第84話「本人がスライダーと言えばスライダー」
これで俺がもう少し勇気があるというか、羞恥に強い精神を持っており、かつもう少し技術が伴っていれば、この道で生きていくという選択肢もあったとは思うのだが。などと、この掛け値なしの楽しさに浮かされて身の程知らずな考えが頭に浮かんで来るが、もし過去の俺が実際にそれらの条件に当て嵌っていたとしても、それを生業にはしない方が良い事を俺は既に身を以て知っていた。則ち、好きな事を仕事にするという事には、それを嫌いになる覚悟が必要である、という事を。
というのも、何かを趣味でやる分には全てが……とまでは言わずとも、その多くの部分に於いては個人の自由というものが担保、或いは尊重されるのだが、それが仕事になった場合には途端に話が変わってしまうのである。
嫌でも他者と比較される事になり、時には自身以外の誰かの都合で自らの意思を捻じ曲げられる事もある。趣味だった頃には楽しく自由に満ちていた筈のものが、仕事になった途端にそんな不自由と不条理に満ちたものになるという事を、俺は此処数年で実際にこの身を以て体験して来ていた。
尤も、小説と音楽ではまた別の話である、というよりそれぞれの業界によって話は異なっている可能性もある上に、他を圧倒する程の才能があればその限りではないのだが、少なくとも何とかそれを生業に出来るという程度の才能、或いは実力の持ち主である場合には、大抵は先述の様な境遇に身を置く事になるだろう。
とはいえ、これまで述べて来たのはあくまで俺個人の、則ち社会不適合を自称する様な一種の人格障害に近い人間の視点での話であり、客観的に言えばこれらの事は決して悪い事ばかりという訳ではない。則ち、趣味にしていた時よりは自由度が下がっている事は確かだが、逆に言えば様々な目線からの助言を受ける事が出来るという事でもあり、それを苦にしないのであれば寧ろ創作の強い味方が増えたとも言えるのである。
なお、知っての通り俺はそれをバリバリに苦とする人間であるからこそ、これまでの様に散々な表現でそれらについて述べて来たのだが、何とこの一連の思考は別にそれらの事を否定する為のものではない。いや、流石に無理があるだろうと思われるかもしれないが、実際にこの思考の間も俺は器用に歌を歌い続けており、先程からの楽しさも未だ健在のままである。
では、この長々とした思考で俺が何を言いたいのかという事だが、それは決して難しい話ではない。寧ろ、ただ一言でも表す事が出来る程に単純なものであり、俺がこの世の全員に対してでも伝えたい事とは、「趣味はいいぞ」という事である。
無論、好きな事を仕事にする事が出来た上で、更にそれを楽しめたままでいるに越した事はないのだが、現実問題としてはそれは中々に難しい。だが、こうして今俺が歌を歌う事を心底楽しんでいる様に、たとえ念願が叶って仕事に出来た事が嫌いになり掛けていても、或いはそもそも嫌いな事を仕事にしてしまったとしても、趣味を楽しむ余裕さえあれば人生は捨てた物ではない……と、俺は信じている。
いや、そんな余裕など無い、と言う人もこの世には多々居るだろうが、多くの場合それは自らそう思い込んでいるに過ぎない。というのも、今俺がこうして洗い物をしながら歌う事を楽しんでいる様に、たとえば仕事場と家の往復という生活を送っていたとしても、その道中に音楽を聴いたり、場合によっては熱唱してしまうという事も可能だろう。
尤も、主に精神的な問題により、本当にそんな事を考える余裕も無いという人も実際には居るとは思うが、その場合にはそんな仕事はさっさと辞めてしまうのが吉だろう。無論、そう簡単にいくのならば苦労はしないのだろうが、少なくとも趣味を楽しむ余裕も無い程に仕事に心身を削られるというそれよりは、そこから逃げる為の苦労をする方を俺は勧めたい。
などと、気付けば架空の人間に対して謎の上から目線の助言をするという、これまた謎な思考に辿り着いていた訳だが、その間も俺は器用に洗い物をしながら歌を歌い続けていた。だが、そもそもそんなに時間を掛ける程に洗い物は存在していたのか、と自身でもぼんやりと思っている事からも分かる通り、実を言えばその事にはそれなりの代償を伴っていた。
則ち、元来器用な人間ではない、どころか寧ろ折り鶴も折れない程の不器用の具現化である俺は、趣味である歌唱と脳内での下らない思考に没頭するあまりに本来の目的である洗い物が疎かになり、先程から同じ食器をいつまでもスポンジで擦りながら、水資源とその使用料を無駄にし続けてしまっていた。
なお、僅かに残った理性はその事に薄々とは気付いているのだが、丁度サビに差し掛かったこの楽曲の旋律が、声域が低音に偏っている俺が歌うには中々に難しい高さにまで及んでいる事もあり、そちらを優先した俺は最早視線さえも流しから外してしまい、身を屈める様にして腹部から声を絞り出すのであった。




