第72話「結局一人の時が一番楽しそうな人間を何と呼ぶのだろうか」
ともあれ、その明らかに無駄な時から持ち続けていた箱の中身の置き場所が漸く決まったという事で、俺はその目の前に箱を置いて早速そこに本を並べようとするが、その直前で何とかそれを思い止まる事に成功する。
というのも、その場所が存在する目的からして、そこに人が足を踏み入れる様な事は基本的には無く、外から空気がそこに流れる事はあっても、そこから空気が外に流れる事は殆ど無かったと考えられた。則ち、そこには多量の埃が堆積している可能性がある事に既の所で何とか気付いた結果、俺は本達を埃塗れにせずに済んだ、という訳である。
尤も、その空間は和室という概ね直方体の空間から少々奥側に出っ張る様に存在している為に、部屋の電灯も付けていない現状ではあまり良く見えないものの、両親の性格を考えれば転居を機に掃除をしてある可能性はそれなりに高くはあるのだが、当の本人達もこれらの装飾品には然程興味を持っていないであろう事を考えれば、その逆の可能性もまた十分にあり得るので、少なくとも事前に確認をする価値は十分にあるだろう。
いや、わざわざ飾ってあるのに大した興味が無いなんて事があるのか、という話なのだが、少なくとも俺が記憶している両親の行動から考える限りでは、然程興味が無い事は恐らく間違いない。大方、当時マイホームを購入するという事で舞い上がり、不動産屋だか大工だかに言われるがままに購入して配置した、といった所だろう。
まあそれはさておき、漸く自由になった両手を存分に活用し、右手を支えにして左手を突き出す形でその空間の床を……いや、床から少しだけ高くなっているその部分の名称を俺は知らないのだが、兎に角その空間の底面を軽くまさぐってみると、やはり現代にまで伝わっている格言にはそれなりの妥当性があるのだと実感する事が出来た。
則ち、左手の先に微かに感じられる付着物の感触に、事前に確かめた事が正しい選択であったと感じた俺は、備えあれば嬉しいな……もとい「備えあれば患いなし」という格言、いや慣用句、或いは諺の妥当性を感じたのだった。なお、これはあくまでも個人的な感覚に過ぎないのだが、「備えあれば嬉しいな」の方が何というか、素敵な言葉だと俺は思っている。
ともあれ、その事前の備えにより本達の被害を未然に防ぐ事には成功した訳だが、それと引き換えに俺の左手は多大な損害を被ってしまった為、二次被害を防ぐ為にも俺は先ずはその汚れを落とす為に洗面所へ向けて歩き出す。尤も、直前に気付いただけの事を「事前の備え」と呼ぶ事が正しいかという事には、まあ一定の議論の余地はある様な気はしないでもないのだが、此処ではその事に関しては気にしないでおくとしよう。
などと、いつも通りの無駄な思考をしている間に洗面所へと辿り着き、即座に水を出して汚れた左手と、必然的についでに右手をやや念入りにハンドソープで洗浄すると、俺は漸く人心地が付いた様な感覚を覚える。というのも、先程から平気な顔をしていはいたものの、やや潔癖の気がある俺としては、左手に多量の埃が付いているという状況は中々にストレスを感じるものであると言わざるを得なかった。
いや、どの口で潔癖とか言うとるねん、という話ではあるのだが、食事の前に手を洗わない時があるという様な事と、潔癖……の気があるという事は別に矛盾する様な事ではないだろう。ただ単に、俺はものぐさかつ潔癖の気がある人間であり、その両者がぶつかった時には前者の方が勝る事もある、というだけの事である。
ともあれ、両手の洗浄を終えて気分もさっぱりとした俺はタオルでその水気を軽く取ると、例によって付近の収納場所を手当たり次第に開ける大捜索を開始する。無論、その目標は言わずもがな雑巾の類であり、どの道それを探す為に一度此方の方に訪れる必要があったからこそ、先程俺は躊躇せずに素手での確認が出来たのであった。
なお、昨日もこの辺りの収納は見た筈だと言えばその通りなのだが、にもかかわらずこうしてもう一度探しているのは記憶力の問題というよりも、寧ろ俺の物の探し方の影響による所が大きい。というのも、俺は何かしらの物体を探す時、目に入った情報からそれの有無だけを確認する様な脳の使い方をしている為に、特別に気になった点を除けばそれ以外の情報は殆ど記憶に残らないのである。
尤も、加齢と共に実際に記憶力も低下している事は否めないのだろうが、何と言えば良いか、精神年齢というか、自我が十代の頃から何も変わっていない為に、分かっていてもそれを認める事は俺には非常に難しかった。まあ、昔から所謂長期記憶に関しては我ながら優れてはいたものの、短期記憶の方はその十代の頃から割と怪しく、頻繁に物忘れ等をしていたという事もその理由の一定の割合を占めているのだろうが。
ともあれ、洗面所から始めてその周辺の収納を一通り探してはみたものの、目的である雑巾が見付かる事は無かった。いや、単純に床を拭くという目的であれば、その代用になり得る何とかワイパー的な物の替えシートは見付かったのだが、今回の目標である例の空間には壺が置かれている事や、その周囲の壁等もある程度は綺麗にしたいという事を考えると、流石にそれでは満足に用を足す事は出来そうになかった。




