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第95話「慣れない事には緊張するのが人間である、たぶん」

 という訳で、あくまでその可能性が否定出来ない、という程度の話ではあるが、ご近所の迷惑顔を想像しつつもちょっとしたリサイタルを開催し始めた俺は、その旋律に青春時代を思い出しながらその頃を彩った楽曲達を続けて歌っていく。


 それは「中年男性が部屋で独りで二十年前の歌を熱唱している」という字面だけでいえば、何だかとても寂しいというか、少し異常な行為にも聞こえなくはないが、当の本人としては最早先程までのゲームのプレイよりも余程楽しいひと時だった。


 とはいえ、別に俺はその道の特別な訓練を積んでいるという訳ではなく、寧ろ普段から碌に会話もしない、則ち発声に関わる身体機能が鍛えられている訳ではない為、その行動はそれなり以上には負担になる事である様だった。程無くして、自身の喉や呼吸器に疲労を覚えた俺は想像上の観客にリサイタルの中断を宣言すると、呼吸を整えながら温いお茶で喉を潤す。そしてまた暫し経ち、短い休憩を終えて楽しい時間を再開しようとした時だった。


 インターホンの電子音が空間的には静寂を切り裂いて鳴り響き、それを俺個人としてはイヤホンから聞こえて来る爆音越しに受け取ると、忘れかけていた胸中の感覚が一瞬にして甦って来る事を胸中に感じる。


「こんな時間に一体誰だ?」


 なんて事は考えるまでもなく明白なのだが、俺は自らの精神の平静を保つ為に敢えてそう呟くと、音楽の再生を止めて玄関へと向かう。その道中、漸くリビングの壁に掛けられた時計を目にする事が叶ったが、それが指している時刻はやはり俺の予測していたものとは異なっていた。


 十六時五……いや六分か。まあ、無論その両者に大した差がある訳ではないが、その時刻はリサイタルが概ね一時間程度は開催されていた事を意味しており、それは俺の感覚よりは随分と長かった。尤も、歌って来た楽曲達の演奏時間から計算すれば、この時刻を事前に予測する事も十分に出来ていた筈なのだが、無駄に力を入れて熱唱していた俺にはその様な余裕があった筈も無かった。


 ともあれ、俺はこの様な思考で自らの速まった鼓動と胸中の感覚を誤魔化しつつ玄関へと到着し、雑に脱がれていたサンダルを雑に履いて外への扉に手を掛けると、一度深呼吸をしてからそれを開け放つ。なお、来客の正体と目的は既に分かっているのだから、その前にその為の準備をしてから応対すれば良い事は無論理解しているのだが、一応はそれも確定しているという訳ではない為に、待たせるのも悪いので此処は通常の対応をしておく事にしたのであった。


「あ、高見澤さん、お久しぶりです。もしかして、結構お待たせしちゃいましたか?」


 しかし、その俺の備えはやはり無駄となり、訪問者の姿を俺が確かめるよりも早く、開けた扉の先で案の定待っていた人物が聞き慣れた声を掛けて来る。その気の早さに、その人物の母親である若菜との相違点を改めて感じながらも、俺はその言葉が終わる前に目に入ったその姿に妙な驚きを覚えていた。


 というのも、先程……つまり今朝会った時には登校前という事でか制服姿をしていた事もあり、下校後の今回も何となくそのままで来ると思っていたのだが、眼前に居る少女が身に着けているのはどう見てもそれとは異なる、そしてかつて若菜がそうしていた物とは対照的な、活動的な印象を受ける私服だった。


 尤も、当時は当然の来訪という事で色々と混乱していた事もあり、とても相手の服装に意識を割いている余裕などは無かった為、その服装の差異については今になってふと気になっただけなのだが、では今はそれを考える余裕があるのかと言えば、決してそういう訳ではなかった。ただ、今回も様々な意味と理由で精神に影響が出た結果、偶々自然に湧いて来た思考がそれに関するものであった、というだけである。


 という訳で、明らかに状況に即していない思考に脳のリソースを無駄に費やした結果、本来そうすべき思考、則ち春菜の言葉の内容への思考が滞った俺は暫し沈黙を貫く形となったが、待たされている当の本人からそれを急かしたり咎めたりする言葉が発せられる事は無かった。


 たった今その服装に関してそう思った様に、これまでにも様々な差異がある事を感じては来たが、こういった所はしっかりと若菜の性質を引き継いでいるんだな。などと、その優しさに関する一考察を繰り広げる事でその折角の優しさを踏み躙りつつも、俺は此処に来て漸く春菜の言葉の内容へと意識を向けるのだった。


「……ええと、お久しぶり……かな? 別にそんなに待ったとは思ってないけど、何かそう思う様な要素があったっけ?」


 そしてその結果、その言葉の中で先ず気になった事についての疑問を呈しながら挨拶を返すが、俺にはそれよりも気になる事があった為、続けざまにその疑問を口にする。いや、状況的には春菜がそう思う事自体は何もおかしくはないのだが、それを口にする前に発せられた言葉からして俺の方にそれを察する何かしらの要因があると思われた為に、それに身に覚えが無い俺としてはそれが甚だに気になったのであった。

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