親が流行りの「幸福病」だと診断された話
私には56才の母親がいます。男性アイドルが好きなキャリアウーマンです。父親を気圧するくらい気の強い人で、私の実家はいわゆるかかあ天下でした。
しかしその分、母はしっかりしていて、人として最低限のマナーというか社会常識みたいなものを叩き込まれました。子供の頃は母の教育方法が窮屈で仕方ありませんでしたが、大人になった今では彼女に感謝しています。そしてもちろん、尊敬の念も強く持っています。
その母親が、最近健康診断を受診しました。そこで、「幸福病」(正式名称:Eudaimonia Paranoia)の疑いが極めて強いと診断されたのです。
最近全国的に流行している「幸福病」です。私は絶望しました。現代医学によってもまだ対処法が解明されていない難病に、まさかあの母が罹患するなんて、少しも考えられなかったからです。本当は、考えたくなかっただけかもしれません。
そこでここでは、「幸福病」がどのような症状を示し、どのように対処すれば良いのか、一人のケアワーカーとして書いておきます。「幸福病」に自分が罹患しないために、そして何より、あなたの大切な方が「幸福病」に罹患した際に助けるために、お読みいただけますと幸いです。
■症例1.「幸福への妄執」
これは「幸福病」という名前の由来でもありますが、一般に「幸福病」患者は「幸福」という謎めいた概念に取りつかれます。
彼らは「幸福」が一体なんであるのか、彼ら自身にも言語化できないのに、どういうわけが「幸福」な状態に無限の価値を見出し始めます。そしてなぜか、「幸福」な状態を目指し始めるのです。
もちろん、「幸福」を目指すことそれ自体は悪いことではありません。医学が問題視しているのは、その「幸福」なる概念が、全く漠然としており、どんな状態を指しているのかが明確でないことです。
彼らは、彼ら自身によっても分からないものを実現しようと試みます。彼ら自身によっても分からないのですから、私たち他人にとって「幸福」なるものは理解不可能だと言わざるを得ません。
それを行動指針にするわけですから、彼らの行動は常に、合理的に理解することが大変難しいものになります。
例えば私の母は、突然ビジネススクールに通い始めたり、よく分からない資格を取り始めたり、宗教を勉強しようとしたりしました。母は、それが「幸福」につながると信じていたようです。しかし、それらがどう繋がるのか、私にはついぞ分かりませんでした。
■症例2.「不幸への敵対」
「幸福病」患者は「幸福」への妄執の裏返しとして、「不幸」なる概念を徹底的に嫌い排除しようとする場合が極めて多いです。
しかし、そもそも「幸福」がなんであるのか自明ではないため、その対立概念としての「不幸」概念もまた、ふわふわしています。
そのため「幸福病」患者は、「なんとなく不幸っぽいもの」をあらゆるものに見出し、嫌悪します。心理としては、お化けを怖がる人が些細な物音もお化けのせいだと思い込んで恐怖するのと同じ、という見解が一般的です。
この特徴ゆえに、「幸福病」はもともと「不幸恐怖症」と呼ばれていました。正式にはMiseriaphobiaです。
この恐怖症的症状は、きわめて攻撃的な様相を呈することがあります。例えば私の母は、少しでもイライラすることがあると、それを親の仇、諸悪の根源であるかのように扱います。具体的には、洗濯物を私が干し忘れたというだけで、鬼のように怒り狂いました。「私の人生を不幸にしたいの!?」という感じです。
このため、ケアする側としては、心身ともに大変疲れます。私も最初はヘトヘトでした。
こういう時の一番の対処法は、経験上、「不幸を排除しても幸福になれるわけじゃないよ」と説得することが一番です。これは、小学生でも理解できる当然の論理です。嫌いなピーマンが夕食に出ないからと言って、大好きなハンバーグが出るわけではありませんよね。それと同じです。
ですから、「ピーマンを食べないこと」ではなく「ハンバーグを食べること」を目指しましょう、という論理は、彼らにもかろうじて理解可能です。つまり、「不幸を避けること」ではなく「幸福であること」を目指しましょう、と言うのです。
しかしこれは、彼らが「幸福を目指す」ことに妄執していることを利用した対処法であるとは言えます。したがって、これは文字通りの「対処法」であり、抜本的な「解決法」ではないことには注意してください。
■症例3.「理性的思考力の低下」
彼らは「幸福」という曖昧模糊とした状態を理想として信じ続けるのですから、当然理性的――つまり批判的、分析的――思考力は低下していく一方です。
そのため、簡単にネットの情報を信じ始めたり、Wikipediaを参考文献として使い始めたり、陰謀論に傾いたりスピリチュアルになっていったりします。私の母は、「国際情勢は陰謀論によってしか理解できない」と毎日主張していました。フリーメイソンとイルミナティがアメリカを裏から操り、ロシアすら操り、この度の戦争もその結果だそうです。
この影響は日常のあらゆる場面に及びます。身近な例では、会話がなんとなく通じなくなります。
「今日雨だね」という発話行為は「だから洗濯物は干せないね」という含意を持ちますが、このような含意が通じなくなったりします。あるいは、「ご飯できたよ」と言っても、それが「だから食べようよ」という誘いであることに気づけなかったりするのです。
ただ、言葉をその言葉の意味としてしか受け取ることができません。その裏にはどんな意図が、趣旨があったのだろう、という推論が働かないのです。すなわち、その言葉を文字通りに理解してよいのかという批判的思考が、その言葉はつまり何を言おうとしているのかという分析的思考が働かないのです。
「宗教は大衆のアヘンである」という命題がもしも正しいのであれば、「幸福」なる概念は「宗教」と言えます。それは、なんら実態を持ちません。ただの曖昧な概念でしかないのです。
もちろん、概念だから駄目だという話ではありません。「正義」とか「悪」とか、もっと言えば「昼」とか「安らぎ」等もただの概念と言えば概念でしかありません。
しかしこれらには、明確な指示対象が、少なくとも経験的にはあります。「正義」と言えばアンパンマンを思い浮かべますし、「安らぎ」と言われれば猫カフェに行った時の感情が思い出されるかもしれません。
一方、彼ら「幸福病」患者の言う「幸福」には、そのような実態が全く欠けています。したがって、定義すら不可能です。しいて言えば、「なんかいい感じの状態」を「幸福」という二字熟語で表現しているだけです。
それほど曖昧なものに人生を委ねられるのですから、「幸福病」患者の理性的思考力は極めて低いと言わざるを得ないでしょう。
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以上が、「幸福病」患者の一般的な症状です。この病が進行した場合、つまり状態が末期に移行した場合には、さらなる症状が示されると最新の研究で報告されました。それによれば、「幸福病」末期患者は、自身が病に罹患していることすら認識せず、むしろ自分以外が病に罹患していると錯覚し始めるそうです。
■症例.4「自己正当化」
彼らは、「幸福」を求める自分と、それを懐疑的に見る社会との溝に、深刻な認知的不協和を感じるようになります。
一定程度の理性的市民であれば、「幸福」などという漠然として観念に、人生を預けようとは思いません。それが「幸福病」患者から見ると、人生の無駄遣いに見えるのです。
そのため、彼らは心理的に極めて不安定になります。自分だけ孤立しているかのような錯覚を覚えます。
その不安に耐えられなくなった時、彼らはとんでもない「自己正当化」のロジックを発見するに至ります。つまり、「間違っているのはこの世界で、「幸福」を求める私は人間として正常なのだ」という論理です。
これは凄まじい主張です。あまりに主語が大きく、論理の飛躍だらけです。しかしその分、実は反論するのが難しい面もあります。どんな反論も、「その反論こそ、この世界がおかしいことの証拠である」と言い張られるからです。
世界を陰謀論でしか捉えていない方に、「でもこういう事例は陰謀とは言えないですよね」と反論しても、「それを陰謀だと認知できないことこそが、陰謀である」と主張されたら、意外と反論は難しいものです。もっとも、このような反論には1mmの学術的誠意もありませんが。
このような心理的機序により、彼らは「自己正当化」の精神を獲得します。ここまでくると、治療は困難を極めます。現代の医学の水準ではとても治療できません。
(しかし、諦めるべきだとも思いません)
私の母は、最近この段階に進みかけています。母によれば、悪いのは社会であり、世界であり、自分ではないのだそうです。
もちろん、社会の構造的欠陥を指摘することは大事です。しかしそれは、「社会をよりよくしよう」という高潔な理想からあえて指摘することに価値があるのであり、「自分を正当化しよう」という低俗な欲求から指摘することには何の価値もありません。
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以上が、「幸福病」患者の一般的な症例です。最新研究を踏まえて記述しましたが、病自体が流行り病だということもあり、データが圧倒的に不足しているのが現状です。
あなた方の周囲で「幸福病」だと思われる方がいらっしゃったなら、直ちに専門の医療機関を受診してください。そして可能であれば、医師に情報を提供していただけると幸いです。
そして何より、あなた自身が「幸福病」に罹患しないように気を付ける必要があります。
「幸福」などという全く曖昧で広漠で、「なんか良い感じ」以上の意味を持たない不安定な概念に、人生を預けるべきではありません。私たちは、理性、知性、悟性に頼るべきです。