第54話「いつでも微笑みを」
とはいえ、いくら社会不適合者かつ典型的なコミュニケーション弱者である事を自覚している俺であっても、この場面での正解がその事について追及する事ではない事くらいは、わざわざ考えるまでもなく分かっていた。尤も、だからといって正解が分かるという訳ではないのだが、この場面に於いての長い沈黙もよろしくない事もまた何となく分かった為に、俺は一切の推敲を伴わずにその若菜の言葉への回答を紡ぎ始める。
「……アホか。そんなんで今更好きとか嫌いとかになる様な間柄じゃねえだろ。まあ、クソ程驚いたのは確かだけどな」
その結果、俺が口にしたのは何とも汚いというか雑な言葉だったが、それでも恐らくは概ね正解に近い回答を口にする事が出来たと言えるだろう。しかも、その部分が単に安心させる為の出まかせではないという事のアピールの為に、追加で明らかな事実を口にする事でその信憑性を上げるという技巧まで用いられており、とても社会不適合者が口にした言葉とは思えない配慮に満ちたものだった。
尤も、それはあくまで社会以下略の俺にはそう思えるというだけであり、世間一般でどう思われるかは元より、肝心の若菜に対して俺が思う様な効果があるのかも定かではないのだが。
なお、若菜は別に俺に嫌われたと思った理由を明言した訳ではないのだが、そんな事はわざわざ確かめるまでもない事である為に、俺もまたそれを明言する事は無かった。いや、それは当然昨日の俺の態度故にではあるのだが、此処で言いたいのはその原因の話である。
則ち、仮に二十年という歳月がその原因であるならば、「嫌われた」ではなく「興味が無くなった」という様な表現になる筈なのだが、それを敢えて嫌われたと表現したという事は、若菜はそれに値する原因が自身にあると考えているという事である。そして、それに当て嵌る事実は現状ではただ一つしか考えられなかった。
「……うん、そうだよね。でも、本当に良かった……」
ともあれ、その俺の自称正解である返答を耳にした若菜は、その際の俺と同等程度の間を空けてからそれへの同意の言葉を呟くと、再度先程と同じ言葉を口にして黙り込む。その顔には引き続き安堵の表情が浮かんでいる……とは思うのだが、その目の端には薄っすらと何らかの液体が溜まっている様にも見え、俺は自身の言葉が本当に正解だったのかと自問せずにはいられなかった。
尤も、そもそも他人の何とかな表情なんてものは「自身がそう解釈した」というだけのものに過ぎないのだが、その事を抜きにしてその発言の文面だけに着目してみても、やはり自身の発言の正しさを確信する事は出来なかった。というよりも、そもそもその若菜の言葉自体が俺にとってはあまりに難解であり、その表情と同様にその意図を正しく認識する事すら困難だった。
というのも、俺の発言を否定しなかった事から、やはり先の俺の推測が正しかった事だけは分かるのだが、「そうだよね」という同意の言葉が俺の発言の前半に掛かっているのか、それとも後半に対してのものなのかが定かではなく、残る部分にもそれを類推出来る手掛かりとなる様な情報は含まれてはいなかった。
「……訊かないの? あの子の父親の事」
そうして俺が返答に悩んでいると、その沈黙をどの様に解釈したのかは分からないが、その瞳を僅かに潤ませた若菜が唐突にそう尋ねて来る。そのあまりに突然の、そしてストレートな問い掛けに俺は思わず咳込みそうになるが、今度は返答に悩む必要は無かった。
「なんだ? 訊いて欲しいのか?」
俺は努めて普段通りの表情を浮かべながら、同じく普段通りの抑揚の少ない声でそう尋ね返す。無論、その事が気にならない訳がない、というよりもそれは現状の俺にとってこの世で最も気になる事と言っても過言ではないのだが、それでも俺には人が隠したい事を無理に暴く趣味は無かった。尤も、そこにそれを知る事への恐怖が無いと言えば嘘になるのだが、その有無は俺の答えには影響を与えてはいなかった。恐らくは、だが。
「……変わらないね、たっくんは」
暫しの沈黙の後、微笑みを浮かべた若菜が俺の質問には答えずにそう口にする。尤も、その質問に答えないという事自体が最早それへの明確な答えと言えるのだが、何れにせよ俺にはその若菜の選択を尊重する以外の選択肢は存在しなかった。
「……そうか? 二十年も経ってるんだぜ、変わらない訳がないだろう。まあ、成長してないって意味なら、残念ながら否定は出来ないけどな」
故に、仮にも若菜の方から唐突に振って来た話題であったにもかかわらず、俺はその件、つまり春菜の父親の件についてはもう気にしない事にすると、直近の若菜の言葉について真剣に考えた後にそう答える。
事実、肉体的な衰えは当然の事だから措いておくにしても、精神的に衰えた、或いは劣化した部分には幾らでも心当たりはあるが、成長したと胸を張って言える点は特に何も思い付かなかった。強いて言えば、若い頃よりは幾分か精神的に丸くなったとは思うのだが、それが本当に成長と呼ぶべき事なのかは俺には分からなかった。




