第85話「それが出来ればそんな心配は要らないよ」
そこまでした甲斐もあり、此度はそのサビの出せるか否かが安定しない高音も見事に歌い切る事が出来たのだが、その喜びにもやはり何の代償も無いという事は無かった。無論、それは熱唱による喉の違和感の事でもあり、また先述の通りに洗い物が滞っている事や、水を無駄にしているという事でもあるのだが、代償はそれらだけではなかった。
則ち、この一曲目の熱唱が妙な程に上手くいったのは良かったのだが、それ故にその曲を歌い終えたと共に俺の胸中には甚だの満足感が湧き上がり、熱唱による疲労も相まって次の曲を歌おうという気が無くなってしまったのである。
いや、そもそも満足しているという時点で問題でも何でもないという事は措いても、洗い物の事や水の無駄の事、そしてこれ以上に喉を酷使をせずに済む事を、則ちこの熱唱に伴った他の全ての代償の事を考えれば、この最後の代償は寧ろ現状に於いては良い事でしかない筈なのだが、実際の所はそうではなかった。
というのも、歌う気が無くなってしまったという事は、当然ながらこの楽しい楽しい趣味の時間が終わりを告げるという事を意味するのだが、先程あれだけ趣味の大切さを力説したという事からも分かる通り、それにより他の全ての問題が解決するとしても、俺にとってはこの満足という最後の代償が何よりも重大な問題なのであった。
尤も、そこまで言うならば別に好きなだけ歌えば良い、という話ではあるのだが、分かっていてもそうはいかない事もあるのが人生である。則ち、結局のところ人の……もとい俺の行動を支配しているのは自身の精神であり、理由がどうであれその為の気力が無い限りは、その行動をする事は出来ないものなのであった。
そして、これが最も重要な事なのだが、少なくとも俺という一個人の場合には、その気力というものは自身ではコントロールする事が出来ない……とまでは言わないが、それが非常に難しいものである。故に、俺自身がもっと楽しい時間を過ごしたいと思っていても、その為の気力を俺の身体、或いは無意識が湧き上がらせてくれない限りは、その願いが叶う時は来ないのであった。
とはいえ、俺自身の行動そのものが何か別の意思によって支配されている、という訳ではないので、無理やりにそれを叶える、則ちこのまま次の曲を歌い始めるという事は無論可能ではある。だが、無理矢理に、と表現している事からも分かる通り、そうして気力を伴わずに何かをするという事自体が気分の良い事ではない上に、此度の件に於いてはその事にはより大きな……根本的な問題があると言っても過言ではなかった。
というのも、別に何らかの行動に於いて、技術の良し悪しと楽しさの多寡に必ずしも相関関係があるとは言わないが、それが自身の中での事になれば話は変わって来る。則ち、気力を伴わずに歌を歌ったとしても、当然ながらそれに満ち溢れている時と比較すれば上手くは歌えない訳だが、その前者の状況を後者程に楽しむ事が出来るのか、という話なのである。
ともあれ、斯くして満足という本来は喜ぶべき事象により、歌を歌い続ける気力を失った俺は漸く意識を本来向けるべき所、則ち先程から無駄に水を垂れ流し続けている眼前の流しへと向けるが、流石にこれまでの思考の流れからいきなり真面目に洗い物をする気にはならず、暫しの間は持っていた食器の泡をこれでもかという位に流水で流し続けていた。
なお、これまでに随分と長い間思考をしていた様にも思うが、人間の思考とは存外に速いものであり、未だ歌い終えてから精々数分が経過したか否か、といった所である……と思われる。尤も、その数分間……に足す事の一曲を丸々歌い終える程の間、延々と水道を垂れ流しにしていた事を考えれば、それは十分過ぎる程に無駄な時間以外の何物でもないのだが、それでも自身の感覚程には未だ時間は経過していなかった……と思われた。
それはさておき、先述した通り、気力を伴わない行動は碌な事にはならない為、歌う事を止めた後もだらだらとした時間を過ごしていた訳だが、突如としてその状況に変化が訪れる。則ち、その時間にいい加減に嫌気が差したのかは分からないが、ふと俺の中に洗い物をする為の気力が湧いて来たのだ。その要因が何なのかは自身でも分からないが、この機会を逃す訳にはいかなかった。
という訳で、俺は改めてスポンジを掴みその泡立ち具合を確かめると、何だかんだ言ってこれまでにも少しは作業を進めてはいた為にあと僅かしか残されていない食器の一つを手に取り、それを効率的……であると自身では信じている手順で洗っていく。
残されていた量からも当然の事ではあるのだが、その作業が終わるのにそう長い時間は掛からなかった。尤も、そもそもの洗い物を開始した時間とその対象となる食器の量から考えれば、寧ろどう考えても時間が掛かり過ぎているのだが、その事をさして気にしてはいない俺は、作業を無事に終えた事に満足の溜め息を漏らすのであった。




