第93話「流石にそう見紛われる事は無くなった」
則ち、これまでは「まだまだ迎えが来る時間ではないだろう」という予想から余裕の態度を取る事が出来ていたのだが、十四時半という「そろそろ来てもおかしくはない」という時刻になっていた事を知り、かつ当然ながらその可能性が時間の経過と共に徐々に上がっていく事を認識した途端、俺の胸中にはそれが期待なのか不安なのかも定かではない、何かそわそわとした感覚が湧き上がって来ているのであった。
いや、それは別に自然な、少なくとも俺の様な良い歳をして純潔を保っている様な人間としてはの話だが、兎に角普通の反応であり、先述の様にそれを認めまいとする抵抗を試みる必要など無い様にも思えるが、そこはそれ、そこには水溜まりよりも浅い理由がしっかりと存在していた。
というのも、「二人で買い物に行く事を誘われた」という事実だけを見るのであれば、確かに此度の約束は所謂一つのデートである……と言うのは過言であれど、そう解釈する事も可能ではあるとはいえ、この様にその時が来る遥か以前の段階から、その事への期待、或いは不安が身体にまで表れているという事実は、人生の先輩たる年長者の姿としてはあまりにも情けないものだろう。
というよりも、そもそも此度の約束の相手は仮にも幼馴染の娘であり、当の春菜とて無論それを当てにしてこの様な誘いをくれたのだろうから、俺も決してその様な事を期待すべきものではない……のだが、それを理性では無論理解していながらも、実際には俺の胸中のそわそわとした感覚が消える事は無かった。
しかし、それは最早逃げ水の様な、則ち最早深さという概念すら無い様なものではあるものの、一応はそこにも確かな理由が存在してはいた。尤も、その理由を説明するという事自体が、最早先程の抵抗が無意味である事を認める様なものなのだが、そこはそれ、別に実際には誰が見聞きしている訳でもないという事で開き直れば良いだろう。
いや、それならばこの申し開きも要らないだろう、といえばその通りなのだがそれは措いておくとして、兎に角その理由、則ち俺の胸中の期待、或いは不安が消えない理由とは何ぞやという話なのだが、その前提とも言える事については既に述べていた通りである。
則ち、俺が世界で一番純粋な人間である事は前提とした上で、そんな人間が見目麗しい、それも自身の好みにあまりにも合致している女子高生に買い物に誘われて、しかもその姿がかつて少なからず好意を持っていた幼馴染と殆ど生き写しであると来れば、まあ心臓が必要以上に張り切ってしまうのも無理はない、という話なのであった。
尤も、だからと言ってこんなに前の段階から精神の平静を欠く必要は無いのだが、此処で俺がこの四十年弱を生きる中で心底実感して来た、一種のこの世の真理とも思える一つの事実を紹介しよう。則ち、人は自身の感情に基づく行動を制御する事は出来るが、感情そのものの動きを制御する事など出来ないのである。
などと、例によって主語を大きくして分かった風な事を考えてみるが、こうして可能な限り普段の自身の思考を再現してみても、やはりこの胸の感覚が消える事は無かった。
ともあれ、いつまでもそれを気にしていても仕方が無いという事で、俺は改めて次に何をしようかという思考に自らの意識を移すが、そこで漸くと或る重要な事に気付く。しかし、それは今更という言葉が似合う気付きではあったが、未だそれを告げるインターホンが鳴っていないという事は、何とか手遅れではない様だった。
則ち、現時点でそれが実際の感覚として表れるという程度には、それに対する期待だか不安だかを抱いているにもかかわらず、未だにそのデート、もとい買い物に行く為の準備を一切していないという事に、俺は今更になって気付いたのであった。
だが、それ故に慌ててゲームを終わらせたのは良いのだが、その後に席から立ち上がった瞬間にまた次の新たな気付きを得た俺は深く溜め息を吐くと、今立ち上がったばかりのいつもの指定席へと再度腰掛ける。それは一見すればあまりにも意味不明な行動ではあるだろうが、実を言えばこの一連の俺の行動の中では最も理に適ったものだった。
何故ならば、もしこの買い物が明確にデートであったと仮定したとしても、別にその為に事前にすべき準備などは存在しなかった。いや、いくら俺がその手の事に無頓着な方であるとはいえ、流石にそんな筈は無いだろうと思われるかもしれないが、残念ながら……かどうかはさておき、これは純然たる事実である。
というのも、本来この様な時に、則ちデートの際に気を付けるべきはお洒落……とまでは言わずとも、所謂身嗜みというものに注意を払うべきだとは思うのだが、今回に関しては話が異なっていた。則ち、既に先程自身の姿を当人に見られている以上、そこから無駄に着替えをする等してお洒落に振舞ったとしても、それには春菜の警戒を招く以上の意味は無いだろう、という訳である。
尤も、これはあくまで俺の認識であり、実際にはそれでも女性と二人で出掛けるのであれば多少なり気を遣うべきなのかもしれないが、人間は自身が学んで来た事しか知らないという事は措いても、少なくとも今回に関しては、何れにせよ俺がそうする事、つまりお洒落をする様な事は無い。
というのも、そもそも俺はその為の衣服など所有していないし、せめてその他の要素を整える事を考えたとしても、俺の高校球児の様な頭部にはその余地すら存在してはいなかった。




