちょうだいね」
「御心のままに」
ノーマンが冗談めかした声で返事をした。
****
戴冠式は、雲一つない新月の日に行われた。
いつもより宙に浮かぶランタンの数も少なく、城の周りは厳粛な雰囲気だ。
「陛下、国民への顔見せまであと十分です」
「準備はできているわ」
私は控え室にやってきたノーマンに微笑む。
「その『陛下』っていうの、やめてくれない? いつもみたいに呼んでほしいのだけれど」
「申し訳ありません。あなたがあまりにご立派なもので、お名前で呼ぶのは恐れ多い気がして。以後気をつけます、セレスティア様」
冠を被り、豪奢なマントを身につけた私をノーマンはうっとりと見つめる。
「今日のセレスティア様は光り輝いていますね。もちろん、セレスティア様のお体はいつも光に包まれていますが、今日はことさらに眩しく見えます。女王の威厳でしょうか」
「即位してからまだ半日もたってないけどね」
「それでもあなたは正式にこの王国の君主となられたのです。私はお約束いたします。女王となられたセレスティア様を、これまで以上にお支えすると」
ノーマンが胸に手を当てた。
「その誓い、あなたならきっと果たせるわ。……これで、あなたがまだ実現していない約束は一つだけね」
「そんな! 私はセレスティア様に背いたことなど……」
「あら、あなた、まだ私の『花むこ』になってないじゃない」
ノーマンはしばし呆然としたあと、頬を赤くした。
「……そうでしたね」
「私たちの婚約って、まだ有効よね? もう少ししたら、あなたには騎士ではなく王配として私を守ってもらうわ。約束できる?」
私は幼い頃の記憶と共に、ノーマンへの気持ちもはっきりと思い出したのだ。
それに、昔のことを忘れたままだったとしても、もう一度彼に恋をしていただろう。こんなに愛情を示してくれる相手を好きにならないわけがないのだから。
「もちろんです」
私たちはいつかのように唇を重ね合わせた。胸がじんと甘く疼く。
「陛下、そろそろお時間です」
控え室に従者が入ってくる。私はノーマンに手を引かれながら部屋を出て、バルコニーに出た。
「セレスティア様! セレスティア様!」
「ご帰還おめでとうございます!」
眼下の庭には大勢の人が詰めかけていた。その中には、戴冠式に招待したお父様の姿もある。お父様は私と目が合うとにこやかな表情で手を振った。
皆が女王となった私を祝ってくれていた。まだ記憶を取り戻す前に、今日のようにバルコニーから民の顔を見た日を思い出す。
強い衝動が体を駆け巡るのを感じた。私は無意識のうちに両手を空に向かって掲げる。
「あなたもそろそろ元いた場所へ帰る時よ」
私の体を取り巻く光の一部が球状になって天に昇っていく。上昇する度に大きくなり、明るさも増していく光球に皆が目を奪われていた。
光球が巨大になるにつれ、辺りの闇が払われていく。
光球は空の一番高いところでとまった。天空で輝く光の塊。皆が見ていたのは、十三年ぶりに地上を照らす太陽の姿だった。
「夜明けだ! セレスティア陛下が光を呼び戻してくださったぞ!」
「まさに奇跡の御業! やはりあの方は我々の女王なのだ!」
歓声がますます大きくなる。
こうして私は光に包まれながら、明るい未来に向かって新たな一歩を踏み出すことになったのだった。
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