第7話「失望という感情は、とても幸福な感情である」
斯くして、どうにかこうにか玄関へと辿り着いた後、胸に手を当てて二度の深呼吸をしてからドアノブ……といっても、一般的なそれとは異なり回さないタイプなのでそう呼んで良いのかは分からないが、兎に角それに左手を掛けて立ち止まる。その後の、扉を開けるという最後の一動作には殊更に勇気を振り絞る必要があったが、これまでに互いにどの様な事があったとしても、相手との関係性や培った思い出が変化した訳ではない事を心の中で言い聞かせ、親指でレバーを引きながら力を込めて扉を押し開ける。
その次の瞬間、開いた扉から外へと足を踏み出す俺を、簡易的な門の先から見上げていたのは先程の予想通りの人物、則ち二十年振りの再会となる幼馴染の柴田若菜その人……の様だったが、俺の目に映ったその姿は先程からぼんやりと想像していた物とは少々異なっていた。
尤も、自身の四十に近いという年齢を考えれば、相手も当然ながらそれと同じだけ年を重ねているのだから無理もない事ではあるのだが、先程その若い頃の生き写しである春菜の姿を目にしていた事もあってか、その姿は想像よりも少しだけくたびれている様に感じられた。
「……あ、引っ越しの作業で疲れている所なのにごめんね。でも、今日の内にどうしても伝えたくって。おかえりなさい、たっくん。本当に久し振りだね」
少々の高低差があるその門越しに互いに目が合った後、少々の間を置いて目の前の女性が軽く微笑みながら言う。その年齢相応になった姿とは異なり、先程耳にした春菜のそれと殆ど変わらないその優しい声に、漸く目の前の女性が若菜本人である事を確信するが、良く見てみればその外見も実年齢よりは幾分か幼い印象を受けるものであり、かつて好意を抱いていた頃の面影に思わず目を逸らしてしまう。
そんな事を意外な程冷静に考えていた頭とは裏腹に、俺の身体はその挨拶に答える事さえ出来ずにいた。思えば当時からその傾向があった上にこの二十年で更に磨きを掛けてしまった、特に容姿に優れた女性相手であれば尚更であるコミュニケーション能力の低さ。その二十年という歳月を経た上での、当時好意を抱いていた相手との再会というこれ以上ない程の特別な状況。そしてつい先程出会ってしまった、その頃の相手と瓜二つな姿を持つ娘の存在。
その何れが主な要因となっているかは定かではなかったが、穏やかな笑みを浮かべながらそう親しげに挨拶をしてくれた幼馴染を相手にしているにもかかわらず、それとは似て非なる曖昧な笑みを浮かべたまま、俺は暫しの間呆けている事しか出来なかった。
「……ああっと、そう……ですね? 本当に久し振り……ですね、若菜……さん。別に大して疲れてる訳じゃないからそこは気にしないで良い……ですよ」
とはいえ、いつまでも黙ったままでいる訳にもいかないので、何とか考えと気力を振り絞り、微笑んだままそれを待つ若菜への答えをどうにか絞り出す。大人になるに連れて他者を呼び捨てにする事に抵抗を感じる様になった事と、娘が居るという事はその父親となった相手がいる筈である事から、いくら幼馴染とはいえあまり馴れ馴れしくするのもどうかと思った為に、相手のそれとは異なる丁寧な言葉遣いを選んだつもりであったのだが、それが失敗であった事は直ぐに理解する事が出来た。
その俺の返答を聞いた直後には、先程までの穏やかな笑顔は失われ、若菜はまるで絵に描いたかの様な程の寂しそうな表情を浮かべる。尤も、その表情に俺が突き刺す様な程の胸の痛みを覚えて一瞬目を伏せた直後には、若菜の表情は元のそれに近しい笑顔に戻ってはいたが、そこから受ける印象は依然変化してはいなかった。
「……ああ。立ち話も何なので、良かったら上がってい……きますか?」
暫しの沈黙の後、我が家が道路よりも少し高くなる様に建てられている為に俺が見下ろす形になっている事と、そもそも門を挟んでの会話を続けているという状況が礼儀的によろしくないという事に気付き、寂しげな笑顔を浮かべる若菜へと続けてそう声を掛ける。その表情と沈黙から、既に先の自身の返答が失敗であった事は無論理解していたが、今更になって急に態度を変える事は余計白々しくなるだけである為に、それを貫き通す事しか出来なかった。
「……いえ。今日は挨拶に来ただけだ……なので、今日はもう帰……ります。それじゃあ、お休みなさい、た……くみさん」
また暫しの沈黙の後、若菜はやや言葉を詰まらせながらそう言って頭を下げると、俺が返事をする間も無く逃げる様にその場を立ち去る。礼儀的にも、せめて俺にも挨拶を返す機会が欲しくなかったと言えば嘘にはなるが、小走りで離れて行く幼馴染を引き止める権利が俺には無い様な気がして、ただ黙ってその背中を見送る。
やがてその姿が完全に見えなくなってからも、俺は変わらずその方向を見たままその場に立ち尽くしていた。つい先程人生最大を更新した或る感情について、流石にそれをもう一度更新するとまではいかずとも、この短期間にそれに比する程のものを再度覚える事になるとは想像だにしていなかった為に、悲しい事にそれに慣れていると自負している俺も、未だにその場を動く気すら起こらずにいた。
すっかり夕暮れ模様となった空の下、未だ蜩が鳴いている事に今更気付いたのか、或いは今この瞬間に再び鳴き出したのかは定かではなかったが、今の俺にはそれが優しさによるものとは思えなかった。無論、そもそも同種の雌以外に向けたものではない事は十分に理解していたが、それが俺に対する嘲笑であると勝手に決め付けると、心の中でそれに毒づく事で少しでも精神の平静を保つ事を試みる。クソ。だが、それが本当は自身に向けてのものである事は、無論俺自身が誰よりも良く分かっていた。