ルーテフィスク奇譚
ノルウェーに、鱈などの魚を灰汁につけアルカリ化させた「ルーテフィスク」という郷土料理がある。海があるのに塩ができない地域だったらしく、灰汁で魚を保存する方法が生み出されたらしい。
「旦那、なんだってこんなところまで?」
「噂のルーテフィスクってのを食べてみたくてね」
宿の受付で男は言う。人好きのする柔らかい表情を浮かべながら、無難な調子で世間話に付き合っていた。新しい場所で受け入れられるには、まず無害認定を受けなければいけない。周りの人間たちは、興味ないふりをしながらも、完全に聞き耳を立てている。宿の主人は、男の名前と滞在日数、村にやって来た目的と、故郷での社会的立場を的確に引き出して周囲に聞かせているのだった。
「なるほどねえ、大学の先生でしたか」
「先生といっても大したもんじゃないが」
「それにしたってすごいやね。わざわざ珍しいもんを食いに、こんな村まで御出でになるってんだからさぁ。この村は食べ物に恵まれない時期が長くてね、今じゃ街道に馬車が通るようになってから必要なもんが運ばれてくるが、ルーテフィスクなんて好きで食ってる奴のほうが少ないよ」
「それでも干し鱈が有名だって聞いたよ。うちの地方じゃ水で戻して砂糖で煮るが、こっちじゃ違うってね」
「うへぇ、砂糖ですかい? そりゃ豪勢なこって……」
しばらく宿の主人の相手をして、酒場の面々を見渡す。これだけ話せば、今晩中には村中に男の噂が知れ渡っていることだろう。そのまま酒場で軽く食事を済ませ、男は二階の宿に上がった。
宿の部屋は、こぢんまりとした屋根裏のような作りだった。おおかた子供部屋を改装したのだろう。壁のところどころに落書きがあって、年季の入りようがわかる。
この村に、本当にアレが出るというのか……
夜中、人間が寝静まったあとに出没するという小人のトロール。
珍味となるようなものは、たいてい失敗から生まれる。たとえばチーズができたのは、熱い砂漠で羊の胃袋に入れておいた乳が固まったことから偶然発見されたといわれているし、パイ生地は誤ってバターを練り込んでしまった生地をもったいないからといって焼いたことで生まれた。
では、ルーテフィスクはどうやって生まれたのか。
諸説あるが、バイキング襲撃説が有力とされている。干した鱈が備蓄されていた棚が燃え落ち、灰まみれになっていたところを発見された。またはバイキングを毒殺するためにあえて灰汁に漬け込んだ鱈を食べさせたという話もある。どちらにしろ、食べるものが豊富であればルーテフィスクは生まれなかっただろう。必要に駆られて仕方なく食べたからこそ、意外な発見になったのだ。
アルカリはタンパク質を溶かす。温泉などでアルカリ性の湯に浸かると、皮膚が溶けてツルツルになるのと同じだ。人間の皮膚もタンパク質だから、当然溶ける。とはいっても、入浴可能な温泉では、老廃物が溶けるくらいで問題はない。弱アルカリ性の石鹸を使っても同じだ。
しかし灰汁に数日間漬けられたルーテフィスクは、ph11〜12であり、最高値のph14に近くかなり危険だ。ちなみにphは液体の水素イオン濃度を図る単位であり、ph7が中性でただの水の状態。ph1が酸性で皮膚が火傷するくらい危険だ。ph14もアルカリ性でかなり危険なのだが、痛みを感じないままに皮膚が溶けるので、すぐに流水で洗い流さないと重症化しやすい。気づかないまま水分が蒸発して濃度が高くなると、あらゆるものを腐食させるのだ。
なぜそんな危険なものを食べるのかは、やはり飢餓レベルの深刻度があったように思う。地方に変わった食べ物があれば、その裏にはたいてい飢餓の歴史があるのだ。宿の主人も、この地域には食糧難だった時代があると言っていた。
次の日、男は宿を出ると、当てもなく景色を楽しむようにぶらりと村を散策した。あえて出会った村人に声をかけ、宿で語ったことと同じ話を繰り返す。3人目ぐらいで、やっとルーテフィスクを作っているという老婆を紹介してもらえることになった。「村の外から来た怪しい男」という立場から、「本気でルーテフィスクを食べたがっている学者先生」という立場にクラスチェンジできたらしい。焦ってはいけない。こういうものは少しずつ時間をかけて、普通に人間関係を築いていかなくてはいけないのだ。
村というのは、個人の自由が保証されているようでいて、実は全体主義的な一面がある。個人的に余所者に興味があったとしても、隣近所の目があるから自由に接点を持つことができないのだ。一挙手一投足が誰かに見られ、つねに評価されている。誰かが目立つことをすれば、あっという間に噂になり、それがわかっているからこそ自分も身動きが取れなくなる。長老などからトップダウンで情報が伝えられればスムーズなのだが、この村にはそういった存在はいないのだろうか。これから尋ねる老婆が長老的な立場にあるのかもしれない。
言われた時間に言われた場所へ行くと、街道から外れた丘の上に、小さいながらも頑丈そうな家がポツンと一軒建っていた。
「いらっしゃい、ルーテフィスクだって?」
「ええ……ぜひ食べてみたいと思いましてね」
「5日後に来なさい」
「今日はなぜ呼び出されたんですか?」
「あんたがどんな人間か見ておかないとね。長時間心を込めて料理するということが、どういうことかわかる?」
「お手数をおかけします」
「どのみち、誰かに何かを食べさせるってことは、気を使うもんだから」
「そうですね」
「だから、あんたのために今からルーテフィスクを戻すのよ。5日後に来て」
「わかりました」
宿に戻ると、そこにいた全員が、まるで私と老婆とのやりとりをすべて知っているかのように黙って注目した。偶然だろうとは思いながらも、心の中で防御壁が作動しつつある。宿の主人だけが気楽な様子で話しかけてきた。
「どうです、ルーテフィスクなんて作ってる家、今どきないでしょう?」
「いや、一軒あったよ」
「そりゃ良かったねぇ」
「聞きたいんだが、丘の上の一軒家に住んでいるお婆さん、あの人はどんな人なんだい?」
「ああ、あの婆さんね」
宿の主人は、作業の手を止めずに、極めて平静な態度だった。だから、その次の言葉もきっと、まるで当たり前の世間話だと思い込んでしまったんだろう。
「あの人は、若い頃に旦那を毒殺したんで」
私は、思わず耳を疑った。
「な、今……ど……く……って言ったのかい? なぜ……」
「それが、ルーテフィスクってんだから怖い怖い」
思わず声を顰める私の反応を見て、満足そうに肩をすくめながら、宿の主人は話を濁した。そっと周囲の様子を窺うと、もう誰もこちらを見ていない。よくある村のジョークなのか? それとも公然の秘密というやつかもしれない。これはとんでもない情報を聞かされてしまった。しかし、本当にそんな事件があったなら、領主の知るところとなって絞首刑だろう。そうなっていないということは、単なる噂だということだ。
ただでさえ、ルーテフィスクは強アルカリ性の液体に漬けて、いったん毒性の強い物質になる。それをよく流水で洗い、茹でたりオーブンで焼いたりして料理するというのが文献に書かれている料理法だ。それを揶揄して言っているのか……?
早々に二階に引きこもってベッドに寝転がると、あの老婆に関する毒殺という噂ばかりが頭から離れなくなってしまった。会って話をした限りでは、そんなことをしそうには見えなかったが……
面白半分に興味本位で近づくなということだろうか?
そんなつもりはなかったのだが、もしかすると気づかないうちに村の人を怒らせていたのかもしれない。私の態度や言葉の端々に、恵まれた土地からやってきた尊大さでも滲み出ていたのだろうか? 思わず余計な思考に囚われてしまう。どちらにしろ、5日後までやることはない。まずはしっかり体調を整えて、取材の趣旨がブレないようにしなければ。
元々、ある国の王城で料理人として働いていた私は、ちょっとした失敗をして、流されるままに珍しい料理を求め各地を旅する生活をしている。大学の職員にしてもらったのは、そこに勤める友人がいたからだった。人付き合いは苦手だが、それに助けられることもあるというのが、何とも不思議なものを感じる。
村でほかに見所があれば回っておこうと思ったが、そう都合良く観光名所などあるわけもなく、近所の畑で見かけた農夫と話して1日目を潰した。
「あんたぁ学者さんだってぇ聞いたが……」
「学者ってほどのもんじゃないけど、まあそんなものかもしれんな」
「丘の上のぉ婆さんにぃ……何かぁ食わせてもらうんだって?」
「ああ、ルーテフィスクをね」
「気ぃつけなや……」
2日目は、川で釣りをしている村人に会った。
「釣れるかね?」
「どうかねぇ……ローチが少しとぉマスが1匹だなぁ」
「この魚はどうやって食べると美味いんだい?」
「揚げりゃあ何でもうめぇ」
「ルーテフィスクもこの辺じゃ揚げるんだってね」
「あぁ、うめぇ……うめぇよぉ」
3日目は、村に1軒しかない雑貨屋で、ご婦人に話しかけられた。
「んまあ、あなたがルーテフィスクの?」
「ええ、そうです」
「あらあら、まあまあ、お好きでぇ。ねぇねぇほらぁ来てぇ! この方があのぉ!」
「あんらぁ、まんずまんずでないぃ?」
「あぁ、みんなぁ言ってた人がょ?」
「みんなって、どなたが言っていたんです?」
「いやいやぁ〜」
「あらあらぁ」
「んねぇ〜」
4日目は、通りがかりの駐在と立ち話をした。
「丘の上の老婦人はぁすな、黒死病が猛威を振るった時分にぃ夫を亡くしましたんでぇはい。当時の村長がいろいろと差配しましてなぁ。あの場所でぇ暮らしはじめたよぅすな」
「ということは、だ。もともと彼女はあの場所に住んでいたわけではないと?」
「そうなりますなぁ。本官も、まだぁこの村では8年目でありましてぇからに。過去の帳簿にぃ記載されし文言によればぁ、殺人事件ではぁなかったものとぉ判断されておるものでありますな」
「なるほどね、タチの悪い噂が広まっているもんだ」
明日は約束の日だ。宿屋に戻って村人とのやりとりを思い出す。老婆の家に行くつもりではあるが、宿屋の主人と農夫の話がほんの少しだけ引っかかった。しかし駐在の話では、そんな事件はなかったという。いつまでも眠れないので一階の酒場に降りてみると、もう客はまばらで、飲みつぶれている者もいた。
食糧事情が良くなって、やっと思う存分飲めるようになったのだ。咎める気にもならない。そういう自分も、苔を食って生き延びた経験がある。そのまま店内を通り抜けて、街道にぶらりと歩みを進めた。月の明かりで何とか道が見える。街灯のない村の夜道は、完全に土が見えている部分と草が生えた部分の違いが辛うじて判別できるが、他は闇一色だった。
ルーテフィスクはトロールが作った。
そんな話を聞かせてくれたのは、王都の酒場でたまたま会った昔の同僚だ。確証はないが、彼の故郷ではそれが当たり前の共通認識だったらしい。信じている人数が多ければいいというものではないが、ある地方全体に伝わる逸話なら、それなりの根拠があると考えられる。だから男はこの村に来た。正確には周辺の村や町を訪れて、最終的にこの村を勧められたのだった。もしかしたら毒殺事件の噂がトロールの件と混ざってしまったのか?
そこまで考えると、すぐそこに丘の家が見える場所まで来てしまっていた。一瞬、小さい影が家の中に入っていくような気がして、思わず駆け寄る。老婆とはいえ女性のひとり暮らしだろう。危険だ。
しかし勢いでドアに手をかけてから、ふと自分のほうが不審者かもしれないと思い至る。
この中で何が起こっているというのか。とくに悲鳴も、家具が倒れる音などもしてこない。とりあえず気持ちを落ち着けて、足音に気をつけながら窓のほうへ移動してみた。家の中では小さな影が動き回っている。とてもじゃないが、先日会った老婆の動きとは思えないほど素早い。しかしこの小ささは、強盗というわけでもなさそうだ。
トロール。夜中にこっそりイタズラをする妖精。まさか本当に? こちらの存在を知られたら逃げられるだろうか。これ以上眺めていたら、老婆に危険が及ぶ可能性もある。その時に、ただ見ていた愚か者として名前が上がってしまうのは困る。
やはり捕まえようとしてドアの前に移動する。先ほど外に出てきたのは、何か作業の一環だったのだろうか? もう一度出てくるのを待つか、それとも踏み込んで捕まえるか。
ギィッ……
小さい影がドアを開ける。私はとっさに手を伸ばしてその細い腕をつかんだ。
「ヒィッ!!」
外に引き出すと、トロールだと思ったそれは、小さい女の子だった。
「あれ? 君は誰?」
「それは私のセリフじゃあないかな?!」
「シーッ……静かに。おばあさんが起きてしまうだろ」
「あんた……まさか、ルーテフィスクの?」
私は暖かい家の中に招かれて、テーブルにつかされている。
「まさか私をトロールと間違うなんてね!」
気まずい空間で、カチャカチャと手を動かし、水仕事を続けながら少女は話し続けた。私は今どういう立場になっているのだろう。昼間に下調べをして、夜に忍び込む盗賊……といったところだろうか? とりあえず通報されていないので、今のところ大人しくしておいたほうが良さそうだ。
「ははは……すみません。どうも寝付けなかったので、散歩に出たらあなたの姿を見かけて……」
「言い訳はもういいって」
その言葉は、どこか余裕を感じられるものだった。やはり知らないうちに通報されていて、駐在の到着待ちという状況なのだろうか? しかし女の子は、手際よくトントントンと何かを切り刻み、コトコトと煮込みはじめた。ジュウッという音がしはじめると、香ばしい匂いがあたりに充満する。
「はい、お待たせ」
白身魚のフライの周りにカラフルな添え物が乗った皿が、ゴトリと目の前に置かれた。芋のようなものと、チーズが乗っている。横にあるのは人参のピューレだろうか。思わず匂いを嗅いでみる。
「毒なんか入っちゃいないよ」
「いや、この香ばしさはすごいです」
ひとくち大のフライを口に入れると、表面がカリッと解けて、中から癖のあるトロッとしたものが出てきた。ほんのり塩気が感じられ、ヤギのチーズと相まって何ともいえない味わいだ。
「うまい!」
私の褒め言葉を聞いて、女の子は口角を上げる。
「トロール特製のルーテフィスクでございますですよ!」
「いやあ、本当に失敬だったね。すまなかった」
思いもよらず、真夜中のごちそうにあずかってしまった。蝋燭の灯りに照らされた料理は、かなりファンタジーな雰囲気を演出している。そのテーブルの向こうにチラッと見える女の子の頭に、謝罪の言葉を伝えた。しかし、老婆は起きてこないのだろうか?
「ここには、お婆さんと一緒に住んでいるのかい?」
「は? あんた気づいてなかったの?」
「え?」
「まあいいわ、そう思ってればいいよ」
「明日、君のお婆さんと約束があったんだが……」
「食うもん食ったんだから来なくていいよ。伝えとくからさ」
「じゃあそうするか、すまないがよろしく頼む」
何やら含みのある笑いを浮かべた少女は、朝日が昇る前に私を家から追い出した。できるだけ丁寧に礼を伝え、私は宿へと向かった。午前中のうちに村を出れば、夜までには帰れるかもしれない。
「お早いお立ちで」
宿屋の主人に挨拶すると、ちょうど来た馬車に乗せてもらうことができた。街道を丘の家のほうに進むと、ドアから老婆が出てきて何か叫んだ。
「トロール製のルーテフィスク!」
そう聞こえて、私は思わず老婆の表情を見る。
口角を上げたその顔は、昨夜の少女によく似ていた。