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第68話「忘れる事は悪い事ではない、忘れてはいけない事を忘れるのが悪いのだ」

 尤も、それらは最低でも十五年以上、最高で三十年は前の記憶である為、その正確さに関してはとても信頼出来るものではないのだが、特に記録を取っていない過去の出来事を振り返るにはそれに縋る以外の方法は無いので、この俺の認識も恐らくは未来永劫覆る事は無いだろう。


 なお、だからといって俺はその教授以外の、俺と関わりがあった先生方を軽んじているという訳ではない。あくまでも、直接的に生き方に影響を受けたのがその人位だというだけであり、学業に限らず様々な事を教えてくれた各先生方に対しては、今でも一定の尊敬の念は抱いているつもりである。まあ、何事にも例外は付き物という事で、それに値しない人が居なかったとは言わないが。


 ともあれ、こうして過去を振り返り、特にその恩師に関する記憶に触れた事で、俺の胸中には一定の懐古の情が湧き上がって来ており、それは胸を締め付ける様な痛みとなって表れていた。それ故にか、俺は左手に持ったその教授の著作の表紙を見つめつつ、自然とその痛みの発生源の辺りを押さえる様に右手を当てながら、気付けば込み上げる物を何とか堪える事に必死になっていた。


 普段の俺であれば、この込み上げる物を原因不明だと誤魔化している所だろうが、その原因にも既に心当たりがある為か、今回に限っては微塵もそうする気にはならなかった。則ち、この人にならば、仮にも小説を生業に出来た事を報告しても良かったかもしれない、という様な思いを抱いた為に、俺の身体は、或いは精神はその様な反応を見せた、という訳である。


 いや、それが出来る程の面の皮は持っていないのではなかったのか、という話ではあるのだが、それは過去に色々と豪語した家族や若菜に対してという意味であり、作風はどうとか以前に自身の夢を話した事すらない恩師に対してであれば、当時の俺は就職すら決まっていない状態で卒業を迎えたという事もあり、寧ろ胸を張ってそう出来る類の報告であったと言えるだろう。


 尤も、先述の通りに特に懇意にしていた間柄という訳ではない、という事を措いておくとしても、今日までその機会に恵まれた事は無く、また今後も永久にその機会が訪れる事は無いのだが。


 則ち、まあ正直に言えば今こうしてこの書籍を見るまでは、それをこの箱に入れた時でさえも含め、忙しい、或いは虚ろな日々にその存在も半分忘れかけてしまっていたのだが、今は亡き恩師に最後まで良い報告を出来なかったという事に、俺は今更ながら悔いを感じているのであった。


 尤も、俺にとってはその教授は一生に一人の恩師ではあるが、相手にとっては多くの出来の悪い学生の一人に過ぎないという事もあり、それが見当違いの後悔であるという事は無論この俺も理解してはいた。だが、理性と感情がそれ程簡単に連動してくれるのであれば、そんなに楽な事はないという事であり、暫しの間俺はその込み上げる物を堪えながら、その場で過去の思い出に浸る以外の事は何一つする事が出来なかった。


 しかし、その内容との類似性からか、自身の思考がつい先程初めてそれを知った事実、則ち若菜の父の死の事へと飛び火した時には、流石に俺の理性がそれにドクターストップを掛け、全力でその思考を振り切ってその場で立ち上がる。


 というのも、こちらもそれ程の個人的な交流があったという訳ではないが、その人物は親しさという点では流石にその教授とも比較にならない相手であり、この場でその死に関する思考を開始してしまうという事は、ただでさえその事に対する恐怖症に近い嫌悪感を持っている俺の精神に対し、決定的な損傷を与えてしまう可能性が非常に高いと言わざるを得なかった。


 という訳で、急いで立ち上がった俺はその段ボールを持ち上げるが、直近の思考による自らの精神への影響や、それを強引に打ち切った事によるそれを措いても、それを何処に運ぶかという選択は即断出来る様な事ではなかった。


 というのも、自身の仕事場に定めた食堂やその周辺はおろか、この家の一階部分には本棚の類が一切存在しない為、基本的には一階部分のみで生活しようという過去の自身の方針も考慮に入れた場合には、この箱の中身である本の類の置き場として迷いなく決定出来る様な場所はこの家の中には存在しなかった。尤も、その中身の一部に関しては、言うまでもなく既にその居場所は決定済みであるのだが。


 しかし、それはあくまでも迷いなく決められる様な場所が無い、という事であり、迷う事を許可するのであればその限りではなかった。則ち、その選択肢となる様な場所は既にいくつかに絞れているという事であり、俺はそれらを頭の中で、例によってあくまでも言葉として思い浮かべると、最終的な判断を下すべくそれらを順に検討していくのだった。

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