第97話「それらは言葉を紡ぐという意味では似ているが、執筆と会話に必要な能力は全く別のものである」
「……分かりました。それじゃあ、私は此処で待ってますね。ああ、別に急ぐ必要は無いのでゆっくりと、何だったら一曲くらい歌って来て貰っても構いませんよ」
そんな願いが込められた俺の言葉に対し、当人にしては珍しい若干の間を空けてから春菜が答える。いや、昨日の今日でこの様な分かった風な言い方はどうかとは思うのだが、あくまでもその短い期間内で俺が見聞きした範囲内での話としては、この様な間が比較的珍しい事は確かだった。
故に、その間の要因が何なのかという事は無論気にならない事は無かったが、少なくともそれが現状に於いて重要な事ではないのは確かである為、俺は意識をより重要な事……則ちその春菜の言葉の内容へと向け直す。その言葉は決して長いものではなかったが、自身の作品の一つのまとまったエピソードの内容よりも、余程考察の余地がある様に俺には思えていた。
尤も、その言葉は文面通りに捉えれば単純な内容である事は確かであり、当人が本当にその裏に考察の余地を持たせているかは無論俺には知る由も無いので、実際にはその考察の余地とやらは俺の思い込みという可能性も十分にあるのだが、この俺自身の思考それ自体を根拠として、俺は先の自身の感覚の方を信じていた。
とはいえ、良く考えれば……というよりもわざわざそうするまでもなく、実際にその言葉の裏にどの様な考えがあろうとも、それを無理に暴く必要などは無い。無駄な紆余曲折を経てその事に漸く気付くと、俺は素直に春菜の言葉を文面通りに受け取り、それに対する返事を考えるのであった。
「……ありがとう。でも、流石の俺も人を待たせておいてそんな事をしようとは思わないよ。ただ、それでも出て来るまでには少し掛かるとは思うから、結果的にはその厚意には甘えさせて貰う事になると思うけど」
その思考に基づき、遅ればせながら眼前でそれを待つ春菜に漸くの言葉を返す。その言葉は我ながら冗長というか、お世辞にも話が上手いとは思えないものではあったが、殆ど初対面かつ歳が倍は離れている女性との会話だと思えば、それが仮にも成立している時点で俺としては奇跡の様なものだろう。
なお、買い物の準備と言っても精々財布や鍵等を取って来るだけなのだが、それにもかかわらず、わざわざ「少し掛かる」と断ったのには無論しっかりとした理由があった。
則ち、基本的には何でも正直に話す俺であっても、流石に「トイレに入って来るから時間が掛かる」という旨を、年頃の女性に対してわざわざ明言しようとは思わないという程度には、デリカシーというものを弁えているという事である。
「……別に遠慮する事は無いのに。まあ良いです、そういう事ならささっと準備をして来ちゃってください」
そんな俺の自称「配慮に満ちた」言葉に対しまたも若干の間を置いてから、春菜は妙に残念そうな口調でそう呟くと、続けてしっしと手を振り俺に早期の行動を促して来る。
「うん。それじゃあそうさせて貰うから、悪いけどもう少し此処で待ってて」
その口調の変化が事実であれ俺の気の所為であれ、その春菜の言動には例によって考察の余地が有り余る程にあったが、此処ではその中でも明確な意思表示である最後の部分に従いそう答えると、俺はその準備の為に玄関の扉をくぐり、再度我が家の中へと戻るのだった。
そして、先ずはその準備の中でも最も時間が掛かる事を済ませようと向かったトイレの便座に腰掛けながら、俺は先の春菜の言動を改めて思い返す。尤も、俺は短期記憶にはそれ程自身がある訳ではない為、既にその言葉の一言一句や口調の詳細までをはっきりと覚えている訳ではないのだが、それでも何となくの考察が可能な程度の記憶は未だ残っていた。
その記憶に基づき、それなりに溜まっていた分の用を足し終わるまでの暫しの間その事について考えみた訳だが、その結果導き出された考えは俄かには信じ難いものだった。則ち、その春菜の口調に対する俺の感覚が間違っていなければの話だが、それと春菜の発言の文面だけから判断する限りでは、「春菜は俺の歌が聞けない事を残念に思っている」という結論が出てしまわざるを得ないのであった。
尤も、この一連の思考に論理の飛躍が無いとは言えないし、そもそもその「歌が聞けなくて残念」という気持ちだけを考えても、純粋に聴きたいというだけではなく、それを物笑いの種にしたいという様な意味である場合もあるのだが、少なくともこれまでに接して来た僅かな期間に受けた印象からは、春菜がそういった趣味の悪い考えを持つとは考えにくかった。
とまあ、例によってこの様な随分と自分に都合の良い考えを巡らせていた俺だったが、それ故にいつまでも便座に跨っていた事により、一度は放出し切った筈の何かを俺の身体が無理をしてもう一度補充して下さり、それが再度出始めた所でふと我に返ると、漸く現状を思い出して本来の目的である買い物の準備の方へと意識を向け直すのであった。




