第61話「或る事を、たとえば好きな子の顔を思い浮かべて眠る事も出来ないのを不幸だと言い切る事は出来るのか」
という訳で、その安全を担保する為にも和室へと移動して来た訳だが、残念ながらでは早速横になろう、とは思えなかった。その理由は大きく分けて二つあったが、その一つ目は非常に単純かつ重要なもの、則ち部屋の明るさの問題だった。確認した訳ではないので現在の正確な時刻は不明だが、恐らくはもう九時にもなろうかという時間は冬至の頃でも完全に日が昇っている時間帯であり、その真逆に近いこの季節であれば尚更である事は明白だった。
それ故に、俺はその原因の一端を解決する為に先ず自身が今入って来た場所、則ちリビングと繋がる襖を閉めると、もう一つの要因の方へと目を向けるが、それは同時に先述の理由の二つ目の要因でもあった。則ち、障子越しに白い光を透過させている窓の方に目を遣りながら、俺はそれらの問題をどの様に解決するかを考えていた。
先ず、一つ目の、則ち明るさに関する問題だが、それを解決する事自体は非常に容易だった。浅学故に最近の家にも備わっているかどうかを知らない為、昨今の若者達がその存在を知っているのかもまた知らないのだが、この窓の外側には雨戸という金属製のシャッターの様な物が付属している為、それを閉じれば良いだけの話である。
しかし、だからといってその手段を行使するかといえばまた別の話であり、俺はその事には全くもって気が進まなかった。というのも、その雨戸が閉じているという状況には何というか、昔から非常事態であるというイメージがある為に、たかが障子から光が透けている位の理由で閉める事には抵抗があった。そして何よりも、そういった理由により滅多に触らない物であるが故に付着している汚れの存在により、少なくとも今から寝ようという現状ではとても触れる気にはならなかった。
また、先述のもう一つの理由についてだが、それを直ぐに横にならなかった原因として挙げはしたものの、はっきりと言ってしまえばそれは解決出来る様なものではなかった。則ち、それは気付けばそこから居なくなっていた、そして先程の対話の中で春菜の良心を救った存在、つまりは俺を貴重な安眠から叩き起こしたあの蝉の事だった。
いや、無論その本人、もとい本蝉がもう一度この場所に訪れる可能性は決して高くはないのだが、未だ本格的なその季節ではないとはいえ、この周囲にはまだまだ無数の蝉が棲息しているであろう事を思えば、既にその低い可能性を実際に味わった事もあり、その来訪を気にせずにいる事は難しかった。
とはいえ、前述の通りにそれを解決する、則ち蝉の来訪を防ぐ方法は存在しないので、俺はそれに対して唯一自身に可能な事、則ち開き直って諦める事を選ぶと、スマートフォンのアラームを昼過ぎにセットして布団に入る。雨戸を閉めない事を選んだ事により、部屋を完全に暗くする事は叶わなくなった訳だが、まあ顔をわざわざそちらの方向へと向けさえしなければ、それ程に安眠を妨害する事は無さそうだ。
しかし、まあ正直に言えばそうなる事を予想する事は難しくなかったのだが、やはりそう易々と眠りに就く事は出来なそうだった。いや、つい先程大欠伸をしたばかりな上に、その前には椅子に座ったままで眠りに落ちてしまいそうだったではないか、という話ではあるのだが、そんな事は俺の最大の敵には関係が無かった。
則ち、寝てはいけない時には率先して夢の中へと入って行こうとし、明らかな便意を感じてトイレに向かったにもかかわらず、そこで一時間以上も無駄な時間を過ごさせる事を喜びとしている我が肉体には、その様な論理的な根拠などは何の意味も持たないのである。無論、それはこの様な睡眠を必要としている時にも例外ではなく、恐らくこいつはあらゆる手段を用いて俺の入眠を妨害して来る事だろう。
尤も、それが分かっていた所で当然ながら俺に何が出来るという訳でもなく、結局は寝転がって目を閉じているしかないのだが、どうやら敵は己の肉体だけという訳ではなさそうだった。則ち、眠りに就こうとしている筈の俺の脳内では今後の展開、つまり起きた後の春菜との買い物の状況が想像されており、とても眠りに落ちる事は出来そうになくなっていた。
なお、その想像されているものを「状況」と言ったが、これは別に言葉の使い方を誤ったという訳ではない。実際に、俺は何かの弾みで偶々それが出来る時を除けば、意図的に脳内で映像を浮かべるという事は出来ない為に、こういった想像は基本的に全て言葉によってのみ行われるのである。
それは人間としては兎も角、作家としては多くの人が普通に出来る事を出来ないという点では確かに不利にも思えるが、逆に考えれば通常とは異なるプロセスを経て文章を紡ぐ事が出来るという事なので、それを個性として落とし込む事が出来ればであるが、作家としての独自の強みにする事も出来るかもしれない。
尤も、こうして田舎で燻っているという事がその答えに他ならない気はするのだが、スポーツ等の身体能力が必須な道に比べれば、未だ逆転の目も無いという事もないだろう、と思う事にしておこう。などと、その後も下らない事を色々と考えている内に、気付けば俺の意識は闇の中へと溶けていくのだった。




