第80話「千の言葉を紡ぐよりも、ただ一言を発する方が難しい事もある」
とはいえ、こういった意味での臆病さであれば、別に生きていく上で何か大きな不利益を被るという訳でもない。いや、実際の所がどうなのかは諸説あるとは思うのだが、此処ではそう思う事でその思考を振り切ると、俺はその後に自然に意識が向いた感覚、則ち空腹にを満たす為の行動として、そもそもその思考に陥った原因である電子レンジの許へと向かう。
なお、実際に先程の様な、則ち物音等に過敏に反応するという意味での臆病さが人生に不利益を齎さないと仮定しても、俺はそうでない意味、則ち自分から行動を起こしたりする事が出来ないという意味でも十分以上に臆病であるのだが、そちらは明確に不利益を齎すという事を俺は既に経験から知っていた。いや、だから何だという話ではあるのだが、少なくともその両者は同じ言葉で表す事が出来る為に、今回もその不利益を多少なり想起してしまったのか、電子レンジの扉を開く自身の胸中に俺は若干の曇りを感じていた。
尤も、その度合いが甚だしい場合にはその限りではないが、この様な多少の精神的な好不調などは、もっと原始的な、或いは身体的な感覚の前では直ぐに霧散してしまうものである。則ち、今度は外にも漏れる程の音量ではなかったものの、その内部から漂う匂いに反応した腹の虫の主張により強制的に意識をそこに引き戻された事で、その胸中の曇りは一瞬にして何処かへと消え去ってしまうのだった。
という訳で、俺は電子レンジの中から今川焼きが載った皿を取り出し、それを持ったまま既に自身の定位置とも言える食堂へと移動すると、それをテーブルに置いていつもの席に腰掛ける。なお、先程あれだけ力説した割には、俺は未だ温めた今川焼きの温度を確認していないが、それは食べる事の方に傾注した結果、単純にその事を忘れていたというだけである。
ともあれ、こうして食堂の席に着き、眼前には今川焼きが微かに湯気を立てているという事で、漸くその「食べる事」を実行出来る状況になった訳だが、俺は敢えてそれをせずに再度席から立ち上がる。というのも、例によって今更になってからと或る事実に気付いたのだが、その事実は現状に於いて非常に重要なものであり、とても無視して食事を始める事が出来る様なものではなかった。
則ち、その今川焼きを食す際のお供にすべき飲料を用意していない事に気付いた俺は珍しく急いで台所へと向かうと、同じく急いだままお茶とコップを用意して食堂へと戻り、そのお茶をコップに注いでから席に着く。いや、座ってからやれば良い話ではあるのだが、個人的には飲料をコップ等に注ぐという動作は立った状態の方がやり易かった。
それはさておき、今度こそ食事の準備が万全となった俺は早速右手で皿の上の今川焼きの片方を掴むが、案の定その表面は一定の冷たさを保ったままだった。しかし、それは全体がそうだという訳ではなく、所々には温かさが感じられる部分もあり、それは何とも言えない不思議な感覚でもあった。
それ故に、その内部の温度は中々に想像し辛く、俺はそれを口に入れる事には些かの抵抗を覚えるが、もしそれらの内部が良い感じの温度である場合には、一つ目はさっさと食べなければ二つ目は冷めてしまうという事で、俺は意を決してそれを自らの口へと運び噛り付く。
「あっつ!」
だが、現実は非情であった。冷たさの残るその外皮とは裏腹なその内部のカスタードクリームの異常な熱さに、それが舌に触れた瞬間に俺は思わずそう言いながらそれを吐き出してしまい、慌てて左手で先程注いだお茶を口内に流し込む。
いや、流石に行儀が悪いというか、そもそも絵面的にも汚い事は分かっているのだが、流石に自身の口内の安全には代えられなかった。幸い……かどうかは諸説あるが、未だ完全に噛み切る前に口から出した事で、原形が残されていた上に断面があまり見えないそれは、そこまで嫌悪感を抱く程の外見はしていなかった。
尤も、そう思えるのは吐き出した当の本人である俺だけかもしれないが、此方は間違いなく幸いな事に、それを目にする機会があるのは当然ながら世界でも俺だけなので、何れにせよその外見が問題になる事は無かった。
ともあれ、迅速な対応によりどうやら火傷は、少なくとも本格的なそれは免れた様である事を理解すると、俺は舌に多少のひりつく様な感覚を覚えながらも一先ずは安堵すると同時に、感心に近い感覚をも覚えていた。やはり、メーカーの指定する調理方法にはそれなりの根拠があるのだなあ、と。
なお、今回俺は結構大袈裟な反応をした訳だが、実際にこの今川焼きがそれ程の温度を有していたのかと言えば、その実の所は俺には分からなかった。というのも、既に述べた通りに俺は恐らくは様々な感覚が他者よりも鋭敏であるのだが、無論それは舌や口内に於いても同様であった。
則ち、俺は所謂猫舌であるのだが、これまでにも恐らく同じ位の温度の物体を食しているにもかかわらず、俺だけがこういった反応を見せていた事が幾度もあった為に、今回も単純に自身が過剰な反応を見せただけという可能性を否定する事は出来なかった。




